第五十九話 魂に刻まれた刃
「大丈夫だ……。大丈夫、だから……」
虚ろな森に響くその呟きが、怯える少女へ向けたものなのか、それとも限界を超えた己の魂を繋ぎ止めるためのものなのか、もはやアリスにもわからなかった。
先ほど出現した巨大な肉塊との死闘。それを辛くも単独で退けたアリスの姿は、まさに満身創痍という言葉すら生ぬるい有様だった。
左腕は完全に垂れ下がり、腹部には内臓に達するかというほどの深い裂傷。そして何より、巨大な肉塊の反撃を顔面に受けたことで、彼女の右目の視力は完全に失われ、赤黒い血の塊で塞がってしまっている。
それでも、アリスはモリィを背後に庇うように立ち、泥を引きずるようにして歩き続けていた。
「ギチチチ……ッ!」
木の陰から、小型の肉塊が這い出してきてアリスの死角である右側から飛びかかる。
だが、アリスの右腕は過たず動いた。
半身を沈め、すくい上げるような単分子剣の一閃。それだけで、肉塊は綺麗な二つの塊に分かたれ、地面にボトリと落ちた。
「……っ、ふぅ……」
辺りの敵を一掃し、再び歩き出そうとした瞬間。
ついに、アリスの膝がカクンと折れ、泥だらけの地面に手をついた。
(だめだ……まだ倒れるな……)
アリスは霞む左目で地面を睨みつける。ここで倒れてしまえば、二度と立ち上がれない。失血と疲労が、泥沼のように彼女の意識を底へと引きずり込もうとしている。
歯を食いしばり、剣を杖代わりにして無理やり立ち上がろうとするアリス。そのふらつく身体を、小さな手が必死に支えた。
「ぁ……あ……」
モリィだった。震える腕で、自分より大きなアリスの身体を必死に押し上げようとしている。
「すまない……ありがとう、モリィ」
アリスが血に染まった唇で微かに微笑んだ、その時。
『ズズズズズ……ッ』
地鳴りのような音と共に、木々がへし折られた。
二人の眼前に現れたのは、先ほどアリスが命を削って倒したものと全く同サイズの、新たな巨大肉塊だった。
絶望。サイエンの嘲笑が聞こえてくるような、無慈悲な現実。
「ここまで……か」
アリスの口から、乾いた声が漏れた。
もう、剣を振るう力など残っていない。それでも彼女は、モリィを突き飛ばすようにして自身の背後へと遠ざけた。
「すまない……。ここからは、一人で、逃げるんだ」
アリスはそう言うと、動かない身体に鞭打って、巨大な肉塊に立ち向かおうと前へ出た。死にゆく者の、最後の盾となるための歩み。
その血にまみれた背中を見ていたモリィの胸の奥で、恐怖を塗り潰すほどの「熱い何か」が爆発した。
「……!」
モリィが前に出た。
アリスの横をすり抜け、その右手に握られていた単分子剣の柄を、両手で強引に奪い取ったのだ。
「モリィ!? やめろ……今のお前では!」
驚愕するアリスを背に庇うように、モリィは巨大な肉塊の前に立ちはだかった。
足は震えている。手も震えている。
だが――
「み、みてて……」
震える声で、モリィは短くそう言った。
そして、単分子剣を、明確な意思と共に上段に構える。
かつて剣術を教わっていた頃の記憶はない。
だが、恐怖に震えていた彼女の瞳には、今までのアリスの動きの全てが焼き付いていた。
足の運び。剣の軌道。敵の急所を突く時の呼吸。
何より、自分を守るために戦い抜いた、その「覚悟」。それが今のモリィのすべてだった。
(……できる)
自分にも出来る。なぜかモリィには確信があった。
剣を握るモリィの瞳から怯えが消え、静かな、しかし強烈な闘志が宿る。
少女は巨大な肉塊に向かって、己の身体よりも大きな剣を振りかぶり、力強く大地を蹴った。
真っ直ぐに巨大な肉塊へと突進するその姿は、端から見れば追い詰められた少女の自暴自棄な特攻。
だが、背後からその背中を見つめていたアリスは、唯一残された左目を大きく見開いた。
正しく踏み込んだ足の位置。絶妙な重心の移動。
