第4話 輪郭のない自分
共哉は、テーブルに置かれたカップをぼんやりと見つめていた。
慧登の言葉が、ゆっくりと胸に染みこんでくる。
──向き合えって言われても、何から話せばいいのか、わからなかった。
「……俺、小さい頃に、ある子と出会ったんです。公園で──」
そこからの言葉は少なかった。
言葉を選ぶ余裕もない。
口を開くより先に、頭の中で過去がよみがえった。
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あれは、小学校に入るより前だった。
両親との3人暮らし。人よりは少しだけ裕福な家庭で育った、ごく普通の子供だった。
休みの日はよく3人で遊びに出かけていたし、両親はとても優しく、近所でも仲が良い家族だと羨ましがられてもいた。
共働きだった両親は帰りが遅くなることも珍しくなかったが、幼いながらも幸せを感じていた共哉は、何の不満もなかった。
所謂鍵っ子だった共哉は毎日のように公園に遊びに行っていた。
その公園で、ある日を境に毎日のように会うようになる女の子がいた。
最初は名前も知らなかった。ただ、同じ時間にそこにいて、同じ遊具で遊んで、少しずつ会話が増えていった。
彼女は、静かで、表情が乏しかった。
笑っていても、どこか目が笑っていない気がして、幼いながらにも違和感があったことを覚えている。
ある日、転んで擦りむいた膝を見せた彼女が、「これは公園でやったやつ」と、無理に笑ったとき、妙な胸の痛みを覚えた。
(あれは違う)
そう思った。理由はわからない。ただ、違うと感じた。
彼女が本当のことを言ってないこと、その傷がもっと別の痛みに由来してることが、なぜか“わかった”。
それからだった。
彼女と会うたび、彼女の感情が流れ込んでくるようになったのは。
胸の奥が、急に締めつけられた。
痛い、苦しい、怖い、泣きたくなるような感情が、一気に自分の中に入ってくる。
──今思うとあれは、明らかに“自分の感情ではなかった”。
それでも当時は、特に疑問に感じていなかった。
だって、彼女の中にあるものが──自分の中にも、確かに“あった”から。
同じことを考え、同じことを感じ、同じことに恐怖する。
同じ考えの人間が仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。
ある日、陽が沈む夕暮れ、いつも二人が帰る時間。
「おうち、やだな」と呟いたのはどちらの声だったのかはわからない。
ただ一つはっきりしているのは、それが共哉の本心だったということだ。
怖い、痛い、寂しい――
見ないふりをしてただけで、父親の怒鳴り声も、母親の顔色も、うんざりするほど脳に焼き付いていた。
その夜、二人で逃げ出した。
公園を抜けて、線路沿いを歩いて、人気のない踏切のそばで、何度もためらって、
でもなぜか“このまま、消えてしまえたら”なんて、思った。
──おかしかったのは、ここから。
自分の中の感情が、どんどん曖昧になっていった。
あの子が怯え、共哉も怯える。
あの子が泣き、胸が裂けそうになる。
気づけば、“彼女の感情”そのものが、“自分の感情”になっていった。
誰かを殴る親に対して向けた、あの子の“恐怖”が、自分の父親の影に重なって──
──自分の輪郭が、消えていく感じがした。
自分が誰なのか、どこにいて、何を思っているのか。
それさえ、曖昧になっていった。
「“俺”って……なんなんだろう……」
もう、怖くて、仕方なかった。
他人の痛みを、自分の中で再現するような感覚。
怒鳴り声、手を振り上げる影、ひび割れたガラスの音──全部、毎日、家に帰ると待っている両親への恐怖が、頭に焼きついていた。
警察に保護されたのは、家を出てから数時間後だった。
泣きじゃくる彼女の隣で、共哉はぼうっとしていた。
事情を聞かれても、うまく説明できなかった。
しかし、迎えに来た両親の心配そうな表情を見た瞬間、抱えていた恐怖が一気に胸からあふれ出る。
“自分の感情”を、“実際に体験した”恐怖を、血走った目で、青ざめた表情で目の前の大人にただぶつける。
そんな共哉の異常な姿を見た両親に、精神科病院へ連れて行かれた。
「混乱しているだけ」「記憶のすり替え」――
