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第六話 人間以上

「パパ!!」


 マリアの悲痛な叫びが、鉛色の空に吸い込まれていく。

 だが、その声に応える者はいない。

 アレンはマリアに覆いかぶさったまま、ピクリとも動かなくなっていた。

 背中からは鮮血が流れ出し、乾いた大地にどす黒い染みを作っていく。


 血が出ている。止まらない。

 それがどういう事なのか、マリアは知っている。

 リンジーの書斎で読んだ、分厚い医学書。そこに描かれていた人体の構造、循環器系、そして失血性ショックの項目。

 知識としては知っていた。

 けれど、目の前で起きている現実は、本の中の活字とは比べ物にならないほどの恐怖と絶望を伴っていた。


 なぜ? どうして?

 

 マリアの小さな胸が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。

 彼女が生まれて初めて直面した、明確な「悪意」と「暴力」。

 それが、一番大好きな人を壊そうとしていた。


「馬鹿野郎! 何勝手に撃ってやがる!」


 岩陰から姿を現した男が、弓を持った手下を怒鳴りつける声がした。

 

「すみません、あのガキがこっち指さしたもんで、つい」

「チッ、今回だけは見逃してやるが、次は無いぞ」

「へい」

「ガキは高く売れる、傷つけるなよ。親父の方は……まあ、死体から装備を剥ぎ取っておけ」


 テイカーたちが、獲物を品定めするような下卑た目でマリアに近づいてくる。

 彼らにとって、足元で泣き叫ぶ少女は人間ではない。希少な資源であり、金貨の入った袋でしかなかった。


「おい、来いよ」


 先頭の男が、泥だらけの手を伸ばす。

 マリアは動けなかった。恐怖と混乱で、足が地面に縫い付けられたようだった。


「あ?」


 男の足が止まる。

 ガシリ、と。

 その足首を掴んだのは、泥と血に塗れた手だった。


「……させる、か……」


 アレンだ。

 背中に矢を受け、瀕死の重傷を負っているはずのアレンが、意識朦朧としながらも男の足を掴んでいた。

 その力は、死にゆく者とは思えないほど強く、痛いほどだった。


「マリア……にげ……ろ……」


 かすれた声。

 焦点の合わない瞳が、それでも必死に娘の無事を願っている。


「チッ、しぶとい野郎だ」


 男は不快そうに顔を歪めると、アレンの手を振りほどこうと足を上げた。

 

「この! くたばり損ないが、離しやがれ!」


 ドカッ! ドカッ!

 

 男のブーツが、容赦なくアレンの脇腹を蹴り上げる。

 アレンの口から血の混じった嗚咽が漏れ、力なく指が離れた。

 泥の上を転がるアレン。

 ボロ雑巾のように扱われる、大好きなパパ。


 その光景が、マリアの中にある「何か」のスイッチを押した。


 プツン。


 理性が、感情が、そしてナノマシンの安全リミッターが、断ち切られる音がした。


 ――ゆるさない。


 イィィィィィィィィン……


 突如、耳をつんざくような高周波音が響き渡った。

 それは風切り音ではない。大気中の電子が、異常なエネルギーによって励起し、悲鳴を上げている音だった。


「あ? なんだ?!」


 テイカーたちが狼狽え、周囲を見回す。

 空気がビリビリと振動し、肌に静電気が走る。

 先ほどまでの冷たい風が止み、代わりに灼熱のような圧力が場を支配し始めていた。


「ひいっ!」


 一人が腰を抜かして、何かを指さしている。

 その指の先。アレンの傍らで少女が宙に浮いている。


 そこに在ったのは、ただの子供ではなかった。


 マリアの背中から、噴き出した高密度のナノマシンが白く輝く粒子となって凝縮し、巨大な二枚の「翼」を形成していた。

 さらに頭上には、幾何学模様を描いて回転する、神々しい光の輪――ハロー(光輪)。


 純白の翼と、光り輝くハロー。

 それは、旧時代の宗教画に描かれた「天使」そのものの姿。

 だが、その美しい顔に浮かんでいたのは、慈愛の微笑みではなかった。


 氷の刃のような、純粋で、絶対的な「怒り」だった。


「……ああああああああ!」


 マリアの口から、言葉にならない咆哮が放たれた。

 少女の悲鳴ではない。

 それは、空間そのものを震わせる拒絶の波動。


 ドォォォォン!!


