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第十七話 ビッグデータ・コネクト

 地上が血と鉄と、そして天使の羽ばたきに揺れたその瞬間。

 遥か上空、高度数万メートル。成層圏の静寂に抱かれた天空のコロニー「アヴァロン」。

 人類の英知の結晶であり、汚れなき楽園と呼ばれるその場所の一室で、一人の男がモニターに縋り付くようにして声を上げていた。


「おお……おおおッ!! 素晴らしい! 天使……私の可愛い天使……!」


 クラーク博士だ。

 かつて「プロジェクト・エンジェル」を主導し、今は窓際の研究室で隠遁生活を送る天才科学者。

 薄暗い部屋には無数のホログラムスクリーンが展開され、そこには地上からの観測データが奔流のように流れ込んでいた。

 赤いグラフが限界値を突破し、警告音がけたたましく鳴り響いているが、今の彼にはそのアラートさえも、愛しい我が子からの力強い「産声」にしか聞こえなかった。


適応率シンクロ・レート……53%! ああ、信じられない上昇速度だ!」


 クラークは震える指先で眼鏡の位置を直し、画面に映る光の波形を、壊れ物を扱うように愛おしそうに撫でた。

 それは単なる数値ではない。彼が心血を注ぎ、自らの遺伝子情報のすべてを捧げて設計した最高傑作が、過酷な地上で生き抜き、そして力強く覚醒した証だ。


「53%……これなら、天使形態の常時顕現も可能だ。理論上のリミッターなど、彼女の意志の前では紙屑同然か。……だが、そんな機能上のスペックはどうでもいい」


 彼は興奮を抑えきれず、狭い研究室内を行ったり来たりし始めた。

 白衣の裾を翻し、誰もいない空間に向かって早口でまくし立てる。その顔に浮かんでいるのは、研究の完成を喜ぶ冷徹な科学者の顔と、遠く離れた我が子の成長を喜ぶ父親の顔が混ざりあった、純粋ゆえの狂気だった。


「あと少し……もし80%を超えれば、一方的な観測ではなく、こちらからの『双方向通信』が可能になるかもしれん。……いや、必ずなる。彼女のナノマシンと、ここのメインサーバーがリンクすれば」


 クラークは足を止め、足元の床――その厚い装甲の遥か下にある、雲に覆われた地上を見下ろすように呟いた。


「話がしたいんだ、天使。君は今、どんな場所にいるんだい?」


 彼の脳裏には、まだ見ぬ地上の光景が浮かぶ。

 データでしか知らない廃墟。汚染された大気。だが、彼女がいる場所はきっと美しいはずだ。


「地上の風は冷たくないかい? お腹は空いていないかい? そこにはどんな色が溢れているんだい? こちらの世界は白と銀色ばかりで退屈だよ」


 彼の願いはシンプルだった。

 ただ、声が聞きたい。

 自分たちが捨てた過酷な地上で、至高の存在である彼女が何を見て、何を感じているのか。

 名前も知らない。どんな服を着ているのかも、誰と暮らしているのかも知らない。

 けれど、彼女は紛れもなく彼が命を吹き込んだ娘だった。


「頑張るんだ、天使。私はここで、ずっと見守っているからね。……いつかお話しできる日を、楽しみにしているよ」


 孤独な研究室で、彼は祈るように、足元の遥か彼方にいる「天使」へと語りかけ続けた。

 その純粋な愛が、皮肉にもアヴァロンを揺るがす引き金になることも知らずに。


 ――


 一方その頃。

 クラークの純粋な祈りとは裏腹に、アヴァロン居住区の裏側では不穏な影が広がり始めていた。


「……また?」


 アヴァロン第4層、一般居住区画。

 かつて地上監視局の精鋭だったアロウェイは、街頭のホログラム広告が一瞬ノイズ混じりに歪むのを見て眉をひそめた。

 

 彼女は現在、アヴァロン管理機構・環境保全課へと配置換えとなっていた。

 かつて地上への過度な干渉を危惧した上層部によって、事実上の左遷を受けたのだ。だが、その腐った政治劇のおかげで、彼女は「楽園の綻び」に誰よりも早く気づくことになった。


「今度は広告塔の座標ズレ……。昨日は気象制御の0.01度の誤差」


 それだけではない。

 通り過ぎた自動配送ドローンが、着陸ポートに対して数センチの誤差で着陸に失敗し、火花を散らした。カフェでは、合成ドリンクの糖度設定が微妙に狂い、客が顔をしかめている。

