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第五十八話 折れない刃

 生暖かい血の匂いと、腐敗した土の悪臭。

 それが、モリィが「目覚めて」最初に感じた世界だった。


「……ぁ……」


 狂乱から目覚めたモリィは角も爪も無い、普通の少女の姿に戻っていた。

 ひどく頭が痛い。霞む視界の中で、彼女は自分の両手がどす黒い血に染まっているのを見た。

 

 誰の血だろう。わからない。自分がなぜこんな暗い森の中にいるのか、自分が誰なのかすら、彼女の記憶からはすっぽりと抜け落ちていた。

 ただ、震える彼女の肩を抱きしめる、傷だらけの腕の温もりだけが、今のモリィにとって唯一の「世界」だった。


「グルルルル……ッ」


 木々の隙間から、醜く膨れ上がった肉塊たちが次々と姿を現す。

 本能的な恐怖に、モリィは悲鳴すら上げられず、隣に立つ人物の背中にしがみついた。


「……私がついている、手出しはさせんよ」


 かつてモリィが「師匠」と呼び、慕った女性。だが今のモリィには、その顔を見ても名前を呼ぶことはできない。

 それでも、アリスが振り向いて見せた微笑みには、底知れぬ安心感があった。


「下がっていなさい」


 アリスがモリィを背後へ庇い、一歩前に出る。

 その左腕は、だらりと力なく垂れ下がっていた。先ほどまで狂乱していたモリィ自身の爪によって、筋繊維と神経を深く断ち切られてしまったのだ。

 驚異的な自己治癒能力を持つアリスの身体でさえ、その傷口からは絶え間なく血が滴り落ち、再生が全く追いついていなかった。


 右腕で握った単分子剣が、襲い来る肉塊の頭部を的確に切り裂いていく。

 片腕というハンデと、守るものを背負った状態での戦闘は、どうしてもアリスの不利に働いていく。


「ガァッ!」


 背後から跳躍した肉塊の爪が、アリスの背中を無残に切り裂く。

 

「っ……!」

 

 アリスは苦悶の声を押し殺し、身体を反転させて右の回し蹴りで肉塊を吹き飛ばした。しかし、着地の瞬間に足がもつれ、大きく体勢を崩す。

 そこに肉塊が追い打ちをかける。舞う血飛沫。だが、アリスはすぐさま襲ってきた肉塊を切り捨てた。


「あ、ああっ……」


 モリィが怯えた声を上げる。

 かつての彼女なら、即座に剣を抜き放ち、アリスの背中を守って共に戦っていただろう。

 だが今のモリィには、戦い方の記憶は欠片も残っていない。ただ、自分を庇って傷ついていくこの優しい人が、死んでしまうのではないかという恐怖だけで涙をこぼしていた。


「大丈夫だ……」


 アリスは膝をつきそうになるのを気力だけで堪え、再びモリィの盾となって立ち塞がる。

 見る間に怪我が増えていく。失血によって視界がチカチカと点滅し、体が泥のように重い。強いられる連戦に呼吸が整わない。血が、空気が足りない。


(……すまない、モリィ。私がお前を、こんなただの怯える少女にしてしまった)


 記憶を失ったモリィの瞳に映るのは、純粋な恐怖と依存。

 戦士としての誇りすら奪ってしまったことへの罪悪感が、アリスの心を苛む。それでも、この命が尽きたとしても、彼女を化物どもの手には渡すつもりはない。


「来い……! 私の弟子には、指一本触れさせん!」


 アリスが血を吐きながら咆哮した、その時だった。


『……ククッ。素晴らしい師弟愛だ。涙が出そうになるよ』


 不気味な声が、森に響き渡った。

 それは周囲を取り囲む肉塊たちの喉の奥から、複数の声が合成されたように、同時に発せられていた。


「この声、貴様がサイエンか……!」

 

