密やかな語らい
エセルバートは気が付けば会場から姿を消していた。
シャノンは王子の妃として次々と歩み来る人々に対して対応していたものの、流石にそれが続けば疲れも出る。
少し夜風に当たってくると告げて、一人庭園へと足を踏み入れる。
よく手入れされた洗練された花の庭は、月の光を受けて神秘を湛えている。
随所にならぶ白い柱や彫刻が月の光の輝く様は確かに美しいが、蒼玉宮の方が綺麗だもの、と心の中でつい思ってしまう。
これはきっと、わが家が一番、的な心理なのかもしれない。
何時の間にか自分はあの美しい宮を帰る場所と思ってしまっていたのだと思うと、胸に僅かに苦い物が生じる。
それではいけない、と自分を戒める為に一つ息を吐いた時。
最初は気のせいかと思った。しかし注意して耳を澄ませてみれば、話し声が聞こえるではないか。
誰か先客でもいたのか……と思って少し歩みを進めて様子を伺ってみる。
そして、人目を避けるようにして生垣の影にある男女に気づくと、シャノンは思わず隠れてしまう。
道ならぬ逢瀬だとしたら、ここに居る事を気取られては相当に気まずい。
とりあえず身を潜めたものの、普通に歩いて去るわけにもいかず、身をかがめて物陰を忍び足で進みながらその場を離れようとする。
しかし、そんなシャノンの耳は思わぬ……けれど聞き慣れた男性の声を聞き取ってしまった。
「……無理に伝えようとは思っていない」
シャノンは目を見開いた。
これは、この声は。
音を立てぬように気を付けながら身をよじらせ、隙間からそちらを見て見る。
胸が早鐘を打つ。聞き間違える筈がない、これは……。
「エセル、貴方も大概頑固よね。このままだと辛くない?」
「それでもいいと、決めたんだ」
ひとつ、背筋を冷たい汗が滑り落ちた。
ああ、間違いない。
今庭園の片隅で人目を忍び言葉を交わす男女の片方は、間違いなくシャノンの夫であるエセルバートだ。
遠目にも見てわかる金色の髪が、月光を弾いて輝いている。
その隣にいる女性は誰だろう。
淡い金色の瞳も、菫のような紫の瞳も庭園に咲き誇る花々に劣らぬ……花の精が現れたのかと思う程に美しい女性である。
あれは、会場で見かけた女性だ。
確か、隣国の公爵夫人でいらっしゃると聞いた。
女性は随分砕けた様子でエセルバートを見て苦笑いを浮かべている。仕方ないわねと言いたげな様子は、とても気安い。
まるで家族か、或いは親密な間柄かと思う程。
「……初恋を大事に貫き通そうとする姿勢には感服するしかないわ」
「俺にとってはそれだけの存在だから」
苦笑交じりに呟かれた言葉に、エセルバートは真摯な眼差しを女性に向けながら返す。
その蒼に宿る光を見て、もしかして、とシャノンは思い出す。
『……結婚したいと願っていた人が居る。それを貫きたいだけだ』
エセルバートには結婚を望んでいた相手がいた。けれども、彼はシャノンを『共犯者』とするために形ばかりの結婚をした。
本当に妻に迎えたい人とは、結ばれる事が出来ない理由があるから。
例えば、相手が既に嫁いでしまった、などの……。
エセルバートと女性は歩き始め、徐々に隠れるシャノンとの距離は遠ざかっていく。
どうやら二人は連れ立って宴の会場へと戻っていこうとしているようだ。
なおも会話をしているようだが、段々と切れ切れとなり、聞こえなくなっていった。
シャノンは力が抜けてその場に崩れ落ちかけたが、何とか耐えた。
ああ、成程。あのひとが、エセルバートの『結婚したいと願っていた人』なのだ。
けれど、彼女が隣国に嫁いでしまったから、それが出来なくて。
胸に何故か痛みが走る。気分が沈んでいくのが分かる。
何故落ち込む必要があるのだろう、最初から分かっていたはずだ。これは仮初の関係で、何時かは終わる時間なのだと。
勘違いをしかけていた事こそ恥ずかしい。
頭を左右に振って浮かびかけた考えを振り払うようにして、シャノンは庭園を歩き出す。
会場には戻りたくなかった。
あの二人が並んでいるのを明るい光の下で見たくなかったのだ。
少しばかり歩いて、恐らくここが庭園の端と思われる場所に辿り着く。
なだらかな曲線を描く生垣を辿って、流石に戻るべきかと思い一歩踏み出した先。
最初は何かの動物かと思った。
しかし、それが蹲る人影だと気付いたシャノンは蒼褪めてそちらへと駆け寄る。
「大丈夫ですか……?」
着ている物からして男性だと分かったので、少し慎重に近づきながら声をかける。
ふと、雲の切れ間から差し込んだ光がその人物を照らす。
月を受けて輝く銀色の光を、シャノンの瞳は捉えた。
その人の色彩も、着ている服装も、先程会場で見かけたもので……。
「……べ、ベネディクト殿下……⁉」
胸元を抑えながら膝をつき、蒼褪めた顔で荒い息をしていたのは何と王太子殿下だった。
手に何かの小さなケースを掴みながら尋常ではない汗を流している様を見て、シャノンは人を呼ぶために叫びかける。
しかし。
「いや、人は呼ばなくていい。……あまり大事にしたくない」
それを制したのは、穏やかでも低い王太子の声だった。
狼狽えかけたシャノンを落ち着かせる、静かでいて圧の在る声に思わず反射的に頷いてしまう。
そんなシャノンを見て、苦笑しつつベネディクトは溜息交じりに続ける。
「もう長い事患っているものだから。少ししたら落ち着いてくる」
先程、宴の会場で見かけた時、少しばかり線が細いように感じたのは多分気のせいではなかったのだろう。
この方は胸の病を患っておられるのだ。あの小さなケースは薬を入れてあったのか。
王太子殿下が病がちであるという話を伝え聞いた事はない。恐らくは近しいもの以外には伏せられているのだろう。
次なる王が健康に不安を抱えていると知れば、徒に騒ぐ者達も居るだろうから。
心配そうに見つめるシャノンの前で少しの後に王太子は立ち上がり、少しだけ困った顔をして告げた。
「この事は内緒にしていただけると助かる」
口元に指先をあてて悪戯な様子を作って見せるけれど、顔色はまだ良好とはいえない。
それでもシャノンは、唇を噛みしめたまま頷く。
それを見たベネディクトは小さく感謝を口にすると、その場から足早に消えて行く。
大丈夫だろうか、と心配ではある。
だが、多分あの人は会場に現れた時には何事もなかったような振りをするのだろう。うかつに弱みを晒す訳にはいかない立場にある人だから。
去り行く背を見送って暫しして、シャノンはひとつ息を吐く。
王太子殿下が病気を患っているなど知らなかった。
エセルバートは知っているのだろうか。
そう考えた時に、何かが繋がりかけて、ふわりと疑問が浮かんでくる。
それは一つの可能性であり、今に至るまでにシャノンが抱いた不可解を解消し得るものであり。
……まさか、エセル様は。
シャノンが目を瞬いた、その瞬間だった。
「……何を、していた……?」
背後から、地の底から響くような低く、凍えるような冷たさを帯びた声が聞こえたのは。




