第6話 始まりの場所
喫茶BARONには、朝の光がよく似合う。
店内に流れるジャズと、微かに香る焙煎豆の匂い。静かだが、どこか温かい空気が流れていた。数日前まで、駅のホームで泣いていた少年――愁未 共哉は、なれない制服に腕を通し、ダスターを片手に真剣にテーブルを拭いている。
「──いらっしゃいませ。」
まだぎこちない笑みとともに、彼は小さく頭を下げる。接客初心者の彼が任されたのは、開店直後のモーニングタイム。神波の指導のもと、メニューを覚え、笑顔の作り方を学び、注文の取り方に慣れていく毎日。
慧登は共哉の後ろから穏やかに声をかける。
「悪くなかったよ、今の。気持ちはちゃんと伝わってた」
「……でも、笑顔って難しいですね」
「慣れるとできるようになるよ。世の中嫌な感情ばっかりじゃないってわかると、きっともっと楽しくなるさ」
言われて、共哉は小さく笑う。
そんな未来が来ることは全く想像できないが、そうなればいいな、とも思うようになった。
そんな日常の一コマ。だが、共哉にとってはすべてが新鮮だった。ここに来てから、自分の感情を整理しようとする時間が増えた。誰かの恐怖を感じることがあっても、すぐに流されることは少なくなった気がする。
これからどうなるかはわからないが、共哉は共哉なりに頑張っていくつもりだ。
「……あれ、あの人……疲れてるのかな」
ふとした視線の先、窓際に座るスーツ姿の女性が肩を落としていた。共哉は無意識に彼女の不安定な心に“触れる”。
胸の奥にざわりとした感覚が走る。焦燥、後悔、苛立ち……その感情の奔流をかすかに受けながらも、彼は背筋を伸ばした。
「水、お持ちしました。……よかったら、少し深呼吸を」
驚いたように彼を見つめる女性に、共哉は一瞬だけ目を細めて微笑んだ。その笑顔はまだぎこちないが、どこか優しくて、静かな安心を与えるものだった。
慧登は、その光景をカウンターの奥で見守りながら、静かに紅茶を淹れていた。
(……少しずつ、馴染んできたな)
神波 慧登――能力者でありながら、この場所を“癒し”に変えてきた男。彼にとって、ここは単なるカフェではない。選ばれた者たちが、恐怖と向き合うための“中継地点”でもある。
ふと視線を感じ、共哉が振り返ると、隣の席にいた影森 静流がスマホ越しにこっちを見ていた。
「……観察やめてください」
「え、観察? してないよ。ただ、ほら……記録、記録」
「記録って……やっぱり監視されてるんだ、俺……」
「違うよ。記録。……“共哉の成長日誌”みたいな」
あきれながらも、共哉は肩をすくめる。その横で、高重 陽真が食器を片付けながら笑っていた。
「ま、静流が言うってことは……何かしら“変化”が出てきたってことだよ。お前自身に」
共哉は、まだ“能力”を自分のものとして受け止めきれていない。それでも、自分が“他人と共に在る”ための一歩を踏み出したという実感だけはあった。
この場所が、彼にとっての“はじまりの場所”になるのだと――。
─────────
カラン──。
木製のドアに取り付けられた小さなベルが、やわらかい音を立てた。午後の暖かな光が差し込む中、共哉はカウンターの奥で拭いていたカップをそっと置き、顔を上げた。
「いらっしゃいませー」
共哉がカウンターの奥から声をかけたと同時、一人の女性が静かに開いた扉をくぐる。
40代ほどだろうか。カジュアルなパーカーにジーンズ姿、けれどその瞳には強い疲労と緊張が宿っていた。深く被っていたキャップをぎこちなく外し、店内をきょろきょろと見渡す。
その様子に気づいた共哉が、そっと声を潜める。
「……慧登さん」
カウンター横でノートPCを閉じていた慧登が、すっと立ち上がる。動きは落ち着いているが、その瞳だけが一瞬、鋭く女性の全身を観察していた。
「……うん。ごめん、クローズしてくれる?」
慧登の声に応じて、静流が静かに立ち上がりカーテンを引く。カサッという布の音だけが空間に残り、店内は一気に外界から切り離されたように感じられた。
陽真は無言で出入口へ向かい、ガチャ、と鍵を回してから、何事もなかったかのように戻ってくる。肩の動きはゆったりとしているのに、その意識は一瞬たりとも依頼人から離れていない。
ふたりの強い警戒心に部屋の空気が張り詰める。緊張が走り、こちらに向けられたわけではないのに、共哉の背筋がピンと伸びる。
「どうぞ、おかけください」
慧登が女性に微笑みかける。その笑みは柔らかく、どこか安心感を与える力を持っていた。女性は、少し戸惑いながらも促されるまま席に腰を下ろす。指先は細かく震え、膝の上でぎゅっと組まれていた。
