第四十四話 アリス②
アリスの旅は、孤独で、そしてあまりにも過酷なものだった。
彼女が駆るのは、北方の原生林で手懐けた『バロンホース』という巨大な馬だ。
旧時代の遺伝子工学の成れの果てか、あるいは放射能による変異か。通常の馬の二倍はある筋肉の塊のような巨体と、猛獣すら蹴り殺す蹄を持つその巨獣に、アリスは廃材を組み合わせて作った屋根付きの荷車を引かせていた。
ギイ、ゴト……。
車輪が凍てついた大地を噛む音が、鉛色の空の下に虚しく響く。
アリスは手綱を握りながら、ただひたすらに雪原を行く。その目は、地平線の彼方ではなく、手元の古いデータパッドに向けられていた。
目的は、かつての仲間の捜索。
シェルターに残されていた断片的なデータをもとに、彼女は点在する旧時代の軍事施設跡を目指した。
だが、現実は無情だった。
「……施設コードB-09。全壊」
最初に訪れたポイントは、巨大なクレーターとなっていた。おそらくは大戦末期にバンカーバスターの直撃を受けたのだろう。瓦礫の山を掘り返す意味すら見いだせないほどの破壊だった。
「施設コードC-14。……水没により内部進入不可能」
次に訪れた地下施設は、地殻変動によって水脈が直撃していた。入り口から覗き込む暗い水面は、放射能を含んだ不気味な蛍光色を放っており、生命の気配は皆無だった。
D-01、E-22……。
地図上の点を潰していくたびに、アリスの心は冷えていった。
どこにも、仲間の姿はなかった。
ポッドが破壊されているか、そもそも設備そのものが長い年月の中で朽ち果てていたのだ。
私は、世界にたった一人、取り残されたのか。
その絶望は、北風よりも冷たくアリスの肌を刺した。
――
道中、アリスは人との関わりを持とうとしたこともあった。
キャルヴィン博士の言葉――『人間として生きてほしい』という願いを、叶えるために。
ある時、数人の野盗に囲まれている親子を見つけた。
母親は必死に子供を庇い、野盗たちは下卑た笑い声を上げていた。
アリスは馬車を止め、無言で剣を抜いた。数秒後、野盗たちは雪の上に伏し、親子は助けられた。
「あ、ありがとうございます……! なんとお礼を言えばいいか……」
母親は涙を流して感謝し、懐から布に包んだものを差し出した。
それは、カチカチに乾燥した芋だった。この世界において、それは命と同等の価値がある食料だ。
「受け取れない」と断るアリスに、母親は無理やりそれを握らせた。「あなたの優しさに報いたいのです」と。
その温かさに、アリスは救われた気がした。まだ、この世界にも「人の心」は残っているのだと。
だが、その淡い希望は数日後に踏みにじられた。
道端で倒れ、うめき声を上げている男がいた。足に深い傷を負っているようだった。
アリスは馬車を止め、男に水を与え、傷の手当をした。
男は「助かった、あんたは女神だ」と繰り返し礼を言った。
そして、アリスが背を向け、荷車から包帯を取り出そうとした、その瞬間だった。
殺気。
アリスの身体が、思考するよりも早く反応した。
背後から襲いかかってきた男の腕を掴み、捻り上げる。
男の手から、錆びついたナイフが落ちた。
「……なぜだ」
アリスが冷徹に問うと、男は痛みに顔を歪めながら叫んだ。
「食い物だ! あんた、たくさん持ってるだろう!? 寄越せよ! 俺が生きるために必要なんだよ!!」
そこには感謝も、理性もなかった。あるのは生存本能という名の欲望だけ。
アリスは無表情で力を込めた。
バキリ。
乾いた音がして、男の腕が不自然な方向に曲がった。
アリスは悲鳴を上げて気絶した男を道端に転がし、そのまま馬車を出した。トドメを刺す価値すら感じなかった。
荷台の揺れに身を任せながら、アリスは虚空に問いかける。
「……博士。私に、獣の群れの中で人間として生きろと言うのですか」
この世界の人間は、あまりにも余裕がない。
生きるためには他者を喰らい、奪い、殺す。それは獣と何が違うというのか。
そんな連中を相手に、正気を保ち続けることの方が難しいのではないか。
空は相変わらず分厚い雲に覆われている。
この灰色の空の下で、私の心もまた、色を失っていくのだろうか。
――
そんなある日、奇跡が起きた。
アリスは、何もない荒野の丘で馬車を止めていた。
あてどなく南下を続けていたが、目的を見失っていた。
このまま彷徨い続けることに何の意味があるのだろうか。いっそ、どこかの廃墟で眠りにつくべきではないか。
自問自答していた、その時だった。
ズズズズズ……ッ!!
