完璧母の残念な娘は、いないほうがマシなんです!(残念ながら母の娘は……)3
コミカライズ用に用意した描き下ろしですが、第二部作らないのでもったいないので投下します! 意外な人とエーダちゃんのお話です!
いよいよ儀式の当日であり、儀式が王家の祭壇で行われていても、それは庶民には全く知らされないものだった。
青の神の儀式の多くは、庶民には広められないのだ。そして、新年を祝う儀式の時にだけ、青の神に捧げ物をするのだと、多くの人々が思っている。
まさか不幸の多い王の在位期間に、生け贄を捧げるなどとは思ってもいないだろう。
エーダは鏡を見た。いつも通りに、きれいな顔を化粧で作ったから、彼女の顔は驚くほど別人の美女で、普段よりも少しだけ、化粧を濃くして、印象が強まるようにした。
この鏡を見るのも最後だろう。そして……この隠れ家に帰ってくるのも最後になる。
エーダは自分に与えられていた、自分が選んだ世界を見回してから、立ち上がった。
家の一階ではヘレネが待っており、にやりと笑う。
「さて、エーダイン。手筈通りに物事を進めるが、……覚悟は決まっているか」
「まあね」
覚悟など、この作戦を考えた時点で決まっていた。腹もくくった。後は実行するだけだ。
「儀式の間にお前を入れた後は、お前がある程度はウィルヘル王子を脱走させるしかない。どうやら王族の血を引くか、儀式の飾りを持っている神官ぐらいしか、祭壇のある儀式の間には受け入れられないらしいからな」
「私が出入り口まで、きっとウィルヘル王子を逃がすから、あなた達はその後、必ずあの人を安全な場所まで連れて行って。……もしも抵抗されたら」
「されたら?」
「エーダがあなたと同じ事をしているだけだ。あなたは逃げて幸せになるんだ、とエーダが言ったと」
「はいはい」
覚える気も全くなさそうな返事だが、ヘレネはやる時はやる男だとわかっていたから、エーダは忍び込むための身なりを確認して、ヘレネと連れだって、隠れ家を出て、王城を目指したのだった。
王城は立派なものだが、王家の儀式の祭壇は、王城から渡り廊下を歩いて距離を開けた場所である。
おそらく、もしもの時のために王城が被害を受けないようにと、遠ざけられたのだろう。
エーダはその中に、ヘレネの手引きで侵入した。ヘレネがどこから手に入れたのか、エーダに用意された神官補佐の衣装は、フードも深くかぶり、顔も半分を布で覆う形であるため、その衣装を着れば疑われる事にならなかったのだ。
衣装の力はすごいものだ、とエーダは神官の手伝いをするような形になりながらも、儀式の間に入り込んだ。
「……っ」
入り込んで、エーダは祭壇の前に、縛り上げられている命の恩人を見て言葉を失った。
彼はぼろぼろだった。こうなる前に相当に暴れた様子で、顔には色の濃い痣が浮かび、暴れすぎるが故に、着替えさせる事もできなかったのか、衣装はちぎれたり汚れたりと、生け贄というにはあまりにも見苦しい状態だった。生け贄は神に捧げるものなので、きれいに飾る事の方が一般的だと、エーダも知っていた。
そして舌を噛んで自殺しないようにするためなのか、猿ぐつわをはめられて、とにかく、絶対に逃がさないという事を念頭に置いただけの姿になっていた。
エーダはそれを見て、彼が望まない生け贄だとはっきりわかったし、彼が生きたいのだと言う事も強く感じ取れた。
そのため、自分の選ぶ道は正解になる、と彼女は結論づけ、その時を待った。
単純に神官補佐が生け贄に近寄れるのは、生け贄に青の神の贄だという額の印をつける時で、その時以外に近寄れば何かの妨害がある。
エーダはじりじりとその時を待ち、そして、その時が来た。
神官が、神官補佐を数人連れて、彼に近づく。エーダももちろん近づいた。
「神はあなた様を選び取られた。願わくば神に愛され、神とともにこの国を守り慈しみ給え……」
神官が慣例の言葉を言い、額に印をつけるために、青い塗料を瓶から指で拭い取ったその時。
エーダは、持っていた煙玉を、思い切り地面にたたきつけ、まだ見えている瞬間に、ウィルヘル王子の縄を切り裂き、猿ぐつわも切って、叫んだ。
「逃げよう、ウィルヘル様!!」
「何っ!!」
煙玉は最高の強さのものを仕入れていて、一度炸裂させたらよほど換気をうまく行わなければ、数時間は何も見えなくなるくらいのものだった。
