第五十話 師弟の絆、死線を超えて
アリスとモリィがエンジェルステーションを出発してから、4日が経過していた。
二人が足を踏み入れた北西の山岳地帯は、かつては鬱蒼とした針葉樹林だったはずだ。だが、ファクトリーに近づくにつれ、その様相は異様なものへと変貌していた。
グチュッ……グチュッ……
いつしか足元の枯れ葉を踏む音が、湿った不快な音に変わっていた。
騎乗していたグランパカが進むのを嫌がったため、少し戻した場所に停め、そこから二人は徒歩に切り替えた。
アリスが眉をひそめて地面を見ると、土は赤黒く変色し、苔の代わりに血管のような筋が這い回っている。
木々の幹はブヨブヨと膨れ上がり、樹皮の裂け目からは樹液ではなく、粘り気のある体液が滲み出している。
「……酷いな。森全体が肉塊になりかけている」
「うん……。臭いも強くなってる、普通じゃない何かがいるよ」
モリィが鼻を覆いながら警告する。その言葉通り、風に乗って漂ってくるのは、屠殺場のような鉄錆と腐肉の臭気だった。
二人は慎重に、茂み(といっても、触手のような植物だが)を利用しながら尾根を進んだ。そして、崖上の視界が開けた場所に出た瞬間。
「伏せろ」
アリスの静かな、だが力強い指示に、モリィは反射的に従い、その身を地面に倒す。感触は不愉快だが、我慢するしか無い。
アリスも隣に伏せ、懐から高性能な双眼鏡を取り出すと、崖下を覗き込んだ。
「……あれか」
レンズの向こうに映ったのは、悪夢のような光景だった。かつての工場施設と思われるコンクリートの建造物が、巨大な腫瘍のような肉塊に飲み込まれていたのだ。
壁面は脈動し、換気口からは黄色いガスが噴き出している。そして、その周囲を徘徊する「何か」。人の形をしているが、皮膚が溶け落ち、骨が露出した死体のような異形たち。さらに、指や爪が無数に生えた肉の塊が、番犬のように蠢いている。
アリスは無言で双眼鏡をモリィに手渡した。
「確認しろ。ファクトリーというのは、あの辺りで間違いないか?」
モリィは双眼鏡を受け取り、震える手でそれを覗いた。
「……うん、間違いない。アタシが知っている出入り口とは違うけど、多分、内部で繋がっていると思う」
そう言ったモリィの表情が歪み、額に冷や汗が浮かぶ。レンズ越しに見える光景が、彼女の脳裏に焼き付いたトラウマを強烈に刺激したのだ。
薬品の臭い、拘束具の冷たさ、そして解体される仲間の悲鳴。胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。
「ぅ……ッ」
呼吸が荒くなり、視界が揺れる。
その様子を、アリスは横からじっと見つめていた。助け舟は出さない。背中もさすらない。あえて一言も発さず、彼女が自分で落ち着くのを待つ。
もし、ここで過去の恐怖に負けるようなら、この先へは連れて行けない。足手まといになるからではない。この先にある「元凶」と対峙した時、彼女の心が壊れてしまうからだ。
ここで引き返させ、今後この作戦には従事させない。それが師としての最後の慈悲だ。
数秒、あるいは数分のような沈黙が流れた。モリィは自分の膝を爪が食い込むほど強く握りしめた。
(逃げるな。思い出せ。マリアを。ステーションのみんなを。……そして、師匠との特訓を)
彼女は深く息を吸い込み、肺の中の恐怖を吐き出した。
「……うん、待たせてごめん」
顔を上げたモリィの瞳からは、怯えの色は消えていた。そこにあるのは、過去を乗り越えようとする確固たる意志と、戦士としての力強い光。
それを見届けたアリスもまた、口元をわずかに緩め、覚悟を決めた。
「よし。では偵察を続ける」
アリスは双眼鏡を受け取り、素早く地図にチェックを入れた。
「もう少し近づいて確認してみたい」
「任せて。……こっちだ」
モリィが先頭に立ち、姿勢を低くして移動を開始する。
二人は尾根を降り、腐敗した森の奥深くへと進んでいく。目指すは、廃棄物が捨てられていた裏口。かつてモリィが廃棄処分寸前のところを抜け出してきた場所だ。
だが今は、そこが反撃への希望の入り口となるはずだ。
ガサッ……
不意に、近くの茂みが揺れた。アリスとモリィは同時に足を止め、気配を殺す。風に乗って、生臭い息遣いが近づいてくる。
「……来るぞ」
アリスが音もなく『単分子剣』の柄に手を掛けた。偵察任務とはいえ、ここから先は敵の懐の中。死と隣り合わせの潜入行が、本格的に幕を開ける。
――
ヒュンッ……
不意に、風を切るような音がした。木の葉が揺れたわけではない。だが、アリスの研ぎ澄まされた直感が、強烈な殺気を感じ取った。
「姿が見えない……光学迷彩、いやもっと別の何かか」
アリスが呟くと同時に、単分子剣を抜き放ち、虚空を一閃した。
ズバッ!!
