プロローグ 政治家の最期
じわり、と生温かいものが背広のシャツを濡らしていく。
田中健吾、五十八歳、水上市市議会議員。彼が己の死を悟ったのは、腹部に突き立てられたそれが、鋭い痛みよりも先に、熱い鉄の塊のような違和感をもたらした時だった。
「……お前の、せいだッ!」
耳元で響く男の罵声には、聞き覚えがあった。
(……ああ、あの陳情の男か)
生活困窮による公営住宅への即時入居。何度も市議会事務局に足を運んでいた、痩せた男。もちろん、田中が真剣に取り合うはずもなかった。ルールはルールだ。優先順位というものがある。
ここは、彼の選挙区内にある小さな公民館のホールだった。
国務大臣でもあるまいし、地方の市議に過ぎない田中に、警察のSPがつくはずもない。周囲を固めているのは、いつもの顔ぶれである後援会のメンバーと、気の利かない若い秘書だけだ。彼らは、聴衆を装って近づいてきた男を、「またあの陳情か」と制止するのが一瞬遅れた。
その一瞬が、田中の命取りとなった。
男が上着の下から取り出したのは、刃渡り三十センチはあろうかという、鈍く光る柳刃包丁だった。それが今、田中の腹の真ん中に、根元まで突き刺さっている。
「先生ッ!」
「きゃあああ!」
秘書の悲鳴と、支援者の女たちの絶叫が、やけに遠くに聞こえる。
男が刃物を引き抜くと、熱い塊が消え、代わりに制御できないほどの熱量が腹から溢れ出た。田中は、自分の足で立っていられなくなる。崩れ落ちる視界の端で、男が秘書たちに取り押さえられるのが見えた。
(……くだらん)
床に倒れ込み、仰向けになると、公民館の薄汚れた天井が目に入る。
利権にまみれ、清濁併せ呑み、この水上市で「先生」と呼ばれ続けて二十年。その最後が、こんな「ルール通り」に取り合わなかっただけの男に、刺されて終わりとは。
口の中に、鉄の味が広がってくる。
急速に意識が冷えていく。
(こんな、詰まらん死に方か……)
それが、市議会議員・田中健吾の、最後の思考だった。