大気を震わせる地鳴り。
馬車のバロンホースが怯えていななき、アリスは顔を上げた。
「なんだ……!?」
遥か南方の地平線。
そこから、天を貫くような巨大な「光の柱」が立ち上ったのだ。
それは雲を突き破り、成層圏すら越えて宇宙へと届くかのような輝きだった。
アリスが目を細める。
次の瞬間、信じられない光景が広がった。
光の柱を中心に、空を覆い尽くしていた分厚い灰色の雲が、渦を巻いて消滅していくではないか。
まるで、巨人の手が空を拭ったかのように。
ぽっかりと開いた雲の穴から、覗いたのは――
「……太陽」
アリスが目覚めてから一度も見たことのなかった、透き通るような青空。
そして、降り注ぐ黄金色の陽光。
太陽の光が、荒涼とした大地を照らし出した。
雪原が白銀に輝き、枯れた木々が影を落とす。
そして、遠く離れたアリスの頬にも、微かな温もりが届いた。
「…………」
アリスは震える手で、自分の頬に触れた。
温かい。
それは、凍てついた心を溶かすような、奇跡の熱だった。
直感が告げていた。
あの光の柱の下。あそこに行けば、何かが変わるかもしれない。
人が、獣としてではなく、人として生きられる場所があるかもしれない。
博士が夢見た世界のかけらが、あそこにはあるのかもしれない。
「行くぞ」
アリスはバロンホースの手綱を強く握り直した。
目指すは光の地。
後に彼女が「エンジェルステーション」と呼ばれる場所で、運命の少女たちと出会うことになる地へ。
その瞳には、かつて失ったはずの光が、再び灯っていた。
――
(現在へ戻る)
エンジェルステーション、早朝の空き地。
東の空から朝日が昇り、街を黄金色に染めていく。
あの日見た、希望の光と同じ色が、ここにはある。
「ハッ、ハッ……! まだだ、まだ動ける!」
アリスの目の前で、モリィが荒い息を吐きながら構え直した。
膝は震え、汗が滝のように流れている。それでも、その瞳だけは決して折れていなかった。
「どうした。もうバテたのか?」
「なめるなよ……師匠! アタシは、まだまだやれるぜ!」
モリィが再び地面を蹴り、飛びかかってくる。
その鋭い踏み込み、獣のような敏捷性。モリィの身体能力は高い。
だが何より重要なものをこの少女は持っている。それは、大切な誰かを守ろうとする「人間らしい」意思。
その真っ直ぐな姿を見て、アリスは微かに微笑んだ。
ここにはいる。
力を持ちながら、誰よりも人間らしくあろうとする者たちが。
絶望的な世界で、それでも前を向いて歩こうとする者たちが。
(私が探していたものは、ここにあったのだな)
アリスは静かに木刀を構え直し、突っ込んでくる愛弟子を受け止める体勢をとった。
その顔は、孤独な放浪者ではなく、次代を導く師の顔だった。
――博士。見ていてください。
私もここでなら、人間として生きられるかもしれません。




