第7話 視線の残響
午後三時過ぎ。
低く曇った空の下、共哉と陽真は、依頼人の案内でマンションの前に立っていた。
大通りに面している5階建ての中層マンション。白い外壁には目立った汚れもなく、エントランスに置かれている植栽は綺麗に整えられていることから、定期的に手入れがされていることがうかがえる。
築年数も浅いようで、出入りする住民も若い男女や小さな子供を連れている家族だったりと、にぎやかで暖かい雰囲気が漂っていた。
依頼人である山本 加奈さんがマンションのオートロックを解除しエレベーターへ向かう。
初めての依頼で緊張しながらも共哉はその後ろをついていき、少し遅れて陽真が乗り込む。開いたまま押さえていたボタンを離し、山本さんが5階のボタンを押した。
「…っ!」
その瞬間、ほんの一瞬だけ恐怖の感情が流れ込んできた。
誰かが残した、おそらく依頼人の娘さんである真美さんの、ひどく怯えたその感情。
行先ボタンが光ると同時、誰かに見張られている恐怖と、家に着いても安心できずに疲弊していく真美さんの姿が。
「おい、大丈夫か。」
「…っ、はい、すみません。」
彼女の強い恐怖にのまれそうになっていた共哉に気付いた陽真の声により、意識が現実に引き戻される。
心配そうにこちらを見つめる陽真に一言「大丈夫です」と返し、依頼人に目を向ける。
彼女は不安そうに扉を見つめており、どうやら共哉たちの様子には気づいていないようだった。
ポンッ、と、目的階への到着を知らせる軽やかな音とともに扉が開く。
二人は目を合わせ軽くうなずきあい、最初に降りていく依頼人に続き、目的の部屋へと向かった。
「ここです。」
吹き抜けの通路の一番先、暖かな日差しが差し込む角部屋の前で立ち止まる。
いくつか束になったキーケースの中から取り出した鍵を差し込み扉を開ける。
「お邪魔しまーす。」
「…―――っ。」
陽真の後、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、息をのみ顔が強張る。
共哉は入ってすぐ、妙な違和感のようなものを感じ取っていた。言葉にできない、微かな異物感。
しかしその違和感はすぐに消え去る。それよりももっと強くそこにあるもの。ここの住人の持つ強い感情。エレベーターで感じた物よりももっと強く激しい感情が―――。
「……何か感じるか?」
陽真がこちらの様子を窺うように訪ねてくる。
「はい…。真美さんのだと思われる恐怖心が…。」
共哉の言葉を聞いた依頼人が心配そうに目を向ける。しかし共哉には、それを気にする余裕はなかった。
視線が心の奥にまで入り込んでくる感覚。
妙に粘ついた、湿ったような視線だった。
こちらを見ている誰かがいる。敵意でも恨みでもない、もっと捻じれた感情が。
喉元に冷たいものが這い上がってくる。共哉の胸がじくりと痛んだ。
今すぐこの場から逃げ出したくて仕方がなかった。でも――
「――でも、それとは別に何か違う感情も…。」
「別の感情?」
陽真が不思議そうにこちらを見る。
頭を押さえ青い顔の共哉を支えるように背中に腕を回し、ペットボトルを差し出してくれる。
「はい、真美さんの感情に呑まれて見つけづらいんですが…。もう少し見てみてもいいですか?」
「つらいだろうと思うけど、頼めるか?俺にはほとんど何も感じられないんだ。」
「はい、やってみます。」
「無理しなくていいからな」という陽真の声に背中を押されるように、もう一度意識を集中する。
初めに伝わる真美さんの恐怖。底知れない不安。それをかき分け、もっと深いところにある歪な感情。
(……っ!見つけた!)
真美さんとは違う人物の感情の先端。見つけた手掛かりを切らないように、細い糸を慎重に手繰り寄せる。
深い意識の中に流れる別の感情に耳を傾け、ここにいた人物の感じていたものを全て受け入れるように。
(これはなんだ…?怒りじゃない、恐怖でもない、別の感情…。
愛情にも似た…強い執着。姿の見えないこの人物の持つ、ゆがんだ宗愛…。)
まるで自分の感情のように、自分が相手になったかのように。
境界が曖昧になり、自分の輪郭がぼやけていく。
「……ゃ、…もや!………共哉!!」
叫ぶ陽真の声に呼び戻されるように意識が戻る。共哉は全身からひどく汗をかいており、呼吸も荒い。
確かにここにあるはずなのに、意識が混合していてはっきりしない。
(見られている…、逃げなければ――!…逃げる?どこに、何から逃げるんだ…。俺は一体――)
共哉の目はどこか虚ろで、腕をだらんと下に垂らしたまま、力なく空虚を見つめていた。
「あの…何か分かったんでしょうか…」
「すみません、山本さん。今日はこれで失礼します。また明日伺わせていただいてもよろしいですか?」
共哉を一刻も早くこの場から連れ出すべきだと判断した陽真は、何が起きたのかわからず青い顔でこちらを見る依頼人を目で制し、簡易的な処理を手早く済ませ足早に玄関へ歩いていく。
「一応視線が気にならなくなるようにはしておきましたが、あくまで一時的なもの。また明日、改めてお話を伺わせてください!」
陽真は投げ捨てるようにそう伝えると、共哉の腕をひっつかみ、返事も聞かずに勢いよく扉を閉め歩き出した。