だからエーダは、彼の縄を切って彼を引きずるように立ち上がらせて、出口まで手をつかんで走ったのだ。
何が起きているのかわかっていないその人は、それでもエーダにされるがままに走り続け、エーダは煙の中でも見えた出口に、二人で飛び込もうとした。
だが。
「神官補佐のくせに、何という真似を!!」
そういう鋭い声が響き渡り、一気に立ち続けられないほどの強風が吹き渡り、視界は一気に明瞭になった。
だがそれはエーダにとって最悪の事で、煙のために何も見えていなかった、出入り口を守る騎士達が、エーダとウィルヘル王子の前に立ちはだかり、そして。
「そのものの動きを封じろ!! 逃げるなら手足を切り飛ばしてもかまわない!!」
神官が騎士に強い声で命令し、騎士達は儀式を邪魔するエーダと、逃げようとしたウィルヘル王子に冷たい目を向けて、斬りかかってきたのだ。
「!!」
エーダは短剣で一度は剣を受け流した。だが一人ではなく二人で逃げているため、どうにも対応が遅れた。
そして縛り上げられていたウィルヘル王子は、武器になるものなど何一つ持っていないし、ずいぶんと衰弱する事をされていたのか、立っているだけで顔が真っ青になって、倒れそうな有様だった。
「こしゃくな小娘だ! 神聖なる儀式を邪魔しようとは!」
神官がどなり、そして。
エーダは背後の事を気にしていなかった、それが徒になった。
どん。とエーダは背中に強い衝撃を受けて、騎士に斬られる前に、その場に倒れた。
「……あ、ぐ……?」
背中に相当な衝撃を受けただけ、だというのに、エーダは体が全く動かなかった。
そして、ウィルヘル王子が引きつった声で叫んだ。
「エーダ!! 死ぬな!!」
「え……?」
数拍遅れて、エーダは自分の背中が深々と風の刃で切り裂かれ、背骨をやられて立てなくなった事、おびただしい出血をし始めた事にも気がついた。
血の勢いがすごいのか、どんどん頭の中がかすんでいく。
でも。
「に、げて……王子様……」
エーダは力一杯、可能な限りの大声で、命の恩人に言った。
「私が……王族の血を持つ私が……生け贄になるから……」
儀式は中断してしまったら、自分から望んで捧げられる生け贄を捧げなければ、最悪の事態になる。
エーダはそれを聞いていたからこそ、
「ウィルヘル王子を逃がして、自分が進んで生け贄になれば、儀式は最悪の形にならないまま終了するから、最悪の事にはならない」
と判断していたのだ。
エーダは騎士達を見上げて、にやりと笑った。
「私はリリー公の一人娘、エーダイン……贄になるのは、この私だ」
「何を……っ!?」
騎士達は意味がわからないという顔をしている。エーダはこの状況で、不敵な笑みを崩さずに言う。
「自分から進んで生け贄になったなら……望まない生け贄になっているウィルヘル様を助けられる」
騎士達は戸惑い、ためらう顔になっている。エーダは最後の力をふり絞って言った。
「どうせ私は、この傷で助かるわけもないんだ。……贄になるにはちょうどいい」
命を捨てているとか、諦めているとか、そう言った事を言われる選択だっただろう。
だがエーダは、エーダはとても、人生に疲れていたのだ。そして絶望していた。
思えば、小さい頃は母の美貌と比べられて、誰からも粗末に扱われてきた。そりゃ、母は優しかったが、自分の娘がおとしめられている事に対して、怒ったり嘆いたり、庇ったりしてくれた事はなかった。
母はあんなに美しい。娘は血がつながっている事が間違いのように平凡。ありふれている。
完全なる母のおまけ扱い。おまけ程度の価値しか持っていない娘。
それはエーダの呪縛だった。物心ついた時から、ずっとそう周りの第三者は口さがなくそう言い、エーダの深部にこれらの言葉はすり込まれた。
これで、母が第三者に怒ったり反論したり、エーダを守る姿勢を見せていれば、その呪縛はまだエーダの最深部にまで根を下ろさなかっただろう。
だが母はそれらの言葉が、聞こえないふりをした。粗雑な扱いも、見て見ぬふりをしてきた。母は、エーダを大事に思っていると言うよりも、死んでしまった夫にうり二つの娘に、夫を重ねて愛しく思っていただけなのだ。
だから、エーダ、の心を守るような発言を、してきた事がなかった。
