第五話 世界のもうひとつの顔
タタタタッ、と。
静まり返った廊下に、軽快な足音が響き渡る。
それは、重厚なブーツの音でもなければ、忍び寄る敵の足音でもない。
この鉛色の世界には似つかわしくない、弾むようなリズムだ。
「パパー! あさだよー! おきてー!」
鈴を転がすような声と共に、リビングの扉が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、一人の少女だ。
かつて空に輝いていた太陽のような金色の髪を二つに結び、ボロ布を継ぎ接ぎして作った――しかし随所に可愛らしい刺繍が施された――オーバーオールを着ている。
マリア。
かつて空から落ちてきた「天使」は、たった一度の冬を越しただけで、人間でいう五歳児ほどの姿にまで成長していた。
「……ふわぁ。マリアか。まだ太陽も昇ってねえぞ……と言いたいが、太陽なんて元々ねえか」
ソファの上で毛布にくるまっていたプリスキンが、片目を開けてぼやいた。
だが、その顔はニヤけている。
マリアはプリスキンの元へ駆け寄ると、その無精ひげだらけの頬を指でつついた。
「パパ、おひげチクチク! きょうは『わな』のてんけん、つれてってくれるんでしょ?」
「へいへい。朝飯食ったらな。俺のナイフ捌きを見せてやるよ」
「こら! 教育に悪いものを娘に見せるなと言っただろう!」
厨房からエプロン姿のイノシロウが顔を出し、お玉を振り回す。
「マリア、顔を洗っておいで。今日はカボチャのパンケーキだぞ」
「わぁ! パパのパンケーキすき!」
マリアは満面の笑みを浮かべ、洗面所へと駆けていった。
その小さな背中を見送りながら、レドリックがコーヒーを啜った。
「……それにしても、全員『パパ』か。誰のことか分からなくならんか?」
「いいじゃないか。俺たち全員が父親代わりだ。誰が呼ばれても返事をする、それがエンジェルステーションの流儀だろう?」
ファルケンバーグが真面目な顔で返す。
異常な成長であっても、この男だらけのむさ苦しい場所において、マリアは全員にとって目に入れても痛くない愛娘だった。
――
朝食後、エンジェルステーションはそれぞれの「仕事」の時間になる。
そしてマリアにとっても、それは冒険の時間だ。
彼女は好奇心の塊だった。誰に似たのか(おそらく全員の影響だ)、じっとしていることがない。
「パパ! これなあに?」
ガレージで作業をしていたレドリックの元へ、マリアが小さな金属片を持ってくる。
油にまみれたその手を見て、レドリックは怒るどころか、目を細めて頷いた。
「ほう、いい目をしてるなマリア。こいつは旧世紀のベアリングだ。磨けば立派な回転軸になる」
「おたから?」
「ああ、ゴミ山から見つけたダイヤの原石だ。よく見つけた、マリアはお宝さがしの天才だな!」
レドリックが大きな手で頭を撫でると、マリアは誇らしげに胸を張った。
次は医務室だ。
「パパ、これよんで!」
マリアが差し出したのは、ボロボロになった分厚い医学書だ。
「おや、マリアは勉強熱心だね」
白衣を着た穏やかな風貌の男、リンジー医師が眼鏡の位置を直しながら微笑んだ。
「どれ……ふむ。これはね、人間の骨の仕組みが書いてあるんだ」
「ここがパパ(プリスキン)がおったところ?」
「ははは、そうだね。脛骨という場所だよ」
リンジーの膝の上で、マリアは難解な図解を食い入るように見つめる。
その吸収力はスポンジのようだった。生まれて一年で言葉を完璧に理解し、教えていない漢字すら読み始めている。
「素晴らしい才能だ。将来は私より優秀な医者になるのは間違いない」
そう呟いて、リンジーは微笑む。
そして午後。
マリアは、アレンのあとをついて回っていた。
