第1話 違和感の波紋
朝。
高校生の愁未 共哉は、制服の襟を直しながら、駅までの道を歩いていた。
普段と何ひとつ変わらない風景。通り過ぎるサラリーマンの疲れた顔、横断歩道で信号を待つ小学生、歩きスマホの女子高生。
けれど、共哉の胸には、じわじわとしたざらつきが広がっていた。
(またか……)
共哉はふと立ち止まる。
道を歩く人たちの背中が、まるで壁のように感じる瞬間がある。誰かが小さくため息をついただけで、心臓がきゅっと痛むこともある。
(誰の感情かもわからない。自分が経験したことなのかも……)
このところ、そんな“誰かの気持ち”が自分に入り込んでくる感覚が、日ごとに強まっていた。
彼は人の感情に敏感すぎるほど敏感だった。
すれ違うだけで「その人が持っている負の感情」、他人の心の色がうっすらと見える。
けれど今朝は違う。心のざわつきがまるで自分のものじゃないみたいに感じていた。
(……なんだろう、この感じ)
改札を通り抜け、階段を上がる。電車はまだ来ていない。朝の通勤客が列を作っていた。いつもの風景。
ふと、吸い寄せられるように視線を向けた、ホームの端。
そこに、ひとり、電話をしている少女がいた。制服姿、肩を震わせながら泣いている。
その表情は、どこか壊れそうで。どこか、見覚えがあった。
「っ……!」
ぐわっ、と波が押し寄せた。
――助けて。
――痛い。
――怖い。
――死にたい。
――だれか、たすけて。
少女の負の感情が、奔流のように共哉の胸に流れ込んでくる。
まるで彼女自身になったような、共哉自身が感じてきたような錯覚。
恐怖、痛み、絶望――そのすべてが共哉の内側を切り裂いた。
まるで、過去にあった何かがフラッシュバックするように。
あの日の、あの感情。
女の子の涙。自分の中に染み込んだ“誰かの恐怖”。
境界線が崩れ――共哉は、自分を保てなくなった。
肩で息をしながら、共哉は周囲を見渡す。
さっきまで平然としていた人々が、目を見開き、怯えた表情で立ち尽くしている。
「なんで……涙が……?」
「苦しい……なにこれ……っ」
周囲の空気が明らかにおかしい。動悸や過呼吸を訴える人も出始めた。
焦燥、不安、動悸、錯乱。見えない“何か”が、全員に襲いかかっていた。
(まずい……)
逃げようとしたそのとき。
目が合った。少女は悲しそうに、諦めたように微笑んでゆっくりと足を踏み出した。
ホームに近づく快速列車。スピードを落とさず入り込んでくる列車に合わせ、流れる注意アナウンス。
彼女の体が宙に投げ出され、気づいた乗客の叫び声と、けたたましく鳴り響くブレーキ音。
瞬間、全身を衝撃が走った。
共哉の中で爆発したのは、“予期不安”。
これから起こるかもしれない恐怖――その想像に押しつぶされそうになった瞬間、意識が真っ白になった。
彼の周囲の空間が軋む。
空気が一瞬、引き裂かれたかのような音を立てた。
「――っ!!」
轟音。
電車の到着を告げるベルとほぼ同時、線路に沿って走るように、鋭い爪痕が走った。
まるで、巨大な何かがそこを“裂いた”ように。
――バンッ!
凄まじい音と共に、電車のフロントガラスが内側から砕け散った。
「な……なんだよ……これ……」
人々が悲鳴を上げ逃げ惑い、茫然自失のまま立ちすくむ共哉の姿だけがそこに残った。