素志(もとし)③メッセージじゃない
二月も半ばを過ぎ、新しいバイトも決まり、借り住まいだが住むところも確保しやっと落ち着いた。俺は洋食屋パスカルに行った。
実家に帰ってきたような気持ちで俺はドアを開けた。店にはまだお客はいなかった。店の壁に以前はなかった、イケメン過ぎて菜莉には紹介したくない整さんの絵が飾られていた。菜莉が大好きだという絵。冊子ではモノクロだったけど、カラーの原画。淡い水彩画。
確かにいい絵だ。嫉妬心が生まれるが、どうにもこうにも勝てない。
俺もこの絵が好きだ。
「ちわすっ」
「いらっしゃいま、素志、久しぶりね」
いつでも元気な安積実さんが迎えてくれる。世話を焼いてくれる姉みたいな存在だ。一般のお客相手のさわやかな「いらっしゃいませ」を中断させ俺の名前を不適に呼ぶ。
プライベートな事を嫌な感じにつつかれそうな予感がして、俺は標的にならないように自分から話題を提供する。
「これ、原画?」
「そう。いいでしょ」
「やっぱりカラーはいいな」
「うん。だから、次回は整くんの絵を表紙にさせてもらったよ。お楽しみに」
「へえ」
「ここ最近、どうしてたの?」
俺の短いリアクションに喰い気味で聞いてきた。やっぱり聞くのか俺の近況。もしかしてアパートの大家さん俺がここに通ってること知って、安積実さんたちになんか言いに来たのか。いや、それだったら連絡来るよな。滞納分は分割払いでどうにかしてもらうことになったし。とりあえず、今は菜莉のうちに転がり込んでいるが、誰にも知らせていない。
「ああ、家賃滞納してアパート追い出されて、ちょっと借り住まい中で」
「そうか」
もっと怒られるかと思ったら安積実さんは、商吾さんと目だけで何か確認しあってる。雰囲気的に家賃関係ではないようだ。
相変わらず仲のいい夫婦だ。商吾さんは俺にとって、兄であり母。この人の飯で俺はどれだけ救われているか。
「彼女元気? バレンタインはもらえた?」
安積実さんが聞いてきた。来て早々なんで彼女の話をするんだ。もしかしてお見合いでも勧める気か。いやいやいや、そういうタイプじゃないだろう。ああ、姉的な気遣いか? 彼女がいるかどうかも言ったことがなかったので、もしかして中学生みたいにチョコがもらえないと嘆いていると思って用意してくれていたのか? 確かにチョコはもらえなかった。
「看護師で夜勤続き、仕事忙しいみたいでバレンタインは忘れられた」
「そうなんだ。仕事変えたのかな」
え? なんか思った反応と違った。
「素志君のタイプって、むっちり天然系だよね」
商吾さんが確認するように聞く。
「そうそう脳ミソおっぱいに吸い取られちゃったような子」
安積実さんが分かりやすく付け加える。
「否定はしない」
やはりおっぱいは大きい方がいい。そして菜莉は形といい大きさといい最高。いやいや、それがいいだけじゃない。顔も声も性格も、俺の大好きが集まった超理想の彼女なんだ。
「彼女、真逆だよね」
「どちらかというとガリガリよね」
「いや。巨乳ですよ」
まあ手足は細いから服のデザインによっては胸のデカさは分からないのか。いや、でもガリガリって感じではないが。
「実は脱いだらすごいのか? 僕だまされた?」
「いやあ、あれはどうにもならなそう」
「ちょっと待って下さい。二人とも誰の話ししてるんですか」
「君の彼女」
二人、声をそろえて言う。
「なんか違う感じが。そもそも。彼女に会ったことありましたっけ」
そうだ。誰にも紹介してない。
え、もしかして整さんの絵見たさに、菜莉がここに来て自己紹介してるとか。いやいや、そんな菜莉の知らない俺を俺の知らない間に知られていたら、俺、非常に困る。いや、でも、原画飾るようになったの最近だろ。ふらりと立ち寄ったら、たまたまなんて。
頭の中で状況整理をしていると、安積実さんは俺がどんだけ不誠実な男だと思ってるのか、言い聞かせるように言ってきた。
「素直子ちゃんでしょ。素直な子と書いてソナコ。交換日記してるって」
「ソナコ?」
誰だ? 俺の彼女は菜莉。元カノでも知り合いでもソナコなんていないぞ。交換日記してるっていつの時代だよ。全く思い当たらない。
「『素数の人』に感動してくれた貴重な子」
「素数の人、日記」
日記って、あ
森岡素直子です。
洋食屋パスカルで、素志さんの『素数の人』に衝撃を受けた者です。
先日のお芝居、お疲れさまでした。
アンケート用紙に書ききれなかった芝居の感想送ります。
俺は数ヶ月前に送られてきた大学ノート、ファンレターを思い出した。
ガリガリで地味なファンの子。
「え? え ええ、あの子か!」
ファンレターだと思って返事を書いただけなのに、あれは「交換日記」だったのか。しかも、彼女ってどういうことだ。
「俺、付き合ってないけど。ただのファンの子だと思ってたんだけど。あれ、交換日記なの? 交換日記って2回だけっすよ。客出しの時に、感想を手紙で書きたいんでっていうから、住所教えたらノート送られてきて。なんか往復はがきみたいなもんかなって。こっちの便せんとかまで用紙してくれてる感じでさ。普通にファンだと思ってたからいろいろ熱い思いを返事に書いてやりました。俺の『素数の人』に感動してくれた子で、その時、公演のチラシ渡したら芝居見に来てくれて」
「え、そんな薄いつながりなの」
「素直子ちゃん、スゴい」
二人がものすごく驚いている。そのびっくり加減がしょうもなさすぎて、マンガにしたら目が点になってて全然描き込まれてないコマだ。
え、俺が悪いの????
