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第十二話 幼年期の終わり

 鉛色の空から吹き付ける乾いた風が、荒野の砂塵を巻き上げ、エンジェルステーションのコンクリート壁を叩く。

 かつての文明が崩壊し、ナノマシンの雲に閉ざされたこの世界で、風は常に死の匂いを運んでくる。


 だが、その屋上には、凛とした空気が張り詰めていた。


「風速6、右から左へ流れている。……修正値は?」


 ファルケンバーグの低い声が響く。

 その隣で、身の丈には少し大きすぎるコンパウンド・クロスボウを構えた少女が、静かに答える。


「2ミル右。……仰角はプラス1」


 少女――マリアは、スコープから目を離さず、呼吸を整えていた。

 その指先は、白く美しいが、荒野の寒風に晒されても微動だにしない。

 彼女が構えているのは、アレンが愛用する予備の機材を、彼女の体格に合わせて軽量化・高威力化ハイパワーカスタムを施したものだ。滑車カムの力で弦を引き絞り、鋼鉄の矢を音速に近い速度で撃ち出す、無音の殺傷兵器。


 50メートル先。

 風に揺れる古タイヤの隙間に、小さな空き缶が吊るされている。


 吸って、吐いて、止める。

 心臓の鼓動と、風の息吹が重なる一瞬。


 ヒュッ!


 弦が空気を切り裂く鋭い音と共に、鋼のボルトが視認不可能な速度で虚空を翔けた。


 カァァン!


 乾いた金属音が荒野に木霊する。

 標的の空き缶は中心を貫かれ、くるくると回転しながら地面に落ちた。


「……全弾命中。風の息継ぎを完全に読み切ったか」


 背後で腕を組んでいたファルケンバーグが、双眼鏡を下ろして僅かに口角を上げた。

 マリアはクロスボウを下ろして振り返り、汗ばんだ額を拭いながら、花が咲くような笑顔を見せた。


「やった! 見ててくれた、パパ? 今のは完璧だったでしょ?」


 その視線の高さは、かつてのように見下ろすものではなくなっていた。


 身長146センチ。

 金色の髪をポニーテールにまとめ、作業用のつなぎを身に纏ったその姿は、もう「幼児」ではない。

 彼女がギーグスに拾われてから、二年という月日が流れた。

 だが、マリアの肉体時計は、通常の人間時間を遥かに追い越して進んでいた。

 

 平均的な十歳児よりも少し高い背丈。

 だが、その中身はもっと強靭だ。ナノマシンによって最適化された筋肉と骨格は、無駄な脂肪がなく、しなやかな鋼のように引き締まっている。


 かつてギーグスの膝の上で、絵本を読み聞かせられていた幼子は、もういない。

 ここにいるのは、過酷な世界で生き抜くための牙と翼を持った、美しき「戦士」の雛鳥だった。


 ――


「成長期は、ここでストップだね」


 その夜、医務室での定期検診を終えたリンジーが、モニターに表示されたバイタルデータを見ながら告げた。

 そこには、マリアの細胞分裂速度が安定期に入ったことを示すグラフが表示されている。


「急速な成長は、環境適応のための初期ブーストだったようだ。おそらく、この姿がマリアの『ベース』になる。ここから先は、通常の人間と同じか、あるいはもっと緩やかな速度で歳を重ねることになるだろう」


「つまり、もう身長は伸びないのか?」

 そばで控えていたレドリックが、心底残念そうに肩を落とす。


「146センチか……。まあ、被弾面積ヒットボックスが小さくて有利なサイズだがな。それに、狭いスペースに入り込んで整備するのにも向いている」


「そういう問題か?」

 ファルケンバーグが呆れたようにツッコミを入れるが、彼らの表情には共通して一抹の寂しさがあった。


 ミルクを与え、オムツを替え、初めて立った日に大騒ぎし、言葉を教えたあの日々。

 普通なら十年かけて味わうはずの親としての喜びが、たった二年で駆け足に過ぎ去ってしまったのだから。

 マリアの服は、幼児服から子供服、そして今は少年用のミリタリーウェアへと変わってしまった。


 だが、感傷に浸っている暇はなかった。

 マリアの身体能力と学習能力は、大人たちの想像を遥かに超えており、彼女自身がそれを求めていたからだ。


「寂しがってる場合じゃねえぞ。おいマリア! 次は格闘戦(CQC)の訓練だ! さっさと着替えて来い!」

「はーい、プリスパパ! 今いく!」


 ガレージのマットの上で、プリスキンとマリアが対峙する。

 プリスキンは今でこそ整備士の仕事をしているが、元はプロ剣闘士(ナノテク時代の見世物のひとつだった)で、体重はマリアの三倍はある巨漢だ。手加減はしているとはいえ、大人と子供の体格差がある。

 普通なら勝負にならない。


「いいか、力比べはするな。お前の武器は軽さとバネだ。相手の力を利用しろ!」

「うん!」


「いくぞ!」

 プリスキンが丸太のような腕を伸ばし、掴みにかかる。

 圧迫感だけで足がすくみそうな一撃。

 だが。


 シュッ!


 マリアの体が、残像のようにブレた。

 後ろに下がるのではなく、あえて前へ。

 低い姿勢でプリスキンの懐に潜り込み、彼の重心が前のめりになった一瞬を突く。


「せぇっ!」

「ぐおっ!?」


 マリアはプリスキンの手首を掴むと、テコの原理と自身の回転力を利用して、巨体を宙に舞わせた。


 ドサッ!!

