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第六十一話 博士の異常な愛情

 同じ頃、深い地下に位置するサイエンの実験室では、異常事態が起きていた。


「な……馬鹿な!? リンクが……高次存在との接続が切断されただと!?」


 無数の肉塊とのリンクが乱れ、視覚、聴覚がノイズに塗り潰されていく。


 自らの後盾であり、至高の叡智の源でもあった「彼ら」との繋がりが突然断ち切られたことに、サイエンは激しく動揺した。


「私の偉大なる計画を邪魔する愚か者め! 皆殺しにしてくれる……ッ!」


 血走った目でモニターを睨みつけ、怒り狂いながら部屋を飛び出そうと足を踏み出した、その時。


 ――チクリ。


 サイエンの首筋に、微かな痛みが走った。

 虫に刺されたような、あまりにも些細な痛み。だが、彼の鋭敏な神経は、それがただの痛みではないことを即座に悟った。


「……ッ!?」


 慌てて振り返る。

 そこには、空になった注射器を指先で弄ぶ、アレックスの姿があった。


 泥と血に塗れ、自我を失って床を這いずり回っていたはずの「失敗作」だが、今の彼には微塵の淀みもなかった。


 かつてのウルトラヴァイオレンスを統べていた頃のような、傲慢で、しかし酷薄なまでの知性の光が、その瞳に完全に戻っていたのだ。


「きさま……! それは!? 今、私に何を注射した!?」


「素晴らしい……」


 激昂するサイエンの問いなど聞こえていないかのように、アレックスは恍惚とした表情で虚空を見つめていた。その視線は、分厚い地下の天井を透過し、地上で輝く『光』を捉えているかのようだった。


「私の天使が帰ってきた。ああ……なんという美しく、純粋な光だ。やはり彼女こそが至高。君のような三流の玩具遊びとは次元が違う」


「何を……戯言を! 私に何を注射したと聞いている!!」


 的を外れたアレックスの呟きに、サイエンの怒りが頂点に達する。

 彼の肩から無数の黒い触手が弾け飛び、アレックスの四肢を串刺しにせんと襲いかかった。


 だが、アレックスはまるでワルツでも踊るかのような軽やかなステップで、その無数の凶刃をあっさりと躱してみせた。


「ニューロフェード」


 すれ違いざま、アレックスの薄い唇からボソリと零れ落ちた薬品名。

 それを聞いた瞬間、サイエンの視界がグラリと揺れ、目の前が真っ暗になった。


「な……」


 ニューロフェード。

 それは、対象の脳細胞に特殊な干渉を行い、人間から徐々に『記憶』を奪っていくという悪魔のような劇薬だった。最終的には全ての知識も自我も失われ、白痴同然の肉人形へと成り果てる。