ソナコ。そんな名前だったんだ。素直、子。
「あれでソナコって読むんだ。俺ずっとスナオコって読んでた」
「名前もちゃんと覚えてもらってなかったなんて」
安積実さんは笑いながら泣いている。笑いすぎてるのか、ソナコを哀れんでるのか、本当に涙流しててお手拭きで拭っている。
「じゃあ、このメッセージは?」
商吾さんにスマホの画像を見せられた。
「メッセージ?」
「僕、こっそり撮っておいたんだ。これこれ」
何か書かれている付箋。
まぎれもなく俺の字。
俺はスマホを受け取り、画像を大きくして文字をたどる。
素数でありたい僕は、虚数に出会ってしまった。
もうここにはいられない
「あ、ああこれか」
セミがうるさい夏の日、これをメモした自分を思い出した。
次回作『虚数の人』を書こうと思った時のメモだ。
虚数。イマジナリーナンバーと言うらしい。
理想的で、本当に俺の彼女として実在するのか、時々危うくなる彼女の存在を重ねて書こうと思った。『素数の人』もなかなかいい例えだったけど、これはすごいんじゃないかと思ってメモしたんだ。
俺天才だって思ったんだ。
素数が虚数に出会ったらどうなるんだ。ってか、虚数ってなんだかよくわかんないけど、かっこいい。そのかっこいいと思った勢いだけで何か書ける気がした。思いついた時にメモしたんだ。そして、その後、菜莉の可愛さにやられ、イチャコラしててこのメモどこかにやってしまった。
ただのメモ。誰かに宛てたメッセージじゃない。
俺は笑うに笑えないどうしようもない気分で、首を振りながら商吾さんにスマホを返す。
「メッセージじゃない」
「玄関に貼ってあったって」
「俺は貼ってない。どういう道をたどってドアに貼り付いたか検討もつかない」
「ミステリーだね」
「どっちにしろ、素直子ちゃん、あんたと付き合ってて逃げられたと思ってるよ。どうするのよ」
安積実さんは極道の妻みたいな低い声で、俺に詰め寄った。完全に遊んでるのが分かる。
「どうするって言われても」
「役者なら美しく演じてどうにかしろ」
「いやあ、俺さぁ、台本読み込んで役を作りこんでいくタイプじゃないですか。素の自分を演じるってのはねえ」
「ないですかって、知らないよ」
安積実さんの方が役者だよ。怖い。
「じゃあ本があればいいってことか」
いつも平和的な商吾さんは、名案を思いついたかのように言った。
「え、いや、そういうことじゃ」
「そういうことかー。本か。あ、じゃあ美数ちゃんにでも書いてもらう? 昔シナリオスクールにも通ってたっていうから、あんたに合わせた台本なんかちょちょいのちょいだよ」
「あ、それ面白い」
「面白いって、え? なに勝手に決めないでくださいよ」
この二人は、弟をからかって楽しむ兄と姉みたいだ。
「そうだ。貸切パーティー開こう。『ZINパスカル』第2弾が来週には完成するから。完成祝い。そこで、素志のステージを用意してあげるよ」
「なるほど。それに素直子ちゃんも、その彼女も呼んで一芝居打つと」
「そこで真実を語りなさい」
だから、二人で勝手に話進めんなよ。
真実を語れって。俺が騙したみたいになってるじゃん。つーか、なんであのやりとりで自分が彼女だと思えるんだ。怖い。ある意味引っ越しして良かったかもしれない。
「よし、じゃあ、美数ちゃんに話しとこう」
そして、その美数さんはもっと厄介。俺をバカ扱いする秀才の姉。年が近いからか安積実さんのような年上の優しさは全くない。冷静で鋭すぎるツッコミに太刀打ちできない。
「いやいや、ちょっと待って。あああ。なんか勝手に作られそうで怖いから自分で書きますよ」
「ほんと?」
「はい。一応『素数の人』書いた作家でもあるし。今年は『虚数の人』も書きましたから」
「素志が作家。作家ね。そうだねー。じゃあ、それを元に考えればいいじゃん」
「なるほど。そうだね。じゃ頑張って」
ものすごくバカにした投げやりな言い方をされた。でも俺が絶望しちゃいそうな台本を美数さんに作られても困るから頑張るしかない。
「は、い……」