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人間だった頃の名前は、白土了。
しかし彼は最近、それを忘れようと心がけていた。
自らの心の中で自分のことを考えるときも、名前はただの『シラド』という音だけ。
もう俺は、あのくだらない世界に属する、平凡なただの人間ではない。
俺は、世界を支配する者たちの一員。シラド。
シラドは今、協力者を探していた。
デュアルの軍団は、互いに横のつながりが薄い。
それぞれが自分の世界を捨てて魔女に投降したという経歴のため、仲間同士で身を寄せ合う傾向があるからだ、とシラドは分析している。
惜しい話ではないか。
協力、という言葉は嫌いだが、誰かを自分のために利用することは大好きだ。
自分の能力が一分野に特化していることも、世の中には別の分野で自分と同じくらいの才人がいるということも、シラドは認めることができる。誰かの力を取り入れれば自分の創作物がさらに優れたものになるのであれば、喜んで力を借りるつもりだ。
当面のところシラドは、上司面をして自分を支配したつもりでいるお調子者に媚びへつらうことで、望むものを手に入れようとしていた。
「喜べ、シラド!」
お調子者は両手を広げてシラドを迎えた。
「ジャメリン様」
シラドはせいぜい慇懃に頭を下げてみせた。
「ありがとうございます。面倒なことをお願いいたしましたのに、こんなに早く吉報をいただけるとは」
「なに、他の軍団の様子を知るのは、参謀長たる私の役目でもある。お前の希望を聞いてすぐに思い当たる人材はあったのだが、説得に手間がかかったのだ」
その実、この男が参謀長を名乗っているのだって、単なる自称であろうとシラドは内心で思っている。
デュアルの力は強大で、孤高だ。魔女は己の参謀など必要とはしていまい。
ただ、この男の詮索好きは役に立つ。
他の軍団長と違い、ジャメリンは他の集団にちょっかいをかけ、内部事情をほじくりだすのが趣味という男だ。
そんな彼ならば、きっと望みのものを探し出してくれるだろうと、期待はしていたのだが。
思ったよりも早い呼び出しに、内心ほくそ笑むシラドである。
「エメロードという世界を知っているか? あそこの住人はかねてから、物質よりも精神を重んじるという話だった。そういう連中は自分たちだけでこせこせとまとまって暮らすのが常で、やたら神秘めかして手の内も明かそうとしないものだ。
だが、その中にもやはり変わり者はいる。お前の話をしたら興味を示し、会ってみたいと言っておる女が一人見つかった。
呼んでおいたから、しばらくしたらここへやって来るだろう。待っているがいい」
シラドは一瞬、抗議しようとした。
待つのは嫌いだ。
いつだって自分のほうが主導権を握っていたい。
けれどもシラドはその声を飲み込むことにした。
かまうものか。今のところは主人面をさせておけ。いずれ、俺が本物の力を手にしたとき、お前を踏みつけにして笑ってやろう。
ジャメリンがシラドに与えた空間は殺風景なものだった。
というか、デュアルの魔女が部下に与える居住空間は、基本的には何もない。世界と世界の狭間にぽっかりと浮かんだ、穴のようなものだ。
そんな穴が幾つも、無限の中に浮いている。
ジャメリンも部下たちも、自分たちの住む場所をごてごてと派手に飾り付けていたが、シラドはそこに、自分にとって必要な機器を手に入れては、次々に並べていった。
ところ狭しと工作機械や実験機材が置かれたシラドの部屋では、常にどこかで何かの機械が駆動し、色とりどりのランプが点滅していた。
コンセントにささずとも機械は動いた。
この空間が浮いている虚無の中になんらかのエネルギーがあって、それが動力源になっているらしい、とシラドは推測していた。
シラドは惚れ惚れとして室内の機器を見回した。
これこそ俺の望んでいたものだ。
無限のエネルギーによる、究極の研究。
資金や資材の調達などなにも気にせず、やりたいように好きなものを作ることができる。
