お妃様の憂鬱
蒼玉宮での暮らしは最初の想像に反して、概ね平穏に過ぎていた。
ただ、シャノンにはその中で気になる事ができた。
過去の経験から、どうしても目について仕方ない事があったのだ。
相談したいとは思っても、これはエセルバートに話していい事なのか迷い、結局言えず。
けれども、忘れて割り切ってしまうには気になりすぎて、シャノンは密かに懊悩していた……。
シャノン手製の菓子を所望したエセルバートと、出来上がった焼き菓子をお供に茶を楽しんでいた、ある日の昼下がり。
実に嬉しそうに菓子を摘まんでいたエセルバートは、そういえば、と何か思い出した風に話を切り出した。
「張りぼて王太子妃殿は、早々にやらかしたらしいぞ?」
「……何をです」
話題に思わず溜息を吐きそうになりながらも、まずは内容を確かめるべく問いを返す。
早々に、過ぎる。
今は王宮の仕来りなどを学びながら、婚儀の準備を行っている最中。そろそろ王宮にも慣れて来たかという頃だが、王宮入りから左程経ったわけでもない。
一体、あの異母妹は何をやったというのだろう。
冷静を装いカップを手にするシャノンを見つめながら、エセルバートは肩をすくめながら言葉を続ける。
「王妃の宮に、先触れも出さずに押しかけたそうだ」
思わず手にしていたカップを取り落としそうになる。
シャノンは眩暈がして思わず頭を押さえた。
貴族間では先触れのない訪問は非礼である。同じ貴族間でもそうなのだから、格上の王妃様相手であれば尚更と何故思わなかったのか。
そういえば、と理由に思い当たる。
訪問する旨の手紙を認め事前に送るのはシャノンの仕事だった。
キャロラインが家を出るのは「あとは行くだけ」の状態になっていたから、分からなかったのか……。
周囲も止めてやればいいのに。
仮にも主である相手に進言できなかったのだろうか。それとも、呆れて何も言えないうちに、キャロラインが行動してしまった?
仔細はどうあれども、キャロラインが社交上の禁止事項をやってしまったという事実は消せない。しかも姑となる王妃様相手に。
返す言葉が紡げないでいるシャノンに、苦笑しながらエセルバートは更なる事実を告げる。
「そして。どうやら現在王妃の命令で、内々に様々な分野の教師が藍玉宮に集められているらしい」
名目上は妃としての心構えを学ばせる為。
しかし、それならば必要ないのでは、という基礎的な分野の教師までいると言う。
つまり、それが必要だと判断されてしまったわけで……。
メッキが剥がれるのも案外早かったな、と呟くエセルバートに、シャノンは溜息しか出てこない。
それはそうだろう、と心の中で呟いた。
周りの侍女も詳しい事情は知らない者達を選んでいたし、事情を知っていた乳母に全てを支え切るだけの技量はなかった。
当たり前に享受していたフォローがなくなってキャロラインも困惑しただろうが、その状態を知ってしまった周囲もさぞ困惑しただろう。
それでもまだ、即座に追い出されないだけ救いはあるのか。まあ、華々しく王宮に迎えた令嬢を早々に追い出すのも、外聞が悪くて憚られるのだろうが。
教師を付けてもらえるというなら、まだ何とかできるかもしれないと思って貰えているわけで。完全に見放され、救いがないわけではないらしい。
「そう、笑っていられないかもしれませんよ?」
エセルバートが、目を軽く見張る。
疑問を宿した蒼の眼差しを受けながら、シャノンはある可能性を語り始めた。
「キャロラインは『やらなかった』だけで、けして『できない』わけではないのです」
最初は、ジョアンナがさせないのはシャノンが『できない』からだと思っていた。
しかし、継母が最初からやらせなかったから、そもそものキャロラインの実力をシャノンは知らないのだ。
実力については未知数でもキャロラインはおそらく無能ではない。
少なくとも、記憶力についてはかなりのものだ。シャノンが用意した受け答えや社交界の情報についてのまとめをちゃんと暗記して見せていた。
「それに、ダンスは天才的です」
「シャノンはダンスだけは苦手だったな」
「……そうです。ダンスだけは私は一切関わっておりません」
シャノンは事情あってダンスだけは苦手だ。
ちゃんと習ったし昔は出来ていた。今も出来ないとは言わないが、気が進まない。
対してキャロラインにはダンスに関しては天賦の才を持っていた。
美貌の少女が羽のように軽やかに、そして優雅に舞う様にはシャノンとて思わず見惚れる程だった。
シャノンは、今キャロラインが置かれているであろう状況に想いを馳せる。
恐らく、キャロラインは今かなりの逆境にあるだろう。
それまで裏方をしていたシャノンは傍にいない。サポートする事もフォローする事も出来ない。
今になって漸く、彼女は自分の力で勝負しなければならない。