 受け身を取ったとはいえ、重い音がマットに響く。


「とった! 一本!」

 マリアが汗を散らしてガッツポーズをする。


「……ははっ、参ったなこりゃ。反応速度が桁違いだ」

 プリスキンは痛む腕をさすりながら、しかし嬉しそうに笑って起き上がった。

「筋力じゃまだ俺には勝てねえが、スピードと動体視力は俺たち以上だ。これなら、並の野盗やゴロツキ相手なら遅れはとらねえな」


 マリアは、ファルケンバーグの射撃技術、プリスキンの近接格闘、リンジーの医学知識、イノシロウの調理技術……ギーグスたちが持つ「生きるための技術スキル」を、乾いた砂が水を吸うように貪欲に吸収していた。


 だが、彼女自身は、自分の力がナノマシンによるものだとは気づいていない。

 ただ、「パパたちの教え方が上手いからだ」と信じているし、大人たちも余計なことは教えていない。

 彼女はあくまで、ギーグスの娘として、普通の人間として育てられていた。


 ――


 翌日。

 訓練の合間の休憩時間、アレンとマリアは拠点の屋上に並んで座り、荒野を眺めていた。

 湯気を立てるマグカップが二つ。アレンはブラックコーヒー、マリアはホットミルクだ。


 ゲートの外には、相変わらずボロボロのテント村が見える。


「……あの人たち、まだいるね」

 マリアが苦笑いしながら指差した。

 そこには、奇妙な踊りを踊りながら太陽(といっても曇りだが)に祈りを捧げるライオネルたちの姿があった。


「おお! 見ろ、天使様が我々をご覧になられたぞ!」

「ありがたやー! 今日も麗しい!」


 遠くから聞こえてくる歓声に、アレンはげんなりと眉間を押さえた。

「ああ。腐れ縁というやつだ。……追い払っても翌日には戻ってくるからな」


 ライオネル率いる「ネイバー教団」。

 彼らはエンジェルステーションを聖地と崇め、勝手に周囲に住み着いていた。

 正直、うっとうしいし不気味だが、彼らが常駐してくれているおかげで、小規模な野盗や野生動物が寄り付かなくなったのも事実だ。

「人間の盾」兼「警報装置」としては、これ以上ないほど優秀だった。


「マリア、あまり手を振るなよ。調子に乗るから」

「えへへ、でも悪い人たちじゃなさそうだよ? こないだも綺麗な石を拾ってきてくれたし」

「それが怪しいんだ」


 アレンはコーヒーを啜り、ふと真面目な顔に戻って娘の横顔を見つめた。

 風に揺れる金髪。まっすぐに前を見据える瞳。


「……マリア。どうしてそんなに訓練を頑張るんだ?」


 アレンはずっと気になっていた。

 この壁の外は過酷だ。暴力と死が日常の、終わった世界だ。

 だが、この拠点の中にいれば安全だ。食料もあるし、我々が守っている。

 それなのに、彼女は誰に強制されるでもなく、泥にまみれて強くなろうとしている。

 普通の十歳の少女がするような遊びよりも、クロスボウの手入れや、ナイフの扱いを覚えたがっている。


 マリアはマグカップを両手で包み込んだまま、少し考えてからアレンの方を向いた。


「だって、私だけ守られてるのは嫌だもん」


 マリアには、かつての襲撃の記憶がない。

 自分が背中から翼を生やし、奇跡を起こしたことも覚えていない。

 けれど、この世界の厳しさは肌で感じている。

 そして何より、アレンたちがいつも体を張って、寝る間も惜しんで自分を守ってくれていることを、彼女は幼いながらに理解していた。


「パパたちは強いけど、無敵じゃないでしょ? アレンパパだって、雨の日は古傷が痛むし、リンジーパパは徹夜するとふらふらだし」

「……よく見てるな」


「だから、私も強くなって、みんなの役に立ちたいの」

 マリアはニカっと笑い、自分の小さな拳を、アレンの目の前に突き出した。


「それに、みんなの背中は私が守るって約束したでしょ? 私、ここが大好きなの。パパたちとずっと一緒にいたいの。だから……最強の家族チームになりたいんだ!」


 その言葉には、悲壮な決意も、トラウマによる恐怖もない。

 ただ純粋な、家族への愛と、自立への渇望が溢れていた。

 

 アレンは胸の奥が熱くなるのを覚え、突き出された小さな拳に、自分の大きな拳をコツンと合わせた。

 

 記憶は失われても、あの時――瀕死の自分を前にして彼女が抱いた「守りたい」という想いだけは、形を変えて彼女の中に根付いていたのだ。


「……頼もしいな。じゃあ、これからは守られるだけの子供じゃない。俺たちのパートナーだ」

「うん! 任せて!」


 灰色の雲の切れ間から、一筋の光が差し込み、成長した天使と、年老いた兵士を照らし出す。

 その光景は、荒廃した世界に描かれた唯一の希望の絵画のようだった。


 彼らはまだ知らない。

 この平穏な時間が、嵐の前の静けさであることを。

 宇宙の彼方から見守る視線と、地上を這い回る悪意が、この小さな楽園を目指して動き出そうとしていることを。


 だが今はまだ、風の音だけが二人を包んでいた。

 幼年期は終わり、物語は次なる章へと加速していく。

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