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完璧母の残念な娘は、いないほうがマシなんです!(残念ながら、母の娘は……)2

コミカライズ用に用意した描き下ろしですが、第二部作らないのでもったいないので投下します!意外な人とエーダちゃんの話です!

エーダが死んだ、という話は、彼女が殺された日から一週間もたたずに、王都まで伝わってきた。それだけリリー公の娘の話題は、人々が注目する事だったのだろう。

いいや、悲劇の主人公、美貌のリリー公の話題の一つだから、注目されてあっという間に拡散されたというべきか。それを聞かされたシャルロッテは、どうしてもその話を信じられなかった。

エーダがそう簡単に死ぬわけがないのだ。少なくともシャルロッテの目線でいうと、あの子は易々と死なない女の子だった。

だというのに、屋敷に侵入した賊に殺されただの、遺体は海に捨てられて、その日着ていたものと同じ、一点物の切り裂かれた衣装だけが漁師の網に引っかかって発見されただの、彼女が身につけていた最高級の貴金属は、屋敷のある町の中でも、あまりよろしくない区画で売られていただの、きっと貴金属を遺体から奪う時に、死体を海に投げ捨てて処分したのだろうだの、信じがたい情報だけがどんどん広まっていって、シャルロッテはその現場がある街に行って、真偽を確かめられないまま、日常を送っていた。

また会う機会すらなく、死んだという話の広まったエーダの事を思いながらも、彼女の日常はそれの事ばかりに注目する事を許してはくれない。

というのも、シャルロッテの両親が、彼女にも大家としての仕事を少しずつ回すようになったからだ。

それはシャルロッテが、仕立屋の親方と意見の相違で大喧嘩し、仕立屋を追い出され、仕事を失ったからである。

大喧嘩した理由は、シャルロッテの理想とした見頃の苦しくない華麗なドレス、を親方が嫌がったからである。

こんな物は流行にならないという主張をしてきたのだ。

シャルロッテの方は、おしゃれをしたい女性達だって、いくらおしゃれに我慢が必要と言われがちだとしても、自宅では苦しくないドレスでおしゃれをしたいはずだと言ったのだが、親方の方は。

「楽な服は装飾を増やせないから稼ぎにならない。そして今時の女性の美と、お前の観点は大違いだ」

という意見で、対立した意見で大喧嘩した後に、親方が

「うちの方針に従えないなら辞めろ! お前はくびだ!」

と彼女を蹴り出したという事情からだ。

そういうわけで、追い出されたシャルロッテは、しかしただでは起き上がらない女の子なので、両親に頭を下げて

「うちの賃貸の一階の一部屋を、自分の作った服を売る店にしたい。だから一部屋自分に貸してくれないか」

そうお願いをしたため、両親がもともと家業をシャルロッテにも教える頃だという判断があった事もあり、賃貸管理のあれこれを教えて、働かせ始めたからだ。

エーダにある程度教えて、娘だけではなく、エーダとともに大家をやっていってもらおうと思っていた両親だったが、もうエーダはいないので、シャルロッテ一人でどうにかしなければならないのである。

故にシャルロッテはいろいろな記録を書き留めて、店子の一人一人の情報を整理して、家賃の支払い状況を覚えて、と、自分の働き口以外でも、とにかく大量のやる事に忙殺される毎日だ。

だが両親の方は、あまり一度に大量の仕事を与えても、シャルロッテが整理できないのは容易に想像が付いていたらしく、彼女が家賃取り立てをする人間は、今のところ一人だけにしてあるのだ。

それが、本日の朝、シャルロッテが扉をたたいて家賃支払いを催促していた男、ジョンである。

ジョンというこの男、シャルロッテの両親が、賃貸物件の建て直しを行ってきれいにした後にふらりと現れて、とある羊皮紙を見せてきた男なのである。


「エーダの暮らしてた賃貸ってこのあたりか? あいついないか?」


と、ある日の夕方、家の扉をたたいて現れたその男は、これを頼りにここに来た、と一枚の羊皮紙を見せてきて、それを見せられたシャルロッテ達は目をむいたのだ。

それは見間違いようのないエーダの筆跡で書かれた紙で、そこにはこう書かれていた。


「この人にどこか物件を貸してあげてください。大悪党とかじゃありません。空きがないなら私が一緒に暮らしてもいいです。エーダ」


さらにダメ押しで手形まで押されていて、その手形にはエーダの特徴的な傷もあったのだ。

エーダの手には、小さい頃に負ったやけどのために、手のひらに一部目立つ傷跡があり、手形にはその傷跡の形もあったのだ。


「あんたは一体誰なんだ」


シャルロッテの母である大家が言うのも最もで、男はあっけらかんとこう言った。


「エーダに短剣の投げ方だのを教えたのはこの俺さ。いわばお師匠様だな」


さらに詳しく聞くと、どう聞いても、エーダが十二歳になるまで文句を言いつつ慕っていた男、ジョン兄ちゃんなのである。

ジョン兄ちゃんの話はシャルロッテ親子がしょっちゅう聞いていた話で、男のあれこれはそれと一致しすぎていて、さらにこんな事で自分達をだましても利益などないという判断から、シャルロッテの母はこの男に、一番値段が安くなる部屋を貸したのだ。

そして、シャルロッテには、エーダの師匠ならまだ家賃の取り立てをしてもひどい目には遭わないだろう、とこの男の家賃の取り立てをするように言った。

そういった事情があって、シャルロッテはジョンの家賃の取り立てを行っているのであった。






「……」


熱がわずかに下がった男は薄目を開けて、少女の様子を観察した。少女は男が起きた事に気付かない様子で、その辺りは普通の女の子のようである。まあ男の狸寝入りに気付く女の子は、とても少ないのだ。

男は少女が、自分の手を握っている事にも気がついた。おそらく無意識に何かをつかもうとして、少女が握ってくれたのだろう。

この少女は、性根が悪いわけではないのだ。それを男はあまたの情報から知っていた。

かわいそうな女の子。あまたの乙女のあこがれをかなえたというのに、幸せになれない女の子。

母親の美貌が災いし、周囲から死を願われる少女だ。

……自分もこの少女を殺せなかったのだ。

依頼を受けた時には、そこまで問題だと思っていなかった。短剣を投げる事が得意な少女は、ジョンという軽業師にそれらを教わったと聞いており、軽業師という人間が、殺傷能力の高い戦闘方法は使わないと判断していたのだ。

だが実際はどうだった。

少女は驚くほど接近戦に強かったのだ。長剣という不利な武器を持つ相手の受け流し方などは抜群にうまく、両手に短剣を握りしめて舞踊のように振り回すなど、思いもしなかった。

そしてそれは……男が知っている、一番やっかいな相手と同じ戦法であり、男はジョンという軽業師が、そんな肩書きの男ではない事実に直面せざるを得なかった。

男は知っていた。恐ろしい生き物、ジョン・バルロという盗賊を知っていた。普段使うのは巨大な戦闘の為の斧だというのに、真価を発揮するのが、短剣だという相手を。

そしてその短剣が一度抜かれたら、それを見た人間はほぼすべて、どうあがいても殺される未来しかないと言われているほど、情け容赦がなく、残酷で凶暴な男だとも知っていた。

ゆえに、ジョン・バルロが短剣で戦う様を見て、生きている奴はろくにいないので、殺された死体の数や状態で、そういった噂が流れているだけだと言う事も、男は知っていた。

この少女はそれと同じ戦い方をする。お頭はジョン・バルロと敵対はしていなかったので、物陰からこっそり、その戦い方を見た事があるきわめて珍しい人間だった。

故にわかったのだ。あれとこれは同じ物を使っている。

振り回す短剣の種類までそっくり同じなのだ。戦い方、体の動かし方、対処の仕方、間合いの取り方、それらが女版のジョン・バルロだと言いたくなるほど似ている。

極めつけは、この少女が知らぬ間に、毒の陣を使っている事だろう。

毒の陣。それはある特定の踏み込み方を行い、使用している得物に微量な毒を付与する術だ。人間なら誰しも有している、ほんのわずかな魔力があればそれを発動させる事を可能とするが、戦闘中に、もしくは移動中に、相手に気取られないようにその特定の踏み込み方をする事は難しく、実戦で使う人間はほぼいない。

ほぼ、なのでいるにはいる。それが男の知る限りでは、ジョン・バルロだ。

あの盗賊は、魔物相手にそれを使う。巨大な斧に毒を宿し、凶悪な、普通は一人では立ち向かえるわけもない、凶悪な魔物をしとめるのだ。

あの盗賊は、実戦のために、体の中に毒の陣の踏み込みをたたき込み、ながれるように、息をするようにそれを行う事が出来る。

少女は、それを、気付かれないうちにしみこまされていた。

少女を利用したい人間ならば、涎が出るほど求めるだろう技術だ。本人がそれを意識せずに行えるのならば対象の相手に警戒されずに、近寄れる。

そして、かすかに、切りつければ後は毒が始末してくれる。

全くとんでもない少女を育てたのだ、ジョン・バルロは。

だがそうでなければ面白さがない。

男は、性質は善だが、能力は闇に近い少女を薄目で眺めた。

「悪いようにはしない」

と約束をしたので、非道な振る舞いはしないが、利用しないとは言っていない。

役に立たないならば、役に立つように誘導するまでの事だ。

それが出来ないほど、話術ができない男ではなかった。

しかし。男は握られた手の方に意識を向けた

少女の手は、年若いものとは思えないほどぼろぼろの手触りをしていたのだ。

剣たこなのかペンたこなのか、そう言った堅い部分。切り傷の治った後。火傷の治った痕だろうか、引きつれた部分もあり、手の中には一度薬剤でとけたのか、そう言った事故に合ってしまった受付嬢の手のひらをしている。

ギルドで、適当な冒険者が、中身の性質をよく考えずに瓶詰めや袋詰めをして、結果それらが溶けて中身が漏れる事故というのは、一定数あり、それにぶつかった受付嬢の手はひどいことになる場合もある。

それ故に、受付嬢は若い女の子にとって、あまりいい職場ではないと言われがちで、人気もないのだ。

海千山千のそれなりの年の女性の方が、多くいる職場なのである。

……この女の子は、こんな醜い手になっても、ギルドにしがみついていたのだ。

生きるために。

そして……母親を捜すために。


「面白い」


それだけ母親を捜していたのに、いいや、探していたからこそ身についたあらゆる物が、母親の元にいられなくなる原因になるなんて、喜劇的で面白い。

男は少女をいっそう面白く思った後に、考えを巡らせた。

これからこの少女をどうするか、という事についてだった。

握られている手は柔らかい力でそうなっており、伏せられた瞳の少女の内心はわからない。

ただ何かを思い出したように、かすかに笑みを浮かべた少女は、どこか誰かに似ている気がして、男は見なかった事にした。

その笑みを、男は昔よく向けられていて、それが生きる原動力だった時代もあったという現実に、ふたをするために。




「どうだった、お金ちゃんともらえたの?」


「もらえたぜ、首尾良くやったなって話になった」


にやにやとした顔で結果を教えてくる男達に、エーダはいう。


「お頭……っていうの? あの人の熱は下がったけど、結構体力使ったんじゃないかな。まだ、じっとしてた方がいいかもしれないんだけど」


「熱が下がったなら移動だろうな、お頭の事だし」


「俺たちみたいなのは、足がつくのが一番面倒なんだ」


「エーダインちゃんも、俺等と関わっちまったから、ここに長居は出来ないぜ」


「ふうん……」


エーダはよくわからない世界に、彼等が生きているらしいと何となく感じて、それ以上の問いかけをしなかった。

ただ一つだけ、どうにも気になった事はあったので、それだけ聞いてみようと思ったのだ。


「ねえ、お頭の名前って何、通り名でいいんだけど」


「それはエーダインちゃんが、お頭に聞かなくちゃいけないだろ」


「そうそう。お頭に聞くのが一番」


「子分達が積極的に言う話じゃないな」


彼等が示し合わせたように頷くので、エーダはそんな物なのか、と不思議には思ったのだが、彼等のような生き方をしていると、通り名も機密にあたる可能性があるのかもしれない、と彼等に深く聞く事を選べなかった。

ギルドにもまれにいた。通り名を呼ばれたくないが、本名も名乗りたくないと言う生き方をする冒険者が。

あと賞金稼ぎと呼ばれる生き方をしている冒険者の中には、普段使う名前と、賞金首からささやかれる通り名と、冒険者達から呼ばれる通り名が全部違う、という珍しいのもいて、呼びかけに苦労した相手もいた。

それのようなものかもしれない。

本人が不愉快にならない呼びかけは、本人に聞くしかないのだろう。

エーダはそう判断し、謝礼金を広げて数え始めた彼等に聞いた。


「ここで数えるの」


「当たり前だろ、契約通りの金額か、ちゃんと計算しなきゃならない」


「数枚抜かれてたりしたら、それだけで相手の信頼ぜろだからな」


「こっちみたいなのを相手に、金額をちょろまかすってのは、こっちの筋の人間にあっという間に知れ渡って、仕事頼めなくなるんだが、それをわかってない金持ちってのも、割といる話なんだぜ」


