第五十二話 何かが道をやってくる
森は、飛び散った肉片と血で染まっていた。
アリスの周囲には、原型を留めないほど切り刻まれた『透明な狩人』と『異形』の死骸が、小山のように積み上がっている。
数百年にわたる眠りから覚めた「兵器」の力は、錆びつくどころか、この過酷な時代において圧倒的な優位性を示していた。
「……ふぅ」
アリスは軽く息を吐き、『単分子剣』に付着したどす黒い体液を振り払う。刀身は一度の素振りで汚れを弾き飛ばし、元の冷たい輝きを取り戻した。
「あらかた片付いたか。……少し張り切りすぎたな」
彼女は自身の身体を見下ろす。戦闘服は返り血で真っ赤だが、彼女自身に傷はない。脳内麻薬の分泌を正常値に戻し、戦闘モードを解除する。急速に熱が引いていく感覚と共に、少しばかりの倦怠感が襲うが、問題はない。
「さて、モリィのところへ戻るとするか」
可愛い弟子が、きっと心配して待っていることだろう。約束通り、さっさと帰還して、頭を撫でてやらなければならない。アリスが剣を納め、踵を返そうとした、その時だった。
ズズッ……
微かな地鳴り。大地の底から響いてくるような不快な振動だった。
「ん……?」
アリスが眉をひそめた瞬間。
ズガガガガガッ!!
彼女の立っていた地面が、悲鳴を上げた。土砂崩れではない。地面そのものが、まるで巨大な生物の口が開くように、唐突に陥没したのだ。
「しまっ――!?」
アリスの超人的な反射神経をもってしても、足場そのものが消滅してはどうしようもない。彼女の体は、重力に従って真っ暗な地の底へと落下して行く。
視界が暗転する。土と岩、そして腐った肉のような臭気が立ち込める闇の中へ。
――
ドサッ……グチュッ。
落下距離は数十メートル。普通なら即死する高さだ。 だが、アリスは空中で体勢を立て直し、着地と同時に膝と筋肉のバネを使い、衝撃を見事に殺していた。
それに加えて、着地点が硬い岩盤ではなく、柔らかく粘着質な「何か」だったことも幸いした。
「……ッ」
アリスはすぐに身を起こし、周囲を警戒する。薄暗い。だが、完全な闇ではない。壁や天井には、発光する苔のようなものが張り付き、ぼんやりとした緑色の光を放っている。
「ここは……」
アリスは壁に触れ、すぐに指を引っ込めた。それは岩でも土でもなかった。生温かく、ドクドクと脈打ち、粘液に覆われた肉の壁だったのだ。
「地下空洞……いや、これは巨大な生物の体内か?」
彼女が見上げると、落ちてきた穴は遥か頭上に見えるが、既に肉の触手が網目のように広がり、塞がりかけていた。登って脱出するのは不可能だ。
アリスは舌打ちをした。地上の敵を一掃したと思ったら、得体の知れない場所へ引きずり込まれてしまったらしい。
ギチチチチ……
通路の奥から、虫の羽音のような、あるいは骨が擦れるような音が響いてくる。ここには、地上の比ではない数の「何か」がひしめいている気配がする。
「モリィ……すまない。少し帰りが遅くなりそうだ」
アリスは再び剣を抜いた。上へ戻れないのなら、進むしかない。この肉の迷宮の最深部、全ての元凶が待つ場所へと。確かな危機、だがアリスは笑顔だった。
先程の戦いですら、アリスにとっては不完全燃焼。死地において、さらなる暴虐が発揮されようとしていた。
――
エンジェルステーションの正門前には、張り詰めた緊張感が漂っていた。
レドリックと、アレンが乗った人型重機2体。強化スーツを着込んだファルケンバーグ。『マンシー』の背の上にはマリアとモリィ。その傍らに『コロン』と新しい仲間『シエル』のボディが輝きを見せる。
プリスキンとネイバーたちは、エンジェルステーションの守りに残る。薬があるとは言え、蟲が来ないとも限らない。エンジェルステーションを無防備には出来なかった。
攻めと守り、すべての準備は整っていた。
「総員、聞け!」
レドリックが人型重機の上に立ち、集まった仲間たちを見下ろす。その顔には、かつてない悲壮な決意が滲んでいた。
「我々はこれより、敵の本拠地『ファクトリー』へ総攻撃をかける。目的は二つ。元凶であるサイエンの討伐、そして……行方不明となったアリスの捜索だ!」
おおぉぉッ! 男たちが鬨の声を上げるが、その声には微かな震えが混じっていた。最強の戦力であるアリスが戻らないという事実は、全員の士気に重くのしかかっていた。
「アリスさんは、きっと生きてる」
モリィに語りかけるマリア。頷くモリィだが、その拳は白くなるほど握りしめられている。
あの日、森で別れてから一週間が経過していた。普通に考えれば、生存は絶望的だ。だが、あのアリスに限って……。
「出発だ! 門を開けろ!」
レドリックが号令をかける。重い鉄の扉がギギギと軋音を立てて開き始めた、その時だった。
「――待て! 前方に人影!」
見張り台のイノシロウが叫んだ。全員が銃を構え、開いた門の隙間へと照準を合わせる。
