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第七話 世界の中心で愛をさけんだけもの

 はあ、はあ、男は痛む体にムチ打ち走り続けた。

 

 天使、ああ、天使がいた。


 俺は天使を怒らせてしまったんだ! いまさら自分の罪深さに慄く。


 どうしたらいいのか、何もわからない。思い浮かばない。


 あの天使、怒りの顔でなく、天使の笑顔が見たかった。


 男はひたすら走り続けた。


 脳裏に焼き付いているのは、あの白い翼だ。

 

「……あ、ああ……」


 ライオネルは荒野の砂利に足を取られ、無様に転がり落ちた。

 岩肌で頬を擦りむく。痛みがある。生きている。

 なぜだ?

 なぜ俺は生きている?


 あの一撃――あの見えざる衝撃波は、その気になれば俺たちの命を容易く刈り取る威力を秘めていたはずだ。

 だのに、俺の体には大きな怪我ひとつない。

 殺す価値もないと判断されたのか? いや、違う。

 

 これから何かを成すべき使命を与えられ、風に乗せられた種のように、俺は生かされているのだ。


 ライオネルは震える手で自分の胸を掴んだ。心臓が早鐘を打っている。

 恐怖? いや、違う。

 これは「愛」だ。

 魂が焦げ付くほどの、絶対的な愛。


「伝えなくては……」


 ――


 数日後。

 ライオネルは、岩山をくり抜いて作られた「錆びた鉄槌」の拠点へと帰り着いた。

 衣服はボロボロに裂け、唇は渇ききっていたが、その足取りには奇妙な力が漲っていた。

 

「おい、ライオネル! 他の奴らはどうした! 獲物はどうなったんだ!」


 錆びた鉄槌のボス、鉄腕のジャックが怒鳴りつけた。

 鋼の爪がついた無骨な義手が目の前に突きつけられる。


「獲物……?」


 ライオネルは掠れた声で笑った。

 その言葉が、なんと冒涜的で、滑稽に響くことか。

 だが、それは仕方の無い事、昨日までの自分と同じなのだから。

 

 彼らは知らないのだ、あの輝きを。

 嗚呼、教えなくてはならない。

 そして、いつの日か、あの天使に微笑んで頂くのだ。


「ボス、俺たちは何も知らなかったんだ。この世界には、触れてはいけない……いや、跪かねばならない天使が居るってことを」


 ライオネルはうっとりとした表情で、宙空を見つめながら語り出した。


「あれは、俺たちが失った『愛』そのものだった。彼女の羽ばたきひとつで、俺たちは優しく撫でられたんだ。わかるか、ジャック? 暴力じゃない、圧倒的な愛で、俺たちは跪かされたんだ」


 ジャックは顔をしかめた。

 恐怖も怒りもない。ただ、気味が悪いという表情だった。

 目の前の男の瞳孔は開ききり、焦点が合っていない。それでいて、眼窩の奥には異常な熱量が渦巻いている。

 