「……ふうん」


迷い無く金貨や銀貨、銅貨を数え始めた彼等に、エーダは聞いてみた。


「私も数える?」


「いいや、これはこっちで数える。エーダインちゃんは、まだ正式な仲間ってわけじゃないから、金勘定はだめだ」


一人が断言し、もう一人が言う。


「エーダインちゃんをこれからどう扱うのかは、うちのお頭が決定する事だからな、俺らが介入していい話じゃないんだ」


「お頭は絶対なの?」


エーダの素朴な問いかけに、彼等は不思議そうな顔をした後に答えた。


「俺達みたいなのは、お頭を一番にしないでやると、崩壊しかねないからな」


わかるようなわからないような言葉で、裏の世界で生きている男達には、彼等独特の組織形態があるのかもしれなかった。

そして、彼等がほぼほぼ金の計算を終わらせた辺りで、お頭が寝ている部屋の扉が開き、男が姿を現した。顔色はましになっている。


「お前達、首尾は?」


「金は契約通りですね」


「仕事が速いって喜んでましたよ」


「なんでも、失意にかこつけてすでに、お見合いをいくつか取り付けられたとか」


「貴族の切り替えって早いっすね」


「跡取りがいないってやべえっすもんね」


「喪に服すっていう期間なしに縁談って、貴族の闇がやべえ」


「娘の血の半分が、庶民だってので、気遣う必要が目減りしてるんすもんね」


彼等は口々に聞いてきた事その他を言う。エーダは母がそんなにも早く、夫を迎える事を了承した事に驚いたが、こう言った夫を早々に迎える話は、ない話ではないのだろう。

どこかの大きな商家の話だが、兄の死亡後、弟が兄嫁とすぐに再婚し、兄嫁とその子供を自分の家族にして、守ったという話もあるのだ。

継がなければならない物のある家では、安定のために迅速な結婚も必要とされるのだろう。まして、母は夫をずいぶんと前になくしているわけで、そういった意味では障害がなかった。

自分という後を継ぐかも知れない娘が死んだ事で、夫を迎えなければならない状況になったのだろう。

貴族は自分の跡を継ぐ人間を重要視するのだ。

それが、巨大な領地を賜った母にも言えた事という話なだけだ。

父を愛していると言っていた母でも、跡継ぎ問題が関わると、その愛情に蓋をするらしい。

エーダはあまり悲しくも衝撃的でもない自分に、少し考えて納得した。

思えば自分は、こんな未来がすぐに来ると、どこかで予想していたのだ。

母の元から排除されて、母が即座に再婚を選ぶという未来を、全く予想していないわけでもなかったのだ。

それは普段の使用人達の扱いから想像した事で、エーダが心のどこかで考えていた未来の一つだ。

それがやってきたというだけで、エーダは足下さえぐらつかない自分に、かすかに苦い思いを抱いた。

結局結末はこれなのだ。

美しい女性は誰からも愛され、その女性の幸せを邪魔する人間は排除される。

美貌の母と、平凡な顔に凶暴な能力を持った娘の結末としては似合いだ。

意に染まぬ結婚を選ぶ事になった母に対して、かわいそう、と言う気持ちすらわいてこない。それは母が、どういった状況であれ、自分の意思で、何かを人質に取られたわけでもなく、結婚をするという選択肢を選んだからである。母は、一人娘がもしかしたら生きているかも、と言う事を考えもしないらしい。

娘が死んだとあっという間に納得し、次の生き方を選んでいる。

どれをとっても、涙の一つもでやしない事で、エーダは言った。


「じゃあ、早くここから逃げなくちゃね、私」


死んだと思われていた女の子が生きていたら、それはそれで、騒ぎになる。

母の結婚の話はなかった事にされるかも知れないし、その事でいらぬ恨みを買う可能性の方が、母に守ってもらえる可能性よりも、高いだろうとさすがのエーダにも予想がついたのだ。


「間違いなく、見つかったらとんでもない騒ぎだろうな」


その言葉に男が同意し、部下達を見回して言う。


「二日以内にここを引き払い、王都の北区に移る。いいな」


「北区っすか」


「久しぶりっすね、北区」


「また家借りなきゃならないっすよ、お頭」


「忙しくなりますね」


「北区?」


王都の北区。あまりいい話を聞かない区域に、エーダが繰り返すと、男が言う。


「エーダインは西区の出身だったから、北区のいい噂は聞かないだろうが、仮にも王都の一角だ。情報を集め続けるには都合がいいのさ」


「ふうん」


治安が悪いだの、スリが多いだのと聞いていた北区にも、生活する人はいるのだから、びっくりするほどの違いはない、といいたいのだろう。

区域による対抗心はどこにでもある話という事で、エーダは深く追求はしなかったのだった。

自分の区域をひいきするあまり、ほかの区域の悪口を言うなんて、ありふれた町の形なのだから。





「おはようシャルロッテ」


「おはようございます」


「あんたの針仕事は速くて正確で感心するよ。でもあれだろう、意見の不一致で前いた仕立屋を追い出されたんだって?」


「そうなんです。私の目指したい服と、親方の考えが一致しなくて」


「親方は男だからね、女の子の目線でのあれこれは考えないんだろうよ」


シャルロッテはなんと答えればいいかわからず、困って笑いつつ、針仕事に移った。

シャルロッテはただ、家の手伝いをすればいいわけではない。家の手伝いをしても、もらえるお金は子供のお小遣いくらいなのだ。故に両親から借りている部屋の代金を、ほかの仕事で稼がねばならなかった。

母も父も、そのあたりは厳しいのだ。半人前の大家のシャルロッテに、一人前のお給料は出さない。

自分の店を持つという夢を持っているシャルロッテだが、お針子としての技量は一人前というかまだ自分ではわからない状態だし、手を出させてもらえていなかった故に、裁断の技術も足りないので、別の仕立屋に就職活動を行い、また一番下の下働きから始めているのだ。

そこは前働いていた、街一番の人気店ではないが、固定の客の売り上げで、結構な金額を稼ぐそれなりの店である。

人気店ではないが、最高級の格の店である。

その理由としては、豪華な刺繍などを得意とする熟練の職人を多く抱えている、大量生産ではない売り方をするところだからだ。

シャルロッテが働いていた店は、街一番の人気店だが、大量生産を売りにした側面もあったので、いろいろ勝手が違うが、これもこれでいい勉強になっていた。

何しろ上位の貴族を相手にしているので、安さなどで服の質に目をつぶってもらう事をしてもらえない店だからだ。

故にシャルロッテの働いていた店の人間よりも、一人一人の技術は明らかに高い。

少女が仕事に就く時に、一緒に働くお針子の女性が、一つのドレスを示して、このドレスは今日中に刺繍の担当が持ってきてくれないと、縫い上げられずに納期に間に合わなくなるという話をしてきた。


「刺繍の技術は、どうしたって専門家に頼まないと納期に間に合わないからね」


「そうそう、刺繍糸を作るところから、あっちの専門家に頼まないと、貴族の満足する糸すら仕立屋は手に入れられないってんだから」


仕立屋は意外かもしれないが、明確に分業だ。一人で何でもできるという人間は、すべてがわかるから店長や親方という立場になる事もできるが、本来は一つの事を極めきった人間が集結して初めて、最高の衣類ができあがる。布地を作る専門家、染めを行う専門家、一枚の布から切れ端などほとんどない様に無駄なく裁断する専門家、刺繍をする専門家、レースやフリルをつける専門家、全体を縫い上げる専門家。どれか一つでもかけたり未熟だったら、できあがるものは不完全だ。

しかし、シャルロッテは自分の理想とする衣類のために、それらすべてができる万能な仕立屋を目指していた。店長になりたいからというわけでもなくて、ただ自分が理想とするものを作るために、その技術が必要だから、身につけるまでなのだ。

今のところ、一番人手が必要な全体を仕上げる縫い子をしており、元々シャルロッテにそれの経験があるから、もうそこに配置してもらえているという、なかなかの好待遇なのであった。

普通だったら、もっと下の段階から始めるのである。


「さて、皆さん、今日も頑張っていきましょう!」


仕立屋の店主が号令をかけて、シャルロッテを含むお針子達は、返事をして作業に移ったのだった。





「シャルロッテ、あなた明日から裁断に回ってね」


そして一日が終わり、シャルロッテは帰り際に店主にそう言われた。縫い子としての技術が認められて、ほかの事の勉強をしていいと言ってもらえているのだろうか。

それとも、縫い子として成長できないという判断だろうか。

返事をするのに一瞬黙った彼女に、店主は言う。


「あなたがお針子をしていると、お針子の部屋に贈り物をしたがる男達が多くて、そろそろ面倒になってきたのよ」


「……そうなんですか」


「あなたが悪いんじゃないわ、あなたは仕事熱心で一生懸命で、目指す夢があって、何一つ悪い事をしていないって、わかってるの。でもほら、うちのお店はお針子達の部屋に大きめの窓がいくつもあるでしょ? そこから男達が覗いていて、不愉快って言うほかのお針子達からの苦情も回ってきたの」


それゆえ、店主は対応しなくてはいけないから、シャルロッテを急遽、窓のない部屋である裁断の担当に回す決定をしたのだという。


「ごめんね、あなたは縫い子として申し分ないくらいの技術で、縫い子として一人前のお給料を渡したい位なのに」


その言葉に、シャルロッテは顔を輝かせた。一人前のお給料を渡したい、それはつまり。


「私、そんなに縫い子としての技術が身についていたんですか!」


「ええ、そうよ。こんなに若いのにもう一人前で、いい新人が入ったって裁縫担当の皆で喜んでいたのに」


「いいえ、それだけの物があると言ってくださってありがとうございます! 裁断も、一生懸命勉強して、速く一人前っていわれるくらいになりますね!」


縫い子としての技術が一人前になった。それはシャルロッテの成長の第一歩になるだろう。夢のための第一歩だ。そして裁断を覚えて、それから刺繍も覚えて。さすがに布地は専門家に任せなければならないだろうが、それの仕入れだって学ばなかったら、自分の店を持つと言う夢は叶えられない。

笑顔になったシャルロッテを見て、店長は目を丸くした後に笑った。


「あなたが気に病んで落ち込むかと思ったけれど、あなたは前向きね! 結構心配していたけれど、その必要がなくてほっとしたわ!」


「これからもよろしくお願いしますね!」


シャルロッテは笑顔でそう頭を下げて、帰路に付いたのだった。



そしてその帰り道の事だった。

彼女は店長との話で、帰りが遅れてしまった事で、少し近道をしようと、いつもは通らない細い道を通ろうとした。

そんな時だ。


「シャルロッテ! 今日こそ僕の情熱を受け止めてくれ!」


「きゃあ!!」


彼女はいきなり腕を捕まれて、物陰に引きずり込まれたのである。

引きずり込んだ相手は、前の店にいた時に、結構しつこく言い寄ってきていて、毎回毎回、エーダに追い払われていた男性達だった。

男性達は達という位なので複数で、シャルロッテを見る顔はぎらついていた。


「な、なに!!」


そんな視線を向けられた経験のないシャルロッテは、その気持ち悪さに涙が出てきそうだった。だが男性達は言う。


「シャルロッテ、君はどれだけ僕が口説いても、無視に無視を重ねるから」


「どんなに声をかけても、知らないふりをするから」


「もう俺たちも我慢の限界だ」


「俺達は結構忍耐強かっただろう?」


そう言って迫ってくる複数の男性達。何が何だかまるでわからない、とシャルロッテは必死に頭の中の記憶を探った。

だが身に覚えがない。しかしエーダのいなくなった自分は、朝もなかなか早起きができなくて、寝起きで必死に仕事の時間に間に合うように走っていて、声をかけられても全く気づいていなかったのかもしれない。

