第四十六話 静寂の森、蠢く肉塊
エンジェルステーションに文明の灯火が戻り、地下から重厚な発電音が響くようになってから数日が過ぎた頃。
ステーション近くの森は、いつもの静寂に包まれているように見えた。だが、その静けさの質が、以前とは明らかに異なり始めていたことに、まだ誰も気づいてはいなかった。
鳥のさえずりが消え、風の音さえも何かに怯えるように息を潜めている。そんな不穏な森の中を、二人の男が進んでいく。
ザッ、ザッ……。
枯れ葉を踏みしめる乾いた音が、静寂を切り裂く。ファルケンバーグとプリスキンだ。二人の手には、真新しい銃が握られている。
「調子はどうだ、相棒。その狙撃銃の使い心地は?」
「悪くない。重心のバランスもいいし、スコープの視界もクリアだ」
「そうだろう、そうだろう」
プリスキンは上機嫌に頷いているが、その横でファルケンバーグは眉をしかめていた。
「……森が、静かすぎる」
ファルケンバーグが周囲の警戒を強める。
今日は完成した新兵器の実地テストと、ステーション周辺の定期巡回を兼ねていた。
この辺りは、獲物を探すには苦労しない豊かな狩場のはずだ。しかし今日は、生き物の気配が希薄だった。まるで、森全体が死に絶えてしまったかのように。
「へっ、ビビってんのか? こっちには俺様が丹精込めて作った散弾銃だってあるんだぜ。何が出てきてもハチの巣よ」
プリスキンがポンプアクションのフォアエンドを撫でながら軽口を叩く。だが、その目もまた、油断なく周囲の茂みを探っていた。
「おっ、いたぜ。あそこだ」
プリスキンが指差した先、木立の隙間に一頭の動物が佇んでいた。白く長い毛に覆われた体躯と、特徴的な長い首を持つ草食動物――グランプーだ。この辺りの森では珍しくない、本来は非常に大人しく、人が近づけばすぐに逃げ出す臆病な生物である。
「なんだ、ただのグランプーか。……ん? 様子がおかしいな」
ファルケンバーグが眉をひそめ、足を止めた。風下から近づいているとはいえ、こちらの足音には気づいているはずだ。なのに逃げる素振りがない。
それどころか、そのグランプーは木の実や草を探すでもなく、一本の太い木の幹に額を押し付け、小刻みに痙攣するように震えていた。
そして、風向きが変わった瞬間、鼻をつくような微かな異臭が漂ってくる。それは野生動物特有の獣臭さではない。もっと生々しく、鼻腔に粘りつくような……腐った肉の臭いだった。
「何の匂いだ?」
プリスキンが、ファルケンバーグに声をかけ、一歩近づいた瞬間だった。
ギャアアアアッ!!
草食動物にあるまじき、喉が裂けんばかりの絶叫が木霊した。 グランプーが猛然と振り返る。
「なっ……!?」
その姿を見た二人は、思わず息を呑んだ。 かつて愛らしかったその顔貌は、見る影もなく崩れていた。つぶらな瞳は血管が切れそうなほど真っ赤に充血し、だらしなく開かれた口からは、大量の粘着質な涎と血が滴り落ちている。
だが、何より異様で、見る者の生理的嫌悪感を掻き立てたのは、その背中だった。
美しい純白の毛皮を内側から食い破るようにして、赤黒い肉塊のようなコブが隆起していたのだ。そのコブは、独自の意思を持つ生き物のようにドクンドクンと脈打ち、醜悪な血管を周囲の皮膚へと根のように這わせていた。
「グルルルッ……! ガアァッ!」
グランプーは二人を認識すると、逃げるどころか、牙を剥き出しにして突進してきた。
「グランプーが向かって来やがった!? マジかよ!」
「撃てッ!」
ファルケンバーグの鋭い指示と同時に、プリスキンが散弾銃を構える。距離は約十メートル。
ドォンッ!!
