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第五十六話 力の代償

 月光さえ届かぬ深緑の地獄。

 視界を埋め尽くすのは、腐敗した樹木と、生理的な嫌悪感を呼び起こす肉塊たちの蠢きだけだ。シエルのセンサーは、森の奥へと刻まれる破壊の痕跡を正確に捉えていた。


 へし折られた巨木、不自然に四散した肉の飛礫。


「モリィ、生体信号ノ確認……」


 シエルの内部演算回路は、非情な結論を叩き出し続けていた。

 今のモリィを追い、救出を試みることは、戦略的に見て「無意味」に近い。撤退戦における殿の任務を完遂し、マリアをエンジェルステーションへ送り届けることこそが、シエルに課せられた至上命題のはずだった。


 だが。

 シエルの青いカメラアイは、暗闇を凝視したまま、わずかに駆動音を上げた。


「ワタシハ、マザーノ守護者。マザーノ精神的安定ハ、肉体ノ安全ト同等ニ優先サレル」


 論理のすり合わせ。感情を持たぬはずの機械が、主の悲しみを防ぐために、あえて非合理な選択肢を「正解」として上書きする。

 シエルは、黒い旋風が消えた方向へと走り出した。


 ――


 森の最深部、かつての広場であったろう開けた場所で、それは起きていた。


「キエロ! カエセ!」


 狂ったような声が、夜の静寂を切り裂く。

 そこにいたのは、偽物のアリスだった。彼女は引きちぎったはずの右腕を、粘つく黒い触手のようなもので強引に繋ぎ合わせ、歪な姿で岩の上に腰掛けていた。

 その足元には、数え切れないほどの肉塊の残骸が、山をなしている。


 アリスの視線の先。獣のような荒い息を吐いているのは、モリィだった。

 爪からは黒ずんだ血が滴り落ちている。


 かつてサイエンに失敗作と言われた所以。変身の代償、それは人であった頃の記憶が失われ戦闘本能で動く、狂戦士となることだった。

 

 ただ一つの突き動かす原動力、それは『取り戻す』という強い思い。だが、何を取り戻せばよいのか、彼女自身にはもうわからない。


「ガ、アア……アリス……殺ス……絶対ニ……」


 もがき苦しむモリィの瞳には、もはや理性の光は乏しい。

 家族のように慕っていた「師匠」の姿を辱め、侮辱した目の前の化け物への、純粋な殺意だけが彼女を動かしていた。


 アリスが岩から飛び降り、指先を鋭い針のように変質させる。

 モリィの首筋――先ほどのネイバーを廃人にした、あの『刺し痕』を刻もうとしたその瞬間。


 ――ガィィィィン!


 閃光が走り、アリスの指先が弾かれる。

 そこには、全身から青い放電を撒き散らし、高周波ブレードを横一文字に構えたシエルが立っていた。


「モリィヘノ干渉ヲ禁止シマス。マザーニトッテ必要ナ人間デアリ、保護対象デス」


 シエルの声は、氷のように冷たかった。

 これまでの事務的な口調とは違う。そこには、マリアを脅かす者への、絶対的な拒絶が込められていた。


 偽アリスが千切れた右腕から黒い粘液の触手を伸ばし、シエルのブレードを受け止める。

 金属と、未知の物質がぶつかり合い、不快な音が響く。


「ウウ……カエ、セ」

 背後でモリィが呻く。彼女の体は、すでに人間の限界を超えた負荷で震えていた。

 

「モリィ。貴女ヲ連レ帰ル、ワタシノ任務デス」


 シエルはアリスの猛攻を、正確に捌いていく。

 手数が重ねられるたび、シエルの動きは洗練され、さらに無駄がなくなっていく。


 防御に反撃が混じり始め、やがてそれは一方的な攻撃へと変わってゆく。

 偽アリスの体に傷が刻まれていくが、相変わらず偽アリスは表情を崩さない。

 

 シエルの勝利は揺るがない。だが偽アリスは死を恐れず、痛みで怯むこともない。敗北が見えている中、淡々と粘る偽アリスに、シエルの計算よりも決着が長引く。


 戦闘を終え、シエルが振り返ったそこに、モリィの姿は無かった。

 完全に変異したモリィのバイタルサインは、シエルのセンサーでも捉えきれなくなっていた。


「……モリィ」


 シエルの青いセンサーアイが、僅かに揺らいだ。


 ――


 カチ、カチ、と規則正しいメトロノームのような音が、冷たい石造りの部屋に響いていた。


「……ほう、これは面白い。あの『失敗作』が自ら戻って来るとはね」


 肉塊との視界を共有していたサイエンの顔に、隠しようのない喜色が浮かぶ。

 彼にとって、森へと消えたモリィの暴走は、計算外の幸運だった。


「人としての記憶を削り、獣の純度を高める。……予定より少し早いが、あの執着心は素晴らしい。復讐という名の『導線』が、彼女をここまで連れてきてくれる」


 サイエンは椅子から立ち上がると、窓の外に広がる、肉塊たちが蠢く工場跡地を見下ろした。

 彼の計画は、単なる拠点の防衛ではない。もっと根源的な、世界の再定義だ。


「『アレ』を呼ぶには、まだもう少し時間が必要だ。あの失敗作はそのための良い駒になるだろう。……ああ、待ち遠しいよ。この世界が書き換わる瞬間が」


 サイエンは満足げに頷くと、視線を部屋の隅、影の濃い場所へと落とした。


「安心するといい。君の出番はまだ先になりそうだ」


 そこには、一人の男が泥水と血の混じった床に這いつくばっていた。

 もし、かつて「ウルトラヴァイオレンス」に身を置いていた者がこの場にいたならば、この光景を信じることは出来なかったであろう。


 白への異常なまでの拘り。冷徹なまでの美意識。

 それら全てを体現していた「アレックス」の成れの果てが、そこにあった。


 かつての純白の衣装は、見る影もなく引き裂かれ、汚濁に塗れている。誇り高かったその瞳には光はなく、ただ虚ろに床の一点を見つめている。

 

「……ぁ……あ……」


 アレックスの唇が、意味をなさない音を漏らす。

 彼はすでに、人間としての思考能力をほとんど奪われていた。サイエンによる度重なる「調整」、注入された無数の蟲、試薬投入の拒絶反応によって、その肉体は内側から作り替えられようとしている。


「君はマリアに固執していたね? 運が良ければ、彼らと相対することもあるだろう。せいぜい祈っておくと良い」


 サイエンは慈しむように、アレックスの汚れ果てた頭を撫でた。

 アレックスは抵抗することもなく、ただ主人の足元で小さく震え続ける。

 

 エンジェルステーションへの撤退を急ぐマリア。

 自我を失いながら「敵」の心臓部へと吸い寄せられていくモリィ。


 二人の少女は引き裂かれつつあった。

 全てはサイエンがこの玩具箱(セカイ)を楽しむため。


「さあ、始めようか。悲劇こそが、最高の進化を促す触媒なのだから」


 サイエンの不敵な笑い声が、地下の静寂に吸い込まれていった。

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