それを、彼らは無視されたと思ったのかもしれなかった。

それくらい、相手の男達の事は記憶に無かったのだ。


「あんまりにも誰にもなびかないものだから」


「話し合って、シャルロッテを共有しようって話になったんだ」


「そういう仲になれば、シャルロッテは俺達の物だろう?」


それを聞いて、少女は青ざめた。

どんなに鈍感でもさすがにわかる。これはいわゆる、身の危険や貞操の危機だ。そういった危険にあまり触れてこなかったシャルロッテでも、それはわかった。

彼女は目を左右に向けたが、自分達が路地裏にいるせいで、大通りの通行人はこの事に誰も気付いていない。

どうにか自分だけで、この危険を脱しなければならない。

ありふれた女の子の抵抗として、シャルロッテは大声を出そうとした。

だが。

それを見越した男の一人が、シャルロッテの口を布で塞いだのだ。


「君を愛する男達を拒否しないでくれ、シャルロッテ」


愛する人の嫌がる事をして、愛しているなど冗談ではないと言おうとしたのに、声は出せずにもごもごという音にしかならない。


「本当なら、君の可憐な唇に接吻したいのだけれども」


彼らは自分達の側が正しいと言わんばかりに、残念そうにそういう。

だがそんな怖気の走る事をされるなどひどい話で、シャルロッテは二人がかりで押さえ込まれながらも、必死に抵抗しようとした。

だが、暴れる事など経験のない普通の女の子に、脱出の機会はない。

このままこの男達の思うままにされるのか、と思うと絶望で目の前が真っ暗になりそうだった、その時だ。


「おぅ、楽しそうな事してんじゃねえの」


妙に余裕のある、からかうような声が背後から響いてきたと思ったら、シャルロッテを押さえていた二人の男が、ものの見事に放り投げられた。

男達は壁に激突し、ひくひくとけいれんして動かなくなる。


「誰だ!!」


「誰だ、僕たちの愛を邪魔するのは!」


思わぬ邪魔者に、残りの男二人が激高してつばを飛ばす勢いでわめく。

シャルロッテは、あっさりと大の男を二人も投げ飛ばした人間が誰なのか、拘束されながらも確認しようとした。


「小娘一人に四人がかりで愛だぁ? 俺の考える愛ってのとずいぶん系統が違うらしいな」


その誰かは、のんびりとそう言っている。押さえ込まれたシャルロッテの側からは、背後になるためその男の正体がわからないのだが、その男を見ているらしい、残りの二人は顔色が悪い。


「お前には関係のない事だ、痛い目を見たくなければとっとと立ち去れ!」


それでも男達が強気に出ると、その誰かはやはりのんびりとした余裕のある調子で言う。


「どう痛い目に遭うんだ? 痛い目に遭わせるって事は、自分たちが反撃されても文句言いませんって言う意味だぜ?」


「なっ、なっ、なっ」


相手を不愉快にさせる言い方だ。それは間違いなかった。

相手を思い切り馬鹿にしている物言いとしか思えない言い方と口調である。


「おうおう、やってみろよ、その痛い目って奴」


「この、図体のでかいだけのうすのろが!」


男の一人が頭に血を上らせてそう叫び、持っていた長剣を振り抜いて斬りかかる。縛られて身動きのとれないシャルロッテは、今もなお逃げ出す事がかなわず、それらを見届ける事になった。悲鳴さえ上げられない。

だが斬りかかった男は、しかし何が起きたかわかる前に、また投げ飛ばされて、自分の剣を握り続けられずに壁に打ち付けられた。


「そんなご大層な剣を持ってても、持ち主が三下じゃ剣の方がかわいそうだな」


男はのんびりとした調子でそう言っている。

もう一人はそれを見て真っ青な顔になり、その誰かを見てからシャルロッテを見て、こういう。


「シャルロッテを狙っているんだな! シャルロッテは俺達の物だ!」


そう言って、その男に飛びかかろうとして……繰り返しになるが投げ飛ばされて、頭を打ったのかこれもまた、倒れて動かなくなる。


「なぁんで、こんな不細工狙わなきゃならねえんだっての。俺だって相手選ぶわ。おう、家主のお嬢ちゃん。こんな細い道は女の子が通っちゃいけない道だって、誰からも教わらなかったのか?」


その男はそう言って、シャルロッテの縛られていた縄をあっという間に切り、シャルロッテの口を解放して、欠伸混じりにこう言ってくる。


「それともなんだ、今までエーダが全部露払いしてたのか? あいつそういうところがだめなんだよなぁ」


「……ジョン……?」


「おう、エーダの師匠のジョン兄ちゃんだ。さっさとこんな道出るぞ。全く。俺が通りかからなかったら最悪の事態になってたぜ」


男はそう言って、シャルロッテを乱暴に立たせて、大通りに引きずっていく。身長の分足が長くて、シャルロッテは駆け足になりながらついて行く。

そして大通りに出た事で、シャルロッテはようやく息を吐き出した。

今更のように、されかけた事に対しての恐怖が襲ってきて、血の気が引いてきて、体が一気に寒くなった。


「だーからあの馬鹿は、もうちょっと友達の事考えて動けと」


そんなシャルロッテを見下ろして、男が誰かに対しての文句を言う。それはシャルロッテの知っている誰かに向けての言葉だと、彼女はどうしてか気づいた。

そしてこの男がそう言いそうな相手は、たった一人だ。


「それって、エーダちゃんのこと?」


「あ? それ以外にいるのかよ、お嬢ちゃんの事何もかもから守ってた馬鹿」


「エーダちゃんを馬鹿馬鹿言わないでよ!」


「だって馬鹿だろ。危ないって事も教えないで、自分が守ってりゃそれでいいって考えた馬鹿。いつかそれも終わりが来るって考えもしない馬鹿」


「……」


意味が全くわからない。シャルロッテが黙ると、男は、ジョンは言う。


「エーダだっていつまでもお嬢ちゃんの事だけを守れるわけじゃない。だから危ない道の見分け方も、後ろをつけられているっていう事に気づく方法も、身を守る方法も、お嬢ちゃんの事を長い目で見ていれば教えにゃならなかったんだ。それを教えなかったんだ、馬鹿だろ、馬鹿」


思った事の無い視点からの言葉だった。

シャルロッテは反論する事もできずに口を閉ざす。

ジョンはエーダの師匠だったのだという。それ故に、身も蓋もなくエーダを馬鹿だといえるのだろうか。

エーダが守ってくれていた事を、批判できるのだろうか。

黙って考えてしまったシャルロッテに、馬鹿みたいに背の高い大男は言う。


「お嬢さん、自分の身を守るためなら、すぐに覚えられる事を二つくらいは教えてやる。お嬢さんは人通りの多い大通りしか歩いちゃだめだ。それで、時間も、人の顔がわかるような明るい時間以外は通っちゃだめだ」


「……どうして?」


細い路地の近道だって、シャルロッテは知っている。エーダと一緒に通った事もある。

顔のわからなくなる夕方にだって、彼女は活動していた。今までは。

だがそれらはだめだとジョンは言う。理由が、うまくわからなかった。

そんな少女のどうして、に対してジョンははっきりと明言する。


「お嬢ちゃんが、自分の身を守る強さを持ってないからだ」


「……持っていればよかったの?」


「そうだな、エーダくらい男相手に殴り合いができりゃ、こんな話しねえし、忠告もしない。でもお嬢さんは、殴り方も蹴飛ばし方も、何一つしらないだろ」


「……」


ただの現実と事実を語る調子で、軽業師だというのにやたらに、戦いなれているような言い方の大男は言う。


「自分を守る方法ってのを知っていたら、危ない道を通るのもありふれた選択肢のうちの一つだ。でも身の守り方の事を何一つ知らないのに、そういった道を通って、危険に巻き込まれても、誰も同情してくれないし、たんなる無知な馬鹿扱いになる」


ジョンは厳しい事を言った後に言う。


「で。大通りなら、見ている人間がいるのに変な真似をくわだてる大馬鹿はそうそういない。顔のわかる明るい時間なら、誰が何をしたってすぐに噂になるから、変な事をやろうとする考えの足りない事はめったにできない。あらがう力を何一つ持っていないんだ。お嬢さんは自己防衛のために、これくらいは覚えておけよ」


そこまで言った時である。


「やい、そこの! シャルロッテさんと意味ありげに向き合って、なんなんだ!」


若い男が一人、図体だけならば自分より遙かに大きなジョンに、食ってかかってきたのだ。噛みつく様な調子で、ジョンにまくし立てる。

言われている方のジョンは、面倒くさそうな顔を隠しもしなかった。


「はあ。お嬢さんはおれの家主なんだよ、ちょいと家賃交渉を」


どうやら、少女が襲われかけていたという事は、言わないでいてくれるらしい。

女の子にとって、そういった事が致命傷になる事もありうるのだと、この男も知っているのだ。

それは間違いなく、気遣いというものだった。襲われるというのは、女の子にとって不名誉なのだとされがちなのだ。

隙があったからだ、誘っていたのだ、とひどい人になると知ったように批判するのである。

それのせいで、未来が閉ざされた女の子の話も、どこかで聞いたような覚えがあった。


「何を生意気なことを言っているんだ! シャルロッテさんみたいな美しい大家さんなんて、なんてうらやましい! その事にありがたみをもって、家賃を倍増して払うならともかく!」


「なんか変な主張だな。まあいいか、あんた、お嬢さんの事家まで何もしないで送れるか?」


「もちろん! シャルロッテさんと並んで歩けるなんて、エーダがこっちにいた時は夢のまた夢だった! ……あ、すみません、シャルロッテさん……」


二人の前に出てきて、ジョンに文句を言ったシャルロッテも顔を覚えていた男が、自分の失言に気がついて謝罪してくる。

彼が言った言葉は本当に事実でしかないが、エーダが死んだと言われている今は、言っていい事ではなかった。

そのためシャルロッテは曖昧に笑い、言った。


「ごめんなさい、……ジョン、家まで送って」


「面倒くせえなあ。あんたの事安全に送れるって言ういい男がそっちにいるのに」


「……エーダちゃんの事で、まだ私……」


「そんな、本当に失言だった、だから、ごめんなさい、シャルロッテさん、僕に送らせて……」


「ごめんなさい!」


エーダが死んだ事を間接的に喜ぶような相手を前にして、シャルロッテはもう平静ではいられなかった。先ほどの事もあって、彼女は走り出したのだった。

大通りを。ひたすらに走り抜けたのだった。



涙ばっかりこぼれてきて、何の役にも立ちやしない。シャルロッテはぼろぼろとこぼれていく涙と嗚咽に、心底うんざりしそうだった。

どんなに泣いても、エーダには会えないのだ。なのにエーダのために泣いて、なんの足しになるというのか。

泣いてエーダが帰ってくるなら、目が溶けて無くなる位に泣いたっていい。

でもエーダは戻ってこないのだ。だから涙に価値はない。

それでも、誰かから、エーダが死んだという一般的な現実を言われると、シャルロッテのぎりぎり立っている足下は、たちまちぐらぐらと揺れて、まともに二本足で立っていられなくなる。

エーダが死んだという事を思うと、途端に針さえまっすぐ動かなくなる。

そんな風にしていても、エーダが帰ってくるわけじゃないのに、とシャルロッテは自分の情けなさにもうんざりしたし、弱さにも幻滅していた。

エーダちゃんは一人でも生きていけるくらいに強かった。自分一人の事だけだったら、エーダちゃんは何だってできたのだ。

自分を振り返って思えば、ずっとエーダちゃんの隣で、のほほんと笑っていればよかった半生だった。

この、エーダちゃんなしに、回らない人生を送って来ていたという事実も、シャルロッテが自分にげんなりする真実だった。

誰しも、一人である程度の事ができるようにならなければ、こんな世界は生き残っていられない。

なのに、自分はそんな世界の真実にすら目を向けなくていいくらい、誰からも甘やかされていたのだ。

それがわかってしまった程度には、シャルロッテは周りの事が見える女の子だったから、それに甘えて浸りきっていた自分に対する、あきれ果てた感情は他の人よりも大きかった。

エーダちゃんがいなくても、立って歩けるようにならなくちゃいけない。

そうならなかったら、この世で生き残って、夢を叶えるなんていう大きな目標に到着できるわけもない。

だと言うのに、自分はエーダが死んだという事を何らかの形で見るたびに、痛めつけられて、本当に弱くて、腹が立った。

シャルロッテは必死に涙を止めようとした。嗚咽を押さえ込もうとした。

なのに、それらは止まってくれないし押さえ込まれてもくれない。

いい加減にしてよ。

シャルロッテが自分の弱い部分に、腹の底からいらだった時だ。


「なんで家主のお嬢さん、俺の家の前にしゃがみこんでんだよ」


あきれた声を頭上から浴びせてきたのは、大通りにおいてきたはずのジョンだった。

ジョンはシャルロッテの涙も嗚咽も、全く気にならないらしい。

それどころか。


「家に入れねえから、そこ開けろよ。家主のお嬢さん」


そう言って、シャルロッテを靴の先でつついた。

扱いがとっても雑なんだ、といつかエーダが話してくれた事を、シャルロッテはまた思い出して、また泣きそうになる。


「……エーダが死んだって聞いて、そんなに泣くものかねえ」


つついても動く気配のない彼女に対して、エーダの粗暴な師匠はそんな事を口にした。


「だって、エーダちゃんに、もう会えない」


「おいおいおい、あれがあの程度でくたばるたまかよ」


「……え?」


嗚咽が、止まった。いいや、ちがう。息をのんだのだ。


「たかだか部屋がぼろぼろで血まみれで? 着ていたドレスが切り裂かれて海から上がっただぁ? 身につけていた貴金属がよくない店で売り飛ばされてただぁ? はっ、俺が生き残り方ってのを頭のてっぺんから足の爪の先まで浸したやつが、その程度でくたばるわけねえだろ」


