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第五十一話 果たされなかった約束

「師匠!」

「なあに心配するな、少しばかりかつての『殺人兵器』を呼び起こそうってわけだ。その時、モリィには離れていてほしいのさ」


 そう言ってアリスは、悪戯が見つかった子供のように少しだけ舌を出して笑ってみせた。だが、その赤い瞳の奥底には、モリィですら背筋が凍るような、冷徹で無機質な光が宿り始めていた。


「……見せたくないんだよ、可愛い弟子にはね」

「ッ……!」


 モリィは唇を噛み締めた。アリスが自分を子供扱いしているわけではないことは分かっていた。

 彼女は、これから自分が「人間」であることを捨て、ただの「殺戮機構」になることを予感しているのだ。


「……わかった。必ず、戻ってきて」

「ああ、約束だ。通信機まで走れ、振り返るな!」


 アリスの鋭い一喝が背中を叩く。モリィは弾かれたように駆け出した。腐敗した森の斜面を、泥と体液を跳ね上げながら駆け上がる。

 その背中が見えなくなるまで、アリスは穏やかな表情で見送っていた。 だが、モリィの気配が十分に遠ざかったのを確認すると、彼女は深く、長く息を吐いた。


「さて……。邪魔者はいなくなった」


 アリスが視線を周囲の森へと戻す。風の音に紛れた衣擦れの音。腐臭に混じる獣の息遣い。 透明な狩人たちが、獲物を包囲するように輪を縮めている。その数、およそ二十。

 さらに後方からは、重い足音を響かせて異形の増援も迫っている。


 アリスは目を閉じ、意識を自らの肉体の内側へと向けた。機械的なスイッチではない。生物としての限界を、意志の力で強制的に外す作業だ。


「……精神高揚。痛覚伝達、最小化」


 彼女の脳内で、化学物質のバランスが劇的に書き換えられていく。恐怖や躊躇いを生む感情が切り離され、代わりに闘争に必要な本能だけが研ぎ澄まされる。


「アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィン……分泌量、戦闘濃度へ」


 心拍数が常人の三倍に跳ね上がる。全身の筋肉繊維が一本残らず覚醒し、爆発的な出力を生み出す準備を整える。瞳孔が収縮し、動体視力と色彩認識能力が極限まで高まる。森のざわめき、風の流れ、匂いの粒子までもが、情報として脳に流れ込んでくる。


「高速多重思考、開始」


 世界が、スローモーションになった。これが遺伝子操作によって生み出された、「A.L.I.C.E」という種の真の姿。


 ヒュンッ!


 背後の死角から、透明な刃が迫る。だが、加速したアリスの神経にとって、それはあくびが出るほど緩慢な動作だった。


「遅い」


 振り返りざまの一閃。アリスの手首がスナップし、単分子剣が唸りを上げる。


 ズバァッ!!


 襲撃者は認識する間もなく、首と胴体を泣き別れさせられた。噴き出す血の赤が、アリスの純白の戦闘服に鮮烈なラインを描く。だが、彼女はそれを気にする素振りすら見せない。


「次」


 彼女は地面を蹴った。

 その速度は、モリィの比ではない。まさに「消失」したかのような加速。


 ドシュッ! ザンッ! ギィン!


 森の中で、血の雨が降った。姿の見えない敵が、次々と空間から吐き出されるようにして両断され、死体となって転がり出る。

 ある者は唐竹割りにされ、ある者は心臓を突き刺され、ある者は四肢をバラバラに切断された。


 それは戦闘ではなかった。一方的な「処理」であり、完璧な「清掃作業」だった。


「ギャアアアアッ!!」


 仲間が瞬く間に全滅させられたことに激昂したのか、森の奥から異形の群れが飛び出してくる。筋骨隆々とした巨体に、鋼鉄のような爪。銃弾すら弾く強靭な皮膚を持つ生物兵器だ。


「硬いのが自慢か? だが……」


 アリスは無造作に剣を構え、向かってくる怪物の群れへと、自ら飛び込んだ。


「この刃の前には無意味だ」


 シャァァァァァァァッ!!


 アリスが銀色の軌跡を描いて踊るたび、肉片が舞い散った。異形その太い腕が切り飛ばされる。 胴体がバターのようにスライスされ、内臓がぶち撒けられる。


 アリスは踊っていた。

 返り血を浴び、頬を赤く染めながら、無数の敵の中を舞うように駆け抜ける。致命傷にならない攻撃は防ぎもしない。アリスは異常な代謝速度によって、多少の怪我なら瞬時に塞がってしまう。美しく、そして冒涜的なほどに圧倒的な暴力。


