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辺境下水道台帳  作者: 神矢幻太


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第二章 現実という名の不快感

 夢にしては、あまりにも長く、不快感が五感を支配し続けていた。


 王都を追放されてから、何日が経っただろうか。

 粗末な馬車は、舗装もされていない街道をガタガタと進み続ける。

 刺されたはずの腹は痛まない。その代わりに、硬い座席に当たる尻と腰が痛み、薄いドレス一枚では防ぎきれない晩秋の冷気が、容赦なく体温を奪っていく。


 そして、空腹。

 与えられるのは、日に二度の硬い黒パンと、ぬるま湯だけだ。

(……まだ、この幻覚は続くのか)

 田中健吾は、今や「ヴェロニカ」と呼ばれるようになったこの身体の内で、深くため息をついた。


 だが、彼が「これが夢ではない」と認めざるを得なくなった決定的な瞬間は、追放三日目に訪れた。

 生理現象。

 それも「小」の方だ。

 男性の身体とは根本的に違う構造。そして、貴族令嬢とは、おまる(携帯用の便器)と、それを処理し、身体を拭うための侍女がいなければ、用を足すことさえままならない生物だったのだ。


「……あちらを向いていろ」

 街道脇の茂みで、侍女(名は確かアンナといったか)にそう命じ、震える手で慣れない下着を下ろす。

 五十八年間積み上げてきた「田中健吾」としての尊厳が、音を立てて崩れていく。

 寒さと屈辱に身を震わせながら用を足し終えた後の、不快な後始末。


(現実だ……)

 夢が、これほどまでに屈辱的で、生々しい「不快感」を伴うものか。

(俺は、死んで……本当に、この小娘に……)

 認めたくはないが、認めざるを得なかった。


 加えて、この身体は驚くほど「弱い」。

 市議会議員として、連日の会合や飲み会をこなしてきた五十八歳の肉体の方が、よほど頑健だった。

 この十六歳の少女ヴェロニカの身体は、馬車の振動だけで体力を奪われ、夜の冷え込みで(前世では感じたことのない)悪寒に苛まれる。


(弱い。これでは、病気になる前に衰弱死する)

 田中は、政治家としてではなく、一個の生物として「生存の危機」を痛感していた。


 十日後。

 馬車はようやく「辺境領ベルク」に到着した。

 ゲームの記憶では、緑豊かな「のどかな田舎」だったはずの場所。

 だが、田中の(ヴェロニカの)目に映ったのは、泥と汚物にまみれた集落だった。


「……ひどい」

 侍女のアンナが、ハンカチで口元を押さえて呻く。

 無理もなかった。馬車を降りた瞬間、鼻を突いたのは、家畜の糞尿と、生活排水が腐ったような、強烈な悪臭だったからだ。


 道はぬかるみ、家々は傾いている。

 何より、住民たちの目が死んでいた。顔色は土気色で、多くが咳き込み、あるいは皮膚病で肌を爛れさせている。

 集落の中を流れる小川は、濁りきっていた。その水辺で、女たちが洗濯をし、子供たちが水を飲もうとしている。そして、そのわずか数メートル上流では、汚物が垂れ流されていた。


(……コレラか、赤痢か)

 田中は、市議として学んだ公衆衛生の知識で、即座にこの村の「死因」を理解した。

(衛生という概念が存在しない。これでは、疫病が蔓延するのも当然だ)


 前世で、腹を刺されて死んだ時の、あの「内臓がこぼれ出る」生々しい感覚が蘇る。

 あの死と、今目の前にある「汚染された水」がもたらすであろう、腹を下し、脱水症状で苦しみ抜いて死ぬ未来とが、田中の頭の中で完全に重なった。


「……っ!」

 恐怖が背筋を駆け上る。

(冗談ではない! 俺は、こんな便所のような場所で、疫病にかかって死ぬために生き返ったのではない!)


 彼らに割り当てられた「領館」は、石造りではあるが、隙間風のひどい、ただの大きな納屋だった。

 長旅の疲労と、辺境の絶望的な現実に打ちのめされ、ヴェロニカ(田中)は粗末なベッドに倒れ込む。


 その夜だった。

 今までに感じたことのない、腹の奥底からの鈍い痛みと、倦怠感が彼を襲った。

(……なんだ? まさか、もう病気を発症したのか!?)

 刺された時とは違う、内側からじわじわと蝕まれるような不快感。

 パニックになりかけた彼(彼女)は、シーツに広がったわずかな血痕を見つけ、侍女を呼んだ。


「……おめでとうございます、ヴェロニカ様。初日しょにちでございますね」

 侍女のアンナは、なぜか安堵したようにそう言った。

「……初日、だと?」

「はい。『月のもの』でございます。長旅で遅れておいででしたから、心配しておりました」


 月のもの。

 ……ああ、そうか。月経(生理)か。

 妻や娘のことで、知識としては知っていた。だが、自分が体験するのは初めてだ。

 この鈍痛と倦怠感が、月に一度、強制的にこの身体を襲うというのか。


 ヴェロニカ(田中)は、暗い天井を見上げながら、冷ややかに分析した。

(生存の危機が、また一つ増えたな)

 疫病、寒さ、飢え。そして、この「強制的な弱体化」。

 この世界で生き残るには、まず、この非合理的な現実と戦わねばならない。


(……やることは、決まったな)

 彼の目、十六歳の少女の美しい瞳の奥で、五十八歳の市議会議員の冷徹な光が灯った。

「アンナ。明日、村のおさを集めろ。……いや、動ける男を全員、広場に集めろ」

「え?」

「『公聴会』を開く。……いや、土木作業の開始だ」

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