第五十七話 祈りの海
奈落の淵、月明かりに照らされて立つ人影。
地獄の奥底から這い上がってきたアリスだ。数え切れないほど戦闘を繰り返し、着衣は返り血に塗れ、ズタボロになっているが、その立ち姿は美しい。
そこには、偽物が作り出した不自然さとは別の、静謐な、けれど圧倒的な「死」の気配が漂っていた。
不意に、黒い突風が吹き抜ける。
理性を焼き尽くし、ただ「奪われたものを取り戻す」という呪縛のような本能に突き動かされたモリィが、その広場に降り立った。
「……モリィ?」
随分と見た目が変わってしまったモリィだったが、アリスが見紛うことはない。
その声を聞いた瞬間、モリィの脳裏に、激痛と共に断片的な記憶が火花を散らす。
共に修行した日々。修行は厳しかったが、頭を撫でてくれたあの優しい手つき。
自分を「弟子」と呼んでくれた誇らしい声。
だが、今の彼女にとって、それらの記憶はもはや形を成さない。ただ「アリス」という名の欠落が、修復不能な殺意へと変換される。
「カエ……セ……オマエ、モ……ニセモノ……ッ!!」
咆哮と共に、モリィが地を蹴った。
変異した黒い羽が夜気を切り裂き、漆黒の爪がアリスの喉元へと迫る。
「くっ……!」
アリスは、咄嗟に剣を抜き放ち、その一撃を受け流した。
重い。
かつて自分が教え込んだ剣技の面影を残しながらも、その威力と速度は、もはや人間のそれではない。
「すまない、モリィ……。私が、約束を守れなかったばかりに……」
アリスの瞳に、深い悔恨の色が浮かぶ。
あの時、必ず戻ると約束して戦場に消えた自分。その自分が戻るのが遅すぎたせいで、愛弟子が変わり果ててしまった。
アリスにとって、目の前のモリィは、自らの不甲斐なさを象徴する鏡そのものだった。
「アハ、アハハハハハ!!」
モリィが嗤う。空いた左手から伸びた棘が、アリスの脇腹を浅く切り裂いた。
アリスは反撃できない。ここで剣を振るえば、モリィの命を断つことになると分かっているからだ。
「モリィ、目を覚ませ! 私はここにいる! 戻ってきたんだ!」
「ガアアアアアアアア…………ッ!」
アリスの声は届かない、それどころかモリィの攻撃は、さらに苛烈さを増していく。
アリスが教えた「敵を確実に仕留めるための動き」を、モリィは本能で使いこなしていた。その速度は人の限界を超え、疲労を無視して動き続ける。
アリスは苦境に立たされていた。力の解放を果たしたモリィを、殺さずに制圧するというのは至難の業だった。
そして何より、自分に向けられる殺意の正体が「自分への思慕の裏返し」であるという事実が、彼女の心を削っていく。
ガギィィィン!
モリィの爪が、アリスの剣の根元を捉える。火花が散り、アリスの身体が大きく弾かれた。
背後の巨木に叩きつけられ、アリスの口から鮮血が漏れる。
「ガアアアアア!!」
勝機を逃さず、モリィがトドメの一撃を放とうと宙へ舞う。
その影が月を隠し、巨大な死神のようにアリスへと降り注ぐ。
「……モリィ。お前を死なせはしないぞ」
アリスは剣を捨て、素手でその狂乱の少女を受け止める覚悟を決めた。
――
「……これは一体?」
レドリックは疑問の声を上げた。
エンジェルステーションの直ぐ側に見慣れない武装した一団が陣取っている、だが状況は落ち着いているようで敵対している様子は無い。
ファルケンバーグが、エンジェルステーションに残っているプリスキンに無線を入れる。
「プリス、見慣れない武装集団がいるようだがトラブルか!?」
「ファルケンか! ケイスがやってくれた。アヴァロン自治区からの援軍だ! 俺も見たことがない、アヴァロン製の新型重機が10機だ!」
その応答に、レドリックが胸を撫で下ろす。今はこれ以上のトラブルは御免被りたかった。
広場に整然と並ぶ、無骨な装甲を持つ重機群。その傍らに立つ兵士たちは、略奪者とは明らかに違う。規律正しく、それでいて穏やかな空気を纏っていた。
「レドリック! 無事だったか!」
聞き覚えのある、快活な声が響いた。
兵士たちの間を割り、灰色のマントをなびかせて歩み寄ってきたのはアヴァロン自治区の指導者ケイス。
その顔には、知性を感じさせる穏やかな笑みが浮かんでいる。
「……ケイス! 君が自らアヴァロンの部隊を率いてきてくれたのか!」
レドリックの顔に、ようやく安堵の影が差した。
ケイス。かつてアヴァロンが宇宙にあった頃、クラークやアロウェイと共に『救済の手』として活動した男だった。
今はアヴァロン自治区でリーダーを務めているはずだが、まさかこれほどの戦力を率いて現れるとは。
「クラークから連絡があったんだ。『マリアたちが危ない、すぐに力を貸してくれ』ってな。恩を返すには、最高のタイミングだろう?」
ケイスはマリアの前に来ると、その場に跪き、優しく微笑みかけた。
「マリア。もう大丈夫だ。アヴァロンの精鋭が、このステーションをバックアップする。我々も、助けてもらうばかりではいられないからね」
マリアは溢れそうになる涙を堪え、ケイスの手を握った。
「ありがとうございます、ケイスさん……。でも、シエルとモリィが森の中に……アリスさんも、まだ見つけられていないんです」
まだ大切な家族が危険地帯に取り残されたままなのだ。その思いがマリアを焦らせる。
「勿論、救出に向かう。だがその前に体力を取り戻さなければ全滅だ。まずは中に入って体を休めるんだ」
「それは……」
今すぐにでも向かいたい。だが、自分一人では何も出来ない。そのために他の皆を死なせてしまうのは間違っている。
マリアは俯き、嗚咽を漏らした。
ナノマシンを失い、非力な自分。人間となった事を喜んだ自分が、今ではあの『魔法』を求めていた。
――
森の最深部。
「ガ、アアアア……ッ!」
アリスの腕に、モリィの漆黒の爪が深く食い込む。鮮血がアリスの頬を汚すが、彼女は眉一つ動かさず、愛弟子の肩を強く抱きしめていた。
「グ、ウウウ……?」
アリスの瞳には、慈愛と、そして覚悟が宿っていた。
闘争本能を刺激しない相手にモリィが困惑する。
先程までの狂乱が嘘のように静まり、静寂が辺りを包んだ。
混じり合った師弟の血が、月明かりの下、滴り落ちて血の華を咲かせる。
「モリィ、お前は強い子だ。本能に打ち勝つんだ……」
アリスの祈るような声だけが響いた。




