第六十話 原初の鼓動
響いてくる音は今倒した化け物よりも、さらに重く、数が多い。
モリィは咄嗟にアリスを背後へ庇い、泥にまみれた単分子剣を再び拾い上げ、音のする方へ切っ先を向けた。
そこに怯えはない。ただ、背後の人間を守るためだけの、獣のような鋭い殺気だけが満ちていた。
森の奥から姿を表したのは、灰色の鋼鉄の騎士たち。
そしてその中央から、青いコアを明滅させるシエルと、泥だらけになりながら息を切らした少女が飛び出してくる。
「モリィ! アリスさん!」
悲痛な、しかし歓喜に満ちたマリアの叫びが森に響いた。
だが。
涙を浮かべて駆け寄ろうとするその少女を見て、モリィはピクリと眉を動かし、さらに深く剣を構え直した。
「……クルナ……ッ」
低く、威嚇するような声。
その瞳に宿っているのは、かつての親友に向ける温かな光ではない。アリスに近づく「見知らぬ外敵」への、明確な警戒と敵意だった。
「え……モリィ?」
マリアの足が、凍りついたようにピタリと止まった。モリィはマリアたちを覚えていない。
ようやく辿り着いた希望の合流は、ひとつ間違えば決定的な破滅をもたらす危険な綱渡りと化した。
マリアは、向けられた白刃に怯むことなく、泥に足を取られながらも一歩前へ踏み出した。
「モリィ、私よマリア! 皆あなたを迎えに来たの、味方よ!」
「マリ、ア……?」
モリィの喉から、掠れた音が漏れた。
向けられた単分子剣の切っ先が、微かに震える。初めて聞くはずの響き。
それなのに、その名を口にした瞬間、胸の奥を締め付けるような痛みが走った。
敵対すべきか、それとも……混乱するモリィの瞳が激しく揺れ動いた。
「エンジェルステーションでは、アロウェイも心配して待っているわ! だから、お願い……剣を下ろして!」
「あ、ああ……」
アロウェイという名を聞いた時、血と腐った肉の臭いで溢れたこの場所で、なぜか口内で転がる甘い香り。
「サホー……ご褒美……」幸せだった頃の記憶が、モリィを呼び戻していく。
「モリィ! 帰ってきて!」
マリアの祈りに呼応するように、辺りから光の粒子が立ち上り始めた。
「……これは?」
周囲を警戒していたレドリックの口から、呆然とした声が漏れた。アレンや、ガウェイン級に乗るアヴァロンの兵士たちにも動揺が走る。
暗く、血と肉片に満ちていた、禍々しい森の空気が一変していた。
泥だらけの地面から。無惨になぎ倒された巨木から。いや、空間そのものから、淡く輝く光の粒子が立ち上り始めていたのだ。
まるで季節外れの雪が、重力を無視して天へと昇っていくかのように。あるいは、無数の小さな蛍が闇を浄化するかのように。
光の粒は次第に密度を増し、血と泥に塗れた凄惨な広場を、幻想的に照らし出していく。
「イエス、マイマザー」
シエルの青いカメラアイが、激しく明滅する。
高度なセンサー群は、この神秘的な現象の「震源地」を正確に捉えていた。
光の渦の中心にいるのは、祈るように両手を胸の前で組み合わせ、ただまっすぐにモリィを見つめるマリアだった。
仲間を救いたい。力を与えてほしい。その強烈で純粋な渇望がトリガーとなり、マリアの体内で育成されていた『原初のナノマシン』がついに外部環境への直接干渉を始めたのだ。
立ち上る光の粒子は、意思を持っているかのようにモリィとアリスの元へと集まっていく。
「あ……」
モリィの頬を、淡い光が撫でる。
それは、冷え切った彼女の心を芯から温めるような、優しく、ひどく懐かしい熱を帯びていた。さらに光の粒がアリスの深い傷口に触れると、絶え間なく流れていた血が嘘のように止まり始める。
マリアがかつて失ったと嘆き、そして今、最も強く求めた『魔法』が、再び世界に顕現した瞬間だった。
光の粒子が、血と泥に塗れた森を幻想的に染め上げていく。
シエルはその異常な、しかしどこまでも清らかなエネルギーの波長をセンサーで捉え、青いカメラアイを静かに瞬かせた。
そして、吸い込まれるようにマリアの御前へと進み出ると、泥に汚れることも厭わず恭しく片膝をつき、深く頭を垂れた。
マリアは静かに微笑み、跪く鋼鉄の守護者の肩にそっと手を置いた。
「さあ、起きて、寝坊すけさんたち」
慈愛に満ちたその囁きは、シエルの中にある『原初のナノマシン』と共鳴し、この空間に偏在する「極小の眠り手」たちすべてに響き渡った。
それはマリアの体内から溢れ出ただけの光ではない。
かつて世界を絶望に染め、空を覆い尽くすほどの雲を形成していた暴走ナノマシンたち。
中和され、機能を停止したと思われていた彼らの残骸は、深い休眠状態のまま地表へと降り注ぎ、この世界中に堆積していたのだ。
今、マリアの体内で育まれた『原初のナノマシン』が放つ鼓動に呼応し、地表に眠る莫大な数のナノマシンが一斉に再起動を果たした。
大地から、文字通り無数の星が湧き上がるような光景だった。
休眠から目覚めたナノマシンの群れが、絶対的な命令者であるマリアの祈りに従い、瞬く間に凄惨な現実を上書きしていく。
光の奔流がアリスの深く抉られた傷口を包み込み、切り裂かれた左腕の神経を、失われた右目の細胞を、本来あるべき完全な姿へと編み上げていく。
そして、モリィの脳髄を侵していたサイエンの毒を浄化し、分断されていた記憶の回路を優しく、確かに繋ぎ直していった。
「……マリア……。アリス、師匠……っ!」
向けられていた単分子剣が泥の上に落ちる。
モリィは両手で顔を覆い、あふれ出る涙を止めることができずにその場に泣き崩れた。
傷が癒え、ゆっくりと立ち上がったアリスが、隻眼ではなく、両の目でしっかりと愛弟子の姿を捉え、その背中を優しく抱きしめる。
奇跡。
それはまさに、かつて世界を滅ぼしかけたナノマシンが、一人の少女の願いによって、真の「天使の魔法」へと昇華された瞬間だった。
圧倒的な光の渦の中で、アヴァロンの兵士たちやレドリックたちもまた、言葉を失い、ただ目の前で起きている神話のような光景を見つめることしかできなかった。
光の粒は、さらに天高く舞い上がっていく。
それはかつての灰色の雲のように、成層圏で光の層をなし、やがて見えなくなった。




