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第六十二話 しあわせの理由

 あの熱狂的な帰還の宴から、数日が過ぎた。

 エンジェルステーションはかつての盛況を取り戻し、市場には人が行き交っている。


「ふう……今日は本当にいいお天気ね」


 居住区の物干し場。洗い立ての真っ白なシーツをロープに掛けながら、マリアは眩しそうに目を細めた。

 爽やかな風が吹き抜け、石鹸の優しい香りが鼻をくすぐる。血と泥と腐敗臭にまみれた「魔の森」での死闘が、まるで遠い昔の悪い夢だったかのように思えるほど、穏やかな午前中だった。


「マザー、重量物ノ運搬ハ私ニオ任セクダサイ。マザーノ細イ腕デハ、筋肉細胞ヲ損傷スル恐レガアリマス」

「もう、シエルったら大げさなんだから。これくらい私にも運べるわよ」

「ピュイ、ピュイ!」


 両腕に洗濯物が入った巨大なカゴを抱えたシエルが真面目な顔で忠告し、その周りをコロンが楽しげに跳ね回っている。そんな他愛のないやり取りにクスリと笑いながら、マリアはステーションの広場へと歩みを進めた。


 広場の入り口にある頑丈なゲートが開き、猟師のファルケンバーグが大きな獲物を肩に担いで帰ってきたところだった。

 

「おう、今日も精が出るな。森の浅いところはすっかり空気が澄んで、獲物も丸々と太ってやがるぜ」

「泥を落としてから入れよ、今、居住区の浄水システムのフィルターを交換したばっかりなんだからな」

 

 ゲート脇の配電盤を開け、スパナを片手に設備のメンテナンスを行っていたプリスキンが、顔の油汚れを拭いながら声をかける。過酷な世界にあっても、命を繋ぐステーションのインフラがこうして完璧に維持されているのは、彼のような裏方の職人がいるからこそだ。


「おお、いい獲物じゃねえか。こいつは香草と一緒にローストにしよう」

 

 キッチンエリアから顔を出した料理人のイノシロウが、ファルケンバーグの獲物を見て満足そうに頷く。彼が腕を振るう絶品の料理は、ステーションの住民たちにとって毎日の最大の楽しみである。

 

 そのキッチンのすぐ横の木陰では、小説家のアレンが静かにペンを走らせていた。


「……『死地を抜けた戦士たちを癒すのは、肉の焼ける匂いと、他愛のない喧騒だった』、と」

 

 アレンは手元のノートに文字を綴り終えると、知的な瞳を細めて穏やかに微笑んだ。彼にとって、この平穏なステーションの日常と人々の営みこそが、何よりも美しい物語の1ページなのだ。


 ――

 

 一方、ステーションの一角にある会議スペースでは、リーダーであるレドリックと、研究者のクラークが広げた図面を前に話し込んでいた。傍らでは、助手のアロウェイが素早い手つきでデータを端末に打ち込んでいる。


「サイエンの脅威が去り、あの異常な肉塊どもの発生源は断たれた。だが、北の山岳エリアに巣食う『蟲』の群れは相変わらずだ。奴らの繁殖期が来る前に、大規模な駆除計画を立てたい」

 

 クラークが推移データを示しながら、冷静に現状を分析する。

 

「クラーク教授の言う通りです。蟲の生息域がこれ以上拡大すれば、私たちの水源ルートにも影響が出かねません」と、アロウェイも真剣な顔で同意した。

「わかっている。アヴァロンの連中から得た戦闘データも加味して、新しい防衛ラインを構築しよう」

 

 レドリックが地図を睨みつけながら、頭の中で作戦行動を組み立てていく。


「レド、あまり無茶な計画を立てて怪我人を増やさないでくださいよ?」

 

 そこへ、医療キットを抱えた医者のリンジーが、呆れたような、しかし優しい笑顔でたしなめるように入ってきた。

 

「わかってるさ。蟲ごときなどと油断するつもりはない」

 

 レドリックの力強い返答に、リンジーも安心したように微笑んだ。


 ――


「甘い! 足運びが半歩遅れているぞ、モリィ!」

「はい師匠! もう一回!」


 広場の一角から、鋭い呼気と木剣が打ち合う小気味良い音が響いてくる。アリスとモリィだった。

 失われたはずの左腕と右目を完全に取り戻したアリスは、以前とまったく変わらない、いや、それ以上に洗練された動きで愛弟子の木剣を軽々と捌いている。


 モリィもまた、忌まわしい記憶の混濁から完全に抜け出し、玉の汗を流しながら必死に師匠の背中を追っていた。


「そこまで」

 

 ふいに、アリスが木剣を下ろし、静かな声で告げた。

 

「えっ? あ、あたし、また何か間違えた……?」

 

 不安そうに顔を上げるモリィに対し、アリスは微かに口角を上げ、腰に帯びていた「愛剣」――あの死闘の最中、彼女が振るい、そしてモリィが強引に奪い取って肉塊を斬り伏せた単分子剣を鞘ごとゆっくりと引き抜いた。


「記憶がない中、お前は私を守るために、震える手でこの剣を握った。そして見事に敵を討ち果たした。あの時の太刀筋は、私が教えた型を完全に超えていた」


「師匠……」

 

 アリスは、抜き放った単分子剣の柄を、まっすぐにモリィへと差し出した。

 

「お前の魂は、すでに一流の戦士だ。この剣は、もう私よりもお前にふさわしい」

「そんな! あたしなんかが、師匠の大切な剣を……!」

「受け取れ、モリィ。師匠から誇り高き弟子への皆伝の証だ」


 アリスの優しい、けれど決して揺るがない眼差しを受け、モリィの目から大粒の涙が溢れ出した。

 

「……はいっ! ありがとうございます、師匠! あたし、絶対にこの剣に恥じない戦士になります!」

 

 モリィは両手で恭しく単分子剣を受け取り、胸に強く抱きしめて泣きじゃくった。アリスは困ったように微笑みながら、その小さな頭を優しく撫でた。


(みんな、笑ってる……)


 少し離れた場所からその光景を見守っていたマリアは、ぐるりと周囲を見渡した。

 剣を継承する師弟、ステーションを支える設備士と猟師、それを美味しい料理で労う料理人、日常を書き留める小説家。未来の計画を立てるリーダーや研究者たちと、皆の健康を見守るお医者さん。

 

 誰もが、この世界でそれぞれの役割を持ち、互いを支え合っている。

 過酷な世界には違いない。それでも、ここには確かに「家族」と呼べる温かな絆があった。


「マザー。心拍数、血圧トモニ、非常ニ穏ヤカデス。ナノマシンノ異常励起モ観測サレマセン」

「ええ。とっても静かよ」


 マリアは自身の胸にそっと手を当てた。

 自分の中には、みんなを守りたいと強く願った、あの温かい光が確かに残っている。もう、魔法を失ったと己の無力感に苛まれることはない。


 どこまでも透き通る青空の下。

 笑い声が絶えない、この愛おしい場所。

 ここが私たちの帰る場所。エンジェルステーション。

 

 明日もきっと、今日と同じように、皆で笑い合いながら朝を迎えることができるだろう。

 そんな確かな希望を胸に抱きながら、マリアは雲一つない大空へと、とびきりの笑顔を向けた。


 ――


 平和な空気に包まれたエンジェルステーションから、数キロ離れた小高い丘の上。

 風に揺れる枯れ草を踏みしめながら、一人の男が眼下のステーションを見下ろしていた。


 男は長い間そうしていたが、やがて荒野の彼方へと消えていった。


 【第二部 完】

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