「お飲み物はどうされますか?」
「……あ、コーヒーを、お願いします……」
少し掠れた声でそう答えると、静流がうなずき、すっとカウンターへ戻っていく。手慣れた動作でミルを回し、豆を丁寧に挽いていく。コーヒーの香ばしい香りが徐々に空間を満たしていった。
慧登は女性の前に腰を下ろし、まっすぐ視線を向ける。
「お茶をしに、というわけではないようですが、なにかお困りのことがお有りですか?」
言葉は疑問を表しながらも、確信したような口ぶりだった。
言いづらそうに顔を伏せる女性に向き合い、慧登は微笑みを絶やさない。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。コーヒーのいい香りが漂う空間に、カチャカチャとカップとソーサーがぶつかる音だけが静かに響く。
静流が湯気の立つカップを手にテーブルに近づく頃に、ようやく依頼人の重たい口が開いた。
「実は、引っ越したすぐ後から、娘の様子がおかしくてなってしまって…。」
「娘さんのご様子が?」
「はい…。あの、いろんな探偵事務所を当たったけど、全部断られて……。こんな話、変だと思われるのは分かってるんです…。それでも私、もう他に頼れるところがどこにもなくて…!インターネットで検索したら、ここで不思議な現象を調査してもらったという方の書き込みを見つけて、それで私、藁にもすがる思いで…。」
女性はうつむき、声を震わせた。
テーブルにコーヒーを並べた静流が、静かにカウンターの中に戻っていく。
「ネットにここの情報出してるんですか?」
疑問に思った共哉は、カウンター越しに身を乗り出し、内緒話をする容量で静流に問う。
もしネットでこのカフェの話が出ているのなら、もっと噂になったり依頼者が殺到したりと、色々騒がれているはずだ。
静流はミルを片しながら、どこか冷めたように共哉を見た。
「そんなわけ無いでしょ。
私が視線をそらして、困ってる人にしか認識できないようにしてるのよ。」
「え、どういう──」
「何でもします!どうかっ、助けてください…っ!」
共哉の声に、依頼人のすがるような声が重なる。
最後の言葉が涙混じりに崩れ落ち、慧登の指が静かにテーブルの端を叩いた。慰めでも、焦らせるでもない。ただ、「ちゃんと聞いてるよ」という無言の合図。
「……娘さんのこと、詳しく教えていただけますか」
慧登の声は低く、包み込むように依頼人の耳に届く。
女性はハンカチで目元を押さえながら、言葉を紡ぎ始める。
「娘は山本 真美、大学生です。私達は二人暮らしで、……この春から、大学に近いマンションに二人で引っ越したんです……。引っ越した最初は、何もなかったんです。でも……だんだん、おかしくなっていって」
「どんなふうに?」
慧登が柔らかく問い返す。
「……“見られてる”って言うんです。誰もいないのに、視線を感じるって。
私にはそれがわからなくて、どんなに部屋を調べてもカメラも何も見つからなくて…。でも娘は、夜も眠れなくなって、食事も減って、どんどんやつれていって……」
「病院には?」
「連れて行きました。お医者様は“ストレス”だって……。でも、娘は……本気で怖がってるんです。“鏡の中で誰かと目が合う”って泣いて……私、どうしたらいいか分からなくて……!」
女性はとうとうこらえきれず、肩を震わせて涙を流した。
その姿を見ていた陽真が、ため息まじりに腕を組みながら言う。
「……これは、現場見に行ったほうが早いね」
慧登が頷き、カフェのメンバーを見回した。
「さて、誰に行ってもらおうかな。店を閉めるわけにもいかないし……陽真」
「うん。行くよ。道具持ってく。」
一つ頷いた慧登が、次に共哉に目を向ける。
その口元浮かぶどこか楽しそうな笑みを見つけて、共哉は嫌な予感がした。
「というわけで――共哉くん、初任務だね」
「えっ……俺がいくんですか?」
目を丸くする共哉に、慧登は肩をすくめて笑った。
「いやかな?でもこのままここに閉じ込めておくわけにも行かないし、いい経験になるよ。陽真も一緒だしね」
「まあ、見に行くだけだし。特に戦うとかじゃないからさ」
陽真が軽くウインクするように片目を細める。
共哉はしばらく黙って考えてから、拳をぐっと握った。
「……分かりました。頑張ります!」
慧登は満足げに目を細め、優しく言った。
「行ってらっしゃい。無理しなくていいから、まずは“視る”ことを覚えてきなさい」