そして、単分子剣の重さを遠心力に乗せ、完璧に刃筋をコントロールするその所作。
それは、ただの「見よう見まね」などでは決してなかった。
(……ああ)
振り下ろされた白刃が、肉塊の分厚い表皮を容易く切り裂き、黒い体液を噴出させる。
凄まじい反作用の衝撃を、モリィは膝のクッションと淀みない体捌きだけで完璧に逃がし、流れるように次の太刀へと繋げてみせた。
アリスは、霞む視界の中で全てを悟った。
記憶は失われたかもしれない。自分という存在も、自分と過ごしたかつての厳しい修練の日々も、今のモリィの脳髄からは消え去ってしまったのだろう。
だが、身体が、血肉が、細胞が覚えていたのだ。
アリスが叩き込み、共に汗と血を流して築き上げた「戦士としての証」は、決して無駄にはなっていなかった。奪われた記憶の奥底で、彼女の魂に確かな技術として刻み込まれていたのだ。
「……見事だ、モリィ」
依然として、ここは死地であることに変わりはない。
モリィの一連の攻撃は確かに肉塊に深手を負わせたが、あの巨大な化け物を完全に沈めるには至らない。痛みで激昂した肉塊が、モリィを圧殺しようと巨腕を大きく振り上げている。
迫り来る圧倒的な死の影。だというのに、泥と血に塗れ、膝をついたアリスの口元からは、自然と微かな笑みが溢れていた。
それは絶望からの自嘲ではない。己の教えを魂で継承していた愛弟子への、誇りと歓喜に満ちた、純粋な笑みだった。
振り下ろされる肉塊の巨腕。迫り来る死の影を前にしても、アリスの心はかつてないほどの穏やかさに包まれていた。
泥と血に塗れた唇が、最後に微かに動く。
「お前は、最高の弟……子……」
かすれた、けれど確かな誇りに満ちた呟き。
それを最後に、アリスを辛うじて支えていた気力の糸がふつりと切れた。
背中をもたせかけていた巨木の幹から、ずるずると滑り落ちるようにして腰を落とす。単分子剣を手放した後も強く握りしめられていた右手が力なくほどけ、泥土の上に投げ出された。
静かに閉じられた瞳。その顔には、満身創痍で無残に切り裂かれた肉体には到底不釣り合いな、あまりにも安らかで、美しい笑みが浮かんでいた。
己の全てを懸けて守り抜き、そして己の魂を受け継いでくれた一人の少女を見届けた、戦士としての満ち足りた表情だった。
「――ッ!!」
背後でアリスが崩れ落ちた微かな音を、モリィは背中で感じ取っていた。
振り返る暇はない。目の前には、自分を、そして背後の「大切な人」を完全に押し潰そうと迫る巨大な暴力が迫っている。
アリスの最後の言葉が、記憶のないモリィの耳にどう響いたかは定かではない。
だが、モリィは決して振り向かず、両手でさらに強く単分子剣の柄を握り締めた。その瞳には、かつて「悪魔」へと変異した時の狂乱とは違う、研ぎ澄まされた氷のような決意の炎が燃え上がっていた。
アリスの動きを完全にトレースした、いや、それすらも超える神速の踏み込み。
両手で握りしめた単分子剣が、美しい弧を描いて閃いた。
ズォォォン……ッ!
巨大な肉塊は、己の振り下ろした暴力とモリィの一撃が交差した衝撃で、袈裟懸けに深く裂け、轟音と共に崩れ落ちた。
黒い体液の雨が降る中、モリィは荒い息を吐きながら振り返る。
「……!」
そこには、木の根元で力なく崩れ落ち、動かなくなっているアリスの姿があった。
モリィは単分子剣を放り出し、泥を跳ね上げて慌てて駆け寄る。
「あ……あぁ……っ!」
血まみれのアリスのに近寄り、必死に声をかける。だが、あの穏やかな笑みを浮かべたまま、アリスからの反応はない。
今のモリィには、彼女の生死を確かめる術すらない。ただ、この冷たくなりつつある身体を安全な場所へ運ばなければという本能だけで、アリスの身体を自分の小さな肩に担ぎ上げようとした。
その時だ。
バキバキバキィィッ!
森の奥から、木々をなぎ倒して近づいてくる音が響いた。




