整(せい)①言葉にできない思い
ぼくは何もできなかった。
素直子さんが話していた先生の話が素良だったことで、胸がいっぱいになってしまった。
ぼくは自分のことしか考えられない。
バレンタインデーというものは嫌いだ。素良の命日だから。
素志くんが出て行ったこの空間で、本当はまったく関係ないみたいに黙ってここにいるのは申し訳ないと思うけど、ぼくにはこの二人をどうにかしてあげられない。
ぼくは、いろんなことが気になりすぎて、きっと人よりものすごく考えているんだけど、それをうまく言葉に伝えられなくて諦めるクセがついている。諦めたものの残骸を集めて、絵を描いている。絵の具と水が混ざり合って、二度と作れない色ができて、それが重なり合って、ぼくの心のモヤモヤを絵筆が形にしていく。この色を作り出すとき、この色とこの色を使えばこうなるとか、そういう計算をしていない。
限りなく無心だ。そんなことを人に話すと、絵を描き始めた頃は考えていたけど、考えなくても出来るようになった熟練の技なんじゃないかと言われるが、そういうのとは違う気がする。ぼくの言葉の代わりなんだ。
ぼくの絵は絵画と言うよりイラストと言われるものに近い。多分、十代の頃に出会った作品の影響だと思う。当時の自分とさほど年が分からない若き芸術家として話題になったイラストレーターがいた。多感な時期に出会ったせいもあるだろうが何よりも響いた。見ていて安心する世界だった。絵は世界の入り口であって、覗かせてもらっているような気持ちになった。平面なのに奥行きがあって、一言では言い表せない気持ちがたくさん込められていて、無理に言葉にしなくてもいいと言ってくれてるようだった。入り口であり窓でもあり、その絵が飾ってある空間さえも心地よく感じられた。そして、ぼくもこういう世界を持てば楽に生きられるんじゃないかと思えた。それから好きなように絵を描き続けてきた。
十年ぐらい前、親戚のすすめで一度だけ個展のようなものを開いた。身内の義理みたいなものがあったので断れなかった。部屋にため込まれた言葉の代わりに吐き出された絵を人に見せる。額縁に入れて飾ってみると、すごい画家みたいに思えてきて、みんな、ぼくのことなんか知りもしないのに褒めてくれた。何枚か売れたし、親戚の顔も立てられた。
けど、もう二度とやりたくない。ぼくは美大を出てるわけでも、専門学校に行ったわけでもデザイン系の仕事に就いているわけでもない。仕事以外が趣味と見なされるならまったくもって素人の趣味だ。中学校の美術の授業で使っていた水彩絵の具と筆で描き始めて、今も変わらない。専門的な画材も技法も知らず、自分の好きなように描いている。
だからか、その道に詳しい人たちが寄ってくる。ぼくに知識がないから、いろんな助言をしてくる。どこかのコンクールにすべきだと何人かの人たちに言われた。純粋にいいと言ってくれる言葉に嘘は感じないけど、自分の審美眼に狂いはなかったということを試したいのか、ぼくの気持ちなんかまるで無視しているのは分かる。
ぼくの絵をもっと多くの人に広めたいという熱心な自称美術商の人がいた。彼自身も画家を目指していたけど、才能の限界を感じて、絵を売る側の人間になったと言っていた。きっとこの人はものすごい知識と技術を持っていて上手い絵を描いていたんだと話をして思った。大好きな絵の世界で生きていく方法を模索し続け、とにかく絵に関わる仕事がしたいようだ。絵そのもので表現したいとか、絵じゃないと表現できないとか、どうしようもない不器用な領域を大切にしているようには感じられなかった。理路整然と整理された彼の絵に対する思いを聞いていると、自分の作品に流れるエネルギー、言葉にできない葛藤みたいなものに重きを置くのは青いといと言われているような気にもなった。それを言うと「整さんの作品は違う。自分が好きなように描いているといいながら、ちゃんと大衆性を持っている。芸術家気取りじゃない計算されたエンタメが成立している」と褒めちぎる。そして彼はしきりに、ぼくと自分は似ていると言う。ただ自分には突き抜けた個性がなかったから続けられなかった。一緒に世に出ようと誘われた。
しかし、ぼくが好きなイラストレーターの話を、ぼくが影響を受けたことを説明せずに話すと「絵師の中では、あの人は流行にうまく乗っただけだって言われてる。当時の大人の要求に合致したんだよね。作者の見た目が面白かったからウケた」と主語を大きくして言い出した。「大人たち」という言葉に、その時期、この人も絵を描いていたんじゃないかと思った。自分が相手にされなかっただけで売れている作品、作者を悪く言っているように聞こえる。
確かにそのイラストレーターはとても奇抜な格好をしてて、男性なのに女性のような容姿で話題になった。作品よりも作者が有名になりすぎて、絵は売れているのにきちんと絵を見ていない人が増えてしまった。今は舞台芸術など少し閉鎖的な美術の世界で活躍していて、一般の人が手に取る作品を作る世界からは遠のいてしまったらしい。もしかしたら、自称美術商の彼はもっともっと若くて、このイラストレーターの作品をリアルタイムで見たころの記憶なんかなくて、後から知った簡略しすぎの美術史で分かった気になって勝手に過去の人扱いをしてるだけじゃないかとも思えてきた。ワイドショーを見ている人と変わらない。どちらにせよ、評価する大人側にいたわけではないのは確かだ。