シャルロッテの涙が止まった。ジョンはびっくりするくらいに、エーダが死んでいない方に自信があるらしかった。


「あいつはその程度で死なねえ。死体だってあがってねえんだ。見つかってんのは服と装身具だろ? だったらなんで、死んでねえってお嬢さんは思わないんだ」


「皆、死んだって」


「皆に流されてどうすんだよ。皆が正しいかどうかってのだって曖昧だ。そもそもなんで、エーダがそんなわけわかんねえ襲われ方してんだよ。警備どうした。誰もそんな事があったのに一晩明けるまで部屋に確認にも行かねえってなんでだ。どう考えてもエーダが自分で逃げてんだろあれ」


「えっ……?」


「エーダのやつは思い込みも激しければ、人生での理不尽のせいで根性ひんまがってっからな。どうせ超絶美人の母親びいきの周りに、ついて行けなくなって逃げてんだろ」


「なにそれ……」


さっきからとんでもないエーダ論を、師匠のジョンはべらべらとしゃべっている。

でも、だ。

そのエーダの考え方を理解しまくっている、と言いたそうなその強さが、言い切る横顔が、妙に、妙にエーダと重なった。

自信がある時のエーダちゃんの顔と、そっくりだった。目の強さが。こぼれ出す笑いを抑えようとする口元が。

そして何より、雰囲気が。

あまりにも、あまりにも同じだ。


「ねえ、どうしてジョンはエーダちゃんに似ているの?」


それが、シャルロッテにとってわけがわからない事すぎて、彼女の口から自然とその疑問がこぼれた。

どうして、どこからどこを見ても、エーダに似ていないはずのジョンは、エーダと重なるのだろう。

この疑問に対して、ジョンはこいつ何言ってんだと言う事がはっきりとわかる表情の顔で、しゃがみ込んだままのシャルロッテを見下ろして言った。


「そりゃ、俺がエーダの師匠だからに決まってんだろ。師弟ってのは、色々似通っちまう所も多くなるって相場が決まってんだよ」






与えられたエーダの仕事は酒場のカウンターの向こうで、お客の話を聞くというものだった。こんな事をするのは初めてで、どう会話をすればいいのか分からなかったのだが、酒場の店主が


「適当に聞き流していれば大丈夫。八割は愚痴で、聞いて欲しいだけだから。助言を求めるなら、こんなところにこない」


と言ってくれたので、それなりに気楽な聞き方をさせてもらっている。

酒場でしか見かけない麗しい女の子、というわけである。だが会話の中身を誰にも話さないでくれる人、という印象を強く持たれた様子で、話を聞いて欲しいだけの人間が、ちらほらと店のエーダ目当てに通う様になっていた。

エーダはただ聞くだけだ。耳を貸すだけで、助言も忠告も何もしない。

たまにエーダの時間を買いたいと持ちかけて来る男もいるが、それはすげなく断っている。

酒場の店主も、この子は売り物じゃないと注意してくれるため、問題は起きていない。

そういった役割なのだと割り切り、うんうんと話を聞くだけである。

酒場でのエーダはのばした髪の毛を結い上げて、酒場の女性らしいやや肌を見せた格好で、平凡な顔だとは思えないほど、美貌になるお化粧をしている。

化粧道具は、驚いた話だがヘレネがよこしたのだ。





「これは、なに?」


酒場の店主と話し合い、今後の働き方を決めた後に、三日後から仕事という日。ヘレネはエーダにあまり洒落っけのない包みを渡してきた。


「開けてみてのお楽しみ」


にこやかにヘレネはそう言い、ならばとエーダが、彼らの拠点の家で包みを開くと、そこには予想もしていなかったものがいくつも入っていたのだ。


「口紅、頬紅、眉墨……なんでこれを」


「あんなに憧れているような、欲しそうな目をしていたのに、まさか気付かなかったのか?」


「一体いつ私の目を見たの」


「ここに来るまでの間に、お嬢さんはそう言ったものが並んでいる場所を見る時、そういう顔をしていたじゃないか」


なんで気付かれないと思うんだ、とヘレネは誰だってわかると言わんばかりの態度をしている。

エーダにとって、お化粧道具はあこがれの物だった。ああ言ったものがあれば、どこまで行っても平凡な顔でしか居られない自分だって、驚くくらいに綺麗になれるのではないか、と夢想する物で、しかし簡単には手に入れられないものだった。

それを買うくらいなら、もっとご飯を食べる。エーダの経済事情はそんなものだった。

だから、あこがれるだけあこがれて、化粧道具は空想するだけの品物だったのだ。


「お嬢さんも、お化粧にあこがれがあるなんて、ありふれた女の子という感じがして親しみがもてる」


「……私にどんな空想を抱いてたのよ」


「お嬢さんは女騎士の役回りをしていただろう?」


ヘレネはそう言って笑った。事実を事実だと言っているに過ぎず、エーダはたいした反論も思いつかなかった。

女騎士が、お化粧で美人になることを夢見ているというのは、あまりにも女騎士という肩書きに似合わない事を、示しているのだろう。

そして進んでその役回りを行っていた様に見えるエーダが、普通のお化粧に憧れがあるというのは、他人からすれば少し意外なのかもしれなかった。

エーダは力のない声で言った。


「でも、私はお化粧をしても、何にも変わらないよ」


「それはお嬢さん用の化粧を知らないからだ」


「え……?」


「この世の中には、はやりの顔にする化粧と、顔の良さを強調する化粧と、世の中にとけ込むための化粧と言うものがある」


「お化粧に何通りもあるのを、なんであんたが知ってるの」


「そういう道にも詳しいから」


にこりと笑ったヘレネが、良い事を思いついたという顔で言う。


「今日は俺の仕事もないから、お嬢さんを別人に変えてしまう本物の化粧を教えてあげよう。顔の半分をやるから、それを真似して練習すれば、誰もお嬢さんだと気付かなくなる」


「あんたがどうして化粧に精通してるの」


「そういう生き方もしているから」


ますますこの男の考えが読めなくなる。だが違う自分になれるという誘いは甘く、エーダは男の申し出を受けたのだった。

そして鏡台の前に座ったエーダは、男があれこれ説明しながら、顔の左半分を変えていくのを見ていた。

とんでもない腕前の良さである。左側の顔が、恐ろしく美女に変わっていく。まるで知らない人間、いいや、もう知らない人間の顔だ。


「すごい」


「お嬢さんは化粧映えのする顔だ。顔の部品の一つ一つはちょうどよくて、それが全部平均点だから、ぱっとしない目立たない顔になっているだけで。知っているか、一説によると整いすぎた顔という物は、平凡に見えてくるのだとか」


「ほめてるの?」


「べた褒めをしているつもりさ」


だから少し手を加えただけで、圧倒的な美女になる、とヘレネは笑い、仕上げた左側を見せて、エーダに右側もやってみるようにと言った。

エーダは慣れない手つきで、先ほどヘレネがやったようにやってみた物の、左側の美女にはほど遠かった。


「これは練習の数で変わってくる。お嬢さんは仕事までの間に、美女になる練習を繰り返せばいい。そして、酒場にだけいる謎の美女に変身すれば、誰からもエーダインお嬢さんという素性は知られない」


「これだけ顔が変わればそうだろうね……」


エーダも納得する以外に何もなかったのだった。




さて、全く違う顔で、あまたの身分も素性もばらばらの客が来る、そう言う酒場での聞き役を続けていると、いろいろな情報が回ってくる。

思ったよりも意外だったのは、国の中枢に関わる細かな情報が、簡単に入ってくるという事だった。

西区ではそう言った話をする人間はあまりいないので、土地柄という事もあるのかもしれない。北区は国の裏側の部分、という印象のためか。

それとも、エーダがいる店が、そう言った情報をしゃべる人間の通う酒場だったか、どちらかだ。

たとえば王様は戴冠式をしてからこちら、不作の年の方が多くて悩んでいるとか。

第一王子は正后の息子であり、王位継承権第一位だが、実は人徳の問題で城での人気は低いとか。

さらに生まれの結果、ないがしろにされ続けてきていたウィルヘル王子は、性格のよさで城ではダントツに人気になりつつあるのに、本人はどこか周りと壁を作っているとか。

そういった内部事情がものによっては事細かに、エーダの耳に入ってきていた。

ヘレネ達はエーダとは関係なしに、今もこそこそと仕事をしているらしく、たまに酒場の店主が仲介をしているのも、また見ていた。

何をしているのかは聞かない事にしていて、彼らの所に深入りしすぎるのも危険だと、直感のようなものが知らせてきていた。

そんな生活を数ヶ月していた時の事である。


「エーダイン、おもしろい知らせがある」


ヘレネがそんな事を、食事の席で言い出したのだ。彼らの組織は同じ釜の飯を食う、という事をしながら情報をやりとりする事もあって、エーダはヘレネの面白い話が、ただしく面白い話だったためしはないな、と思いつつ、何、と返した。

すっかり彼らになじみ、彼らの一味の様である。特に彼らのために仕事はしていないのだが。

面白がった顔のヘレネはこう言った。


「お嬢さんは、ウィルヘル王子がこの度、青の国の神に献上されるという話を聞いているか?」


「何それ」


青の国には神様が祭られている。それ位は常識の一つとして知って居るが、誰かを献上するという話は聞かなかった。


「王の治世で災いが続くと、王の子供の中でも特に青い色、つまり神に愛された色の人間を、神に献上して怒りをなだめるんだそうだ」


ここ四十年はしなかった事だな、とヘレネは言った。


「神様に献上って、献上されたらどうなるの」


「献上とは言っても、身も蓋もなく言えば生け贄だからな」


エーダの顔から血の気が引いた。ウィルヘル王子は文字通り命の恩人だ。彼が居なければエーダは、そしてお世話になっていたおかみさん達も死んでいた。

命の恩人が、理不尽に殺されると、ヘレネは大した事でもないという調子で、教えていたのだ。動揺するエーダに、ヘレネが言う。


「もっと詳しい話を、調べようと思えば調べられるが、どうする?」


完全にエーダの反応を面白がっている調子だ。この男はそう言った側面が強くて、部下相手にもその調子なのだ。それをエーダはよく分かっていた。

そのため震えた声で、エーダは言った。


「調べて。……何か、それを撤回する方法があるのかどうかも」


「はいはい」


にこり、とヘレネが世界を傾けそうな笑顔で言う。その笑顔にエーダはだまされないが、だまされる人間は星の数程いそうだった。







「でも、エーダちゃんはあなたじゃないのに」


「一緒にいる時間が長くて、考え方だの生き方だの背中だのを見せ続けられてっとな、だんだん感化されてく奴も多いんだよ。エーダはそして元々、俺みたいな人間と相性がよかった」


「……何なの、それ」


「俺は誰かを誰かに重ねてみるってのは、どうにもできない性分でな」


「それが、一体……?」


「まあ前提として、エーダにとっての面倒な不幸は、俺に出会うまで誰もエーダを直接見なかった事だ」


「……話がわからないわ」


エーダを直接見ない。この言葉の意味が全くわからなかったシャルロッテに、男は信じられない言葉を口にする。


「エーダはあっちこっちから聞くに、ちびの頃は周りから、美人の母親のかわいくない娘、って形でしか見られなかった。ろくでもない言い方なら、美女のおまけ。美女を手に入れたらおまけだから都合つけてもいい程度の無価値な子供。でかくなってからは、美少女を男達から守る楯っていう見方しかされた事がなかった」


「何を言うの? エーダちゃんのお母さんは、エーダちゃんを見ていたよ!!」


シャルロッテの悲痛にも響く声に、男は冷酷だった。


「どうだかな。あいつは、母親に庇われた経験がない」


「……なにそれ」


手の先から徐々に冷たくなるような気がしてきた。

ジョンが言った言葉が、事実だとシャルロッテは思い出したからだ。

リリーさんは、エーダちゃんが母親と大違いだとか、親子でも似ていなさすぎるとか言われている時、一回もエーダちゃんの事を守る言動をとっていなかった。シャルロッテは一度もリリーさんが庇う場面に出くわした事がなかった。

エーダちゃんとあんなに一緒にいた自分でも。


「あいつを手元で鍛えてると、多少はあいつの話を周りからも聞く事になる。……あいつは、周りの大人に何か言われた時、母親に守ってもらった事も庇ってもらった事もない。あいつ自体も、前に言ってたぜ。お母さんが、私の事で誰かに対して怒ったりするのを、見た事がなかったなってな。その果ては、人生で一度も聞かせてもらった事のない父親に、瓜二つだって事で、娘だと気付いてもらったとか言う地獄だ」


「……あなたは何を言いたいの」


男の話はあちこち飛び飛びで、理解力を試されているような気にしかならない。

でも、恐ろしい話を、男がしているのは事実のような気がした。


「エーダの母親は、自分の娘を、産んだ娘と言うよりも、夫と瓜二つの人間、と言う形で見ているって事さ」


「理解ができないわ」


さっきからずっと、男の言葉は恐ろしい。でも、シャルロッテは母と娘の再会の際に、エーダの母親が言っていた言葉を聞いていた。


『愛する夫にそっくり』


エーダの母親のリリーはそう言って、エーダを娘だと認識したのだ。

まさか。


「エーダちゃんのお母さんは、お母さんは……エーダちゃんを、旦那さんの身代わりだって思っていたって言いたいの」


「しらねえな」


「そこは答えてよ!」


シャルロッテの声が荒くなった。だがジョンは平然として続ける。


「だって俺ぁ、エーダの母親の腹の中なんかわからねえし? でも多少は導き出せる。考えても見ろよ、人生で一度も聞いた事のない親父にそっくりって言われて、それで娘だって判断されるって、母親が自分という物を一回もきちんと見てねえって言う話だろ」


