お妃様の願い
「殿下……⁉」
その場に居た全員が……対峙していたシャノンとグレンダを含めた皆が、凍りついたように動きを止めた。
シャノン以上にこの場にいる筈のない……階上の世界の頂点にある人物、つまりは蒼玉宮の主であるエセルバートが侍従を従えそこに居たのだ。
エセルバートは、無言でまず妃を見た。
シャノンの負った傷に向けられた眼差しは、やがて顔色を無くし、悲鳴のような声をあげた侍女長に据えられる。
二つの蒼の底には煮え滾るような怒りが潜んでいるのに、眼差しは吹雪を思わせる程に冷たい
「これは事故で……! 妃殿下が急に飛び出していらっしゃるから……!」
「その通りの『事故』なら、一回目の段階で恐れおののいて鞭を手放すなり下すなりしているだろうな」
しどろもどろの言い訳に対して返された言葉もまた、眼差しと同じ様に吹雪の冷たさがあった。
グレンダはまだ鞭を構えたままだった――もう一度打ち据えてやろうというように。
それを指摘され、グレンダは完全に言葉を失い目に見えて震え始める。
シャノンもまたその伝わりくる怒りに蒼褪め言葉を失いかけたものの、意を決して彼へと言葉を紡ごうとした。
しかし、彼の手にあるものを見て思わず驚きの声をあげてしまう。
「横領に、収賄に、備品を紛失に見せかけて、あるいは盗難をでっち上げて売却。……不正するにしても、随分大胆にしたものだな」
それは、シャノンが密かに集めていた侍女長の不正に関する資料だった。そういえば机に置いたままだったはず。
勝手に人の部屋にと思うけれども、自分の迂闊さに頭痛がする。
シャノンはおかしいと思ったのだ。
エセルバートは確かに使う側の人間であるが、理不尽を強いる人では無い。だというのに、階下の世界では理不尽な環境での労働が強要されていた。
エセルバートは多分知らなかったのだ。そこを任されている人間が、彼が階下に目を向けないのをいい事に何をしているのか。
そして、あの女性がこのまま大人しくしているわけがないと思い、対抗する材料を集める事にした。
密かに、シャノンは蒼玉宮で働く者達に問いかけた。侍女長について、それぞれ知っている事はあるか……と。
最初は聞かれた者達は顔を見合わせ、言葉に窮していた。
恐らく知る事実を伝えるということは、皆にとってもかなり勇気のいる行動だったろう。裏切って誰かが侍女長にその動きを流したら、自分達は酷い目に合わされる。
けれども、最終的にはそれぞれが持っていた情報をシャノンの元に集めてくれたのだ。
シャノンの人望勝ちというところである。
しかし、エセルバートに見せるかどうかを考えていた時に少女が打たれて居る事を知り、今に至る。
「そ、そんなものはでっち上げで……」
「そういうなら、潰さに調べるとしよう。それがお望みなのだろう?」
気味の悪い笑みを浮かべこびへつらうグレンダに対して、エセルバートは優雅とすら言える笑みを浮かべながら首を傾げて見せる。
ひっ、と息を飲むグレンダ。
それはそうだ。エセルバートの命令により詳細に事実確認されてしまったら、逆に不正をしていたことが確かな事実となり、窮地に陥るのが見えているから。
冷や汗を流しながら、蒼褪めた女は尚も言い募る。
「わ、私を処分するなど……。側妃様の不況を買いますよ……⁉」
「ここまでしでかしていたなら、母上も何も言わないと思うが」
側妃様を持ち出しても無駄なことに、まだ気付かないのだろうか。
母と母の実家に対するエセルバートの遠慮故に今の地位に在れたというのに、それを追われる正当な理由を自ら与えてしまったのだ。
「不正蓄財ぐらいなら良くある話だから、見逃してやったかもしれないが……」
見逃さないで欲しい、と心の中で思っても口に出す事など出来ない。
それほどに、今のエセルバートは声をかける事すら憚られる、燃えるような怒りに満ちている。
浮かぶ表情はあくまで静謐で優雅な『理想の貴公子』そのもののままに……。
「王族に怪我をさせた以上、覚悟するのだな」
「王族など…‥。所詮、伯爵家令嬢でも、出来損ないの……」
王太子妃に比べたら外れ籤、引き篭もりの出来損ない。他にもよくそこまで出てくるなという程に罵ってくれたものだが。