場所は、拠点の裏手に広がる「畑」だ。
遮るもののない荒野。容赦なく吹き付ける冷たい風が、アレンの頬を叩く。
「パパ、これぬいていい?」
「ああ、それは雑草だ。根っこから頼むぞ」
アレンがクワを振るう横で、マリアは小さな軍手をはめた手で、一生懸命に土を掘り返している。
泥だらけになっても気にする様子はない。むしろ、土の感触を楽しんでいるようだ。
「よいしょ……とれた!」
マリアが掲げたのは、枯れた雑草の根だ。
「上出来だ。いい手つきになってきたな」
アレンが褒めると、マリアは「えへへ」と笑い、額の汗を拭った。その拍子に、白い頬に泥がついた。
アレンは作業の手を止め、水筒の水を渡した。
マリアがゴクゴクと水を飲む喉の動きを見ながら、アレンはふと感慨にふける。
あの日、空から落ちてきた小さな命。
普通の人間なら言葉も話せない時期に、彼女はもう私の背中を追って走っている。
このままいけば、あと数年で大人になってしまうのではないか。
そんな一抹の寂しさと、頼もしさが胸に去来する。
「ねえ、パパ」
不意にマリアが空を見上げて言った。
頭上には、相変わらず厚い鉛色の雲が広がっている。
「太陽さんって、どんな色?」
その問いに、アレンは言葉に詰まった。
マリアは生まれてから一度も、本物の青空や太陽を見たことがないのだ。
絵本や、アレンの語る物語の中でしか知らない世界。
「……金色だよ」
アレンはしゃがみこみ、マリアの目線に合わせて答えた。
「マリアの髪みたいにキラキラしていて、ストーブみたいに温かいんだ。それがあれば、こんな寒い場所でも、花がいっぱい咲くんだよ」
「ふうん……。みてみたいなあ」
マリアは残念そうに雲を見つめる。
「いつか、くもさん、いなくなる?」
「ああ、いなくなるさ」
アレンはマリアの頭に手を置いた。
「いつか必ず、俺たちが晴らして見せるさ」
それは根拠のない約束だった。
だが、マリアの瞳を見ていると、本当にそれが可能であるような気がしてくるのだ。
「うん! そしたら、みんなでピクニックしようね!」
「ああ、弁当を持ってな。パパ(イノシロウ)に特大のサンドイッチを作らせよう」
穏やかな時間だった。
世界の終わりなど嘘のような、温かな家族の会話。
だが。
その平穏は、唐突な緊張によって引き裂かれた。
「……?」
マリアがふと、動きを止めた。
小さな耳をピクリと動かし、枯れた雑草が茂る荒野の方角を凝視する。
「どうした、マリア?」
「……いる」
「何がだ?」
「あそこ、しらないひと」
アレンがマリアの視線を追うと同時に、マリアは小さな指で一点を指差した。
そこは、岩陰のわずかな隙間だった。
アレンの背筋が凍った。
見えた。
岩の陰から、ボロ布を纏った男が身を乗り出している。
その手には、弦を引き絞られたクロスボウが握られていた。
狙いはアレンではない。
その切っ先は、アレンの足元にいる、小さな少女に向けられている。
「いかんッ!」
思考する時間はなかった。
アレンは持っていたクワを放り出し、マリアの上へと覆いかぶさるように身を投げた。
直後、ドスッという鈍く湿った音が響いた。
「ぐっ……ぅぅ!」
アレンの口から苦悶の声が漏れる。
背中を焼けるような熱さが貫いた。
「パパ……?」
アレンの腕の中で、マリアが目を見開いていた。
彼女の視界に映ったのは、自分を守るように崩れ落ちた父親の姿と、その背中に深々と突き刺さった一本の矢だった。
マリアの顔が凍り付く。
「マリ……ア、にげ……」
そこまで言ったところで、アレンは口から血を吐き、地に伏した。
呆然と立ち尽くすマリアの白い肌を、アレンの流す赤い血のしぶきが赤く染める。
「パパ!!」