「……!!」


父親にそっくりだから、自分の娘。

じゃあ、エーダちゃんがお父さんに似ていない顔に育っていたら。

シャルロッテの背中に冷たい物が走った。

エーダちゃんは、あんな大騒ぎを起こしていたのに、お母さんにそうだと気付いてもらえなかったと言う事なのだ。

エーダちゃん、を見てもらっていなかったと言う言葉が真実ならば。

その未来もあり得たのだ。


「ずっと見てないからわからなかった。でも親父にそっくり。だから自分の娘だ。そんな事言われて、母親がちゃんと自分の娘だってわかってくれているって、思う方が頭がお花畑だぜ」


ジョンはそう言い、こう続けた。


「エーダはちび助の頃から、誰かを通してか、重ねてかしか自分を見てもらった事がない。そんなところで、あいつの母ちゃんも父ちゃんも、幼なじみの美少女も全く知らねえ、やたら声のでかい男があいつって物しか見ない状態で、鍛え続けりゃ、そりゃ感化されるだろ」


「……」


シャルロッテはもう何も言えなかった。

自分の認識していた足下、いや世界がぐらぐらと揺れそうな気持ちだけが真実で、体の震えが止まらなくなりそうだった。

エーダちゃんは、そんな苦しい気持ちを、ずっと抱えていたのだろうか。

それは彼女本人ではないシャルロッテには、わからない話だったのに、ジョンの言葉は異様なほど真実味があって、嘘だとか、あなたの妄想だとか、言えない何かを感じさせたのだった。

多分この男は、この男が見たままを、聞いたままを、言っている。


「家主のお嬢さん、さっきから震えが止まってねえけど、そんなおっかない話だったか?」


言っているジョンの方はどうして、怖いとか気持ち悪いとか、そのほかのいろいろな感情がわかないのだろう。

ジョンの人生経験が、それらの事を思わせないのだろうか。

同じとは言えない人生を送ってきたシャルロッテには、わからなかった。


「あいつも本当に、自分に素直にならねえ奴だ。そんなに自分ってのを見て欲しいって言うんだったら、俺が一緒に来いって言った時に、ついてくりゃよかったんだ」


「い、いつそんな話をエーダちゃんとしたの!?」


「長話になるぜ、だからもうこれでこの話はおしまいだ」


「聞かせてよ!!」


シャルロッテはそう言ってジョンの腰巻きにしがみついた。彼は面倒くさいと顔にはっきり書いている表情をしながら、シャルロッテが腰にしがみついた事で、ようやく開くようになった扉を雑に開けて、室内にシャルロッテをしがみつかせたまま、入ったのだった。


「男の一人暮らしの部屋に、女の子が簡単に入っちゃいけませんってのを、誰もお嬢さんに教育しないのかよ……」


男がぼやいている。こいつに誰か常識を教えろ、と言わんばかりの調子だ。


「あなたが信じられない話を投げつけるからでしょう! いつ? いつエーダちゃんに、一緒に行こうなんて言ったの!!」


シャルロッテは信じられなかった。だってエーダちゃんは、ギルドでリリーさんの情報を探して、働いていて、そしてリリーさんがここに帰ってきた時に、笑って迎えられるように、暮らし続けていたはずだったのだ。

誰かに誘われたなんて話があったら、すぐにシャルロッテの一家に話していたはずなのだ。

それくらいは信用されていたはずだった。

それでも、シャルロッテはその話を、かけらすら聞いた事がなかった。


「あいつがまだまだちびの頃さ。俺がこっちにいた頃だな。お嬢さんには経験が無いからいまいちわからないかもしれないが、生き別れの親を探し続けて、一向にやってこないまともな情報を待ち続けるってのは、ちびにはしんどすぎる話だぜ。どこかで疲れてぽっきり心が折れても、おかしくない時間と期間、エーダは耐えてやがった。で、ある時爆発した」


「……爆発?」


「待っているのももう辛い、我慢するのももう辛い、わがままだってわかってるから辛い、普通に大人になる目標が欲しい、エーダになりたいってな」


「エーダに、なりたい……? エーダちゃんはエーダちゃんよ?」


「それまで、あいつを他人が評する時、必ず美貌の母を探し続ける娘、という事にしかならなかった結果さ。そのままのエーダをまっすぐに見る人間があまりにもいなくて、あいつは自分の背負った役回りに溺れて死にそうになってたんだ」


「……」


「美貌の母を探し続ける娘だから、贅沢をする余裕があるなら、母を探すために使わなくちゃいけない。美貌の母を待ち続ける娘だから、おしゃれをする気分転換は許されない」


「そんな、事は」


ない。シャルロッテはそんな事をエーダに押しつけた過去など一度も無い。

なのに。エーダの生活を振り返ると、ジョンの言っていたとおりだったのだ。

エーダちゃんはお金に余裕があれば、母親を探すための行動にお金を使い続けた。

エーダちゃんは、時間に余裕があったならば、自分のおしゃれなどではなくて、母が帰ってきた時のために家を整えた。


「エーダちゃんには、エーダちゃんとしての自由がなかったの……?」


「それはエーダがどう思ってるかによるけどな。まあ餓鬼のエーダは、それで大爆発を起こしたってのが現実だ。十歳やそこらなんて、まだまだやってみたい事は多かっただろうよ。割り切るのだって、まだまだ子供だからできやしない。あいつはあれで勉強も好きだったらしいから、金に余裕が少しでもあったなら、学校の上級生になりたかっただろうよ。教科書を古本でもいいから買ってな。でも勉強ってのは一種の道楽だ。ある程度の金がなくちゃやれないと相場が決まってやがる。……お嬢さんの家の人間がどう言ってたのかは知らないが、そのほかの周りが、エーダの勉強に対する熱意は許さなかった」


母がいないと言うだけではなくて、母を一人捜して待ち続けるという事を世間から強要されて、エーダはきれいな夢も素敵な希望も生きていく目標もない人生を、ずっと歩んでいたというのか。

シャルロッテはもう、何を信じればいいのかわからなくなった。

そんな苦しい思いを抱き続けていたエーダちゃんに、自分は甘えきっていたのか。


「だから言ったんだ。エーダになりてえなら、俺と一緒に来い。今より不自由なのは間違いないが、心の自由は今よりあるぞ、ってな」


「エーダちゃんはそれを断ったんでしょう?」


「そうだ。あいつは踏ん切りがつかなかった。もしかしたら明日、母親の情報が入るかもしれない。もしかしたら明後日になったら、母親が家の扉をたたいて現れるかもしれない。そんな事にとらわれてな。俺はならしかたがねえなって事で、あいつが選んだものは否定しなかった。……まったく。それで結局、母親が見つかっても苦しいって事になるなら、さっさと母親への執着を諦めて、ついてくりゃ、あいつも今頃、ただの冒険者のエーダだっただろうによ」


男はそう言い、そしてシャルロッテを見下ろしてこう言った。


「さて、もうお嬢さんは野郎の家に長居しちゃいけないわけで、とっととおうちにかえんな」


「……」


シャルロッテはこの数時間で、人生そのものがひっくり返りそうな気持ちを何度も体験していた。

それでも、男が追い出すとなったら抵抗する事もできないので、おとなしくジョンの家を出て、そしてとぼとぼと自宅に戻っていったのであった。



それからエーダは、仕事に集中できない位に不安を覚えながら、ヘレネの知らせを待っていた。

ウィルヘル王子が死ぬ。それはとても恐ろしい事のようにしか思えなかった。

彼がいたからこそ、自分は命がつながり、そして二度と会えなかったかもしれない母と再会する事もできて、おかみさん達も助かり、親友も助かったのだ。

その大恩人が、生け贄にされる。それも、青い髪の毛に青い瞳をしているからという理由で。エーダは、彼が黒く見えるほどの濃い青の髪に、やはり黒に近く見えるほど強い青の瞳をしていた事を思い出した。

第一王子であり、王位継承権第一位の彼の異母兄は、彼よりも薄い青を持っていた。

青の国で青い色を持っている事は、かなり重要視されている事で、母の様に青をほとんど持たない王族は、王位継承権を持たないという事も知っていた。青があれば、女性でも男性でも関係なしに、王位継承権を持つのが、この国のあり方だ。

母は青でないが故に、王弟と結婚する事もできたといえるだろう。青同士は結婚できない、というのもこの国の王族の規定なのだ。

母は確か王弟といとこ関係にあたり、血縁としてはかなり近かったが、持つ色彩が青くないが故に、能力も換算されて、婚約が決まったのだ。

青い色を持つが故に、生け贄などにされるというのは。

まるで。


「呪いみたい」


エーダは力なくそう呟いた。そうだ、呪いだ。その色を目印にした呪い。その色を強く持つ誰かは、生まれ落ちた時から、その運命が隣にあると言っていいのだろう。

ウィルヘル王子にそんな呪いににた運命があるなど、とても信じたくなかった。

あんなにいい人で、まともな感覚を持っていて、失った誰かのために下手くそな歌を歌い続ける事を誓っているあの人が、こんなくそったれな未来を背負わされているなど、とても認めたくなかった。彼は幸せになるべきなのだ。


「どうしたんだ、エーダ」


「……ちょっと知り合いの近況を教えてもらって。知り合い、かなりやっかいな問題に直面しているんだって。でも私、何をどうして力になればいいのかわからなくて」


「そういう事も世の中にはあるだろ。どうあがいても助けられないっていう星回りの奴も、意外といるんだぜ」


酒場の店主は人生経験が豊富なのだろう。それゆえにそんな事をいう。

確かに、店主の人生はエーダの二倍近くはあるだろうし、その人生で経験した事の多くは、エーダの知らない世界に違いない。

だがエーダの生きてきた人生だって、店主の想像とは大違いの物に違いないのだから、エーダの迷いを正しく理解できるはずも、なかったのだった。


そうして数日が経過し、エーダがウィルヘル王子の詳細を知る事ができたのは、何日か拠点を空けていたヘレネが戻ってきたためだった。

ヘレネはいつも通りの、何を考えているのかわからない余裕のある態度をしており、その表情や雰囲気だけでは何も伝わらない。いい事があったのか、悪い事があったのか、まるでエーダには読み取れなかった。


「で、何かもっと詳しい情報は入ったの」


待つ時間も惜しい、とエーダが問いかけると、ヘレネはいつもと何も変わらない調子で椅子に腰掛け、かぶっていたフードを脱ぎ、大きくのびをした。


「もっと詳しい情報、というのは」


「話をごまかさないでよ」


「ちょっとは言葉遊びをさせてくれてもいいだろうに」


「恩人の命がかかってるのに、言葉遊びの余裕があると思わないで」


「はいはい」


くすくすと笑い声を転がして、ヘレネが言う。


「青の国の神は、その時の王の在位の期間中に厄災ばかりが訪れる時、青の神の力を宿す王族を捧げられる事で、厄災を祓うとされている。青ければ青いほど神の力を強く宿すと言われていて、捧げられた王族は神に飲み込まれていなくなる。ゆえに生け贄に等しい。なにより面倒なのは、儀式が始まってしまったら、捧げられた王族が飲み込まれるまで、儀式が終わらないし、中断も不可能だと言う事だ。中断したら、百五十年前の悲劇と同じ事が起きる」


「百五十年前の悲劇……」


知らない話だ。下町の人間には広まらなかった話かもしれない。


「そう。これも記録にのみ残る物で、人々の記憶からは消されるように語られない話だが、儀式を中断すると、儀式の場にいる王族もそのほかもすべて、青の神に飲み込まれて帰ってこられなくなる。だが王家の血を継ぐ人間が、自ら飲み込まれれば儀式は中断された事にならず、儀式を終了に持ち込める」


「どれだけ調べても、儀式を撤回させる方法は記録されていない。人々も知らない。そして今、ウィルヘル王族は神に捧げられる事が決定してから、塔の一角に閉じ込められている」


