お妃様の我儘
シャノンは慌てて立ち上がると、歩き始めたエセルバートに続く。
自然な動作で腕を差し出され、一瞬躊躇うけれど、静かに腕をからめ横に並ぶ。
触れたところから伝わる温かさに、申し訳なさと嬉しさと、二つの感情を感じる。
エセルバートの表情からは彼が何を思っているのか読み取れない。
人目があるところで見せる、穏やかで理想の貴公子と呼ばれる王子らしい表情だけがそこにある。
彼が何処へ連れていこうとしているのか、皆目見当が付かない。この先には特に何も無かった筈。
疑問に思いながら歩みを進め続けると、ある部屋の前で、王子の侍従であるヒューが何やら部下に指示を出している姿がある。
確かここは小サロンの一つだったような……と思うシャノンの前で、エセルバートはヒューに労いの言葉をかけ、同時に人を払うように命じる。
侍従は頷き、何やら運び込んでいたらしい数名の部下に共に去るように声をかけ、やがて扉の前にはシャノンとエセルバートの二人だけになる。
何事かと戸惑いながら眼差し向けたシャノンに、エセルバートは開けてみろ、と仕草で示す。
それを受けて、恐る恐る覗き込んでいたシャノンだったが、中にある光景を目にすると驚愕に叫びかける。
「と、図書室……?」
「主宮の大書院に比べたら規模は小さいがな」
そこは、図書室と呼べる空間になっていた。
国の基幹とも言える黎明宮の大書院には比べるまでもないが、それでも図書室というには規模が大きい。
改装された室内に並べられた幾つもの書棚には、様々な分野の本が並べられていた。
未だ空いている棚もあるが、そこに入れられるのを待つ書籍が積み上げられた状態である。
元々、書物を集めた一角はあったが、この度大規模に手を入れたとのこと。もう少ししたら専属の司書も着任するという。
ヒューに命じて、さしあたって手に入る名著を始めとして、図書室と名乗るに充分な蔵書を集めさせた、とエセルバートは語る。
しかし、それも思わず聞き流してしまいそうなほど、シャノンは目の前の光景に目を輝かせ、釘付けになっていた。
シャノンは、かなりの本の虫だった。
父はもとも相当な読書家で、シャノンにもよく本を読むように勧めてくれた。
それがあってシャノンは立派な本の虫になっていた。ドレスや宝石よりも本を欲しがる娘に母は苦笑したものだ。
王妃様の友人の一人であった母に伴われて城に上がるたびに、ご挨拶もそこそこに大書院に駆けていった日々を思い出す。
子供であるシャノンを、司書は快く迎え入れてくれた。
大書院を訪れるような子供は稀であるが、シャノンはとある姉弟と友達になった。
何処かの貴族の令嬢と子息であろうとは思ったが、詳しくは聞かなかった。
シャノンは母が迎えにくるまで、友と語らい、心行くまで本の世界に浸っていた……。
しかし、それは母が亡くなる前……自分の意思で本を読む事を許された昔の話である。
キャロラインの影として、そして召使としての重労働に追われる日々では、とても本を読む余裕など作れなかった。
家にあった本はあっても仕方ないと売り払われ、ジョアンナの数ある装飾品の一つに姿を変えた。
家を出る事すらままならぬ中、当然ながら王宮に上がる事もなくなり、あの姉弟と会う事もなくなった。今では名前すら思い出せない。
ただ、二人が物語の人物のように美しかったことと、笑顔が輝くようだったということだけは、今も記憶に強く焼き付いている……。
「ようやく、嬉しそうな顔が見られた」
「……ここの本を、自由に読んでいい、のですか……?」
満足そうな声を聞いて、我に返るシャノン。振り返った先には、戸惑う程に優しい笑みを浮かべるエセルバートが居る。
夢ではないか、と思わず震える声で問いかけてしまうが、それ以外にどうする? と返る言葉は温かで。
シャノンの為に用意させたと聞いたとあっては、感激やら歓喜やら恐れ多いやらで、胸がいっぱいで。
少ししてからようやく、ありがとうございます、と頬を紅潮させながら唇から紡ぐ事が出来た。
これから自由にここを訪れても良いと言われて、シャノンの顔には更に無邪気な笑みが浮かぶ。
感無量で、シャノンは疑問を抱けなかった。
――エセルバートは、何故にシャノンが本を喜ぶ事を知り得たのだろうか、と。
「夫としては、可愛い妻にはいくらでも我儘を言って欲しいものなのだが」
エセルバートが肩を竦めながら言う。
口調は冗談のように軽いものだが、瞳には真剣な光が過ぎったのをシャノンは見てしまった。
シャノンとの結婚は彼にとっては目的の為の手段であり通過点の一つの筈なのに、どうしてこうまで心を砕いてくれるのだろうか。
それがどうしても不思議でならなくて、けれども胸に灯りが一つずつ灯っていくような不思議な感覚だった。
委ねて甘えてしまいたくなるけれど、これは本来自分が受けていい恩恵ではない。
然るべき血筋の姫君を迎え、その人が受けるべきものだから。
自分は裏方の人間、使われる人間として暮らしていた時間が長くて。
そこでふと、シャノンは目を軽く瞬く。
そう、使われる人間……。
「それなら」
シャノンは、僅かに沈黙した後、エセルバートを見上げ言う。