ぼくの好きな世界を悪く言われて、本当に傷ついた。だけど、ぼくは一般的な美術、芸術の世界に詳しくない。作品を集めて崇拝するほどそのイラストレーターに心酔しているわけではない。悪く言われたことに怒りを覚えてもぶつける気にはならなかった。全くぼくに似てないということは言いたかった。どうして人は自分が支持したい人と自分が似ていると思い込みたいのだろう。何も似ていないし、似ていると言われて正直嬉しくなかった。彼は自分と同じようにぼくもあのイラストレータ-に嫉妬に似た敵意を持っていると思いたいのだろうか。似ていないとハッキリ言うことはなかった。ただ、彼のような人を遠ざけたい気持ちになった。遠ざけるために絵を描かなかった時期もある。
ぼくは描きたい時に描く素人だ。謙遜じゃない。
絵が売れたことがあると言うと「お金を出してもらえたらプロだ」と言う人がいた。ぼくはその言葉が嫌いだ。お金を払ってもらった以上プロの仕事をするという意味ならば大人としての責任だと思う。だけど、ぼくは売るために描いたわけじゃない。ぼくの言葉にできない思いに、適切か分からないながらも値段をつけてそれが売れる。そこにプロ意識があるのか。言った人は最高の褒め言葉だから喜ぶはずだという意味の分からない自信に満ちあふれて、ぼくの納得いかない顔なんか見てなかった。
「賞をもらったり、世の中に認められたいとかそういう欲もない」と言うと不満そうに笑われた。大人になった男がそんなことを言うのは、実力が無くて結果が出せないのに虚勢張ってアーティストぶってるだけとか、普段は無口なのも演出なんでしょとか言われた。
ぼくの何が分かるんだ。そして、みんなに認められることがすべての人の幸せみたいに言われて悲しかった。その感覚が分からないぼくが、人の優しさとか、大勢の人に祝福されることの喜びを知らない可哀想な人だとか、才能を無駄にする愚か者だとか、ただ自分の世界を大事にしたいのに理解してもらえなかった。
幸か不幸か、背も高くて目立つ容姿のようで「わたしは整君のことよく分かる」と言い寄ってくる女性も何人かいた。ぼく自身も分からないのに、何を知っているというんだ。自分の想像や理想で作り上げられた「ぼく」をぼくに近づけてそれを「よく分かる」と勘違いしている。
そういう人たちは、きっとぼくのダメなところなんか見ていない。変わらないぼくを認めるようで、変われないぼくを受け入れない。自分に都合のいいところはよく分かっていて、変わっていくぼくを見ていない。「ぼくはそんな人じゃない」と言えば、カウンセラー気取りで、ぼく自身よりもぼくを分かっているかのようなこと言う。
素良は違った。
素良が「オレがお前を見てる。お前のいいところ、ダメなところ全部知ってるから気にするな」と言ってくれた。素良は、ぼくのことを「見ている」「知っている」と言うけど「分かっている」とは言わなかった。主語は必ず「オレ」で「みんな」とか絶対言わない。昔から知っているから、こういう人間だと決めつけて分かった気になって、変わっていくぼくを、変われないぼくを勝手に説明しない。くだらないことで悩んでいると、整のことは知っているけど、そんなことで悩む整は知らなかったと、常にその時のぼくに向き合ってくれた。存在自体が面白い。そのままでいろと、ぼくに寄り添ってくれた。いつも見守ってくれた。
言葉にできない思いを絵にすれば、それに限りなく近い言葉をかけてくれる。ああ、ぼくはこういうことが言いたくて絵筆を走らせていたんだと気づかせてくれる。そしてそれが伝わった喜びを教えてくれた。
素良がいなくなって、ぼくも何を支えに生きていけばいいのか分からなくなった。
絵は言葉の代わりだと言っても自分の気持ちを整理するためにノートに書き出した愚痴みたいなもので、誰かに届くことを望んでいない。それなのにみんなに見られるべきだとか言われると、自分の子供を外の世界に触れさせることを拒否している虐待親みたいだ。どこかぼくの頭がおかしいみたいな、行き場のない絵が悲しんでいるような気にさせられる。どうしようもなく虚しくて、自己満足が自傷行為のようになっていく時もある。自分が生きているということを確かめながらも自分を傷つけている気がした。でも嫌なんだ。詳しい人たちにいろいろ言われて壊されるのが。
素良への思いを、行き所のない気持ちを描き始めた時、安積実さんに出会った。パスカルという場所を得た。
安積実さんは素良に似ている。その佇まい。深入りしないで居てくれる優しさと、あくまで、自分がこうしたいからしてるだけだと言う姿勢。
そこに恋愛感情はない。
ない。
ないことの証明は難しいから、違う感情があると言った方が近いのかもしれないが、ぼくはそれを表す言葉を持っていない。ぼくの絵をパスカルに飾ってもらえる。それだけでいい。ぼくの絵が生きていける場所だ。
ずっとここにいていい。関わっていていいよと思ってもらえればいい。