 アリスの怒りに燃えた赤い瞳がさらなる輝きをみせる。


『その失敗作が、元の姿に戻ったのは予想外だったが、おかげで使い道が増えたよ。感謝する』


 肉塊の群れが、奇妙な動きで左右に道を開けた。

 その奥から、ズルリ、ズルリと、先ほどのものとは比べ物にならないほど巨大な影が這い出してくる。

 それは、周囲の肉塊を喰らい、吸収し、膨張を続ける「何か」だった。


『一流の戦士に相応しい相手を準備させてもらった。是非堪能してほしい』


 絶望的な戦力差。動かない左腕。守るべき、記憶を失った少女。

 アリスは静かに右手の単分子剣を強く握り込み、最後の戦いへと身を沈めた。


 ――


 エンジェルステーションでの休息と補給を終え、体勢を立て直したマリア達は、アヴァロンの精鋭部隊と共に再び「魔の森」へと足を踏み入れていた。


 先陣を切るのは、ケイスが持ち込んだアヴァロン製の新型重機「ガウェイン」級、全十機。

 全高三メートル強という、従来の人型重機より一回り以上小型の白い機体たちは、鬱蒼と茂る腐肉の森の中で、その機動力をいかんなく発揮していた。


「第二小隊、右翼の群れを掃討。中央突破を維持しろ!」


 ケイスの号令が無線に響く。

 ガウェイン級の動きは、もはや芸術的ですらあった。十機がリアルタイムで視界と戦況データを共有し、一糸乱れぬ連携を見せる。

 

 肉塊が跳躍して襲い掛かれば、即座に隣の機体がライフルで撃ち落とし、着地したところを別の機体がプラズマブレードで両断する。

 巨大な質量で押し潰そうとする敵の波も、銀色の騎士たちの統率の取れた動きの前に、肉塊はまたたく間にミンチと化していった。


「すげえ……。あんな動き、俺たちの重機じゃ逆立ちしたって無理だぞ」


 重機が切り開いた泥濘ぬかるみの道を駆け抜けながら、ファルケンバーグが感嘆の声を漏らす。レドリックも無言で頷き、走りながら散弾銃のグリップを握り直した。

 頼もしい友軍の圧倒的な制圧力。だが、息を切らして陣形の中央を進むマリアの顔に、安堵の色はない。


(アリスさん、モリィ……シエル!)


 マリアはコロンの背に腰掛け、胸の前で両手を祈るように握り合わせていた。力が入りすぎたその手は、白く血の気が引いている。

 

 かつて「天使」と呼ばれ、ナノマシンによる奇跡の力。

 人間になれたことをあんなに喜んだはずなのに、今、彼女の心の中にあるのは、己の非力さへの焦燥感だった。

 

 戦う力を持たない彼女は、こうして誰かが血を流して道を切り開いてくれるのについていくことしかできない。

 そんなマリアの側に付き従うのは、シエル。森から帰って以来、片時もその場所を離れようとしなかった。


(力が欲しい。……みんなを助けられる、あの『魔法』が……っ!)


 マリアが奥歯を噛み締め、心の底から強く願った、その瞬間だった。


 トクン……。


 マリアの胸の奥深くで、走る心臓の鼓動とは違う、奇妙で熱い脈動が一つ、確かに跳ねた。


 「え……?」


  マリアの胸の内に生まれたあの小さな「熱」は、ただの錯覚ではなく、今も静かに、けれど確実に広がり始めていた。


 彼女の体内で、主の強烈な「渇望」をトリガーにして、眠っていた『原初のナノマシン』が世界への干渉の準備を始めていたのだ。


 マリアが思わず自身の胸に手を当てようとした時、シエルのセンサーが森の中で死線を彷徨う二人を捉えた。


「モリィ、アリスノ2名ヲ、捕捉シマシタ」


 シエルが指し示す方向に進軍が開始される。

 十機の白い騎士がエンジンを全開にし、森の泥濘を蹴り飛ばして加速する。

 

 

 ――

 

 

「大丈夫だ……。大丈夫、だから……」


 その呟きが、怯える少女へ向けたものなのか、それとも限界を超えた己の魂を繋ぎ止めるためのものなのか、もはやアリス自身にもわからなかった。


 先ほど出現した巨大な肉塊との死闘。それを辛くも単独で退けたアリスの姿は、満身創痍という言葉すら生ぬるい有様だった。


 左腕は完全に垂れ下がり、腹部には内臓に達するかというほどの深い裂傷。そして何より、巨大な肉塊の反撃を顔面に受けたことで、彼女の右目の視力は完全に失われ、赤黒い血の塊で塞がってしまっている。

 強化兵士のアリスだからこそ、ギリギリ命が繋がっている状態。


 それでも、アリスはモリィを抱えるように、引きずる足を動かし続けていた。

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