それにしられてはならない。3(あいにくですが、私は父の実の娘になりたかったです!!より)
うそでしょ、と思ったのは、この術を使う人をたった一人だけ、私がよく知っていたからだ。
その人はここにいるはずがないのだ。
だってその人はこの世界では、その術を目覚めさせる事もなく、家族と幸せに暮らしている人で、それで間違いないはずなのだ。
そしてこんなにも、闇と同化しそうなほど、重たい空気をまとっている人ではない。
転移術の影響で白くなっていた視界が、徐々に慣れてきて、世界が見えてくる。
「……ここは、どこ?」
私は見覚えのない場所に戸惑った。この人生でも、前の時をさかのぼる前の人生でも、見た事のないそこは、ただ沈黙を続ける家具などが置かれている、それなのに殺風景と言いたくなる、そんな空間だった。
主の不在をただ知らせてくるような、そんな場所だった。
男は私の腕をきつくつかんだままで、それに対しての痛みよりも戸惑いや困惑といったものがこちらの頭の中を占めていて、いったい何なんだとい言いたくなる。
ここはどこで、あなたは何者で、どうして私を連れてきたのだ、と言いたくなる。
そのために私は口を開き、もう一度問いかけを発しようとした。
その時だ。
「ここは、砂漠の宮の主を持たぬ場所だ」
静かな声で、男が答えた。砂漠の宮の主を持たぬ場所、といわれてもそれでわかるほど、聡明ではないのだ。
だからどういう意味だと、言おうとした口だったのに、男は部屋の扉の鍵をかけて、それから私の腕を離した。
かなりしっかり掴まれていたから、後でこれは痣になるのでは、と夜の暗がりでも色の付いた腕を見て、それから、顔を上げた。
男がそれまでしっかりと被っていた布を、ゆっくりと脱いでいる。
「……なんで」
脱ぎ落とされた布は、それだけでも価値のある生地なのか、雑な音など何一つたたないなめらかさのようだ。
そんな事で現実逃避をしようと思ったのに、視線はその男に釘付けで、言葉もろくに出てくる気配がない。
流れ続ける黄金の色をした瞳。厳しそうな口元。目に飛び込んでくるのはその人の、ちょっとした人なら泣き出しちゃいそうな強面。
砂漠の人によくいる、真っ黒な髪の毛は闇よりも濃くて、砂漠の身だしなみとしてある程度の長さがあるのだ。
暗がりでも見て取れる体格は、肩幅なんて華奢な女性の二人分くらいはありそうなもので、そこにがっちりと筋肉が鎧のように覆っていて、明らかに戦うって物を知っているだろう。
すべてすべて、知っていたもので、二度と取り戻せない物の象徴のはずなのだ。
それがどうしてここにいる。
混乱した頭の中では、まともな言葉など何一つ出てこない。息がうまくできないのは、どうしてだ。
悲しいとか、怖いとか、そう言う感情以外で、喉の奥が詰まって、うまく言葉が出せないのはどうしてだ。
うれしいとか、そう言う感情以外で、目が熱くなって、涙がこぼれそうなのが惜しくなるのは何でなんだ。
立ち尽くす私に、男が大きく足を踏み出し、片手で軽々と私の肩をつかみ、引き寄せる。
なすがままに、男に引き寄せられた私は、明らかな身長差で、一生懸命に見上げなくちゃ、この距離では顔が見られない相手を、精一杯見上げて、男が首を傾けて、少し背中を丸めて、私を見下ろすのを、見ていた。
「そして俺は」
男が静かな声で告げてくる。私にとって信じられない言葉を。あり得ないはずの言葉を、静かに静かに、嵐の前触れのような静かさで、伝えてきた。
「この砂漠、……語弊があるか。大陸の半分を統べる王だ」
「……ええっと」
砂漠の王様って、ケビンのお兄さんなんだよ、と言おうとした。だから言葉を伝えるために、一生懸命に呼吸をして、唇をなめてから言う。
「私の知っている、砂漠の王様って、ケビンっていう人のお兄さんなんだよ」
「この国でもかなり昔はそうだった」
いよいよ、わけがわからなくなってきた。私はその過去を知っている。過去にケビンのお兄さんは、王様になった後に、神の怒りに耐えきれなくて、雷に打たれて死んだのだ。
でもそれは、存在しない過去になったはずなのだ。
だって、私は、その過去を覆したのだから。
あの時、神の寵児の脱走をくい止めて、その代わりに、神の寵児と碧の国の王族様の娘であった私、エーダの存在はなくなって、過去は変わって、今まで私が暮らしてきた世界が、出来たはずなのだ。
これは夢なのか。一体どこからが夢なのか。
まだ私は、あの路地裏で、通りすがりの酔っぱらいに好き勝手されているのか。
どこから夢は始まった?
そんな事を考えていた私に、王と名乗る男が言う。
「俺はお前を買った男だ。お前はこれからここに暮らす」
買った? ……いやまて、いつ買われた。……さっきのあの時? あのごろつきに投げつけた、いかにも価値のあるなにかの装身具は、私の代金?
つっこみたい事はいろいろあった。投げかけたい疑問は山のようだった。
だが王は続ける。
「お前は俺の目に留まった。ただそれだけの不幸を、嘆くならば嘆け」
……少なくとも、このやりとりとかでわかったのは、この相手は私が一番大事にして、幸せにしたかった人と見た目が完全に一致する人で、なんだかよくわからないが、砂漠を越えた範囲を支配している相当な権力者で、私にどうやら、拒否の選択肢を与えてくれそうにないと言う事だった。
「私は、よくわからないんだけど」
「お前を買った人間が、俺以外か、俺か、という違いだけだ」
ますますわからないのだが、と文句を言おうとした私だったのに、もうかなり遠い記憶になりつつある、大事な夫の目と、まるきり同じなのに、あれよりも闇を抱えていそうな瞳に見下ろされると、どうしようもなく懐かしくて、抱きしめたくなってきて、誰にも渡したくなくなって、優しくしたくなった。そうだ。これは砂漠の王様に紹介されたハッサンさんにはついぞ抱いた事のない感情で、だから、私は。
「なんだかわかんないけど、まあとりあえず、あなた相手なら吐き気とかはなさそうなのが救いだ」
そう、王の目に留まった商売女のような軽さを、わざと演じて、両手を思い切り広げて、その首に腕を回して、降ってきた唇を受け止めたのだった。
夢ならば、どうなったって、目が覚めるのだから。それまでは。