その結果、母に守られた事は、エーダの記憶の中に何一つとして存在していない。
母が失踪した後は、大家のおかみさんの計らいで、一番小さな部屋を借りる事ができた。
ゆえにエーダはそこで一人で生きていくために必死になった。
だがおかみさんがそう計らったのは、やはり美貌のエーダの母が、おかみさんの早くに亡くなった妹に似ていたからだ。
家族のようだと言っていたが、それもすべては母がおかみさんの妹に似ていた結果だ。
母が似ていなければ、そんな親近感も抱いてもらうことはなかっただろう。世間は厳しいのだと、エーダは母がいた頃から知っていた。
母すら自分を見るのではなく、エーダ越しに夫を見ていたのだから。
自分だけで、そんな取り計らいをしてもらえるわけもないと、エーダはよくよく理解していた。
自分だけだったなら、きっと劣悪な環境に放り出されただろう。孤児院に送られるのだって、その孤児院への移動費がなければできない事だと、エーダはもう知っていた。
母が美貌だったから。母が死んだ妹さんに似ていたから。
自分を大切に思って、そういう事をしてもらったわけではなかった。
そしてその大家の一人娘は、たいそう美人で可憐で、いつでも隣に並んでいた。隣に並べば美少女と平凡な顔の落差は誰の目にも明らかで、そこでえこひいきをされたり、何か言われる事も日常で。
母の次は、親友だと思っていたかった相手と常に比較される毎日。
きれいじゃない自分は、誰かのために生きなくては価値がない。誰かのために生きなければ、生きる事だって許してもらえない。
おかみさんが優しい事を言ってくれるたびに、そう考えた。誰かが口さがなく言うたびに、エーダはいつもそうとしか捉えられなかった。
おかみさんや旦那さんが優しいのは、二人の大切な娘のシャルロッテを、エーダがいつでも守ってきているから。
守らなくなったエーダに、優しくしてくれる事はない。
母親の面というもののために、母の自分への扱いのために、そういう事を思いがちになっていたエーダは、それを払拭してくれる出来事がなかったために、そういう風にしか考えられなかった。
だがそれを、表面上は気づかれないように、うまく立ち回る事だって覚えた。
どんなに遠くに行きたくても、隣に並びたくなくても、自分の隣に並び続ける、年々美貌に拍車がかかり、誰からもきれいだと言われるようになった、下町で一番の美少女。
対する自分は、きれいなんて言われた事も、かわいいと言われた事も、一度もない平凡さもしくは、褒められる物のない顔。必要に迫られての事だったけれども、乱暴な言動や行動のかわいくない女の子。
この事もあって、余計にエーダの、自分自身に対する自己肯定は大きく削られた。
ほとんどの人が自分に、本当の意味では優しくはない。隣に誰かが並んだ途端に、ないがしろにされる。母でも、親友でも、隣に並べば誰もが自分をないがしろにする。
美しい母も、美しい親友も、自分と並ぶと余計に素晴らしさが際立つ。
そんな人生で、それでも唯一の家族の、母の面影にすがって、生きてきた。
それでも、人生は残酷だ。母と再会した途端に、また同じように、誰もが母と自分を比べて、自分をないがしろにして、自分をさげすんできた。
そして母はそれらを見て見ぬふりを貫いたのだ。
これでエーダは、決定的に人生に絶望した。
自分はどうあがいても、ほとんどの人にちゃんと大事にしてもらえない。……母にすら。
自分はどんなに努力しても、大部分の人に守ってもらえることはない。心も体も。……親友にすら。
だから、エーダは命の恩人である、ウィルヘル王子を助ける事に執心したのだ。
彼は牢屋の中のエーダを見て、話を聞いて、あちらの事情があるのだろうけれども、助けてくれた。
エーダの顔もシャルロッテの美貌も、何も関係なく、手助けをしてくれた。
それは、忘れられない、たった一人だけの特別だった男を思い出させた。エーダだけを見て、文句を言ったり怒鳴ったり、雑に扱ったりしていたのは事実でも、エーダの一番柔らかい部分に、優しくしてくれた、誰とも比べたりしなかった、美しくも格好良くもない師匠を思い出させた。
その男は今も消息不明で、どこにいるのかも何をしているのかも、もうはっきり言えば生きているのかもわからない人で、エーダはその男に向けられた雑かつ適当で無責任な優しさがあったからこそ、ウィルヘル王子を助けたいと思ったのだ。