「そこから助け出す事はできないの」


「そんな面倒を、どうしてやると思うんだ? 報酬もうまみも利益も何もない」


ああ、そういう男だ。ヘレネはそういう男だ。

エーダは改めて思い知らされた気分になりながら、聞く。


「あなた曰く、面白そうでもないの」


「ただ面倒なだけで、面白そうな気はしない」


「……」


手詰まりだ。どうにもこうにも手詰まりだ。どうしたら、恩人であるウィルヘル王族を助けられるだろう。

エーダはしばし黙って、考えて答えが出てこなくなった時に、そうだ、と思いついた。

何もしないよりはましだという、それだけの考えで、こう口にした。


「ウィルヘル様を助けてくれるなら、私を差し出すよ」


「……へえ?」


興味深いと言いたげな反応を、ヘレネは見せた。


「私が差し出せる物って、お金もあんまりないし、権力なんて一番縁遠いし、ないものづくしだけど、自分だけなら、差し出せる。というか、それしか持ってないけど」


エーダの覚悟を決めた言葉を、ヘレネは面白そうに聞いている。

瞬く太陽の宝石のような緑が、きらめいてエーダを眺めている。そして数拍の空白の後に、ヘレネは言った。


「面白そうだ」


多少興味が向いた。それは付き合いの浅いエーダでもわかる事だった。


「それにエーダインお嬢さんを、俺の物にできるなら、多少は動いてもいいかもしれない」


「……あなたは私に価値があると思うの」


「手元に置いておけば面白そうだから」


あまりにもわかりやすそうで、全く理解のできない言葉達だった。


「さて、物事は等価交換、お互いに価値がある物でなければ成立しないわけだ。……さて、エーダインお嬢さん、早速だが俺に抱きついてみるといい」


それもできないで、自分を差し出すなどと言う事は難しいだろうと、エーダを試す事を言ったヘレネに、エーダは一呼吸おいてから、腕を伸ばして抱きついた。

心臓が痛いほど脈打っていて、冷や汗が止まらない。相手はこの状態から自分を殺す事も可能な男だと知っているからこそ、覚悟という物はかなり決めなくてなくてはいけなかった。

そんなエーダの心境を見抜いて遊んでいるのか、ヘレネがくつくつと面白がる調子で笑い声を立てる。


「まったく、お嬢さんはかわいそうでかわいい」


その言葉の意味など全くわからなかったエーダだったが、一つだけ確かだったのは、この男がエーダのいろいろな覚悟を認めたと言う事だった。









「あんた、ヘレネの恋人なんだな」


「……なんとでも言って。私はあいつの物なのよ」


「おお、大きく出た。まあヘレネの恋人なんだから、それくらい自信があっても当然か」


酒場の店主が、店が比較的暇な時間に投げかけてきた言葉はそれで、エーダは自信も何もあった物じゃない、ただの交換条件の結果だと言えず、店のカウンターに頬杖を突いた状態で言う。


「ヘレネの奴が何を言っているの? 私が恋人だって宣伝でもしているの?」


「そんなの、あのヘレネが一等一番に大事に扱っているのを見るだけで、知り合いは皆察する」


「あなた、ヘレネと前から知り合いだったの?」


知り合いと言われたエーダは、意外な言葉に目を丸くした。

この酒場の店主が、ヘレネの知り合いだとは思っていなかったのだ。てっきり、お互いの利益が一致しただけの関係だとばかり。


「ヘレネというか、ヘレネの兄貴に結構世話になったんだ。だからその縁で、ヘレネ達の事も都合してやってるのさ」


「ヘレネにお兄さんがいるの? 初耳」


「ふうん、エーダはヘレネの昔話を何も知らないんだな。まああいつも自分の過去をべらべらしゃべる方じゃないし、うるさくしゃべるのは兄貴の方だったし、そんなものか」


「聞けば教えてくれるかな」


「兄貴自慢になるぞ。いっそ恋い焦がれている方がまだ理解できるって位の自慢だ。でもまあ、あいつらお互いに、恋愛方向の感覚はもってなかったから、単純に異常なくらいの熱量の兄弟愛だったんだろうな」


「異常っていわれてるの」


「まあそうだな。兄貴の方はそうでもなかったが、ヘレネの方の熱量がすごくてな」


酒場の店主はそう言って笑った。


「今でも思い出す事がある。俺が修行していた酒場に、小さいヘレネを連れてきて、あいつの兄貴が『こいつに仕事を教えてくれよ、こいつの面だからもうけられるぜ』とかなんとか言ったのをな。一体どこでこんなきれいな顔の子供をさらってきたんだって、俺の師匠が怒ってな。あの騒ぎの中で、ヘレネは兄貴の手を握ってて……目がやたらきれいでな」


「そんな騒ぎを起こすお兄さんだったのね……なんで酒場だったんだろう」


「兄貴の方が、まっとうな道の知り合いのところよりも、こちら側の方がヘレネに適性があるって見抜いた結果だな」


店主はそう言って笑ったそんな時だ。


「店主、俺の過去をエーダインにあまりしゃべらないでもらいたいか? 隠しているわけではないが、他人にべらべらとしゃべってほしい中身ではない」


柔らかな響きを伴った声が、エーダの背後からかかり、エーダの肩を抱くようにしながら、ヘレネがエーダの隣に座った。

そして当たり前の調子でエーダを引き寄せる。手慣れた動きだった。

だがエーダは身を固くした。やはり、反射的に体が硬くなる物だった。


「はいはい。恋人に秘密を持っておきたいってのはわかったわかった」


「俺はエーダインの過去の触れられたくない部分に、興味を持たない。エーダインを傷つける可能性があるからだ。その代わり、自分の触れられたくない部分を他人に教えられたくないのさ」


そういったヘレネはエーダの頬や首に指を滑らせている。急所に触れられている不安があった物の、エーダはこれを拒否する事を選べなかった。それにこんな事でいきなり命を奪われる事はないと、ヘレネのやり方を少し知れば理解できたからだ。

ヘレネは、エーダを殺すなら、もっと上手にやる。ヘレネはそういった部分がかなり熟練の人間で、たぶん依頼されて殺せなかったのはエーダ一人だけなのだ。

そう言う物珍しさもあって、エーダの命はつながっているのだろう。

この事をエーダはよくよくわかっているつもりなので、されるがままに任せていた。

この男に自分は命を握られているのだ。それを選択したのは自分自身で、命の恩人の、人のいい美しい顔を思い出すと、その人が助かってほしいと強く思った。


「さて、情報はあまりいいものではない。エーダイン、やはり儀式の撤回は不可能そうだな。一度始めたら終わらせるまではどうにもならない事がわかった。全く、魔術的かつ神がかりに等しい事を行う時は、ろくな情報がない」


「どういう事」


「儀式でウィルヘル王子を救うならば、儀式が開始する前にどうにかしなければならない。だが前も言っただろうが、ウィルヘル王子は牢獄の塔に入れられていて、脱走はかなわない」


「あなたのあちこちに入り込める技術を使っても?」


「俺は自分が何ができて何ができないのかを知っている。地下深くまで張り巡らされた、中に入ったものが外に逃げられないようにした結界を、どうにかできる技能は持っていない」


「入れられたが最後……儀式が始まる前、あの人は外に出られないって言うわけ?」


「そうだ。そして儀式が始まったら、生け贄を捧げるまで儀式はどういった形であれ終了しない。終了しなければ青の国の神は、無尽蔵に王族を飲み込み続けるだろう。そうなればとんでもない騒ぎになる。そして……それを引き起こす結果になったお前の恩人を、人々は憎み、罰を受けさせる事を望むだろう」


「……」


エーダは黙った。どうやっても、ヘレネを持ってしてでも、この事をどうにかできないという事実が広がっているのだ。

そして、儀式を始めなければ、彼女の命の恩人は、外に出る事ができない。

外に出られなければ、連れ出すという方法も採れないのだ。

まさに手詰まりといっていいだろう。

だが。

エーダは彼の言葉から、たった一つだけ、儀式が始まった後、それを終わらせる方法というものを導き出していた。

だがそれは、目の前のヘレネという男でもいい顔をしないだろう方法で、エーダはそれがわかっていたからこそ、これだけを言った。


「一つだけ、方法を思いついた。……ヘレネは、儀式の時に私を儀式の間まで連れて行って、そしてウィルヘル王子を連れ出して」


「何かいい方法を導けたのか? 俺は何も思いつかない」


いいや、思いついているだろう。ヘレネは全くの馬鹿でもなければ、手元の情報から最善の方法や、ギリギリの方法を見つけ出せないほど目端の利かない人間でもない。

この男は、……間違いなく、エーダが導き出したたった一つの答えを知っていて、エーダの結末を見届けるつもりなのだろう。


「ウィルヘル王子の命を助けられるなら、そのたった一つの方法にすがりつくよ。……あの人は、命の恩人で」


「で?」


「たった一人のために、その人のために、恥ずかしくない人生を生きることを誓って、自分の心や欲求を殺して生きてきた人だから、これから幸せにならなくちゃいけないから」


そして自分の方は、いない方が何事もいい方向に進む人間なのだ。

それがエーダの出した結論で、彼女は言い切る。


「ヘレネは、ただ、ウィルヘル王子を脱出させる事だけに集中して。私は自分でなんとかなるし、なんとかする」


「ふうん」


ヘレネはそれだけを言った。きらめく太陽の石ににた、緑の瞳が瞬く。それに心の内を見抜かれないように、エーダは普通の顔をして見せた。


「やれない事をするわけじゃないから」


「それならそれでかまわないが。……本当に、お前は自分でなんとかできるんだな?」


「できるって言ってるでしょ」


エーダは強い声で、自信に満ちたような声を作って、自分の出した結論の恐ろしさなどを押し隠した。

きっとそういった感情すら面白がられているだろうが、それでも、エーダは決めた道を選ぶと決めたのだった。



きっとまだ生きているエーダちゃんに、自分ができる事ってなんなんだろう。

シャルロッテはそれからしばらく、仕事をしながら、たくさんの帳簿をつけながら、考え込む事になっていた。

たくさんの不自由の中、それでも幼なじみのシャルロッテを守るという事で生きてきたエーダちゃん。

そんなエーダちゃんが、自分という物を生きるために、持っている物を何もかも捨て去って、自由を選び取ったというのならば。

自分にできる、彼女に対して誠実な行動は一体何だろう。

彼女の行動を身勝手だ、自分勝手だという事はシャルロッテにはできなかった。

だって彼女の願いはあまりにも小さかったのだ。

幼なじみの女騎士としてでも

美しい母のおまけでも、ない、

ただのエーダという人間として、生きたいと望んだ事のどこが、身勝手で自分勝手なのか。

もしもほかの人達が、エーダちゃんを自分勝手だとかそういう事を言って責め立てたとしても、自分はそういう事はしない。


シャルロッテが決めた一つの事はそれだ。



「……」


だがほかの答えは見つからない。いきなりこんな事を考える羽目になったシャルロッテには、手持ちの選択肢が少なかった。

それでも。

一つだけ確かかもしれない事があって、それはエーダちゃんがどんな道を選んだとしても、その選び取った道を拒絶しないで、受け入れる事だった。

エーダちゃんは自分の事を、いろんな人から否定されたり、拒絶されたり、あきれられる道を選んだと思っているかもしれない。

でも、自分だけは。ずっと守ってもらってきた自分だけは、エーダちゃんがどんな選択肢を選んでいたとしても、否定しないで、うんうん、と頷くのだ。

底まで考えてひらめいた物があった。

そうして、何時か、エーダちゃんがここに戻ってきてもいいかなと思った時に、エーダちゃんを怒ったり嫌ったりするのではなくて、笑って


「おかえりなさい」


と言ってあげられるようになる事。

それが、シャルロッテという人間の手持ちの力でできる、数少ない親友を受け止める方法のような気がしてならなかった。

そのために何をすればいいのか。

一晩どころか一週間も悩んだ彼女が導き出したのは、


「エーダちゃんがここに帰ってきた時に、エーダちゃんを養ってもおつりが来るくらいの収入を得ている自分がいる事」


だった。

そうと決まればやらなくてはいけない事はたくさんある。


「絶対に、エーダちゃんを養える収入の女になってやるんだから……!!」


それはかわいい夢でも、憧れでもない、人生の強い目標として、シャルロッテの前に現れた指針だった。




「シャルロッテ、あんまり根を詰めすぎると、具合を悪くしないかい」


「最近のシャルロッテは前よりも、賃貸経営の事を学んでいて、勉強熱心でありがたいが、無理をしすぎると皆、頭の中から抜けていくよ」


両親が二人そろって似たような事を言うほど、シャルロッテの生活は様変わりしていた。

彼女は割と甘やかされた生き方をしていた事もあって、その変貌は目を見張る物と言ってよかった。

服飾の事。賃貸経営の事。店を構える際の必要な手続き。経営の回し方。それからそれから……

シャルロッテがいきなり、猛然と勉強し始めたと言う事実は、彼女を知っていればいるほど仰天する熱意だった。

彼女は見た目が抜群によかった事もあって、何かとちやほやされる生き方を送らざるを得なかったので、こんなに何かを学ぶ事はあまりなかったのだ。

お針子の仲間達だって、何かとシャルロッテを誘い、遊びに連れ出そうとしていた。

それは、シャルロッテが評判の美少女で、彼女と並ぶ事で自分達も、意中の男性に声をかけられやすくなるからだった。

シャルロッテ自身への求愛は、今まで皆エーダが追っ払ってきていたので、お針子の仲間達は邪魔者も少ないと言う状況で、出会いのためにシャルロッテを使っていたのである。

だがシャルロッテは、そういった誘いを皆断るようになった。

いつも申し訳なさそうに


「家業の事で、もっと勉強しないとやっていけないって最近になって気がついて……お父さんとお母さんの手を煩わせてばかりでは、もういられないわ!」


と断るため、家業のためなら仕方が無い、とお針子仲間達は大体引き下がっていたのである。家業をないがしろにしろとは、普通は言えないわけなので。

それだけにはとどまらない。

シャルロッテは本格的に、何から何まで自分で執り行う店という物は、どういう事を知らなければならないかと、調べに調べ始めたのである。

元手になるものはかなりの金額に上るし、最初は大体の店が赤字になりやすいので、その場合の生活費の稼ぎ方など、生きるためのあらゆる事に、シャルロッテは勉強をしはじめたのだ。