 アリスは目覚めてからこの方、意識的に封印し続けていた「兵器としての自分」を、今まさに余すことなく解放していた。ただ効率的な破壊行動のためだけに稼働する。

 そこには、可愛い弟子には絶対に見せられない、昏い「破壊の愉悦」があった。


 かつて最強の兵士として設計された遺伝子の輝き。戦場の女神にして、殺戮の魔女。その本性が、数百年の時を超えて、この腐敗した森で解き放たれていた。


 ――


 モリィは森を抜け、グランパカを繋いでおいた場所まで辿り着くと、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。呼吸を整える間もなく、震える手で無線機のスイッチを入れる。


「……こちら、モリィ! レドリック、聞こえるか!?」


 ザザッ……ザーッ……。ノイズが走る。この辺りの空間の歪みが通信を阻害しているのだ。


「頼む、繋がってくれ……!」


『……こちら、レドリック。モリィか? 無事か!?』


 ノイズ混じりの声が返ってきた瞬間、モリィは安堵で泣きそうになったが、すぐに声を張り上げた。


「偵察任務、完了した。場所は特定、ファクトリーだ。敵の拠点で間違いない。サイエンも……そこにいる」


『でかした! やはりそうだったか。……それで、アリスは? アリスに代わってくれ』


 レドリックの言葉に、モリィは言葉を詰まらせた。


「……師匠は、アタシを逃がすために殿を務めてる。敵は多数……見えない敵に、動く死体、肉の怪物……とにかく数がヤバい!」


『なんだと!? ……アリス一人にか?』


 レドリックの驚愕の声。だが、すぐに指揮官としての冷静さを取り戻したようだった。


『状況は理解した。モリィ、お前だけでもすぐに戻れ。アリスが命がけで逃がした情報を、無駄にするな』


「いやだ!」


 モリィは即座に叫んだ。


「師匠は『必ず戻る』って言った! だからアタシはここで待つ。師匠を置いて自分だけ帰るなんてできない!」


『モリィ、だが……』


「一日だ! 一日だけ待つ! 師匠なら、あんな連中すぐに片付けて戻ってくるはずだ!」


 モリィの悲痛な叫びに、レドリックはそれ以上強くは言えなかった。通信はいったん切れた。


 それから、長く苦しい時間が始まった。


 森の奥から響いていた爆音や、木々がなぎ倒される音、そしておぞましい断末魔の叫びは、数時間を境にぷっつりと途絶えていた。あとに残ったのは、耳が痛くなるほどの不気味な静寂だけ。


 日が落ち、辺りが闇に包まれても、あの白い戦闘服の影は現れなかった。夜が明け、腐敗した森に薄気味悪い朝霧が立ち込めても、アリスは戻ってこなかった。


 そして、約束の丸一日が経過した。


 グランパカが不安そうに鼻を鳴らし、モリィの袖を引っ張った。動物の本能が「これ以上ここにいては危険だ」と告げているのだ。モリィは唇を噛み締め、拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。


 その時、再び無線機が鳴った。


『……モリィ。聞こえるか』


 レドリックの声だ。


「……師匠は、まだ来ない」

 

『ああ。……辛いだろうが、もう限界だ。戻ってこい』


「でも……!」

 

『マリアが、心配しているんだ』


 その言葉に、モリィの心臓が大きく跳ねた。


『マリアは食事も喉を通らない様子で、ずっと入り口でお前の帰りを待っている。……「モリィにもしものことがあったら」って、泣きそうな顔で』


 マリアの顔が脳裏に浮かぶ。自分を家族として受け入れ、名前をくれた大切な親友。もしここで自分が意地を張って死んだり、捕まったりしたら、誰があの子を守るのか。アリスがいなくなった今、マリアを守れるのは自分しかいないのではないか。


『アリスは強い。だが、もし彼女ですら戻れない事態が起きているとしたら……モリィ1人でどうにか出来るものではない。ここから先は全員で力を合わせるしかないんだ』

「…………」


 モリィはファクトリーの方角を振り返った。濃い霧の向こう。アリスがいるはずの場所。


「師匠、約束したもん、必ず戻るって……」


 ぽつりと呟く。その言葉は霧の中に吸い込まれて消えた。アリスは嘘をつかない。なら、戻れない理由があるのだ。死んだのか、捕まったのか。

 どちらにせよ、今のモリィ一人の力で助けに戻れば、犬死にするだけだ。それは師匠が一番望まないことだ。


「……わかった。戻るよ」


 モリィは血を吐くような思いで決断した。涙を袖で乱暴に拭い、グランパカの鞍に飛び乗る。


「レドリック。……アタシは戻る。マリアを守るために」


『……辛い決断をさせて済まない。待っている。気をつけて帰還してくれ』


 モリィは手綱を引いた。


 今できること、それは一刻も早くエンジェルステーションに戻る。そして、皆の力を合わせてアリスを助け出す。

 アリスはまだ生きている。モリィはそれだけを信じてグランパカを走らせた。

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