第5話 さよならの証に
「……見た瞬間、頭が真っ白になって、感情がなだれ込んできたんです。俺のじゃない。でも、止められなくて……」
共哉の言葉が、ゆっくりと空気に溶けていく。
その様子を、慧登は黙って見ていた。
静流もまた、カップに口をつけたまま、眉をほんのわずかにひそめる。
「……漏れ出してる」
神波が振り返ると、彼女の視線は共哉に向けられていた。
共哉の表情は落ち着いているように見えたが――
空気が重い。
湿って、苦しくて、息が詰まりそうなほどに。
(ああ、この話……あの記憶が、彼の中でまだ生々しく響いてる)
神波はふと、懐かしむように目を伏せた。
感情が、空間に染み出している。
それは“未処理の恐怖”がそのまま空気に影響を及ぼしている状態だ。
「やっぱり彼の力は、共鳴型だね……」と、神波が呟く。
「彼の中にある“恐怖”が、場を支配してる。今、この場にいるだけで心臓がざわつく」
慧登の目に映ったのは、言葉を選びながら喋る少年の姿。
けれど、それと同時に──彼のまわりの空気がじわじわと“湿り”を帯びていくような違和感。
神波は手を組み、少し遠くを見るようにして言葉を継いだ。
「彼の能力について、確信はまだ持てない。
でも、“感情”が起点になってることは、間違いない。
――恐怖と、それを受け止めようとする意思。その両方が、彼を動かしている」
そして、ふっと目を細める。
「能力を“克服”したら、どうなるんだろうね……」
「え?」と静流が聞き返すと、神波は少しだけ肩をすくめた。
「力を失うのか、もっと強くなるのか、あるいはまったく違うものに変わるのか」
何かを思い出すような、誰かを憂うような。
「あるいは、“異能力者”であったという記録ごと消えるのかも……」
共哉はまだ話を続けていた。自分の中に渦巻いていた恐怖、痛み、名前のない怒りをどうにか言葉に変えて吐き出している。
「――でも、どれもまだ、誰にも分からないんだ」
まるでどこかに消えてしまいそうだと、静流は言いようのない不安に駆られた。
彼の目には、穏やかで、それでいて少しだけ寂しげな光が宿っていた。
――――――――――――――
昼下がりのカフェは、穏やかな空気に包まれていた。
カップから立ちのぼる湯気、かすかに香るコーヒーの匂い。
客の少ない午後の時間、オーナーである神波慧登は、手元の小さな端末に視線を落としていた。
画面に映っているのは、数枚の報告書。
そこには、共哉が“あの日”出会った少女の名前と、簡単な生活状況が書かれている。
(……やっぱり、あの子だったか)
調査は念のためのものだった。
共哉の語った過去の話――暴力を受けていた女の子と、共に家出した記憶。
そして、駅のホームで再会した“知らない女の子”に抱いた感情。
それらがすべて、一本の線に繋がったとき、慧登の中で答えは決まっていた。
「この件だけは、誰にも話さない。……それが、彼のためだろう」
静かに、そう呟く。
彼女は今、暴力の連鎖から抜け出そうとしていた。
助けを求めた相手は――本当にすがったのは、運命的に再び現れた“あの男の子”だったのかもしれない。
だが、共哉はそれに気づいていない。
過去に囚われている彼に、それを知らせることが正しいとは思えなかった。
だから、慧登はその後の彼女の身辺を整理し、金銭的な支援と共に、名前を変えて一人で生活できる環境を整えた。
彼女はもう、誰にも依存せずに生きていける――そんな道を歩み始めていた。
「……あとは、彼女自身が決めることだ」
ふと、昼前に会った彼女の表情を思い出す。
彼女は一度だけ大きく息を吸い、そっとカバンの中から折り畳まれた便箋を取り出した。
「これ、共哉くんに渡してくれませんか?」
問いかけるようなまなざしに、慧登は返事をせずにただ受け取る。
それでも、彼女は続けた。
「駅で……彼と目が合ったとき、なんとなくわかりました。あのときの子だって」
「わたし……ずっと、気になってたんです。あのあと、彼がどうなったのか」
「……ごめんなさい。あのとき、私が弱かったせいで……。でも、私はちゃんと元気ですって伝えてください」
真っ白な封筒には、共哉の名前も、彼女の名前も書かれていない。
ただ、さりげない飾り罫と、封を留める小さな赤いシールだけが、手紙であることを伝えていた。
慧登は少しの間、封筒を見つめてから、そっと胸ポケットにしまう。
誰にも知られず、誰も傷つけず、ひとつの過去が静かに収束した。
彼女が背を向け、駅の雑踏に紛れていくのを見届けながら、慧登は小さく呟いた。
「君も、君なりの物語を生きてくれたらいい。
……共哉も、君も、もう“過去の中”にいなくていいんだ」
慧登はそっと手紙を見つめる。
封筒の裏に、小さな花のシール。
少女の小さな決意と、癒えない傷の跡がそこにあった。
「……共哉くん。君も、きっと知らない所で救ってるんだよ」
ぽつりと呟いた慧登の声は、物言わぬカフェの空気に溶けていく。
彼は、手紙をしまい、ふぅと小さく息を吐いた。
その手紙は、いつか共哉が自分自身を本当の意味で受け入れられたとき――
そのときに、そっと手渡せばいい。
それまで、僕が預かっておこう。