それは世間慣れしていないお針子のお嬢さんという、シャルロッテの肩書きとは大違いの状態だった。

周りになんと言われても、シャルロッテはやり通したい物があるのだから、譲る気はさらさら無く、絶対にエーダを養えるだけの収入のある、自立した女になると決めていた。

そうなってくると、シャルロッテのふわふわとした雰囲気は徐々に変わっていき、見た目もいくらかは変わってくる。

苦労知らずのお嬢さんが持つ、独特のふんわりとした雰囲気はなくなり、世間を生き抜こうとするしたたかな女の空気がにじむようになっていた。

自分の身の回りの事を優先にできていた状態から、そういった時間を勉強に費やすようになって、自分の見た目は二の次になり始めた。もちろん、清潔感はしっかりとあるわけだが、おしゃれよりも、学びたい事ができたため、徐々に、徐々に、シャルロッテの評判の美しさは、薄れていっていたのである。



「……で、なんでお嬢さんは、俺の家に上がり込んで、黒魔術に手を出してんだ?」


「一度、王都から修行に出ようと思っているの。織物と最新の服飾の町、アストルに。今働いている店の店長さんに相談したら、紹介状を書いてくれるって言っていたから」


「いやいやいや、待てよ。お嬢さんが俺の家に上がり込んで、黒魔術に手を出す理由じゃねえだろうがそれ」


「理由よ! 修行にでたら、衣食住、全部自分でまかなわなくちゃいけないじゃない! 私これでも、女の子の平均的な生活費を計算して割り出したのよ。アストルの物価は、栄えた町だから、実は王都よりも三パーセント高くて、住んでいる区域の井戸の使用料が王都と違って無料じゃなくて、それから……」


「物価が高いのと、俺の家でもうもうと異様な匂いの煙を上げてんのの関係は」


「自炊の経験のためよ」


「……なんで俺の家でやってんだよ!? 自分の家があるだろうが!」


「だって、ジョンはしょっちゅうお金がなくておなかをすかせているでしょう? だから、私は料理の練習をして、あなたはお金を払わずにおなかを満たせるんだから、どっちも不利益にはならないわ」


「……お嬢さん」


そこでジョンが複雑そうな顔をして言う。


「その鍋の中のすげえ匂いの物体を俺に食えと?」


「材料は普通よ?」


「普通の何だよ」


「燕麦と、ミルクと、豆と……」


「それが真っ黒くろすけになるって何してんだよ! 家主のお嬢さん、あんた自炊の基礎ってのを知らねえな?!」


中身の材料を聞いて、あまりの事にジョンが吠えるように叫ぶ。怒られているわけでも、責め立てられているわけでもないので、シャルロッテは怖いとさえ思わない。

この男は、地声がびっくりするくらいに大きいのだ。


「……ようし、わかった。お嬢さん、あんたがそんなに俺の家で自炊をしたいって言うなら……」


「なあに?」


「徹底的に仕込んでやらぁ! エーダに叩き込んだ短剣の扱いなんぞとは訳が違うぞ! 泣いても怒ってもわめいても、お嬢さんが死人を出さない飯ってのを常に作れるようにしてやる!!」


「……ジョンはどこかで料理の修業をしていたの?」


「お嬢さん、世の中修行しなくても、自分の命が関わってりゃ、それなりの腕前になれるものってのは山とあってな。そして俺は、死人を出さない料理ってのを極めたんだ」


「まるで私のお料理で、人が死んじゃうみたいな言い方だわ」


「実際腹下して、脱水で死なせるだろ」


「そんな、ひどい……」


「現実みてみろ、このまっくろな訳わからん謎の物体。これを中身の素性もわからずに食えっていうのはあり得ない」


「……」


「口開けろ」


「?」


容赦なくぶすぶすと言葉で刺されたシャルロッテが黙っていると、ジョンが不意にそう言ってきたので、彼女は素直に口を開けた。

ジョンは容赦などかけらもなく、彼女の作った暗黒物質を、彼女の口の中に大さじいっぱいもつっこんだのだ。

結果どうなったか。

中身のしゃれにならないまずさと、命の危機を感じるような何かのために、シャルロッテはそれを吐き出そうとして、しかしがっちりと顎を押さえ込まれたせいで、飲み込まなくてはならなくなった。


「うっ、うっ、うう……」


飲み込んでから、気持ち悪さにうめき、咳き込む少女に、容赦の無い男は真顔でいう。


「これを、お嬢さんは俺に食わせようとしてたんだぜ。それにこんなのばっかり作るのは、材料への冒涜だし、材料を作ってくれた人達に対しても失礼だし、金をドブに捨てるよりひどい」


「う、うえええええん……」


男の優しさのかけらも見当たらない言葉の数々に、シャルロッテは小さな子供のように泣き出してしまった。

主に自分への情けなさからである。ジョンが怖いわけではない。

自分がこんなにも、できが悪いとは思ってもみなかったのだ。普通にご飯を作っているつもりだったのに、食べたら命に関わりそうな恐ろしい物を作っていたなど、普通の女の子には衝撃がすさまじいだろう。

常識や根底がひっくり返る衝撃でもある。

わんわんとひとしきり泣いたシャルロッテは、その間全く慰めず、それをじっと見下ろしていたジョンが口を開いたので、身構えた。


「お嬢さん、餓鬼みてえに鼻水垂らして泣いてやんの。ほんと餓鬼だな。そこらへん。エーダなんてもっとはかなげに泣いたぜ」


「……エーダちゃんが?」


「あいつ泣く時、妙に居心地の悪くなる泣き方する時あってよ。尻の座りが悪かったな」


そう言った後に、ジョンは言った。


「お嬢さんの用意した材料はまだ残ってるか」


「うん。量り売りだったから、一食分っていう風には売ってなかったの」


「そらそうだ。普通は一気に買って保存して、ちまちま食うんだよ。……いいか、口も出さないで手を出さないで、俺のやる事よくみてろ」


男はそう言い、シャルロッテの用意した豆を洗って水に浸し、燕麦を升でひとすくいざるに入れると、何かをより分け始めた。


「何してるの?」


「口出すなっていっただろう。……まあ知らねえのか。燕麦ってのはな、時々殻までまざってんだよ。石ころもな」


「……本当だわ」


男は実に器用な物で、大変手際よくそれらを選別し、殻や石ころといった、食べられないものをはじき出してしまった。

それから洗う。洗うと、驚くほど燕麦にも汚れがついていたのだとわかった。

それがシャルロッテには衝撃だった。こんなに汚れていたなんて、と言うわけだ。


男は次に豆を水から煮始める。豆がしっかり煮えた頃になって、洗った燕麦を投入してまた煮込み、最後にミルクを入れて塩を振り、一煮立ち程度で火から下ろした。

できあがった物は、完全に同じ材料でも、シャルロッテの作った物とはまるで違う、食べられそうな見た目の豆かゆだった。


「食え」


「……」


「作り方も材料も、皆見てるだろ。だから食える」


言われて、シャルロッテはそれを恐る恐る口に入れた。先ほどの暗黒物質と同じ材料だからこその恐れだったが、味は……


「おいしい……」


「死ぬ味じゃねえだろ。俺が教えるのはこういう、基本と少しばかりの応用だ」


あとは数をこなすってのも必要な世界だけどな、とジョンは自慢げに言った。


「どうだ、教えてもらう気になっただろう」


「うん……エーダちゃんのおかゆみたいな味がする」


「あいつにもそれ教えてるから、当たり前だろ。あいつはお嬢さんよりも、一人で生きていかなきゃならない世界にいたんだからよ」


「エーダちゃんも、最初は私みたいな物作ってた?」


「いや。勘がやたらによかったからな、作らなかったぜ。自炊の自信もないから、最初からおっかなびっくりで、焦がすって事だけはしなかったしよ」


「……私は?」


「お嬢さんは自分への思い込みが激しすぎだわな。できあがった物が、なんで母ちゃんや店で出てくる物と大違いなのかも、疑問に思わなかっただろ」


「お母さんとは材料が違うし……お店は一流でしょ?」


「そういうのよくないぜ。お嬢さん。お嬢さんは料理の腕前が底辺だ、底辺! そこから這い上がって、一人前になるのは遠そうだな」


そういってずいぶんと失礼な言葉ばかり投げつけてくる男だというのに、シャルロッテはどうしても、この目の前の男を前のように、ひどい相手だとか、強く否定的に思えなくなっていたのだった。

ただ。


「あなたの口はどうして、いつでもそんなに自分に対して自信満々で偉そうなの……」


「事実偉いだろうが。お嬢さんの先生だぞ」


そういって、さあありがたがれ、と言わんばかりの調子の男を見て、シャルロッテは小さな声でつぶやいた。


「エーダちゃんがぼろくそに言うわけだわ……」


確かにこんな破天荒な師匠では、ぼろくそに文句だって言いたくなるだろう。

それでも、文句を言っても、エーダは最後までジョン兄ちゃんの事を憎んだり恨んだりはしていなかった。

シャルロッテもまた、この男を恨んだり憎んだりする事は、できなさそうだと自分を客観的に見られたのであった。




「だからなんで火の調整がそんなに下手くそなんだ! だからこうすんだよ!」


「何度も言わせんじゃねえよ! 鳥の半生は命に関わるんだよ! かっさかさだろうがぱっさぱさだろうが、命が大事なら肉には完全に火を通せ!」


「粥を煮込むならこまめに混ぜろ! 底が焦げる!」


「生野菜の泥は真面目に落とせ! 口の中で石ころ噛んで、歯が欠けたら誰にも直せねえんだぞ!」


ジョンの料理指導はそれからみっちりと行われた。シャルロッテは怒鳴られない日など無いほど怒鳴られまくり、耳が潰れそうなくらいに怒鳴られまくっていたが、それでも絶対に夢と目標のために諦めなかった。

一人で暮らしていくのに、食べられるものを作れるようになるというのはかなりの強みで、安くまともなものを食べるのには必須の能力だった。

店の物は、時々腐った物を再加熱して出していたりするのだ。油が古くて腹を下すと言う話もないわけではない。

一人でアストルに向かうのだから、自分の身を守れるだけの技術は必要になっていて、自炊能力はそれの一つと言ってよかったのだ。

ジョンの指導は単に調理だけでなく、材料の見極めや、安全な店の探し方など多岐にわたった。

あまりにも多岐にわたっていて、シャルロッテの休みになるたびに、あちこちに連れ回すので、シャルロッテは休む暇もないくらいだった。

両親はそれをなんとも言えない顔で見守っており、ジョンと出かけてくると伝えて、帰る時間を伝えるたびに


「あれがねえ……」


「あれなんだがなあ……」


と思うところがある調子で送り出してくれていたのだった。

ジョンに連れ回される間中、シャルロッテは誰からも邪魔をされる事無く、ジョンの教えを受ける事ができて、今まで町を歩けば誰かしらに声をかけられて、花を渡されて、と言い寄られまくっていたとは思えない日常だ。

こう言った日常で、しばらくシャルロッテはめまぐるしさのため、言い寄られていないという事にも気付かなかったのだが、ある時、自分に何度もしつこく声をかけていた男が、可憐なお嬢さんに熱心に言い寄っている現場を見て、そこで、最近いろんな男の人達から声をかけられなくなったな、と気付いたのである。


「ねえ、あなたが何かしたの、ジョン」


「何かって何をだよ。俺ぁお嬢さんにこれから肉の善し悪しってのを実地で教育しようと」


「そうじゃなくて。……最近私、いろんな男の人に声をかけられなくなったのに、気がついて」


「あ?」


そんな事をいきなり言われたジョンの方は何を言ってんだと言わんばかりの顔をしたが、シャルロッテを上から下まで眺め回して、うなった。


「お嬢さんが世間一般の美少女じゃなくなったからだろ」


「私の顔変わった? 痩せ細ってないし、太りすぎてもいないわ」


「自分の顔ってのに興味の無い美女ってのはこんなものかねえ。お嬢さん、髪の毛も手入れが適当になってるだろ。勉強のしすぎだかなんだかしらねえが、顔色も青くなってどんよりした血色だ」