 極めて些細なトラブルだ。市民たちは「珍しいこともある」と笑って済ませている。


 だが、アロウェイの背筋には冷たいものが走っていた。


「ナノマシンによって分子レベルで管理されたこのコロニーにおいて、エラーは『即座に修正される』のが常識よ」


 自己修復機能を持つアヴァロンの外壁やシステムは、人間が気づくよりも早くバグを潰す。それがこの楽園の絶対のルールだ。

 ただ、ここ数日、その修正が遅れている。あるいは、修正してもまた別の場所でバグが発生する。


「通常なら考えられない頻度ね。……何かが起きているわ」


 アロウェイは鋭い眼光で周囲を見渡すと、手首の端末を操作し、管理用のナノネット(基幹ネットワーク)へのアクセスを開始した。

 表向きのアクセス権限は剥奪されている。だが、彼女は元監視局のエリートだ。裏口の一つや二つ、確保していないはずがない。


「……おかしい。システムログが一部、空白になっている?」


 データの海に、不自然な「無」があった。

 誰かが意図的に情報を消している。それも、かなり上位の権限を持つ何者かが。


「腐臭がするわね。……とびきり酷いのが」

 アロウェイはコートの襟を立て、人混みに紛れて路地裏へと消えた。

 彼女の予感が正しければ、この完璧な空の棺桶は、今にも蓋が開こうとしているのかもしれない。


 ――


 この時すでに、事態はアロウェイの想像よりも遥かに深刻なところまで発展していた。

 コロニー最深部、一般市民は立ち入りすら許されない特別管理区域。

 その一角にある、コロニストが極秘裏に管理するサーバー区画。


 冷房が効きすぎた無機質な部屋に、豪奢なスーツを着た幹部たちが集まっていた。

 普段は冷静沈着を装う彼らの顔は、今は恐怖で青ざめ、脂汗にまみれていた。


「どういうことだ! なぜ漏れ出した!?」

「わ、わかりません! 隔離領域のファイアウォールが、内側から食い破られました!」


 彼らの目の前のメインスクリーンには、不吉な紫色の警告灯が点滅していた。

 その光は、まるで嘲笑うかのように明滅を繰り返している。

 

 かつての大戦時代、地上がコロニーのナノマシンを暴走させようとウイルスを作っていたように、コロニストもまた、密かに対抗策を用意していたのだ。

「地上の猿どもが空に牙を剥いたら、地上にある全てのナノマシンを強制的に暴走・自壊させ、文明ごと焼き尽くす」

 そのための最悪の論理兵器――コードネーム『サニタイズ』。


 地上のあらゆる構造物を「汚れ」と定義し、ナノマシンに自壊命令と無差別分解を行わせる、デジタルな浄化プログラムだ。

 それは厳重に封印され、二重三重のプロテクト下で管理されていたはずだった。

 だが、その『毒』が、容器から漏れ出していた。


「被害状況は!?」

「ごくわずかですが、コロニー内の維持管理用ナノマシンに感染し始めています。……このウイルスは、感染したナノマシンを『餌』にして肥大化する性質があります!」


 技術者の悲鳴のような報告に、幹部がデスクを叩く。

 本来は地上という「ゴミ捨て場」を消毒するための兵器が、自分たちの喉元に牙を剥き始めたのだ。


「まずい……。これが表沙汰になれば、救済の手や市民からの突き上げを食らうどころの話ではない。我々はアヴァロンを危険に晒した戦犯として処刑されるぞ」


 恰幅の良い幹部の一人が、ハンカチで額を拭いながら呻く。

 現在のアヴァロン議会において、コロニストと救済の手の対立は激化している。もし「自作のウイルスで自分たちの住処を壊しかけた」などと知られれば、政治生命はおろか、物理的な生命すら危うい。


「なんとかしろ! 局地的なリセットをかけろ! まだ初期段階だ、駆除できるはずだ!」

「し、しかし、公式な手順を踏んでリセットをかければ、全システムログに痕跡が残ります! 救済の手の監査が入れば一発で……」

「馬鹿者! ……隠蔽だ。あらゆる手段を使って隠し通せ」


 彼らは最悪の選択をした。

 公表して全力を挙げて対処するのではなく、自分たちの保身のために情報を遮断し、闇の中で処理しようとしたのだ。


「システムの一部を凍結し、感染区画を物理的に切り離します。……多少の不具合は出ますが、原因不明のエラーとして処理すれば誤魔化せるはずです」

「急げ。誰にも気づかれるな。……まだ、まだ間に合うはずだ」


 震える声でつぶやく幹部の背後で、メインスクリーンの紫色の警告表示はじわり、じわりと、その支配領域を広げ始めていた。

 それは霧のように微細で、そして静かに、だが確実に広がっていく。


 まだ見ぬ娘との対話を夢見る父の願いとは対照的に、天空の楽園は今、愚かな隠蔽工作によって内側から静かに、そして確実に腐り落ちようとしていた。

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