第三十四話 人間たちの話
静まり返ったゲート前で、リンジーは指先に全神経を集中させていた。
マリアの細い首筋。そこにあるはずの命の鼓動を探す。
頭上からは数百年間閉ざされていた太陽の光が容赦なく降り注ぎ、リンジーの額に大粒の汗が伝う。
「……リンジー、どうなんだ!?」
アレンの悲痛な叫びが鼓膜を叩く。
リンジーはカッと目を見開き、大きく息を吐き出した。
「大丈夫だ! 微弱だけど、心拍がある!」
その言葉に、その場にいた全員の肩から力が抜けた。
へなへなと座り込むクラーク。
だが、リンジーの表情は険しいままだった。
「喜ぶのはまだ早いよ! 体温が異常に低い。 今まではナノマシンが体温調節をしてくれていたんだろうけど、それが無くなって、体温調整が上手くいってないんだ!」
マリアの体は、まるで氷のように冷たかった。
「天使」の加護を失った彼女は、荒野に裸同然で放り出されたに等しい状態だったのだ。
「急いで医療室へ! 加温処置をする! お湯と毛布、ありったけ用意するんだ!」
「わかった! 死なせてたまるか!」
アレンはマリアを壊れ物のように慎重に、しかし全力で抱え上げ、走り出した。
――
医療室に運び込まれたマリアは、幾重もの毛布にくるまれ、湯たんぽと暖房で温められていた。
モニターの波形は頼りなく、ピ……ピ……と遅いリズムを刻んでいる。
「……同期率は?」
アレンの問いに、クラークが沈痛な面持ちで首を振った。
「計測不能だ。彼女の体内にあった特殊ナノマシンは、先ほどの閃光ですべて消失したと考えられる。今の彼女は、生物学的にはただの人間……それも、極度に衰弱した子供だ」
翼も、ハローも、奇跡の力も。すべて消え失せた。
だが、アレンはマリアの頬に触れ、安堵の息を漏らした。
「それでいい。……人間で、いいんだ」
その時。
ベッドの隅で小さくなっていたモリィが、いきなりマリアの手を強く握りしめた。
「起きろよ……! おい、マリア!」
その目からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
彼女はずっと強がっていたが、限界だった。
「勝手なことすんじゃねえよ! 一人でかっこつけて、全部背負い込んで……! アタシを置いていくなよ! 友達なんだろ!?」
モリィの叫びが部屋に響く。
……ピ、ピ、ピ……
心拍モニターの音が、少しだけ強く、早くなった気がした。
「……う……」
マリアの瞼が、微かに震える。
長い睫毛が持ち上がり、焦点の定まらない瞳が、窓から差し込む陽の光に眩しそうに細められた。
「……マリア!」
モリィが呼びかける。
マリアの視線がゆっくりと巡り、アレン、モリィ、そして心配そうに覗き込むみんなの顔を捉えた。
「…………モリィ?」
掠れた、蚊の鳴くような声。
だが、それは確かに彼女の声だった。
「ああ、そうだ。モリィだぞ」
「……わたし、生きてる?」
「当たり前だ! お前が死んでたまるか!」
アレンはマリアを抱きしめたくてたまらなかったが、点滴の管だらけの体を見て、なんとか堪えて頭を撫でた。
「……なんか、体が重いよ。寒くて、お腹もすいた」
「そりゃそうさ」
クラークが涙を拭きながら笑った。
「ナノマシンの補助がなくなったからね。重力も、寒さも、空腹も、これからは全部自分の体で受け止めなきゃいけない。……それが『生きてる』ってことさ」
マリアは自分の背中に手を回そうとしたが、うまく動かない。
でも、あの「何かがある」感覚は消えていた。
「……翼、なくなっちゃった」
マリアが寂しげに呟く。
だが、モリィがその手を両手で包み込んだ。
「いいんだよ、んなもん! 羽なんかなくたって、お前はお前だ!」
「……うん。……ありがとう」
マリアはへにゃりと笑った。
その笑顔は、天使のような崇高なものではなく、年相応のあどけない少女のものだった。
――
マリアの意識が戻ったことで、基地内は歓喜に包まれた――が、それも束の間だった。
太陽の出現は、新たな「仕事」をもたらしていたのだ。
カンカンカンカン……!!