森に雷鳴のような轟音が響いた。近距離から放たれた9粒の鉛弾が、散開しながらグランプーの身体を捉えた。
衝撃で巨体が木の葉のように吹き飛び、地面に転がる。
頭部と胸部から、鮮血が舞う。新型の武器は十分な殺傷力を示した。生物ならば、即死して当然のダメージ。
普通なら、これで終わりのはずだった。
だが。
ズルッ、ボコッ……グググ……。
倒れたグランプーの背中の肉塊が、さらに大きく、醜悪に膨れ上がった。致命傷の痛みを感じていないのか、あるいは背中の肉塊に強制的に操られているのか。グランプーは折れた足を引きずりながら、糸で操られるマリオネットのような不気味な動きで即座に立ち上がったのだ。
「冗談だろ!? ゾンビかよ!」
「頭だ! 脳を潰して動きを止める!」
ファルケンバーグが冷静にボルトレバーを引き、排莢する。チャキッ、という金属音が冷たく響き、次弾が薬室に送り込まれる。
スコープのレティクルの中心に、こちらへ這いずり寄ってくる狂った獣の眉間を捉える。
呼吸を止め、引き金を絞る。
ズドンッ!
鋭い発射音と共に、グランプーの頭部が熟した果実のように弾け飛んだ。脳を完全に破壊され、運動機能を失った巨体は、ようやくどうと倒れ伏し、動かなくなった。
「……はぁ、はぁ。なんてタフさだ」
プリスキンが額に浮かんだ冷や汗を袖で拭う。もし旧式の弓矢や槍しかなければ、痛みを知らぬ突進を止められず、今頃二人は噛み殺されていただろう。
周囲に他の個体がいないことを確認し、二人は慎重に死体に近づいた。
頭を失い、胴体に風穴を開けられた死体。だが、背中の「肉塊」だけは、宿主が死んだ今もなお、未練がましくピクピクと蠢いていた。
「なんだこりゃあ……。腫瘍か?」
「いや、違う。……見てみろ、この肉。本体が死んでもまだ生きようとしている」
ファルケンバーグがコンバットナイフの先で肉塊を指し示すと、それは熱源を探るように触手を伸ばし、空を切った。まるで、次の宿主を求めているかのように。
「気持ち悪いな。……どうする? 持ち帰ってクラークか、アロウェイあたりに見せるか? 何か分かるかもしれん」
プリスキンが提案するが、ファルケンバーグは即座に首を振った。その顔には、歴戦の兵士だけが持つ危機感が張り詰めていた。
「駄目だ。危険すぎる」
「あ? 死体だぞ」
「見ろ、この触手はまだ生きている。どんな動きをするのか我々には分からない。そんなものを、防護設備もないままステーションに持ち込めばどうなる?」
ファルケンバーグの言葉に、プリスキンはハッとして顔を青くした。もしこれが人に取り付いたり増殖したりするなら、持ち込んだ時点でステーション全体が全滅する恐れすらある。
マリアやモリィ、そして仲間たちを危険に晒すわけにはいかない。
「……違いない。迂闊だったぜ」
「ここで燃やすぞ。灰になるまでだ」
二人は周囲から枯れ木や落ち葉を大量にかき集め、死体の上に積み上げた。
プリスキンがポケットからオイルライターを取り出し、火をつける。乾燥した枝はすぐに勢いよく燃え上がり、不浄な肉を浄化の炎で包み込んだ。
メラメラメラ……
炎が勢いを増し、肉が焼ける嫌な臭いが立ち込める。
その時だった。
『キィィィィィッ!!』
背中の肉塊が、まるで断末魔のような甲高い悲鳴を上げたのだ。それは獣の声でも、風の音でもない。明らかに知性を持たない有機物が発してはならない類の音だった。
「うわっ!?」
プリスキンがたじろぐ。肉塊は激しくのたうち回り、炎の中でどす黒い液体を噴き出しながら、苦悶するように縮んでいく。
「うへぇ……。やっぱただの病気じゃねえな。生きてやがった」
「ああ。……完全に焼き尽くすまで見届けるぞ」
二人は銃を構えたまま、異形の肉が炭と化し、完全に動かなくなるまでその場を動かなかった。 やがて悲鳴は止み、後には黒い灰だけが残された。
立ち昇る黒い煙は、不吉な狼煙のように、淀んだ森の空へと溶けていく。
「戻ってレドリックに報告だ。……とんでもない厄ネタが、すぐそこまで来ている」
ファルケンバーグは森の奥、薄暗い闇を見つめた。 蟲に続いて、謎の肉塊。文明の利器を手に入れた安堵感は、一瞬にして消し飛んでいた。
自分たちが作った銃という「力」が、単なる狩猟道具ではなく、生存を賭けた戦争のための武器になることを、彼らは肌で感じ取っていた。




