エピローグ 辺境下水道台帳
ヴェロニカ(田中)は王都に凱旋した。
彼女が最初に行ったのは、疫病の蔓延で恐慌状態にある民衆を(前世の演説スキルで)鎮静化させ、王都の衛兵を組織して「インフラ整備部隊」を編成することだった。
聖女リリアが建てさせた「記念教会」の資材は、そのまま「隔離病棟」の建材に転用された。
王太子が進めていた「美観整備(役に立たない噴水)」の予算はすべて凍結され、即座に「下水道の浚渫」と「浄水場の再建」の費用に充てられた。
元聖女リリアは、「偽聖女」として民衆から糾弾され、インフラ破綻の主犯であるギルベルト商会と共に、辺境の修道院(ヴェロニカがいた場所よりもさらに辺鄙な場所)へと追放された。
元王太子カールハインツは、ヴェロニカ(田中)との契約通り、王位継承権を放棄した。
彼は、ヴェロニカから「罰」として、一つの役職を与えられた。
「王都下水道・第三工区現場監督官」。
最も汚染がひどく、最も過酷な、下水道の浚渫作業の最前線だった。彼は、そこで泥と汚物にまみれながら、自分が捨てた「現実」の重さを知ることになる。
一年後。
王都は、ヴェロニカ(田中)の冷徹で合理的なインフラ改革により、かつてないほどの清潔さを取り戻していた。
疫病は完全に終息し、彼女は民衆から「救国の聖女(ただし、泥まみれの)」と呼ばれるようになっていた。
その日、ヴェロニカ(田中)は、侍女アンナだけを連れ、再整備が完了した浄水場を視察していた。
彼女(彼)は、今や最も信頼する側近となったアンナに、満足げに語る。
「どうだ、アンナ。これで、俺が疫病で死ぬ確率は、限りなくゼロに近づいた。前世の二の舞は、もうごめんだからな」
「はい、ヴェロニカ様。本当に、素晴らしい『政治』でございます」
アンナは、もはや主人の言葉(俺)や行動(ズボン姿)に、一切の疑問を抱いていなかった。
その時だった。
視察ルートの物陰から、一人の男が飛び出してきた。
神官服の残骸のようなものをまとった男が、狂気に満ちた目で叫ぶ。
「悪魔め! 聖女リリア様の奇跡を汚し、神殿の予算を奪った、不浄の女!」
男の手には、鈍く光る「刃物」が握られていた。
前世で、田中健吾が演説中に見た、あの刃物と、まったく同じ種類の――。
ヴェロニカ(田中)の全身が、凍り付いた。
(あ……)
時間が引き伸ばされる。
刺された腹部の、あの「熱さ」と「痛み」。内臓がこぼれ出る、あの「生々しい感覚」。
五十八歳の市議会議員の最期が、鮮明なフラッシュバックとして蘇る。
(またか! 俺は、また……!)
刃物が振り上げられる。
だが、それがヴェロニカの腹部に達する寸前。
「ヴェロニカ様!」
侍女アンナが、いつの間にか護身術で鍛えていた身体で、刺客に体当たりを食らわせた。
刃物が宙を舞い、男は取り押さえられる。
「……はっ……はぁ……っ」
ヴェロニカ(田中)は、その場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえた。
震える手で、自分が今世で手に入れた清潔な「ズボン」を強く握りしめる。
(……助かった、のか)
(ああ、そうだ。インフラを整備し、疫病で死ぬ恐怖は、消せた)
(だが……)
彼は、取り押さえられてもなお「神の罰を!」と叫び続ける刺客を見た。
(前世で俺を刺した、あの市民も)
(今、俺を刺そうとした、この狂信者も)
(結局は、同じだ)
(どれだけ「正しい」統治(インフラ整備)をしようとも、あるいは前世のように「怠慢」な統治をしようとも)
(人間の『非合理な感情(怨恨や信仰)』からは、決して逃れられない)
(政治家である限り、『刺される恐怖』からは、決して……)
ヴェロニカ(田中)は、冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
彼女(彼)は、王都の青い空を見上げ、五十八歳の現実主義者として、皮肉な笑みを浮かべた。
「……アンナ。次の現場へ行くぞ」
「は、はい!」
「下水道台帳の改訂版を、今日の昼までに仕上げねばならん」
彼女(彼)の戦いは、まだ始まったばかりだった。
(了)