「き、きさま! なんという……なんということを!」


「なかなか面白い見世物だったよ、サイエン。だが、怒りに目を曇らせるようでは、君の自慢の知性もそれまでさ」


 優雅に一礼して背を向けるアレックスを追う余裕など、今のサイエンにはなかった。

 ニューロフェードの進行を止める中和剤を打たなければ、己の全てが消滅してしまう。


「中和剤……そうだ、薬品庫に……!」


 サイエンは半狂乱になりながら薬品庫へと駆け込んだ。

 だが、絶望が彼を待っていた。


 棚という棚は完全に叩き壊され、床には無数のアンプルが砕け散り、色とりどりの薬品が混ざり合って異臭を放つ水溜まりを作っていたのだ。


「あああああッ!!」


 サイエンは薬品の海に膝をつき、頭を抱えて絶叫した。

 指の隙間から、彼自身の記憶が、叡智が、砂のようにこぼれ落ちていく感覚がすでに始まっていた。


「いやだ、いやだいやだいやだ! 私の叡智が! この私が築き上げた神への階梯(かいてい)が! 失われるなぞ、あってはならん!!」


 彼は這うようにしてメインコンソールへ戻ると、血走った目で自身の研究資料をディスプレイに乱反射させた。

 恐ろしい速度でスクロールされる膨大なデータ。数式、遺伝子配列、高次元との交信記録。


「覚える……覚える……覚える、覚える、覚える、覚える……ッ!」


 サイエンは、乾いた唇を震わせながら、モニターに映る文字列をひたすらに読み上げ始めた。


 脳から消えゆく端から、もう一度頭に叩き込めばいい。狂ったような執念が、彼を突き動かす。


「私は天才だ。忘れたら、また覚えればいい。そうだ、そうに決まっている。覚える覚える覚える覚える覚える……」


 カチャカチャと、意味のないタイピング音が地下室に響き続ける。


「私は、天才、だ。……あれ? この数式は、そうだ、これでいい。いや、違う、これでいい。そうだ、覚える、覚える覚える覚える……」

 

「覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える覚える」


 他者の記憶を弄び、肉体を冒涜し続けた狂気の科学者は、己が最も恐れる「無知」の底なし沼へと沈んでいく。


 自分が何を覚えようとしているのかすら忘れかけていく脳で、サイエンはただ壊れた機械のように同じ言葉を反芻し続けていた。


 ――

 

 アヴァロンのガウェイン級を先頭に、マリアとレドリックたちがサイエンのファクトリー最深部へと突入した時。彼らが覚悟していた「最終決戦」は、ひどくあっけない形で幕が引かれた。


「……なんだ、これは」


 レドリックが、構えていた散弾銃の銃口をゆっくりと下げる。

 無残に叩き壊された薬品庫と、乱反射するモニターの光。その部屋の中央にへたり込んでいたのは、想像を絶する怪物などではない。


「あはあはあは」


 口からだらりと涎を垂らし、焦点の合わない瞳で薄ら笑いを浮かべる、一人のひ弱な老人だった。


 かつて彼の肩から不気味に蠢き、肩口から伸びた黒い触手は、完全に水分を失った枯れ枝のように萎び、ボロボロと崩れ落ちそうになっている。


「……こいつ、サイエンだ」


 モリィが忌々しげに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

 その声に反応することもなく、老人はただ床の染みを指差しては、無意味な笑い声を漏らすだけだ。


「一体、ここで何があったの……?」

 

 マリアが息を呑む。


 彼女が放った「天使の光」が何らかの作用を及ぼしたのか。それとも、彼ら自身の実験の果てに自滅したのか。あるいは、別の「何者か」が介入したのか。

 その答えは、誰にもわからなかった。完全に記憶と知性を失い、白痴と化したこの男の口から、もはや真実が語られることは永遠にない。


「考えても仕方ない。こんな(おぞ)ましい場所はあってはいけない。完全に破壊し、撤収するぞ」


 レドリックの冷徹な号令が響いた。

 

 ガウェイン級によって、ファクトリーの主要な柱石に次々と強力な爆薬がセットされていく。


 ――ズズォォォォォンッ!!


 部隊が森を脱出した直後、大地を揺るがす轟音と共に、生命を冒涜し続けた狂気の実験場は崩落した。


 分厚いコンクリートと土砂が地下深くへと飲み込まれていく。かつてサイエンだった哀れな肉の抜け殻も、その深い闇の底へと、数多の罪と共に完全に生き埋めとなった。


 終わったのだ。マリアは振り返り、土煙を上げる森の跡地を見つめた。

 もう、あの偽物のアリスに怯えることもない。仲間たちが理不尽な死の恐怖に晒されることもない。


「帰ろう」


 マリアは、傍らに立つアリスとモリィに笑いかけた。

 アリスの無事な両眼が優しく細められ、記憶を取り戻したモリィが、弾かれたようにマリアに抱きつく。


 その背後では、シエルが静かに青いコアを瞬かせ、レドリックやアレンたちが互いの肩を叩き合って生還を喜んでいる。


「私たちの帰る場所……エンジェルステーションに」


 彼らが歩みを進める頭上には、いつの間にか厚い雲が晴れ、どこまでも透き通るような青空が広がっていた。

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