朝霧の立ち込める森の向こうから、誰かが歩いてくる。
肉塊でも、死体でもない。確かな足取りで。
「……撃つな! あれは……!」
霧が晴れ、その姿が露わになった瞬間、レドリックが目を見開いた。風になびく赤い髪。そして、凛とした立ち姿。
「アリス……!?」 「師匠ッ!」
歓声が爆発した。そこに立っていたのは、紛れもなくアリスだった。いつもの涼しい顔で、まるで散歩から帰ってきたかのように手を振っている。
「やあ。遅くなってすまない。だが間に合ったようだね」
その声を聞いた瞬間、モリィが泣き叫んで駆け出した。
「師匠! よかった、本当によかった……!」
「無事だったか……! 通信も途絶えるし、もうダメかと……」
「私の頑丈さは知っているだろう? 地下の洞窟に落ちてしまってね、這い上がるのに手間取ったんだ」
アリスは平然と言ってのけた。レドリックたちは涙ぐみ、互いに肩を叩き合って喜んでいる。最強の英雄が帰ってきた。これ以上の朗報はない。
だが。その歓喜の輪の中で、モリィだけが立ち尽くしていた。
(……なんだ? この感じ)
モリィの鼻がひくつく。鋭敏な感覚が、脳の奥で警鐘を鳴らしている。アリスからは、いつもの匂いがしなかった。あの激闘をくぐり抜けてきたはずなのに、汗の匂いも、鉄の匂いも、彼女特有の香りもしない。まるで、消毒液で完全に洗浄されたような……あるいは、「造りたてのプラスチック」のような、無機質な匂い。
それに、服だ。戦闘服には、泥汚れ一つ、血の染み一つ付いていない。あれほどの数の敵を斬り伏せ、地下から這い上がってきたというのに?
「おい、モリィ! 何をしているアリスが帰ってきたんだぞ!」
プリスキンに背中を叩かれ、モリィはハッとした。
「あ、ああ……うん」
恐る恐る近づく。すると、アリスがようやくこちらを向いた。完璧な笑顔。数ミリの狂いもない、美しい微笑み。
「モリィ、待たせて済まない」
「……いいんだ、帰ってきてくれたんだから」
モリィは再会の喜びに水を差す自身の感覚に戸惑いつつ、アリスに返事を返す。
ふと、その時、あるはずのものが無い事に気がついてしまう。
「……師匠。その腰……剣はどうしたんだ?」
モリィが震える声で尋ねる。周囲の喧騒が一瞬止まった。全員がアリスの腰に目を向ける。確かに、そこは空っぽだった。
あの銀色に輝く鞘と、アリスが片時も離さず、身体の一部のように扱っていた最強の武器が、ない。
アリスは自分の腰を軽く叩き、少しも悪びれることなく、さらりと答えた。
「ああ、地面が陥没した時にあれは落としてしまった。探しても見たのだが、すぐには見つかりそうになかったのでね、脱出するのを優先したんだ」
その言葉を聞いた瞬間、レドリックは安堵の息を吐き、大きく頷いた。
「そうか……まあ、命あっての物種だ。あの剣はロストテクノロジーの貴重品で惜しいが、アリスが無事で何よりだ。武器なら、プリスキンが作った銃がいくらでもある」
「銃? ああ、銃があればどうとでもなるだろう」
アリスは柔和に微笑み、レドリックの言葉を肯定した。周囲のネイバーたちも「そうだそうだ、生きてるだけで丸儲けだ」と口々に同意する。
だが、モリィだけは、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じていた。
(……おかしい)
モリィの脳裏に、アリスとの会話が蘇る。『この剣は私の誇りであり、半身だ』そう語っていた時の、愛おしそうな横顔。剣の手入れをしている時の、真剣で、どこか楽しげな瞳。
本物のアリスなら、たとえ地獄の底だろうと、泥に塗れようと、這いつくばってでも剣を探したはずだ。「脱出を優先した」なんて合理的な理由で、あんなにあっさりと諦めるはずがない。 ましてや、それをこんなに軽い口調で、銃が替わりになるだって? それに100歩譲って、刀身を落としたとしても鞘まで無くす事は無いはずだ。
「どうしたんだい、モリィ? 顔色が悪いよ」
アリスが、心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞳は澄んでいて綺麗だった。綺麗すぎて、何も映していないガラス玉のようだった。
「……う、ううん。なんでもない。……よかった、無事で」
モリィは恐怖を押し殺し、視線を逸らした。ここで騒いでも、誰も信じないだろう。アリスが偽物だなんて証拠はない。
誰もがアリスの帰還に浮かれている中、そんなモリィの様子をシエルだけがじっと伺っていた。
「よし、アリスも戻ったことだ! 今度こそ出発だ! 目標、ファクトリー! 総員、進軍せよ!」
レドリックの号令が再び響き渡り、人型重機が唸りを上げ動き始め、その後をマンシーが続く。
エンジェルステーションの命運を賭けた戦いは、モリィの中に決して消えない「違和感」を抱えたまま、幕を開けようとしていた。




