第五十三話 感染者
不快な湿気を帯びた風が、一行の頬を撫でる。
エンジェルステーションを出発した討伐隊は、腐敗が進む森の中を、一列になって進んでいた。
先頭を行くのは、レドリックとアレンが操る二機の人型重機。鋼鉄の巨人が、肉塊のように膨れ上がった木々をなぎ倒し、道を作り出す。
その後ろを、マリアとモリィを乗せたマンシーが続く。
マリアのすぐ隣には、青いコアを明滅させるシエルが、一歩も遅れることなく随伴している。
そして、隊列の最後尾。
殿を務めるのは、奇跡の生還を果たした英雄、アリスだ。
「……なぁ、やっぱりアリスがいると安心感が違うな」
「ああ。あの伝説の剣を失ったのは痛いが、本人がいれば百人力だ」
隊列の中央を歩くネイバーたちが、安堵の表情で囁き合う。彼らにとって、アリスの帰還は勝利への保証書のようなものだった。
だが、そんな中でモリィは疑念の声を上げる。
「おかしい、もうそろそろ気づかれていてもおかしくないはずなのに」
一向に現れる様子のない肉塊たち。モリィは不吉な予感を拭えないでいた。
「アリスさんがあらかた倒しちゃったのかな?」
「いくら師匠でも、倒しきれるような数じゃないと思うんだけど……」
「考えすぎは良くないぞ」
心臓が跳ね上がった。
いつの間にか、アリスがマンシーの上に飛び乗りって来ていた。足音一つ立てずに。
赤い瞳が、二人を見下ろしている。その瞳孔は、周囲の明るさが変わっても一切収縮していない。
「これからの戦いに備えて、体調管理は重要だ。……ほら、これを飲むといい」
アリスがポーチから、小さなガラス瓶を取り出した。
アリスの手が、マリアへと伸びる。白く、滑らかで、綺麗なその指先。
「ありがとうございます、アリスさん」
マリアが疑いもなく手を伸ばそうとした、その瞬間。
ガシンッ!
硬質な音が響き、青い鋼鉄の腕がアリスの手首を掴んだ。
シエルだ。
普段はマリアの影のように寄り添う機械人形が、今は明確な敵意を持って「英雄」の腕を締め上げている。
「……なんの真似だい?」
アリスの笑顔が、ピクリとも崩れない。腕を万力のような力で掴まれているはずなのに、痛がる素振りすら見せない。
「マザーノ体調ハ、ワタシガ完璧ニ管理シテイル。手出シ不要」
シエルのバイザー奥で、青いカメラアイが冷徹に明滅する。
「ただのビタミン剤だよ」
「必要アリマセン」
シエルが腕を振り払うようにして、アリスを遠ざける。
周囲の空気が凍りついた。
「ははは、過保護がすぎるのは本人のためにもならないぞ?」
「ワタシハ、シエル。マザーノ守護者」
シエルは一歩前に出て、マリアとモリィに近づけまいと言わんばかりの動きを見せた。
敵対的ともとれる行動。だがアリスの表情にはさざなみひとつ立たない。
「わかった、わかったよ。君の仕事熱心さには負けた。……マリア、いい相棒を持ったね」
「え、ええ。……ごめんなさい、アリスさん。シエル、ちょっと神経質になっちゃってるみたい」
「気にするな。警戒心は生存の鍵だ。……それじゃあ、私は後ろに戻るとしよう」
アリスは踵を返し、再び隊列の後方へと歩き去っていった。
その背中を見送りながら、シエルはマリアに向き直ると、安堵したようにバイザーの光を弱めた。
だが、その内部では、マリアの体内に移入した「原初のナノマシン」との通信が激しく行われていた。
シエルにとって、マリアはただの主人ではない。
「原初のナノマシン」を宿す唯一の母体、言葉通りマザーなのだ。
あのアリスという存在には注意しなくてはならない。シエルの中で脅威度と優先順位付けが更新されていく。
――
日が落ち、辺りが闇に包まれ始める頃。
一行は、ファクトリーの手前数キロの地点にある、かつての検問所跡で野営をすることになった。
焚き火が焚かれ、缶詰のスープの香りが漂う。
兵士たちが談笑する中、アリスは一人、闇の濃い場所で佇んでいる。
「師匠はこっちで休まないのか?」
「ああ、戦場でのならいだ、気にしないでおいてくれ」
そう言われてしまうと、モリィとしても納得せざるを得なかった。何しろアリスは旧時代の本当の戦場を生き抜いてきた戦士なのだ。
アリスの横顔は、揺らめく炎の光を受けても彫像のように無機質だった。モリィは言い知れぬ不安から逃れるように視線を外し、スープの入ったカップに口をつける。
その直後のことだ。
闇に溶け込んでいたはずのアリスが、いつの間にか焚き火の輪の端に座る若いネイバーの背後に立っていた。
「夜の森は冷えるね。少し、火の近くに寄らせてもらってもいいかな」
突然背後から声をかけられたネイバーの男は、弾かれたように慌てて立ち上がった。
「ア、アリスさん! もちろんです、自分はいつでも動けますから……」
「ありがとう。君はたしか、前衛でレドリックのサポートをしてくれていたね。素晴らしい身のこなしだった」
アリスは完璧な笑みを浮かべながら、労うように男の肩へと手を伸ばした。
白く滑らかな指先が、男の首筋のあたりをふわりと撫でる。
その瞬間、アリスの指先で極小の何かが閃いた。火の粉が爆ぜた光の反射かと思うほどの、ほんの一瞬の出来事。
「……っ」
男が微かに息を呑む。だが、痛みを感じた様子はなく、ただ恍惚としたように目を細め、至近距離にあるアリスの赤い瞳に見入っていた。
「これからの激戦、君のような『働き』には期待しているよ」
「はい……」
「ゆっくり休むといい」
アリスは男の首筋からスッと手を離すと、それ以上は言葉を交わすことなく踵を返し、再び元の濃い闇の中へと歩き去っていった。
残された男は、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。瞬きを繰り返し、まるで深い泥水の中から急に引き上げられたような顔をしている。
「おい、どうした? 突っ立って」
仲間に声をかけられ、男はビクッと肩を揺らした。
「あ、いや……あれ? 俺、さっきまで何を話してたんだっけ……?」
「はぁ? お前、ずっと火の番しながら黙ってたぞ。流石に疲れてるんじゃないか?」
「そ、そうか……変だな。アリスさんが……いや、気のせいか……?」
男は首を傾げながら、無意識にポリポリと右の首筋を掻いた。
「……なんだ、虫にでも刺されたか?」
無造作に掻き毟ったその首筋には、血が滲むほどの小さな、しかし不自然なほど真ん丸な『刺し痕』が一つ、赤く腫れ上がって残っている。
「見張りは交代だ。よく休むといい」
「ああ、そうさせてもらうよ」
男はそういうと、寝床についた。
深夜、静寂が野営地を支配する中、寝床についた男の体内で異変が始まっていた。
男の体内で形つくられたそれが、体内を移動し、脳に達する。
「う……ん」
短いうめき、それが人間として発せられた最後の言葉だった。
眠っているはずの彼の瞳がカッと見開かれる。
そこには、先ほどまでの温かな生気はなく、アリスと同じ――収縮することのない、無機質な赤が灯っていた。
男の体中の血管が不気味に浮き上がり、肌の表面で激しく脈動する。
異様な脈動が治まると、音もなくソレは立ち上がった。