エーダにとって、それだけ価値のある事を、ウィルヘル王子は知らず知らずに行ったのだ。
これは恋でも愛でもない。そんなあまっちょろい感情はどこにも芽生えていない。
ただ彼の命には、自分の命を差し出してもかまわないほどの価値があると、エーダの一番深いところが、柔らかいところが、言い切っただけの話なのだ。
だからエーダは笑うのだ。
命をかけて助ける価値のある相手を、助けるためだけに。
血はどんどんと流れていく。意識もどんどん薄れていきそうで、エーダは騎士達や、走ってきた神官達に言う。
「早くしろ。……私が死んだら、儀式を失敗させた後に必要になる、自分から命を差し出す王族がいなくなるよ」
「お前は……それすら、知ってこんな真似を」
神官達が蒼白な顔で戦いている。そういった儀式の中身すら知っていて、この王族に見えない女は、儀式を中断させ、ウィルヘル王子を救おうとしたのか。
自分の命で、儀式をどうにか終了に持ち込めると、判断して。
自分というものを、賭けて。
「エーダ! だめだ、命を雑に扱ってはいけない!」
ウィルヘル王子がエーダを抱き起こす。流れていく命が、彼をどんどんと赤く汚す。
「……だめだよ、王子様」
あなたは、まだ生きなくちゃいけない人だから。
エーダは最後、そう言って目を閉じようとした。神官達は、絶対に自分を生け贄にして、儀式を最悪の形以外で終わらせなければならなくなったと、判断できた故だった。
そんな時だった。にわかに出入り口が騒がしくなり、遠慮も加減も知らぬ動きで、その扉が蹴り開けられたのだ。
儀式は中断されてしまった。この結果を知っている、儀式を行っている王族も、神官も、儀式の失敗による結末に巻き込まれまいと、ざわつき、恐怖から逃げ出そうとするその中で、その男は現れた。
「いよう、死にかけてんな、馬鹿エーダ」
嘘だろう、とエーダは思った。その声はもう、ずいぶんと聞いていない声だった。
いつでも自信たっぷりで、その自信の出所はどこなんだと、言いたくなる事だっていっぱいやっていた人の声だ。
……その声を、エーダはずっと聞きたかった。泣きたくなるような弱気になった時に、この声に無理矢理引っ張り上げられたかった。
無責任で、がさつで、粗暴で、適当で、お調子者で、一般的に言うと、おおよそ懐く相手じゃなかったその男が、今ここに、どういう方法を使ったのか、現れたのだ。
この荒くて雑で、いつだって自信しか持ってない声を、エーダは聞き間違えたりしない。
「……さて。おう、あんたらがこいつらの事いらねえなら、俺がもらってくわ」
男は固まる周囲を見回して、さらに一番奥、祭壇に目を向けて、吐き捨てる調子で言った。
「おうおう、もう作り物の神様だか本物の神様だか知らねえが、ご大層な力なんて何にもなくなって、ただ命をほしがるだけになったガラクタじゃねえか、あれ」
エーダがその声に驚いて目を開けた時、男の銀色の目は、燦然ときらめいていた。それは明らかに、人が持つ力ではなかった。そのきらめき方は、あまりにもまばゆい。太陽の鋭い光が、無慈悲な力が、瞳に宿ったようだった。
「そんなものに、俺のつれだのなんだのを、食わせるなんてさせるかよ」
男の瞳が、強烈な光という色のまばゆさが、祭壇の奥に潜む何かに注がれる。誰も見た事がないだろう紋章が突如その場に浮かび上がり、祭壇の奥の何かを縛り上げ、ぎゅうぎゅうと締め上げ、そして。
ばりん、とあっけないほど壊れる音を立てて、その祭壇の奥の何かが砕かれて消え去った。
その途端だ。祭壇のあるこの建物ががたがたと大きく揺れ始めた。
まるで崩壊を始めたかのようで、自分の命の事だけを誰もが考えて逃げ出し始めるその混乱のなかで、エーダはその男の脇にいつの間にかいた、ヘレネに担ぎ上げられた。
男はウィルヘル王子を躊躇など一切なしに担ぎ上げ、二人して信じられないほどの早さで、その場所どころか、王宮から脱走したのだった。
「これくらいなら俺で治るわな。これでも俺の治癒の力はそれなりってやつなんだよ」
脱走して、全員がヘレネの隠れ家ではなく、別の隠れ家らしき場所に到着した。
