第四章 理想の代償(インフラ・パニック)
ヴェロニカ(田中)が辺境ベルク領で「土木作業」という名の生存闘争を開始してから、半年が過ぎた。
季節は、長く厳しい冬を越え、春が訪れようとしていた。
辺境では、ヴェロニカ(田中)の指導による公衆衛生の徹底と、堆肥(汚物)による土壌改良の結果、一つの奇跡が起きていた。
「冬越しの死者(凍死・餓死・疫病死)」が、統計を取り始めて以来、初めて「ゼロ」を記録したのだ。
領民たちのヴェロニカへの崇拝は、もはや熱狂的な「信仰」に変わっていた。
一方、その頃。王都アウステルリッツ。
ヴェロニカ・フォン・ベルケンハイムを追放し、「真実の愛(と利権)」を手に入れた王太子カールハインツと、聖女リリアは、幸福の絶頂にいた。
「リリア、君のおかげだ。あのアクドク令嬢がいなくなり、王宮は浄化されたようだ」
「カール様……。私は、皆様のお役に立てて嬉しいです」
ヴェロニカの父、ベルケンハイム公爵も、娘の監督不行き届き(という名のスキャンダル)の責任を取らされ、すべての公職を辞し、領地での蟄居を命じられていた。
彼が長年掌握してきた「王都の水利権」および「汚水処理事業」は、王太子の計らいにより、聖女リリアの親族である新興商人「ギルベルト商会」が引き継ぐことになった。
「聖女様の縁故であるギルベルト殿なら、ベルケンハイム公爵家のような『金儲け(利益の追求)』ではなく、『奉仕の心』で王都を清めてくれるだろう」
王太子も宰相(リリアの父)も、そう信じて疑わなかった。
だが、彼ら「理想主義者」は、現実を知らなかった。
王都の上下水道は、外見の華やかさとは裏腹に、旧時代から増改築を繰り返した、迷宮のような代物だった。
それを維持管理するには、長年蓄積された「ノウハウ(経験と台帳)」と、泥にまみれることを厭わない「専門の作業員」が不可欠だったのだ。
ベルケンハイム公爵家が失脚した際、その「ノウハウ」を持つ現場の技術者たちは、公爵家への忠誠、あるいは新体制への不安から、多くが王都を去っていた。
ギルベルト商会は、その穴埋めに、安価だが無知な労働者を雇った。
春。雪解け水が王都の大河に流れ込む。
例年ならば、公爵家の技術者たちが総出で「汚水路の浚渫」と「浄水場の管理」を行う時期だ。
だが、ギルベルト商会は、その重要性を理解していなかった。予算をケチり、作業を怠った。
結果、処理しきれない汚泥が浄水場に溢れ、そのまま「王都の水源」である大河へと、静かに流れ込み始めた。
そして、夏が来た。
最初に異変が起きたのは、貧民街だった。
人々が、高熱と共に激しい下痢と嘔吐を訴え始めたのだ。
だが、貧民の病など、王宮には届かない。
異変が王宮を震撼させたのは、その一週間後。
貧民街から水を引いていた騎士団の兵士たちが、バタバタと倒れ始めた時からだった。
病は、瞬く間に貴族街にも広がった。
「カール様! 大変です! 疫病です!」
王太子カールハインツは、宰相からの報告に青ざめた。
「ば、馬鹿な! 王都には聖女リリアがいるのだぞ!」
リリアはすぐに召集され、病人の治療に当たった。
彼女は祈る。その「聖魔法」の力――ごく限定的な殺菌作用と、人々の精神を昂揚させるプラシーボ効果の増幅――を発動させた。
軽症の者や、病み上がりの者には、確かに効果があった。彼らは「聖女様に救われた」と涙を流した。
だが、現実は非情だった。
すでに激しい脱水症状に陥っている重症患者は、彼女が祈っても回復しない。
何より、次から次へと、際限なく患者が増え続けるのだ。
彼女の「聖魔法」は、汚染された「水源」そのものを浄化するような、大規模な奇跡を起こす力は持っていなかった。
「なぜだ……なぜ止まらないのだ!」
王太子の叫びが、玉座の間に響く。
「聖女様の力が、通じないというのか!」
「カール様……わ、私……」
リリアは、自分の無力さに泣き崩れるしかなかった。
王都は、地獄絵図と化した。
汚染された水を飲んだ者が倒れ、その汚物がさらに水を汚染していく。まさに、ヴェロニカ(田中)が辺境で最も恐れた「疫病の培養槽」が、王都そのものとなったのだ。
理想を語っていた宰相も、愛を説いていた王太子も、現実の「死」の前では無力だった。打つ手がない。
政治機能は完全に麻痺した。
絶望が王宮を覆い尽くした、その時。
一人の近衛兵が、震える声で報告をもたらした。
「……陛下。一つ、奇妙な噂が……」
「なんだ! 今はそれどころでは……」
「はっ。それが……追放されたヴェロニカ様が統治する、あの『辺境領ベルク』……あそこだけは、この疫病による死者が、ただの一人も出ていない、と……」
「……なんだと?」
王太子は、聞き間違いかと思った。
あの汚物まみれの辺境が? 疫病神の悪役令嬢がいる、あの土地だけが、無事だと?
彼は、半年前、自分がヴェロニカに言い放った言葉を、皮肉にも思い出していた。
『君のような疫病神は、王都にはふさわしくない!』
王都は死に瀕し、辺境は生きている。
この「現実」が何を意味するのか、彼はまだ理解できなかった。