「頭が冷えるまで牢屋にぶち込んでおけ。暫くしてもまだ寝言をほざくようなら、その時は臓器をバラして売り払え」


 引きずられていくライオネルは、抵抗しなかった。

 ただ、ジャックと仲間たちを見つめ、哀れむように、そして慈しむように微笑み続けていた。


 ――


「錆びた鉄槌」の牢獄は、岩盤を掘り抜いた横穴に鉄格子をはめただけの、じめじめとした空間だった。

 そこには、身代金目的で捕らえられた他派閥の人間や、機嫌を損ねて放り込まれた元構成員、あるいはただの奴隷として扱われている者たちが、泥のように横たわっていた。


 希望のない場所。死を待つだけの場所。

 そこに、ライオネルは放り込まれた。


「……愛だ」


 暗闇の中で、ライオネルが呟いた。

 隣でうずくまっていた痩せこけた囚人が、虚ろな目で彼を見た。


 ライオネルは囚人の方を向いた。暗がりでも、彼の瞳だけが燐光のように輝いて見えた。


「腹が減っているんじゃない。心が、魂が、乾ききっているんだろう? 俺もそうだった。だが、俺は見つけたんだ。この乾きを癒やす、唯一の泉を」


 最初は、誰も耳を貸さなかった。

 また一人、気が狂った奴が来た。それだけのことだと思われていた。

 だが、ライオネルは語り続けた。

 あの日見た光景を。

 自分たちを虫ケラのように吹き飛ばせる力を持ちながら、あえて生かした「天使」の慈悲を。

 それは、暴力と搾取しか存在しないこの状況で、あまりにも異質で、あまりにも甘美な物語だった。


 夜が更け、また朝が来て、夜が来る。

 ライオネルの声は枯れることを知らなかった。


「俺たちは獣だ。だが、首輪をつける主を見つけた獣は、野良犬よりも幸福だ。あの方は俺たちを待っている。俺たちが、その愛に気づくのを待っているんだ」


 三日目が過ぎる頃、変化が起きた。

 絶望していた囚人の一人が、涙を流しながらライオネルの話に聞き入り始めたのだ。

 拷問を受け、家族を殺され、全てを失った彼にとって、「自分たちを超越した絶対的な存在が、全てを見下ろしている」というライオネルの妄想は、唯一の救いとなった。


「その天使様は……俺たちのことも、許してくれるのか?」

「許すとも。あの方は、俺のようなゴミ屑さえ生かしたのだから」


 熱は伝播する。

 一人、また一人と、囚人たちがライオネルの周りに集まり始めた。

 彼らは鉄格子の向こうから差し込む僅かな光ではなく、ライオネルの言葉の中に光を見ていた。


 そして、その熱は鉄格子の外へも漏れ出していく。


 ある夜、牢番は食事を差し入れる際、小声でライオネルに尋ねた。


「……おい。その白い翼の女ってのは、本当にいるのか?」


 ライオネルは鉄格子越しに、牢番の手を握りしめた。

 いつもなら殴り飛ばすところだ。だが、牢番はその熱い掌を振りほどけなかった。


「お前も、いつかその目で見ることになるだろう」


 彼は無言で頷くと、本来の配給よりも多い量の水と食料を、こっそりと牢内に押し込んだ。


 岩山の奥深く、暗く淀んだ牢獄の底で、小さな火種が生まれた。

 それはボスのジャックさえ気づかない場所で、囚人の絶望と、下っ端構成員の鬱屈を燃料にして、静かに、しかし確実に燃え広がり始めていた。

 

 ――

 

 鉄格子の向こう、薄暗い通路を駆け下りてきたのは、あの若い牢番だった。彼は腰に提げていた棍棒を握ることすら忘れ、血相を変えてライオネルの檻の前で立ち止まった。


「……おい、ライオネル。起きろ」

「どうした? あの方が、夢にでも現れたか?」


 ライオネルは静かに目を開けた。数日間の粗末な食事と冷たい床での生活にもかかわらず、その顔色はむしろ艶やかで、内側から発光しているかのような不気味な活力を帯びていた。


「戻って来たんだ」

「誰が?」

「お前の仲間だ。襲撃に行った奴らの生き残りが、あと三人……たった今、拠点に帰って来やがった」


 ライオネルの唇が三日月型に歪んだ。

 来たか。播かれた種は1つではなかったのだ。


「それで? 彼らはなんと?」

「……自分の耳で聞け。上が騒ぎになってる」


 牢番は震える手で鍵を取り出すと、ガチャリと鉄格子の錠を開けた。

 これは職務放棄であり、ボスのジャックに対する明確な裏切りだ。だが、牢番の好奇心と、ライオネルによって植え付けられた「畏怖」は、既に組織の規律を上回っていた。


 ライオネルは悠然と立ち上がり、牢から出た。

 背後で、他の囚人たちが鉄格子にしがみつき、「俺たちも連れて行ってくれ!」「その話の続きを!」と叫ぶ。

 ライオネルは振り返り、人差し指を口元に当てた。


「静かに。時は来た」


 ――


 拠点の大広間は、異様な混乱に包まれていた。

 ボスのジャックと側近たちが、ボロボロになって帰還した三人の男たちを取り囲んでいる。

 側近たちは錆びた斧や槍を構えているが、それは威嚇のためというより、帰還者たちの異様な雰囲気に飲まれないための虚勢に見えた。


「嘘じゃねえ! 浮いていたんだよ、空中にピタリと!」

「見えない手に弾かれたんだ!」

「俺は死んだと思った、だが、生かされたんだよぉ!」


 男たちは口々に天使とその奇跡、美しさ叫んでいた。

 その症状は、数日前にライオネルが見せたものと全く同じ――いや、集団で共有されている分、より深刻で確固たる「事実」としてそこに存在していた。


「ええい、黙れ! 貴様ら全員、腐った肉でも食って頭がおかしくなったのか!?」


 ジャックが怒号を上げ、近くの木の机を義手の爪で引き裂く。メリメリという音が響くが、帰還者たちはボスの暴力など目に入らない様子だった。

 彼らの目は、この薄汚い洞窟ではなく、遠い記憶の中の「天使」を見つめていたからだ。


「ボス、あんたこそ分からないのか!? 俺たちは許されたんだ!」

「あの方は、俺たちごときを殺すのに手を汚したくないと仰ったんだ!」

「天使だ……天使だ……天使なんだ…………」


 周囲を取り巻く他の構成員たちの顔色が、青ざめていく。

 ライオネル一人の戯言なら笑い飛ばせた。

 だが、別々のルートで逃げ帰ってきた男たちが、示し合わせたように同じ「奇跡」を語っている。

 

 ざわめきが波紋のように広がる。

「本当なのか?」「おい、ライオネルの言っていたことは……」「俺たちでも天使は赦してくれるのか?」


 そこへ、ゆっくりとした足音が響いた。

 広間の入り口に、薄汚い囚人服を着たライオネルが立っていた。

 その背後には、牢番と囚人たちが付き従っている。


「ライオネル……!」


 帰還者の一人が彼を見つけ、這いずりながら駆け寄った。

 そして、あろうことかライオネルの足元に縋り付いたのだ。


「お前も見たんだろう!? あの光を! あの愛を!」

「ああ、見たとも。同志よ」


 ライオネルは優しく男の頭を撫でた。

 その瞬間、広間の空気は決定的に変質した。

 狂人同士の傷の舐め合いではない。

 これは「預言者」と「証人」による、奇跡の立証だった。


「これより、私達は良きネイバーとしてあらねばならない」

「そしていつの日か、天使に微笑んで頂くのだ」

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