そこはヘレネの隠れ家よりも雑な有様で、汚れていて、年数の立ち方と言ったら、よく崩壊しないものだと感心したくなる建物だった。
それ故に、誰もが視線を向けたりしない。子供の遊び場にすらならないぼろさだった。
そこで、エーダは容赦なく上半身の服を剥ぎ取られて、男に治療されていた。
男の手から、淡い光がエーダの背中の、大きな傷に注がれていくと、傷の痛みが遠くなっていく。
「ジョン兄ちゃん……?」
エーダはそこで、痛みが遠のいたが、失血からくらくらする頭で、それでも相手の名前を呼んだ。
「おう、お前の師匠のジョン兄ちゃんだぜ。まったく。お前なんで前に暮らしてた賃貸物件にいねえんだよ! おかげで家を借りるのにあほみたいに手間取ったぜ。お前の手紙がなかったら、俺ぁ警邏にとっ捕まってたぜ!」
「……だって」
「だってじゃねえよ! まったく。引っ越ししたなら引っ越ししたって、ギルドの伝言板にでも書き置き残せよ!」
理不尽だ。でもこの理不尽ささえ、エーダには泣きたいほど懐かしくて、安心するものがあった。
この相手には、遠慮なんて何もない心からの言葉を、怒鳴れると知っていた。
それが、許される唯一の男。
「どこをほっつき歩いているかもわからない、生きてるのか死んでるのかもわかんない人宛に、書き置きとか伝言とか残すわけないでしょ!!」
「お師匠様に対する敬意ってもんが足りねえな! そこはお前、お前のジョン兄ちゃんがそう簡単に死なねえって信じてろよ!」
「だって!! ジョン兄ちゃん、なんにも、何にも連絡してくれた事ないじゃん! 一年に一回だけでも、手紙一枚だけでも、私、私……」
エーダはそこまで叫ぶと、それまでこぼれてこなかった涙が、ぼろりとこぼれた自分に気がついた。
「……欲しかったのかよ。俺からのお手紙なんか」
エーダはそんな風に泣く事なんてなかった。厳しい訓練の時に、泣いている事はあっても、こんな風に涙をこぼすエーダは、ジョンにとって見たことのない顔だった。
それも相まってか、ジョンが怪訝そうに言う。
「欲しかった。兄ちゃんがやった宝探しの話とか、知りたかった。ジョン兄ちゃんが、ちょびっとだけでも、私の事気にかけてくれてるって、思いたかった」
「あー……そうかいそうかい。俺ちょっくら、青の国の王族ににらまれてたもんでな。手紙なんて、足のつく事やれやしなかったんだよ」
「……バルロ。エーダにまで手を出していたのか?」
エーダの師匠のジョンが、少し失敗したな、と言う調子で言ったその時である。
やけに重たい声で、同じ部屋で座っていたウィルヘルが、そんな事を尋ねたのだ。
「はあ? エーダはお前の前の教え子だぜ? こいつがうんとちび……十歳くらいの時から、十二だったか、それくらいまで徹底的に技を仕込んだ間柄だぞ」
「その間に手を出していたという話は」
「お前なあ!! お前にも言ってんだろ!! 俺ぁ餓鬼には手を出す事はしねえの! 十二とか餓鬼だろ餓鬼!! あんあんひいひいさせる年齢じゃねえよ! 失礼だな! 俺にも選ぶ権利はあるだろうが!!」
ウィルヘルとジョンは知り合いだったのだろうか。エーダは目の前で始まった、なぜか痴話喧嘩を連想させそうな言い合いに、目を丸くした。
「エーダはかわいいだろう」
「はあ? 俺の弟子がかわいくなくてなんだよ。俺にとってかわいくなきゃ教え子にしねえって」
「やっぱりエーダにそれなりの感情を」
「抱かねえよ! 十四のお前にだって、手垢はつけても最後の一線ってのは超えなかったのに、何妙な事言ってんだ」
「……は?」
エーダは理解しがたい中身が聞こえてきたので、そんな声が出た。隣のぼろっちい椅子では、声を殺しているものの、腹を抱えて笑っているヘレネがいる。
「……ジョン兄ちゃん。ちょっと待って。待って待って。……さっきから理解が追いつかないんだけど、ウィルヘル様と知り合いなの」
「お前がそれなりに使えるようになった後に、ブルーノの方の宝探ししてる時に気に入ったから、あれこれ教えてたやつ。ほぼ連れ状態だったぜ」
「彼は命の恩人で、生きるって事を教えてくれた人なんだ。……あまりにも多くの宝物をくれた人でもある」
「……なんか別人の事言ってない、ウィルヘル様」
「しょうがねえだろ、俺のやった事をどう捉えるかはそいつ次第なんだからよ」