あまりに得意な気持ちでいたせいだろうか。
「おっ?」
人の気配に驚いたときには、相手はシラドのすぐ隣にいて、じっとこちらを見上げていた。
デュアルの部下たちはいつも、空間の隙間を抜けてだしぬけに現れる傾向がある。
悔しいがシラドはまだ新参者で、なかなかそれには慣れない。
「お、お前は?」
見下ろして、シラドはますますうろたえた。
そこにいたのは白づくめの、見るからにはなかげな少女だったからだ。
ひらひらと、身に巻き付けた白い布のあまりを身体の周囲にひらめかせているだけではない。長く伸びた髪の毛もまた白かった。
リューンの戦士階級の女も髪は白いが、そういうのともまた違う。内側から銀色にぼんやりと輝いているように見えた。
有体に言って、神々しい。
エメロードと、ジャメリンは言っていたか。
長いまつ毛に縁どられた大きな紫色の目がまたたき、シラドを正面から見つめた。
そして、鈴を振るような美声で問いかけてきた。
「あなたは、悪者?」
「なっ、なんだよいきなり」
見かけだけははかなげな美少女の、初対面にしてはあまりにも不躾な問いだった。
あまりのことに、シラドは面食らって目を白黒させた。
「名前も名乗らずに、いきなり人を悪者あつかいかいするのかよ⁉」
「私はエメロードのミリシア」
シラドの荒々しさをまったく意に介さず、平然として少女は自己紹介した。
「あなたなんでしょう? 私に、ゼーラダイトを呼び出せといっているのは」
「その、ゼーラなんとかってなんのことだよ?」
「人の心を操る獣」
歌うような軽やかな口調で、ミリシアと名乗ったその少女は答えた。
「エメロードの巫女だけが、ゼーラダイドを呼び出すことができる。けれども、うまく制御できるかどうかは巫女にもわからない。呼び出す対象を、巫女は選べない。自分よりも力の強いゼーラダイドがやって来てしまったら、逆に巫女が飲み込まれる。ゼーラダイドの一部となって、そのふるまいの方向性を決めてしまう。そういうことも起こり得る。
……だから、確認することはとても大切。あなたは悪者?」
「お……お前こそ、どうなんだよ?」
問われて、ミリシアは薄く笑った。
「私は悪者」
「え……」
「私は、自分の世界をこの手で滅ぼした女」
「そっ、そんなの」
息を詰まらせながらシラドは言った。
「ここの連中はみんなおんなじだろ? ジャメリンから聞いたぜ。ここにいる連中は全部、デュアルの魔女が世界を滅ぼしたとき、最後の最後に変節して、自分の世界を見捨てて魔女の手下になったやつらなんだって」
「いいえ。彼らと私とは違う」
ミリシアはしばし、宙へ視線をさまよわせた。
ほんの少しだけ悲しそうにも見えたが、それはシラドの先入観によるものだったのかもしれない。
それくらい、彼女の声にはなんの感情もこもっていなかった。
「私は巫女。私の世界に仕えるのが、私の仕事だった。それが、力を持って生まれた女の、あの世界での宿命だった。
……けれども私は、その力を使って、私の世界を滅ぼす手伝いをした。
なすすべもなく投降したあの人たちよりも、私の罪はずっと重い」
巫女の小さな身体が、急に大きさを増したようにシラドには思えた。それは、ひとつの世界の存亡を背負うということの大きさでもあった。
ぶるぶる、とシラドは頭を振った。
そんなことはどうでもいい。自分にとって必要なのは、この女が持つ精神世界への能力だけだ。
「要するに、自分が悪人だから、同じ悪人の手助けは喜んでするということか?」
滅びた世界を背負った小柄の巫女の前で、マッド・サイエンティストはせいぜい虚勢をはってみせた。
「あんたが何を考えてジャメリンの誘いに応じたのかは知らないし、興味もない。あんたが、俺の新しい作品を完成させる手伝いをしてくれるというだけで、俺には十分だ」
研究室の奥を指さして見せる。そこにしつらえたガラス張りの作業台の上に、シラドの傑作が乗っている。
「さあ、そのゼーラなんとかを召喚して、その力をこいつに、与えてやってくれよ」