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素数な人たち  作者: 牧田沙有狸


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2/22

素直子(そなこ)②運命の素数の人

 彼との出会いは1年前。

 派遣社員の私は年末に契約が終了し、1月から転職をすることになった。同じ会社で継続更新している人もいたが、私はできなかった。「頭のいい大学出てるからか、ちょっと融通が効かない所がね」と言われた。男性の多いこの会社は女の仕事は男の補助と言っている人が大半だった。別に男性と肩を並べてバリバリ働きたいわけでもないし、そんな能力はない。陰で文句を言いながらも、おじさんに使われて笑顔でお茶出しとかできる子たちが理解できない。そういう子たちと仲良くできない。してもらえる気がしなくて、こちらから距離を取ってしまう。知り合いはいるけど友達と胸を張って言える人はいない。コミュニケーションスキルがない。仕事もできる方ではない。自分でも嫌というほど分かってる。使えないんだ私。

 パワハラとか気にしてるのか、個人の特性に目を反らし原因を漠然とした物にすり替えて、頭のいい大学出てるからとか中途半端なフォローされる。

 別にどんな仕事でも良かった。ずっと目指していた道を諦めたから。それを支える大きな存在が突然なくなってしまったから。雇ってくれるところならどこでもいい。実家暮らしだから生活はできるけど、何もしないわけにはいかない。そんな気持ちで派遣に登録した。

 幸い新しい職場はすぐに決まった。前の職場より家から近く女性職員も多い。けど、ランチに行っていたお気に入りのお店に行く機会を失ってしまった。

 お気に入りの店「洋食屋パスカル」。若い夫婦が二人でやっているおしゃれな食堂といった感じのごくごく普通の洋食屋さん。すべてのメニューがホッとする味で、店の雰囲気が好きで癒やしだった。普段は家から持ってきたお弁当にして、月に2回だけ、自分へのご褒美として行き、8ヶ月通った。通ったと言っても、昼休みは短すぎるし人見知りの激しい私は、常連風吹かせることもなく一人でもくもくと食べているだけだった。

 新しい職場でミスをしてへこんだ日、あの店が恋しくなり、初めて夜に行った。

 空いていれば陣取るいつもの席。入り口から遠い壁際の二人席。向いに座るのは私のカバンだけ。

夜用のメニューを見ていると隣のテーブルを拭いている奥さんが声をかけてくれた。夫婦の妻の方、私から見てなんて言えばいいんだろう。夫が料理を作って妻が給仕を含めて店を仕切ってるから、雇われているわけでもないので上下関係がある呼称は使いたくないが思い浮かばない。妻さんって言うと夫側に話しかけてるような気がするし。やっぱり深い意味を考えないで奥さんか。

「よくランチに来てましたよね」

「え」

「あれ? 違った? 月に2回だいたい木曜のランチに来てた」

「そうです。はい」

 こんな地味な私を覚えててくれたんだ。確かに規則正しく木曜日に来ていた。一週間のうちで木曜日が一番しんどくなってしまうから。

「あの、一月から仕事先変わってお昼に来られなくなったので、夜に来てみました」

「あら、わざわざ。嬉しい」

 本当に嬉しそうな奥さんの笑顔が無邪気な中学生みたいに可愛く、その声は二度目の利用の時に「お帰り」とか言ってくれる民宿のおばあちゃんみたいな温かさで泣きそうになった。じんわりとほぐされていくような気分だ。この人の前では下手な嘘をついても意味がない気がする。

「なんか、居心地良くて。不思議な感じですよね。なんだろう」

 素直な感想が出た。社交辞令みたいな会話で、さらりと終わると思ったら奥さんは確信に満ちた質問をしてきた。

「本が、好きですか?」

「本?」

 この店で本を読んでいたことがあったのだろうか。本は好きだ。大学も文学部出身。だけど、世間で流行ってる本はあんまり読まない。本が好きとか趣味は読書とか言うと、当然これは読んでいるだろうと知らない本の話をされて、期待された返答をしなくてがっかりされることが多い。世間が認める「本が好きな人」というのはベストセラーを網羅した上で自分の好きな本を読みまくっているらしい。私にとって本は作者と読者の対話であって、その閉鎖的な世界がいいのに、読者同士が何かを共有するための道具みたいにしたがる人がいる。本について話をふくらませられないとダメみたいに思わされて、本が好きなんて言わなければ良かったと思ったことが何度もある。だから、奥さんの質問の答えに躊躇した。 

 私の返答を待たずに奥さんは話を続けた。

「うちのお店、一般流通してない自費製作本、ミニコミ誌とかフリーペーパー集めてるんですよ。あ、最近はZINEって言うのかな」

「ジン?」

 人? 仁? 陣? 腎? 神? 