ふんぞり返って自慢するジョンである。もう隣のヘレネはひいひいと涙を浮かべて笑っている。笑いすぎではないだろうか。
散々声を出さずに笑っていたヘレネが、涙を拭いてさらに言う。
「ちなみに、彼は俺の兄貴分なんだ。いやあ、いつ聞いても愉快なことしか言わない」
「じゃあ、え、私たち全員、ジョン兄ちゃん関係でつながりがあったって事!?」
まさかのつながりである。交流など何もない、生まれも育ちも全く違う三人が、たった一人の人間を起点にすれば、全員つながっていたなど、エーダからすれば衝撃だった。
「世間は狭かったわけだ」
ウィルヘルがそう言って、さて、と話を仕切り直すように声を上げる。
「これから全員どうするんだ。……バルロ、まさか一人でどこかに行くと言う事は計画していないよな? 俺の命を二度も三度も拾い上げた責任くらいはとれるな?」
「お前が前に言ったんだろうが。使い物になったら大秘宝探しについて行くって。俺ぁお前の無駄になりそうなくらいの多言語使いも、どこでも生きていける適応能力を評価してんだよ」
「……あんな夢物語を、覚えていてくれたのか。……くっそ、不覚にもうれしくなる」
「ウィルヘル様なんだか、性格変わってない……?」
エーダでなくとも思っただろう。ジョンと会話するウィルヘルは、どことなくジョンと同じ匂いを感じさせる、荒っぽさがにじんでいる。
そして外見の整い方と真逆のそれらが、妙な色気となってウィルヘルに漂っている。
穏やかで落ち着いていて、丁寧な物腰の王子様はどこに行ったのだろうと思うほどである。
「こいつは俺が地の果てまで連れて行く。で、エーダはどうすんだ? 着いてくるならそれはそれでかまわねえよ。世間知らずが一人だろうが二人だろうが、大して手間はかわらねえ」
ジョンはそう言って、ウィルヘルの頭を片方の手で乱雑になで回した。この雑さは見慣れたもので、この男の性根が何年たっても改善していない事を見せつけてきていた。
だが意外だったのは、その荒っぽい手つきの動きを、ウィルヘル王子が好ましそうに受け入れていると言う事だろう。
それどころか、どこかもっとなでろとでも言うように、頭をこすりつけている。
ジョンとウィルヘルの間には、エーダが知らないだけで、相当に深い関係があるのを、なんとなく匂わされた気分だった。
「エーダはほとぼりが冷めるまで、砂漠に連れて行くつもりだ。兄貴。この騒ぎの代金は、エーダ本人だと俺とエーダの間で話がついている」
ジョンの問いかけにエーダが答えようとした時、ヘレネがあっさりとそう言いきった。砂漠に行く事は想定外で、エーダは目を丸くした。
対して、そう言った事を言われたジョンの方が、言う。
「ヘレネ、趣味がいいな」
「兄貴譲りの趣味だからな。本物の宝の見極め方は、兄貴に習った数少ない有益な能力だ」
「お前そんな事言って、宝探しは全然しないんだろ。お前の一団が、何でもいいから宝を見つけたって話は、どこの町にも流れてねえぞ」
「兄貴のように、夢を追いかけて馬鹿をし続けるという、無駄の多い生き方はしない事はしないと決めたからな」
「人の生き方にケチつけんなよ」
「いっそ感心しているくらいだ。兄貴みたいな生き方で、未だ現役だって事にな」
流れるように悪口を言っている。エーダはヘレネがここまではっきりと誰かに対して、皮肉でも悪口でも言っている所を見た事がなかった。
ヘレネは頭が驚くほどいいので、悪口を言った時の不利益を計算し、そう言った事をあまり言わないようにしている男なのだ。
つまりなんだ。
エーダは二人を観察した。二人というのは、ジョン兄ちゃんとヘレネである。
二人の間にあるのだろう、兄弟分関係というのは、ヘレネにとっても十分に心を許せるものなのだろう。
思えば、ジョン兄ちゃんはすべてにおいて残念と言っていいくらいなのに、妙に人に好かれる男だったのだから、ヘレネも兄貴として慕っていると言う話なのだろう。
「さあて、俺たちは全員砂漠にいったん行くって訳か。で、ヘレネ。子分達には連絡とってるんだろう? いきなりエーダと二人きりの逃避行なんて事にはできないだろお前」
「事前に命令は回してある。もう彼らは一足先に砂漠に向かっているだろう」
「事前にここまで予想したの……?」
エーダはまさか、と思いながらそういった。行動が早すぎる。