翠のまなざしと、蒼の眼差しが静かに交差する。蒼は、翠の言葉を待っている
「我儘を聞いて下さるというなら、お願いしたい事がございます」
数日後、蒼玉宮の人々は驚愕に震えた。
エセルバートの許しを得て大体的に触れが出され、後に『シャノンの労働改革』と呼ばれる変化が始まったからだ。
そう、新しく来た妃が是非にと願って始めたのは、おねだりでもなく、遊興でもなく。
何と、蒼玉宮に仕える使用人達の労働環境の改善だったのだ。
シャノンは蒼玉宮に暮らすうちに、煌びやかな表側に比べて階下の世界……使用人達の置かれた環境が過酷で、使う設備もあまりに古く、手入れが行き届いていないことに気づいてしまったのだ。
きっかけは菓子作りに厨房に入れてもらった時の事である。
名だたる蒼玉宮の厨房にしては随分旧式な設備を使っているものだ、と気になったのだ。
そればかりではない。
表に出てくる、つまりは主や客人の目につく使用人の姿は整っているものの、垣間見えた階下の者達はあまりにみすぼらしく不健康であるのが目についてしまった。
仕事になれていないだろう下働きの少女がシャノンの見ている前で小さな粗相をして、侍女長に酷く叱責されていた。
感情のままに当たり散らしている侍女長を思わず制して少女を庇ったシャノンは、必要以上に怯えている少女が酷く痩せていることに気付く。
もしかして、とどうしても気になり忍び込んだ使用人区画は、暗澹たる様だった。
設備も一昔前なら、必要な補修が全く追い付いていない。
薄汚れて衣食住に関する全てがおざなりで。輝かしい表側とは対を為すように暗く陰惨なのである。これが同じ建物の中かと疑ってしまった。
あの如才ないエセルバートの宮の裏事情としては、些かお粗末だと感じる程である。どうにも、適当に采配して、主人の目に見えるところだけ取り繕っているようである。
エセルバートはけして理不尽な主人ではなかったが、やはり目線が使う者である。どうしても使用人としての目線が抜けないシャノンだから気付いた事かもしれない。
今まで自分が境遇を蔑ろにされた状態で重労働を強いられてきたから、満たされぬ中で働く辛さが良く分かる。
ジョアンナは、シャノンにも他の使用人にも等しく理不尽だった。
使用人の待遇に割く費用があるなら、とその分を自分のドレスや宝石、遊興に費やしていた。
人を踏みつけにして何時も着飾っていた――些か身分不相応の、質の良い衣装に身を包む侍女長のように。
エセルバートが面白い、好きにしてよいと言ってくれたのに背を押され、シャノンは一つずつ気になったところを改善していった。
シャノンの一連の行動の基本は「こんなものがあったら自分も助かったのに」「衣食住が充実してこそ良い仕事」。
シャノンは、手始めに厨房から手をつけた。
まず、基本である水回りの設備の拡充を計り、次に厨房の天火や竈に調理器具を一新する。
そして、次々に彼ら彼女らが掃除用具を始めとして、日々宮殿の環境維持に使う道具を機能性に優れた新しいものに替えていく。
新しい器具の使い方に戸惑う者達に交じり、自分でも学び、かみ砕いて皆に教えることもした。身体を動かせて、ついついすっきりした顔をしてしまった。
道具ばかりではない。使用人が頭を悩ませる問題は他にもあるのだ。
自身も悩まされた使用人膝を始めとした職業病の予防に力を入れ、使用人にとっては切っても切れない手荒れの為に塗り薬の支給するようにした。
同時に、使用人部屋の寝具や使用人食堂の賄いの充実にも力を入れていく。
それまでは当番制だった使用人食堂に、シャノンはカードヴェイル邸で虐げられていた料理人を引き抜いたのだ。
腕がいいのにジョアンナに理不尽な扱いを受けていた料理人は、仲が良かったシャノンに声をかけられて一も二もなく話に飛びついた。
皆が美味しいと笑顔で食べてくれるのを見て料理人は幸せを噛みしめ、使用人達は美味しい食事に士気が上がる。シャノンとしては非常に満足のいく流れであった。
その一方でカードヴェイル家では食事の質が著しく低下した為、ジョアンナがヒステリーを起こすようになったと後日知る事になったが、シャノンは沈黙を貫いた。
最初こそ、シャノンの意向に使用人は戸惑うばかりだった。
お妃様の気まぐれではなかろうか、と。
尊いお方が慈悲深い自分に酔いしれたいだけではないか、つき合わされてはたまらない、と冷ややかな目を向ける者も居た。
しかし、皆はシャノンが真摯に改善に向き合う姿を見て、徐々に彼女が本気で自分達の環境を良い方向に変えようとしてくれていると悟る。
シャノンの意向は、徐々に喜びの声を持って受け入れるようになっていった。
エセルバートは階下の事とはいえ、自分の宮の人間の窮状を知らなかった事に後悔を口にしていたが、使用人達が溌剌と仕事をするようになっていった事を喜んでくれていた。
使われるもの、働くものの立場を知るシャノンの改善案により蒼玉宮の使用人を取り巻く環境は劇的に改善し、王宮内で一番働きたい職場と言われるまでになっていく。
しかし、それを喜ぶ者ばかりではない事に、シャノンは当然ながら気付いていた。