「黙れ」
王子から威圧的な眼差しと共に発せられた言葉には、殺意すら籠っているように感じた。
侍女長は圧に飲まれたように、口を魚のようにパクパクと動かす事しか出来なくなる。
掠れた音が喉から漏れるけれど、意味のある言葉が音となる事はなかった。
それは仕方のない事だ――エセルバートが伸ばした手が、グレンダの喉首を掴み上げているのだから。
呼吸すらおぼつかず苦しいのか、恐怖に顔を歪めて涙を流し何かを訴えかける女へと、人ではなく物を見るような冷酷な眼差しを向けて彼は言い放つ。
「シャノンを貶める人間も、傷つける人間も『俺』は絶対許さない」
誰もが何も言えず、身動きすら出来なくなる中。
エセルバートは掴み上げていた手を無造作に振り払い床に相手を投げ出すと、控えていたヒューに連れていけと短く命じる。
グレンダは抵抗する事もなく、いや出来ずに黙って引きずられていった。
エセルバートは固まってしまっている人間達に、少女の手当を命じる。そして。
「え……?」
シャノンは、一瞬何が起きたのか分からなかった。
ただ、身体が宙に浮いたような感覚がした次の瞬間、気が付いた時にはシャノンはエセルバートに横抱きに抱えられていた。
「待って下さい! 私は歩けますから……!」
「うるさい」
狼狽して訴えるシャノンの動きを短い言葉で封じると、エセルバートは足早に階下から階上へ、そしてシャノンの部屋へと辿り着く。
シャノンの負傷を見た侍女達は慌てふためき、手当の道具をと駆けだしていく。
寝台に静かにおろされたシャノンは、恐る恐るエセルバートの顔を伺い見てしまう。
明らかに、怒っている。
先程までのような底知れない怒りではないが、顔を明らかに顰めてシャノンを見つめ返している。
侍女から治療道具を受け取ると、自分がやるからと言って下がらせる。
まさか、手ずから手当をしてくれると言う事か、とシャノンは思わず目を見張る。
そして、続いて赤面する。
頬の傷はまだいい。問題は肩の傷である。
裂けたドレスの下の傷を手当するということは、つまりその部分を晒さなければならないということであって。
肌を晒す事に抵抗を覚えて、侍女にお願いします……と言いたかった。
有無を言わせぬ何とも言えない圧力に負けて、何とか最低限……肩の部分だけをさしだした。恥ずかしくてエセルバートの方を向けないけれど。
何故かエセルバートはそのまま黙ってしまう。
何か言うべきかと思っても言葉が見つからないシャノンの耳に、静かな声音の言葉が触れた。
「お前に対しても怒っている」
「……差し出がましい真似を致しまして、申し訳ありません」
いくら「あれを何とかしたいというならしてもいい」と言われたとはいえ、本心であったかはわからない。
それなのに結果として蒼玉宮の内情を揺らしてしまった。差し出た真似と言わずして、何と言えばよいのか。
しかも、シャノンはエセルバートが目的を遂げるまでの『仮初の妃』……何時かはここを去る人間であるというのに。
「そうじゃない」
その言葉に弾かれたように振り向くと、そこには泣くのを耐えているような、哀しげな表情があった。
どこか寄る辺ない子供のような、傷ついた少年の顔をしたエセルバートがそこにいる。
「……怪我をした事を怒っている」
エセルバートは静かにシャノンの傷のある腕をとり、おし頂くようにして額をつける。
そして、か細くすら思える声で言葉を押し出すようにして紡ぐ。
「もう少し自分を大事にしてくれ……頼むから……」
言葉と共に、唇が優しく傷に触れる。
あつい、と感じた。
痛みはもう感じない。ただ、エセルバートが触れている場所が熱くてたまらない。
そして、分からない。
どうして彼はこんなにも。
こんなにも、優しいのか。
何故、今紡がれているのが、命令ではなく願いなのか。
目的の為の共犯者、仮初の関係。利用するだけの、何時かここを去る人間に、どうして。
お願いだから、わたしが、戻れなくなる前に。勘違いしてしまう前に、どうか。
その想いも願いも、どうしても紡ぐ事が出来ない。
暫しの後、静かに頷く事しか今のシャノンには出来なかった――。