何もない空間で、濡れた雑巾を絞ったような音が響く。次の瞬間、空気が赤く染まった。
噴き出した鮮血と共に、透明化が解けた異形の怪物が、頭頂部から股下まで真っ二つに裂かれて地面に落下したのだ。
「ギ、ギャ……」
それは、金属質の爪と、痩せこけた体躯を持つ人型の化け物だった。断面から臓物を撒き散らし、痙攣して絶命する。
「す、すげえ……! 見えてたのか!?」
モリィが驚愕の声を上げる。彼女の目には、アリスが何もない空間を斬ったようにしか見えなかった。だが、アリスは血糊を振り払いながら、静かに地面を指差した。
「姿は見えないが、足跡は見える。……あらゆるヒントを見落とすな」
アリスの指摘に、モリィがハッとして足元を見る。腐敗した柔らかい土の上に、僅かだが、何者かが踏みしめた窪みが連続して生まれては消えていた。さらに耳を澄ませば、風音に混じって、衣擦れのような微かな音が聞こえる。
(そうだ。目だけに頼るな……!)
モリィは深く息を吸い込み、視覚以外の感覚を研ぎ澄ませた。腐臭の中に混じる、鋭い金属臭。枯れ葉が擦れる音。地面を伝わる微振動。
「……そこかッ!」
モリィが右斜め後ろへ振り返りざまに、剣を振り抜く。モリィの持つ剣は、レドリックの旧時代の武器コレクションから選ばれた逸品。切れ味は抜群だ。
ズシュッ!!
虚空に硬い手応えがあった。空間が歪み、切断された『透明な狩人』が姿を現し崩れ落ちた。
「いい斬撃だ。……だが、まだ囲まれている。油断は禁物だ」
アリスが背中合わせになり、剣を構え直す。周囲の森のざわめきが大きくなっている。一匹や二匹ではない。群れだ。
「さっさと片付けて先へ進むぞ。あまり時間はかけたくない、私が斬り込む」 「了解! アタシが死角をカバーする!」
二人の影が交差する。アリスの剣閃が透明な敵を次々と両断し、漏れた敵をモリィが処理する。
見えない敵との死闘。だが、今の師弟にとって、それはもはや恐怖の対象ではなかった。
――
数分後。
周囲には十数体の『透明な狩人』の死体が転がっていた。黒い血が地面に広がり、ただでさえ異様な森の空気をさらに澱ませている。
「ふぅ……。なんとか片付いたか」
モリィが荒い息を吐きながら、周囲を警戒する。アリスは剣を収め、死体の一つを足先で転がした。
「やはり、こいつらも普通の生物じゃない。……サイエンの改造手術を受けた成れの果てか、あるいは『ゲート』の影響を受けた変異体か」
死体の指先はナイフのように長く鋭利に変形しており、皮膚は環境に合わせて色素を変える特殊な細胞で覆われていた。
「こんな連中がうろついているということは、ファクトリーが敵の本拠地なのは間違いないだろう」
「どうする?」
「これ以上の潜入は難しい。内部の偵察は諦めて撤退しよう」
二人が撤退を決めたその時。おぞましい啼き声が辺りに響き渡った。
周囲から、集まってくる無数の気配。
「ふっ、そう簡単には帰してもらえないか」
「私がやつらの足止めをする。お前はグランパカの所まで戻って、エンジェルステーションに通信を送れ」
アリスは単分子剣を抜き放つと、モリィに語りかける。その声は穏やかだが反論を許さない力強さがあった。
「師匠!」
「なあに心配するな、少しばかりかつての殺人兵器を呼び起こそうってわけだ。その時モリィには離れていてほしいのさ」
そういってアリスは笑ってみせた。