「少なくとも、エーダが自分の身を生け贄に捧げる事を選ぶと言うのは」
「……え」
気づかれて入るだろうと思っていたが、実際に断言されると、言葉が出てこなくなりそうな物だった。
「だってほかに穏便と言えそうな、被害の少ない方法がなかったからな。こんな、無駄に目にまで神に匹敵する馬鹿みたいな力を押しつけられた男が、乱入するなんて話の方が確率としては低いからな」
「ほうほう、おいヘレネ。馬鹿エーダが自分を犠牲にして、ウーフを逃がして自分はあのがらくたの生け贄になるって、わかってたのに止めなかったのか?」
つまり自分はどこまでもヘレネの想定通りと言う事で……ヘレネはエーダが死に近しい事を選ぶという、彼女の内心まで知っていて、行動を止めなかったのか。
エーダは混乱しそうになったのだが、ヘレネはにこりと笑って言う。
「後悔の中、生き続ける事は地獄をさまように等しいと、バルロ兄貴、あんたが教えた」
「なんだそりゃぁ」
ジョンはしらばっくれた調子だが、ヘレネは続けた。
「姉さんの事、ずいぶんと兄貴は引きずってくれただろう。……王族の娯楽のような人体実験の材料にされて、蛇女にされた姉さんの事を」
「ヘレネ……?」
エーダはどんどん信じられない話を聞いている気分になった。数年前に、とある王族が極刑に課せられたのは平民でも知っている話で、その王族は人道に反する事を繰り返し、火刑に処されたのだ。
その犠牲者が、ヘレネの姉だというのか……。
「兄貴を見ていれば、後悔の中生き続けるのは、下手な罰よりも息苦しくて、身動きのとれない水の中で溺れるような物で、生きていると言う事実にさいなまれると教えてくれた。だからエーダに、そんな思いを抱いたまま生きて欲しくないだろう?」
「……お前もだいたい歪んでんな、ヘレネ」
「兄貴ほどじゃないさ」
「待ってヘレネ……あなたは、私に後悔する人生を送って欲しくないって理由で、私の選んだ道に協力したの?」
「苦しみながら生き続けるのを、隣で見ていても何も面白くないだろう?」
ヘレネはやはりエーダには、ほとんど内面が読めない。だが一つだけ確かな部分として、この男は面白さで多くの物事を図っている事があった。
「人生最後に笑ったもの勝ち。これも兄貴の受け売りなんだが、きっとエーダはウィルヘル王子を救出して、自分が死ぬって事になったら、笑ってそれを受け入れただろうからな」
エーダは見てきたように言うヘレネに、もう何も言えなかった。
「さあて、全員とっととこの青の国から逃げなきゃな。追っ手はたぶんかからねえけど」
「どうしてかからないの?」
ジョンが仕切り直すようにそう言い、立ち上がる。エーダもまた立ち上がり、彼に問いかけた。
そうすると、ジョンは不敵に笑った。
「誰も損してないからさ!」
「……兄ちゃん意味が全くわからない」
エーダのほとほとあきれたという声に、ジョンは大笑いをして、そしてがっちりと手をつかんでくるウィルヘルをつれて、廃屋から姿を消した。
嵐のように去って行った師匠を見送って、エーダは振り返った。
そこではヘレネがこちらを見ていた。
「ヘレネ、あなたもいくんでしょう、砂漠に」
「もちろん。大事をしすぎたら、顔が忘れられるまで遠くに隠れるのが一番簡単で確実だ」
「……私は」
どうしたいんだろう。エーダは自分の願っている事がわからなくなりながら、それを口に出そうとして、不意にヘレネが間近に迫り、そして。
「……!!」
「エーダイン。支払いはきちんと済ませなくてはいけないぞ、信頼という物があるからな」
唇に触れた温度と柔らかさに、目を見開き固まってしまった。
男はこの時初めて、エーダの唇に接吻したのだ。
「お前は俺に自分を支払った。つまりエーダインは俺が支配して左右していい所有物だ。……まあ安心してくれ。悪いようにはしないと、前にも言っていただろう? それに」
「それに?」
「俺はエーダインが気に入っているし、できれば優しく扱っておきたいからな」
「なんだかあなたも大概って感じがしてきた」
あきれ果てたエーダに、ヘレネが言う。
「それでは、砂漠に向かおう。手筈は先に行かせた部下達がある程度は整えているし、あちらには純金の鵞鳥亭という黄金の牡牛亭と提携している、信頼が多少はできるギルドもある。エーダインはギルドで働く方が、生き生きして楽しそうだ」