 マリアを中心にして、見えない爆風が炸裂した。

 翼が一回、大きく羽ばたいた瞬間、物理法則を無視した運動エネルギーがテイカーたちを襲った。


「ぐわあああああっ!!」

「なんだこれ!? 体がっ!」


 大人たちが、まるで枯れ葉のように宙を舞う。

 武器を取り落とし、悲鳴を上げながら数メートル、いや数十メートル後方へと弾き飛ばされ、岩肌や地面に叩きつけられた。


 遠くへ弾き飛ばされたテイカーたちが、あちこちで呻き声を上げて転がっている。

 骨の一本や二本は折れているかもしれないが、全員息はあるようだ。


 静寂が戻った荒野に、ただ一人、光り輝く少女と、倒れた父親だけが残された。

 

 マリアは荒い息を吐きながら、ゆっくりと視線を足元へと落とした。

 そこには、泥にまみれて倒れるアレンがいる。


 マリアの瞳から、怒りの色が消え、大粒の涙が溢れ出した。

 

「パパ……」


 彼女がアレンに手を伸ばすと、背中の光る翼から、一枚の純白の羽根がふわりと舞い落ちた。

 それは雪のように儚く、しかし確かな意志を持って、アレンの背中に突き刺さった矢へと吸い込まれていく。


 奇跡が起きた。


 羽根が触れた瞬間、それは光の粒子――医療用ナノマシンの集合体へと分解され、傷口へと浸透した。

 人類がかつて失った、「魔法」の発動だ。


 刺さっていた粗末な矢が、分子レベルで分解され、霧散する。

 えぐられた肉が盛り上がり、断裂した血管が繋がり、皮膚が再生されていく。

 まるで、ビデオテープを巻き戻すかのように、傷が「無かったこと」になっていく。


 数秒もしないうちに、アレンの背中からは傷跡ひとつ消え去っていた。


「……ん……うぅ……」


 アレンが小さく呻き、ゆっくりと目を開けた。

 激痛が消えている。呼吸が楽だ。

 何が起きたのか分からないまま、彼は重い体を起こした。


「……マリア?」


 目の前に、光に包まれた娘が立っていた。

 天使の翼と、光輪を背負って。

 アレンと目が合った瞬間、マリアの顔がくしゃりと歪み、そして力が抜けたように崩れ落ちた。


「パパ……よかった……」


 同時に、翼もハローも、光の粒子となって空気に溶け、消滅した。


「マリア!!」


 アレンは慌てて娘を抱き留めた。

 小さな体は高熱を発しているように熱いが、規則正しい寝息を立てている。

 力の使い過ぎで、気を失っているだけのようだ。


 アレンは震える手で娘を抱きしめ、周囲の惨状を見渡して呆然とした。

 あれだけの人数が、一瞬で吹き飛ばされている。


 だが、アレンは気づいていなかった。

 

 吹き飛ばされたテイカーたちの中で、運良く少し離れた茂みの中に落ち、いち早く意識を取り戻した男が一人だけいたことを。

 その男は、全身の痛みに顔を歪めながらも、今の光景の一部始終を目撃していた。


 光の翼。衝撃波。そして死者を蘇らせるような癒しの力。


「天使だ……!」


 男は震える足で立ち上がる。

 ここには、天使が居る。男は自分でも訳がわからぬ衝動に駆られたまま、走り出していた。


 ――


「アレン! マリア! 無事か!!」


 拠点の方角から、完全武装したレドリックとファルケンバーグ、そしてプリスキンが血相を変えて走ってくるのが見えた。

 

「……ああ、無事だ。信じられないことに、な」


 アレンはマリアの頭を撫でながら、力なく答えた。


 這うように逃げていく一つの背中には、誰も気づいていない。

 だが、それは確実に、次の災厄の種となるはずだった。


 アレンは腕の中の小さな温もりを抱きしめ直した。

 この秘密は、もう隠し通せないかもしれない。

 それでも、守らなければならない。

 

「……帰ろう、マリア。俺たちの家へ」


 アレンの言葉に応えるように、鉛色の雲間から、ほんの一瞬だけ薄日が差し込み、父と娘を照らした。

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