自分に何が出来て、何が出来ないのか。何があって、何が足りないのか。その見極めから始めなければならない。
必ずしも自分に好意的とは限らない、慣れない環境の中で。
そして精鋭による集中教育を受けた結果、キャロラインが『化ける』可能性だってある。
張りぼてが、本物になる可能性とてある。そうなったら、エセルバートの目論みは水泡に帰すこととなる。
こうしてシャノンをキャロラインから引き離し、名目だけとはいえ妃にした理由がなくなってしまう。
ただ、シャノンは疑問に思う事がある。
何故そこまで王太子を目の仇にするのか……兄を王太子の地位から追い落とそうとするのかを問いかけた事がある。
エセルバートは皮肉な笑みを浮かべながら、側妃腹の自分はいつも兄の風下に立たされて肩身の狭い思いをさせられたから、と言っていた。
シャノンとしては納得のいかない答えだ。
長子存続の掟に従い兄が王太子となった。
だが、母親の受けている寵愛や実家の権勢の強さからいって、王宮内でも権勢は王太子よりもエセルバートの方が強い、むしろ風下にいるのは兄の方である。
それなのに王位を継げぬことが悔しいのだろうか。
さして王位にも権力争いにも興味を持っているように見えない。むしろ、そういったものを煩わしいという様子を見せるのに。
言葉を交わしていくたびに、重ねてシャノンは疑問に思うのだ。
この方は、本当に王太子になりたいと思っているのか、と……。
「まあ、それはそれとして。あちらも準備に本腰を入れてきたせいで、仕立屋がとられてしまったな」
「それは、仕方ないのでは」
どうやら国の主だった仕立屋が集められ総出で準備に当たっているらしい。
自分だって同じような事をしたのに、と思いながらもシャノンはその点については慎ましく沈黙を守る。
エセルバードはそれに気付かない様子で、心から残念そうに息を吐く。
「せっかく隣国から戻った商人から良い布地が届いたから、シャノンに新しいドレスをと思っていたのに」
「いえ、もう充分過ぎますから」
聞いた瞬間、シャノンは思わず手を振りながらお断りを口にしていた。
エセルバートは婚礼に際しても様々な用途の為の装いを誂えてくれた。
その数はやや過剰に思う程だ。シャノンの身体は一つしかないというのに。これ以上増えたら、一度着たドレスは二度と袖を通さない、を地で行かなければならなくなる。
確かに、シャノンはまがりなりにも王子の妃なのだ。
妃が何時も同じものを着ていたり、見栄えのしない恰好をしていたりする事は即ち夫であるエセルバートの面子にも関わる。
装身具とて同じ事。身分に相応しい品を身に着けていなければ、それもエセルバートの評判を落す。
王子は妻にまともなドレスや宝石を与えてやる事もできないのか、と。
馬鹿馬鹿しい事極まりないと思うが、対面を保つというのは王侯貴族にとっては生命線とも言えるらしい。
ただ、それにしても多すぎる。多いだけではなく、質も何もかもが素晴らし過ぎて恐れ多い。
キャロラインのドレスの仕立てをしていたからこそ、どれほど手がかかっているのかが。布地もレースも装飾も、どれも上質な素材であるのかが良く分かってしまう。
布地と素材を頂ければ自分で作ります、なんてことも当然ながら言えない。
妃が自ら針仕事をしたとあっては、お針子たちの立場もないし、仕事も奪う事になる。
わかっている、わかっているけれど……!
常に古着の着た切り雀だったシャノンにとって、着替えがあるだけでもありがたいのだ。あまりに美麗なものばかりで、ドレスに着られている感じがして未だに落ち着かない。
「お前は本当に欲がないな」
エセルバートの顔に浮かぶのは苦笑だが、それは少しだけ呆れたようでもあり、優しくもあった。
シャノンがエセルバートに『協力』するにあたり、取り決めではドレスや宝石を始めとして、与えられたものはそのまま持っていていいとなっている。
先の事を見越すなら資産となり得る品々を喜びこそすれ、拒む事など無い筈だが。
「華やかな装いも、煌びやかな宝石も。……気後れするのです」
俯きながら、静かな声音でシャノンは呟く。
素直に美しいと思うし、見るのは嬉しい。
けれども、自分が身に着けるとなると、分不相応だという思いが生じるのだ。
衣装を纏うのは、舞台に上がる役者たちだけ。
本来舞台裏の人間である自分には、華やかな場所も、華やかなものも似合わないと……。
「どうしてお前は、そう……」
シャノンの言葉を聞いて、途端にエセルバートの表情が陰る。
苦い口調でエセルバートは言いかけて、止めた。シャノンも、唇を噛みしめてしまう。
少しの沈黙の後、盛大な溜息が聞こえた。
思わず身を縮こまらせてしまったシャノンに、エセルバートは立ち上がりながら声をかける。
「……ついて来い」