病院に運ばれて入院して、ようやく少しずつ落ち着いてきたけど──
あの時感じた“自分が消えていく恐怖”だけは、今でもはっきり残ってる。
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「……だから、誰かの感情が、急に入ってくるのが怖かった。
他人の感情に共鳴するたび、自分が壊れていく感覚があったから。
普通のことだと納得して、もう考えることはやめようって…。」
共感ではなく、侵食に近い。
「好き」や「楽しい」より先に、「怖い」「痛い」が入ってくる。
それに気づいたとき、共哉は――自分自身が怖くなった。
自分の輪郭が、薄れていく。
「愁未共哉」という存在の形が、ぼやけていく。
自分が感じてるはずの感情を、他人の感情が塗りつぶしていく。
(いつか、俺は俺じゃなくなる)
(そのとき、“俺”はどこへ行くんだろう)
共哉は、口の中に溜まった苦味を、喉の奥へ押し込むようにして息を吐いた。
「これが、俺の最初の記憶です。」
「話してくれて、ありがとう。──ちゃんと、届いたよ」
慧登は静かに頷いた。
すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけ、優雅に足を組み替える。
ゆったり微笑んだ彼は、底の知れない穏やかな瞳を共哉に向けている。
「少しだけ、目を閉じてみようか。
深く呼吸して、自分の中にあるものを……そっと見つめてごらん」
共哉は、ためらいながらも慧登の言葉に従い、静かに目を閉じた。
……怖い
呼吸のたびに、あの夜の冷たい風が思い出される。
泣いていた女の子の姿、手を引いて走ったこと、帰り道が分からなくなったこと、
そして、家に帰ったあと、すべてを自分のせいにした親の目。
手の震え。鼓動の乱れ。誰かの痛みが、自分の胸を裂くような感覚――
(違う……これは、俺の感情じゃない……)
(でも、消えない……。混ざってる。俺の中で、もう区別がつかない)
その苦しさを押し込めるように、歯を食いしばる。
だが、次の瞬間――慧登の声が、やわらかく降ってきた。
「大丈夫。全部、君の中にあっていいんだよ」
その言葉が落ちると同時に、まるで胸の奥にしまっていた扉をひとつ、開かれたような感覚が共哉を包んだ。
「他人の感情を感じてしまうのも、恐怖を抱くのも、混乱するのも」
「それが君を弱くするんじゃない。むしろ、その恐怖と向き合える君だからこそ……」
慧登の言葉が、波紋のように共哉の胸に広がっていく。
「……否定しなくていい」
「恐怖は、心の中にいる“小さな君”が発してるサインだ」
「見捨てないであげて。……恐れてる君自身を、置き去りにしないであげて」
共哉は、目を開けた。
視界がぼやけていた。気づけば、涙が頬を伝っていた。
「否定しなくていい。怖いなら、怖いままで。受け入れた先に、本当の君の力がある」
慧登の言葉が共哉の胸に染みわたる。
一言一言がまるで特別な宝物であるかのように、共哉の思考の断片に直接触れてくるようだった。
それはまるで、そこにあることが当たり前であるかのように、違和感なく。
「……俺は、間違ってないんですか?」
慧登は小さく笑って、頷いた。
「間違ってなんかない。君は、よくここまで生き延びた」
「たったひとりで、こんなにも複雑な感情を抱えて」
その言葉が、共哉の心を優しく満たしていく。
長い間、自分自身を責め続けていた心に、初めて柔らかな光が差し込んだような気がした。
しばらくして、慧登は立ち上がり、共哉の背中を軽く叩く。
「さあ、今日はここまでにしよう。きっと、君はこれから少しずつ、自分の力と向き合っていける」
共哉は黙って頷いた。
自分の中にある感情を、慧登はまるで――
(いや、まさか……)
共哉はふと、慧登の目をまっすぐ見返した。
だがその奥には、変わらず何も読めない静かな水面のようで。
共哉にはやはり、居心地の良いものであった。
慧登は歩き出す前に、ふと振り返ってこう言った。
「そうだ、言い忘れてたけど――君を巻き込む原因になったあの子……無事だったよ」
共哉の目が見開かれる。
慧登はそれ以上何も言わず、静かにその場を後にした。
共哉の中に残ったのは、確かな“あたたかさ”だった。