「……?」


「極めつけに、外に出るのにも地味で実用的な服しか着なくなっただろ。ちまたで噂の美少女感は、もうねえわな、雰囲気が違いすぎる」


「……私の顔色、悪いの?」


「安い鏡でもわかるくらい悪いぜ」


「……」


自分の顔やそのほかの物がたくさん変わって、皆の知る美少女シャルロッテではなくなったらしい。

少女は男の言葉から、やっと自分の見た目ががらりと変わった事を自覚した。

思ってもみなかった言葉達で、でも確かに、それは事実だった。

おしゃれな服は手入れが面倒だった。だから実用的な、汚れても簡単に洗濯できる物を選ぶようになったし、服の色も汚れが目立たない地味な物になっていた。

髪の毛や肌の手入れにかけていた時間のほとんどを、賃貸経営と店舗経営の勉強に回していたから、それらの事がないがしろになりつつあった。

就寝時間だって、今までのねぼすけからすると考えられないくらいに短く切り詰めていたし、食事もおざなりな時の方が多い。

健康でなければ美女にはなれない、という最近の流行を知っているシャルロッテは、自分の生活を見回してなるほど、と納得した。

こんな不健康な生活をして、自分の見た目にも気を遣わなくなったら、確かに美女と言われる事も無くなるし、美女が好きな人は離れていくだろう。

でも仕立屋で何も言われなかったのは、そこの人達が見た目でなくて、シャルロッテの技術を重要視しているからなのかもしれない。


「それにな、美女と並ぶよりも、美女じゃない人間と並んだ方が、自分がきれいに見えるから、好きな奴も多いんだぜ」


「私を自分がよく見える材料にするの?」


「そうそう。顔色悪い女の隣に、赤いほっぺたの女の子がいたら、その方が元気で健康そうで輝いて見えるって奴だな」


「……」


「美人は美人過ぎると、周りが離れる。あとあれだ、美女が落ち目になると、皆自分の方が有利だと思って近付く」


「あなたは人間のそういった部分を見てきたの?」


「俺の人生お嬢さんよりずっと長いぜ。色々仕事やってると、女のどろどろも男のどろどろも見まくるしな」


そう言って、ジョンはぐっしゃぐっしゃとシャルロッテの頭をなで回していう。


「さっさと肉屋で肉の見極めの練習するぞ。最近あの肉屋の店主、俺を見ると腕試しと言わんばかりに肉出しやがる。人が家畜とそうじゃないの見分けるからってよぉ」


「ふふっ」


ジョンはずっと対応が変わらない。つまりシャルロッテが美少女でもそうじゃなくなってもどっちでもいいのだ。

そう思うと、男のぼやきも楽しく聞こえてきて、シャルロッテは笑い声を上げた。

男は目を瞬かせてにやりと笑った。


「いい笑顔で笑うじゃねえか、俺ぁ男も女も関係無しに、いい笑顔で笑う奴を気に入るんだ」


「……?」


「お嬢さん、俺の前で今までいっぺんも笑った事ねえんだぜ。そりゃあこのジョン兄ちゃんが厳しい先生だからな、笑う余裕もなかったんだろうが」


「あなた、人が笑う顔が好きなんて、善人ね」


「なあに言ってんだ。このジョン兄ちゃんより悪人は、世の中そうそう転がってねえぜ」


「はいはい」


また適当な大言壮語を言っている。エーダからも、この男が時々ではなくて、しょっちゅう大げさな事を言うと聞いていたシャルロッテは、それを聞き流したのだった。






「シャルロッテ。ジョンといつもどこに遊びに行っているんだい?」


「お肉屋さんでしょう。魚屋さんでしょう、チーズとかを扱うお店でしょう、穀物を扱う所に野菜を扱う市場に……」


今日も夕方まで、実地訓練含めてジョンと一緒に休日を過ごしていたシャルロッテは、母の夕飯の手伝いをしている時にそう問われた。そのために素直に答えたのだが、母はなんとも言えない顔をした。


「食べ物を扱う店だけ?」


「その後は、料理の勉強をしてるの。お母さん、最近の私は前とちょっと違うでしょう?」


「確かに危険物を作らなくなったけれど、まさかジョンに教わっているなんて思わなかったよ。もっと女の友達とかに習っているんだとばかり」


「ジョンはとっても厳しいしすぐ怒鳴るけど、手も足も上げないし、そんな悪くない先生よ」


「……つまりデートとかをしているってわけじゃないんだね?」


「やだお母さん! ジョンはエーダちゃんのお師匠様で、私の自炊とかの先生よ? デートになるわけ無いじゃない」


「あんたが仕立屋の仕事が休みの日は、いつも楽しそうに出かけるもんだから、てっきり好いた男とデートするのが楽しみで、あのジョンがあんたの意中の男だと思ったんだよ」


「お母さん、相手はジョンよ?」


「あんたの顔がそれでも楽しそうだったからだよ。ここの所勉強ばかりで、顔色も悪いってのに、出かける時も帰ってきた時も、楽しそうな雰囲気だからね」


母はシャルロッテの気付かない変化も見ていたらしい。だが相手はあの粗暴なジョンで、大声がひたすらにうるさい男で、恋愛になるわけもない。

この時はシャルロッテもそう思っていたのであった。





「ジョン、ジョン、どうしたの? 今日は夜市に連れて行ってくれるって言っていたじゃない。お母さんも、お父さんも、ジョンなら大丈夫って、夜に家を出るのを許可してくれたのに」


その日は、夜にしか扱わない物品の事を教えると言う話で、シャルロッテは時間になっても現れないジョンを不審に思って、家の扉をたたいたのだ。

ジョンはうるさいし雑だが、自分が言った時間を守らない何て事はしない。自分の言った事は守ると言う点だけは、信じていい男だっったのだ。

そのジョンが来ない。明らかにおかしな事で、シャルロッテはジョンの家の扉をたたき、反応が一切無い事に不信感を抱き、少しの罪悪感とともに、大家の合鍵を使って、ジョンの家の扉を開けた。

てっきり深酒をして寝ているのだと思ったのだ。ジョンは大酒飲みで、飲む時はものすごく飲むのだと、ジョンの知り合いの酒屋が教えてくれていた。

寝ているなら顔に落書きでもしてやろう、と言う悪戯心を持ちながら室内に入ったシャルロッテは、家の床に座り込み、目を見開き、肩を、指が白くなるほどの力で握り混んでいる男を目にする事になった。


「ジョン?! 大丈夫?! どこかが痛いの?」


「……」


ジョンから声の返答はない。ただ、ジョンの、いつも普通とは思えないほど輝いている銀色の目が、シャルロッテの方に動き、また元の位置に戻った。

ジョンの瞳は、明かりのない室内で、もう夜で暗いというのに、明かりなどいらぬと言うように光り、とても普通ではない。

あたりを照らすほど輝く目など、人間の普通の目ではないだろう。

一体……と思いながら、シャルロッテは彼の前に座り込み、顔をのぞき込んだ。


「痛み止めが必要? それとも傷があるの?私にできそうな事はあるかしら?」


「……うるせえ」


「いつものあなたの方がうるさいわ。ねえ、本当に普通の状態じゃないわ、大丈夫?」


「……だまれ」


いつものジョンの、言葉とは思えないほど重たくて、異質なほど静かで、空気の違う声だった。

腹の中に何かを飼っていて、それが代わりにしゃべっているような雰囲気もあった。


「……」


何もできる事などない。それを言葉以上に、雰囲気から伝えられたシャルロッテは、ただ男の隣に座り込んだ。


「痛くて苦しい時に一人は辛いわ。そうでしょ、ジョン」


「……勝手にしろ」


ぼそりと言ったジョンは、それからしばらく、月が雲に隠れるまで、ずっとその体勢で居続け、シャルロッテも冷たい板張りの床に、座り込んでいたのであった。




月が雲に隠れて、光がわずかに弱まったあたりで、シャルロッテは男の瞳の強い光が、幾ばくか弱くなった事に気がついた。

そしてそれと同時に、男が大きく息を吐き出して、彼女の方を向いたのにも。


「悪いな、夜市に案内するって言ってたのによ。今日は無理になっちまったが、次の時には必ず案内するぜ」


「……ジョン、一つ聞いていい? どこの具合が悪いの?」


「あ? ぐあいがわるい?」


聞かれたジョンの方は何を言っているんだ、と言う反応をした。

具合が悪いと言われる事が、意外だと言わんばかりの態度だ。


「だってすごい力で、肩に指を立ててたわ。痛かったんでしょう?」


「……あー、普通は、痛くて具合が悪い事になっちまうんだな」


ぼやいた男が、よいくらせと、寝台にあった枕なのかクッションなのかわからない物をシャルロッテに渡す。


「尻が冷えるぞ。女は尻を冷やすとろくな事にならねえ。聞く気があるならそれに座って聞け。ちょっとばかり長くなるかも知れねえがな。それとも聞かない方がいいか?」


「ううん、聞いておくわ。だって心配になるもの」


「はいはい。……俺のこれは罰なんだよ。神様の命令で、神様の大事な人間を殺した事に対する神様からの罰」


「神様の命令なのに?」


「神様の命令でも、神様の大事な人間を殺したら、殺した人間は罰を受けるんだよ。そういう仕組みなのさ」


人を殺したと、さらっとした口調で言う事に、シャルロッテは衝撃を受けていた。軽業師が何で、人を殺すような真似をしなくちゃいけなかったのだろう。

ジョンの口調の軽さと、中身の重たさについて行けず、シャルロッテの頭は混乱しそうだった。

だがジョンの方は、ちょっとした昔話をする調子で言う。


「十歳にもなる前の話だぜ。まさに餓鬼の頃。神様が、俺に取引を持ちかけてきた。神様の大事な人間を上手く殺せたら、俺の大事な家族達を、助けてやろうってな」


「……そんな事を持ちかける存在が、本当に神様だったの?」


「結論から言うと本物の中でも最強の本物だった。神様ってのは人間の都合なんてどうだっていいからな、自分の都合で人間を動かす物なんだ」


「……ジョンは、それで、殺したって言うの」


「ああ。……当時世界情勢ってのはめちゃくちゃやばかった。俺の家族達も巻き込まれて、人間に殺されるか殺されないかの寸前だった」


「あなたの家族はどうして……」


「神様を裏切った、神様の大事な人間を産んだのが俺のお袋だったから。父親違いの年の離れた兄貴が、やらかしたんだよ」


「!!」


じゃあこの男は、血のつながった兄を神様の命令で殺したというのか。

そのほかの家族を守るために? 

神様と呼ばれる何かは、一体何故そんな残酷な取引を持ちかけてきたのか。


「だから、俺は」


ジョンの声は軽い。中身が信じられないほど重くてひどいのに、男の口調だけがあり得ないほどからっとしている。


「兄貴の乗った船を、神様から借り受けた力で、強引に沈めて、兄貴を海の底に沈めた」


哀れな神様の愛し子は、神様の領域である深海に引きずり込まれて溺れて死んだ。

歌うよな調子で言ったジョンが、続ける。


「そしてその日、俺の家族達が暮らしていた町に、雨が降った事で、俺の家族達は殺される運命から逃げられた。雨が降って、俺の家族達に罪はない、と神様が示したおかげだった」


おかげで全員助かった。ほかの町の事は知らねえ、でも助かった。俺にとっては万々歳、とジョンは言う。


「……でもあなたは、罰を受けたんでしょう」


「そ。俺のこの銀の目は、ただ銀色ってわけじゃねえ。こんな目玉、お嬢さんは俺以外では誰ひとりとして見た事の無い目玉だろう?」


「うん」


「俺の目玉は烙印だ。神様の大事な人間を殺しましたって印で、神様が与える罰からは逃れられないって事でもある。それで、まんまるのお月様が空に昇って下の世界を照らす間、俺を苦しませるのさ」


「それだけの印なの?」


「まあ、ほかにも色々妙な力も俺に備え付けてあるらしいけどな、実際にその場面にならないと、俺自身も何が使えるようになるかわからない。俺の目玉は烙印であり、神様からの祝福なのさ。そして祝福という物は、のろいという側面を常に持ち続ける代物でもある」


そう言って、シャルロッテにジョンは銀色の目を向けてにやりと笑った。その色の真実を教えられた彼女は、その目がやはり人間離れしてぎらぎらとしている事実からも、男の言った事が妄想ではないと悟った。


「どうだ、怖いか」


笑いながらジョンが言う。怖いのかと問いかける笑い方が、ジョンと言う男が他人から怖がられたり恐れられたりする事に慣れきっていると、シャルロッテに知らせてくる。

少女はそんな男を見上げて、言った。


「怖いと言うよりも、馬鹿な人」


「はあ? 誰が馬鹿だって言うんだよ。エーダじゃねえんだぞ」


「大事な人を守るためって言ったって。それのために自分をなげうって、これからも生きていかなくちゃいけない、なんて、馬鹿みたい。あなたは自分の幸せとかそう言うのを、大事に持っているの?」


「持ってるに決まってんだろう。俺ぁ世界の大秘宝を一つ残らず、この目に納めるって決めてんだよ。そういった夢を持っている事は、間違いなく幸せ、そうだろう?」


夢があれば幸せなのか。だがジョンの物言いはそれ以外にあり得ず、シャルロッテはそれに返答する事もできず、ジョンがそのまま帰れ、と言ってきた事に従って、自宅に戻っていったのだった。











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