エンジェルステーションに警報が鳴り響いた。
「なんだ!? また何か来たのか!?」
通信機から、ネイバーの慌てた声が飛び込んでくる。
『大変です! 気温の急上昇で、外周に積もっていた雪が一気に溶け出しました! 雪解け水で排水溝が溢れています!』
「なにっ!?」
『このままだと居住区の床が浸水します! 発電機周りがヤバいです!』
直射日光は、大地を温めると同時に、凍りついていた大量の水分を解放したのだ。
「くそっ、次から次へと……! だが、こんなことで負けていられるか!」
アレンは立ち上がった。
もう、奇跡の少女はいない。彼女は今、守られるべき病人だ。
ここからは、大人たちの戦いだった。
「野郎ども、出番だ! 土嚢を積め! 水を外へ流すんだ!」
「おうよ! 泥かきくらい、ナノマシンがなくたってできるぜ!」
アレンは医療室を飛び出していく。
壁のモニターでは、アヴァロン不時着地点のケイスもまた、部下に指示を飛ばしながら苦笑していた。
『やれやれ、こっちも水浸しだ。だがまあ、毒の雨に比べれば、ただの泥水なんて可愛いもんだな』
ギーグスとネイバーが一列になって土嚢を運び、泥水をかき出していく。
その光景を、医療室の窓からマリアは見ていた。
空は青い。
太陽は眩しい。
そして地面では、大人たちが泥まみれになって働いている。
(……すごいなあ)
マリアは思った。
魔法で一瞬で直すよりも、こうして汗を流して、声を掛け合って立ち向かう姿の方が、今の彼女にはずっと尊く、力強く見えた。
――
それから数日後。
泥水の処理も一段落し、地面が乾き始めた夕暮れ時。
アレンは、車椅子に乗せたマリアを連れて、基地の屋上へと上がった。
「うわぁ……」
マリアが感嘆の声を漏らす。
夕日が、世界を黄金色に染め上げていた。
毒の雨に耐え抜いた農業プラントのガラス屋根が、夕日を受けてキラキラと輝いている。その下では、緑色の作物が揺れていた。
「綺麗だろ?」
「うん。……すごく、綺麗」
マリアの瞳に、燃えるような夕日が映り込む。
「ねえ、パパ。私、守れたかな?」
「ああ。守れたとも」
アレンはしゃがみ込み、マリアの視線に合わせた。
「お前が雨を止めてくれたおかげで、作物は枯れずに済んだ。これからは太陽の光で育つ。ソーラーパネルもフル稼働だ。冬だって、もう怖くない」
アレンはマリアの手を握った。
その手は温かかった。ナノマシンの熱ではない、人間自身の体温だ。
「全部、お前のおかげだ。……ありがとう、マリア」
マリアは、はにかむように笑った。
その笑顔を見た時、アレンは確信した。
彼女はもう「天使」ではない。「ギーグスの娘」になったのだと。
背後でドアが開く音がした。
モリィ、クラーク、リンジー、イノシロウ……。
仲間たちが次々と屋上に上がってくる。
彼らの手には、イノシロウが焼いたパンや、秘蔵のワインが握られていた。
「おい、アレン! 抜け駆けはずるいぞ!」
「そうだそうだ! 今日は『太陽祭』だぞ!」
太陽の復活と、マリアの回復を祝う宴。
誰もが笑っていた。
黄金の光の中で、新しい時代が始まろうとしていた。
マリアは空を見上げた。
かつて自分を閉じ込めていた灰色の天井はもうない。
どこまでも高く、澄み渡る青。
(……お腹、すいたな)
マリアは、生まれて初めて心からそう思った。
それは、彼女が「生きる」ことを始めた、何よりの証だった。
――
エンジェルステーションのゲート前に、心地よいベルの音が響き渡った。
「おーい! 開けてくれ! 商売に来たぞ!」
現れたのは、長い毛に覆われた巨大な牛のような生物――ブルファーの群れを引いた一団だった。
近隣の友好的な集落からやってきた交易キャラバンだ。
かつてのエンジェルステーションは小さな要塞だったが、ウルトラヴァイオレンスを撃退したことで、その名が広く知れ渡った。
今やここは、テイカーが寄り付きがたい、この地域で最も安全で、活気のある交易拠点となりつつあった。
「いらっしゃい! 旅の疲れを癒していってくれ!」
イノシロウが出迎えると、キャラバンの男たちは白い歯を見せた。
「おうよ! またあんたらの『リョカン』を使わせてもらいたくてな! 取引品なんか二の次だ、まずは風呂と飯だ!」
彼らの目当ては、交易品よりもエンジェルステーションが誇る娯楽施設だった。
地下から汲み上げた温かい大浴場『オンセン』と、イノシロウが腕を振るう絶品料理だ。
荒野で干し肉ばかり齧っている彼らにとって、それはまさに王侯貴族の楽しみに等しかった。
――
食堂でギーグスのリーダー、レドリックはキャラバンとテーブルを囲む。
キャラバンとの会食は外の情報を得る貴重な機会だ。
「……というわけで、西の『アヴァロン不時着地点』には、大規模な集落ができつつある」
「ほう、あんな場所に人がねぇ」
「彼らは金はないが、高度な浄水機能を持っている。あそこへ行けば、泥水じゃない『純水』が手に入るぞ」
キャラバンリーダーの目が金貨のように輝いた。
清潔な水は、弾薬以上に価値のある商品だ。
「そいつはいい話を聞いた! 次のルートに組み込むとしよう。我々が食料や燃料を持ち込み、向こうで水を仕入れる。……いい商売になりそうだ」
こうして、エンジェルステーション、アヴァロン生存者キャンプ、そして近隣の集落を結ぶ、新たな交易ルートが確立されたのだった。




