第三章 公衆衛生という名の「政治」
翌朝、ヴェロニカ(田中)は、侍女アンナが必死で湯を沸かして整えた、最低限の身なりで広場に立った。
月のものによる鈍痛と倦怠感は続いている。だが、それ以上に「ここで死ぬ」という恐怖が、彼(彼女)を突き動かしていた。
広場には、三十人ほどの男たちが集まっていた。
皆、痩せてはいるが、農作業で鍛えられた腕をしている。彼らは、昨日着任したばかりの「追放された貴族令嬢」が何を始めるのかと、訝しげな、あるいは無気力な目でヴェロニカを見ていた。
(……この数か。まあ、最初はこんなものか)
田中は、市議として何度も立った演壇を思い浮かべながら、息を吸い込んだ。
「聞け! 辺境領ベルクの領民たち!」
少女のものとは思えない、厳しく、よく通る声が広場に響いた。
男たちが、わずかにどよめく。
「私は、ヴェロニカ・フォン・ベルケンハイム! 昨日、この地の領主代行として着任した!」
まず、己の正当性を宣言する。政治の基本だ。
「着任早々、貴様らに問う。……死にたいか?」
「……は?」
男たちの中から、間の抜けた声が漏れる。
「とぼけるな! 貴様らは、疫病で死にかけている! 昨日、この村を見て回った。あの川の水を飲み、汚物を垂れ流し、悪臭の中で暮らしている。あれは、人が生きる環境ではない! あれは『疫病の培養槽』だ!」
田中の(ヴェロニカの)言葉は、現実そのものだった。
誰も反論できない。皆、家族や隣人が腹を下し、高熱を出して死んでいくのを、ただ「呪いだ」と諦めて見ているだけだったのだ。
「いいか! あれは呪いではない! 貴様らの『無知』が原因だ!」
彼は断言した。
「だが、私はその解決策を知っている。……飲み水と、貴様らの出す『汚物』を分離させれば、病は激減する!」
「汚物を……分離させる、だと?」
「そんなことで、病が……」
男たちがざわめく。
「そうだ! 私には、王都の高度な知識がある! 貴様らが、この地で生き延びたいと本気で思うなら、今から私の言う通りに動け! これは『命令』だ!」
彼は、前世で培った「ハッタリ」と「指導力」を全開にした。恐怖で支配し、希望をちらつかせる。陳情をいなすのとはわけが違う。これは、生きるための扇動だ。
「まず、道具だ! クワとシャベル、ツルハシ! あるものをすべて持ってこい! いいな!」
ヴェロニカの気迫に押され、男たちは顔を見合わせ、おずおずと自宅へ道具を取りに戻り始めた。
(……まずは、掴みは成功か)
田中は、ドレスの裾を邪魔そうにつまみ上げた。
「アンナ、私にも動ける服を。……ズボンがあれば、それがいい」
「ズ、ズボンなど、婦女子が!」
「黙れ。死ぬよりマシだ」
その日の午後から、「大土木工事」が始まった。
ヴェロニカ(田中)は、杖で地面に図面を描きながら、的確に指示を飛ばしていく。
「まず、そこだ! そこを掘れ! 幅一メートル、深さ五メートル! そこを『共同便所』とする! いいか、今後、排泄はすべてそこで行え!」
「次に、水源だ! あの濁った川の水は、もう飲むな! ここの高台、川から一番遠いこの場所に『井戸』を掘る! 清水が出るまで掘り続けろ!」
「そして、川と居住区の間に『溝』を掘る! 生活排水はすべてそこに流せ!」
彼は、前世の市議として、インフラ整備の予算書と設計図を(癒着業者を選定するために)嫌というほど見てきた。その土木知識が、今、フルに活用されていた。
「ところで、ヴェロニカ様」
作業の合間、村長らしき老人がおずおずと話しかけてきた。
「……魔法は、お使いにならないので?」
「魔法?」
「はあ。以前、王都から来たお方が『浄化の魔法』とやらを……」
ヴェロニカ(田中)は、忌々し気に吐き捨てた。
「ああ、あの『地味な』能力か」
彼はこの十日間で、この身体に魔力があり、「水魔法」が使えることを知っていた。
だが、それは空気中の水分を集めて、コップ一杯の水を「じわり」と満たす程度の、あまりに地味で非力なものだった。
「あんなもので、この川全体の汚染が浄化できるか! 病気が治せるか! いいか、我々が今やっているこの『土木作業』こそが、最強の浄化魔法だ! 手を動かせ!」
老人は「は、はあ!」と恐縮し、作業に戻っていく。
三日後。
男たちは、ヴェロニカ(田中)の的確な指示と、何より「本気」で泥まみれになって働く(ズボン姿の)彼女の姿に、当初の疑念を消していた。
そして、一月が経つ頃。
奇跡は、目に見える形で現れた。
共同便所と排水溝の設置。そして、新しい井戸水の供給。
たったそれだけで、あれほど村を覆っていた悪臭が軽減し、何より、腹を下す者が激減したのだ。
領民たちは、この現実的な「インフラ整備」の結果を、理解できなかった。
彼らにとって、これは奇跡以外の何物でもなかった。
「……ヴェロニカ様は、本物の聖女様だ」
誰かが言った。
「ああ、川の呪いを、土を掘るだけで鎮めてしまわれた」
「王都のヒロイン様なんぞより、よほどすごい力をお持ちだ」
ヴェロニカ(田中)は、その熱狂的な「勘違い」を、冷ややかに見つめていた。
(聖女? くだらん。ようやく疫病で死ぬリスクが減っただけだ)
彼は、次の指示を出すために、泥だらけのズボンを叩いた。
「次だ! あの共同便所に溜まった『汚物』を、今度は畑に運ぶぞ!」
「ひ、ひえっ! 汚物をですか!?」
「当たり前だ! あれは『肥料』という名の、金のなる木だ!」
五十八歳の市議会議員の知識が、ファンタジー世界で最も地味で、最も強力な「内政チート」として機能し始めた瞬間だった。