「マガジンのジン。自分で好きなように作る本」

 奥さんはカウンターの隅に並べられた印刷物を何部か持ってきた。

 そんなものがあったのか。月2回の昼休みだけでは、店のことを知るには短すぎた。店としてもランチの時は忙しいから前面に出してなかったんだろうけど。

「完全にわたしの趣味なんですけどね。書きたい人が書きたいこと書いてるから面白いですよ。でも、ここにある本は、手に取った人にしか伝わらない。そこがいい。ネットの文章や絵ってすぐ拡散されて、みんなの目に触れるけど大事にされないしね」

 家のプリンターで作ったのかなって分かる手作り感満載の小冊子を何冊か渡された。

「あえてアナログな自己表現。SNSの双方向のコミュニケーションに疲れた人にウケてるらしいですよ。一方通行の送受信。いいねの強要もないし、既読スルーも気にしない」

 え。

 小さな衝撃が走った。

 人とのコミュニケーションがうまくとれない私は、どうやったら切り抜けるかばかり考えて生活してる。コミュニケーションがきちんと取れるのが人間として正常みたいに言われ続けて、人と話すたびに自分は何か欠落してるような気にさせられる。

 一方通行の発信、返さなくていい受信を心地よいと感じる人たちが作品を作っているという世界に触れて、自分がいた世界がいかに小さかったかという気になった。

「素敵ですね」

「ほんと? じゃあ、これ去年、原稿募集してうちで作った本なんだけど、よかったら見てください」

 表紙に『ZINEパスカル』という文字だけ書かれた新書サイズの本を渡された。

「パスカル?」

「このお店の名前」

「ああ。あの、パスカルって数学者の名前でしたよね。なにか関係あるんですか」

「あるような、ないような。数学って突き詰めると音楽とか美術で、ある意味アート。哲学だし文学にも思えて面白いなって」

「へえ」

 そんな深い意味があったのかと思いながら、私は『ZINEパスカル』を開いた。最初のページに淡い色調の優しい絵が飛び込む。三日月が光る夜道を下る少年の絵。美術だ。

 パラパラとめくると、小説や詩の文学がのびのびと並んでいる。紙面から自由なパワーがあふれ出ていて楽しそうな音楽が聞こえるようだ。本屋で手に取る本たちがものすごく行儀の良い子に思えてくる。文字表現はすべて活字に変換されているのに、不思議とそれぞれの個性が見える。

 その中でも余白が多く、中学生のポエムみたいな雰囲気が漂うページに私は目を奪われた。


『素数の人』 作・素志


 さっきよりも大きな衝撃が走った。

 私はそこに書かれている人の思いに魅了された。ずっとずっとひとりぼっちで森に迷い込んでいた私の前に、突如現れた王子さまのように思えた。

 君を探していた。

 君が必要だ。

 もう一人じゃない。

 そう言われてる気がした。


そして運命を感じた。

「ちわっ」

常連らしい男が店に入ってきたのだ。

「いらっしゃい。素志くん」

 素志。

 もとし。奥さんが呼ぶ名前、その音を勝手に素志と変換する。

 この数分間、私を支配している人の名前が音になって耳に響いた。

 そんなウマい話あるわけないでしょ。こんな出会いを演出したドラマの都合のよすぎる展開に何度ツッコミを入れたことか。でもそれは、切り取られたドラマのシーンだからそう見えるだけであって、運命の瞬間になりうる状況は意外と多いのかもしれない。それに気づくか気づかないか。淡々と過ぎる日常の中で何度も何度もすれ違いを重ねてやっと来た瞬間。意識していなかったから、いきなり訪れた偶然に思うだけ。きっと、何回かこの店で会っていたかも知れない。この人に会ってみたいと思った瞬間に現れるなんて、運命以外のなにものでもない。思わせて欲しい。

 いつもの私だったら、ちょっと考えて、聞くかどうしようか迷い、相手の反応を想像して動悸がして、聞こうと思ったことを諦める言い訳を一生懸命頭の中で確認するのに、考える間もなく『ZINEパスカル』を突き出して聞いた。

「あの、素志って、もしかしてもしかして、これ『素数の人』を書いた素志って、あなたですか」

「あ、はい」

「感動しましたぁああ」

「マジで! ありがとう。そんなこと言ってくれたの君が初めてだよ」

 彼は私の手を握って涙目で喜んだ。

 私は一瞬で恋に落ちた。


 そんな彼が知らない間に引っ越しした。

 私は謎の付箋を取り、彼と出会った場所『パスカル』へ行った。



「どうしたの?」

 私は付箋を指に付け旗のように振りながらカウンターに伏せていた。その姿を見て、この店のシェフ、商吾しょうごさんが聞いている。

「彼氏が謎のメッセージを残し、知らない間に引っ越ししてたって」

奥さん改め、安積実あつみさんが言う。

「素数でありたい僕は、虚数に出会ってしまった。もうここにはいられない……素直子そなこちゃんの彼氏って?」

 素直な子と書いてそなこ。わたし、森岡素直子。そして彼は

「素数の人です」

「これ読んで感動したらしいよ」

安積実さんが商吾さんに『ZINEパスカル』を見せる。

「素志くんか」

「うん。この文章の、どこをどう読めば好きになるのか、わたしには分からない」

「まあ、彼自身は悪い人じゃないし」

「そこそこイケメン枠にいるし、一応役者だから見た目で好きになるなら分かるけど、文が先だからなあ」

 店の常連で長い付き合いなのか、安積実さんは素志くんを弟みたいに可愛がってる。彼との関係は私より長くて、愛情を持って酷評しているのが分かるけど私はどうしても言いたくて力説した。

「見た目はチャラい劇団員だけど、日記の彼は真面目な表現者です。まさに素数の人。私そんな彼の応援がしたくて素数好きになったんです。日常の中で素数を見つけるたびに、彼を思い出して温かい気持ちになるんです」

「日記?」

「交換日記です」

「交換日記?」

 安積実さんと商吾さんが声を合わせて聞く。

「それで連絡取ってました。私、彼の住所しか知らないんで郵送で。手紙だと改まりすぎちゃうし、自分が前に何書いたか分かんないけど、日記帳だと残るし」

「なるほどね」

 二人は納得したように笑顔を見せた。


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