「……」
「生き生きして楽しそうなエーダインを見ている方が、俺は楽しい気分になるからな」
どこまで行っても、楽しそうと言う事を物差しにしている変わり者は、そう言って笑ったのだった。
満月の夜から時間は流れ、シャルロッテの修業先への出発日はあっという間にやってきて、シャルロッテは修行をした経験者の女性の意見を聞いて用意した、身の回りの物が入った荷物をもって、大河を渡る船の上に立っていた。
「……結局、エーダちゃんの事、何にもわからなかったな……」
それだけではない。あの日から数日後、ジョンはシャルロッテの母親に
「しばらく用事で留守にしなきゃならなくなった、とりあえず三年分の家賃払っておくから、部屋残しておいておいてくれ!」
と言って、三年分に契約の更新料まで入っていそうなたくさんの金貨の入った袋を渡して、どこかにいなくなってしまったのだ。
あまりにも鮮やかにいなくなったので、そう言った事に手慣れているとしか思えない。
シャルロッテの母はそれを聞いてこう言った。
「ちゃんと代金を支払っているなら、残しておこうかね。にしても、こんな大金どうやって手に入れたんだか。後ろ暗いお金じゃなさそうだけど」
そういうわけで、ジョンの部屋は、三年の間はそのまま残しておく事が決まった。
シャルロッテは、ジョンが帰ってくるのではないかと時々、夕方にその部屋の窓を見ていたが、いなくなった後、そこに明かりがつく事は一度も無かった。
「エーダちゃんはまだ見つけられない……ジョンは嵐みたいにいなくなった……」
エーダちゃんは自分という人生を送るために、しがらみを捨てたのだとジョンは言った。
ジョンはもっとあっという間に、どこかにいなくなった。
いなくなりかたが、ちょっと師弟で似ている様な気もしてくる。
シャルロッテは、この数ヶ月の間に、すっかり指通りの悪くなった髪の毛が、ちゃんとまとめられているか確認した。
かわいくなくても、美女じゃなくても、清潔で礼儀正しくて、立ち振る舞いがきちんとしていれば、それの方が評価される。
今までは、この叔母さんに似ている顔の効果もあったが、これからは自分の技術だけで修行を続けていくのだ。
シャルロッテは甲板からまた、港を見た。
「……!!!!」
その時だったのだ。シャルロッテの目に映ったのは、見間違いようのない鮮烈な赤い髪の毛をした女の子で、その女の子は、シャルロッテの見覚えのない男性と並んで、甲板の方を見ていた。
雰囲気などは全く違っている。でも。
「エーダ、ちゃん……」
そこにいたのは、シャルロッテの直感が正しければ、エーダだった。
「!」
今しかない。そんな風にふと思って、シャルロッテはその二人に、ほかの別れを惜しむ乗船客と同じように、大きく大きく手を振った。そして、それに、向こうも気がついて、そして。
びっくりした顔をしたエーダだと思われる女の子が、笑ってシャルロッテに手を振りかえした。
「……エーダちゃん!!! 私、頑張って本物になってみせるから!!」
シャルロッテは船が港から離れるその時、大声でそう言って、こぼれそうな涙をぐっと飲み込んで、船室の方に戻っていったのだった。
砂漠にすら、その噂が流れてきた。それだけ大きな噂だったのだ。
その噂によれば、人工の神を失った青の国では、長く続いた不作が解消され、青の国と他国から呼ばれるほどの豊かな実りを取り戻したのだとか。
そして調べた結果、人工の神には使用期限があり、その期限を越えていたその神は、ただの害悪に成り果てており、本来ならば勇者というべき特殊な力を持つ存在に、破壊してもらわなければならなかったのだという。
青の国では、その奇跡を起こした何者かを勇者であり、真の神のお使いだと噂し合い、消え去ったその人間を探しているのだという。
「兄ちゃんがそんな話を聞いたら、ますます逃げるのにね」
「違いない」
そこでエーダは、にやりとその師匠を見上げた。
「ヘレネはどうした」
「彼は彼の仕事よ」
「こんなかわいいの放っておいていいのかよ」
「大丈夫だよ、身の守り方は心得ているから」
エーダはにかっとそう言って笑った。
そろいの指輪が、枷のようにきらきらと砂漠の光に反射していた。




