本と、思い出と
階下の騒動の後、シャノンは何かと慌ただしい日々を送っていた。
グレンダは命こそ助かったものの、厳しい処罰を受けて何もかも失い蒼玉宮を去った。
さすがに側妃様も庇うことはなく、呆れかえって「徹底的にやれ」とまで仰ったとか。
グレンダが去り、彼女が握っていた人事管理権と予算管理権はシャノンに預けられた。
本来であれば女主人が握っていて然るべき裁量である。異を唱える者は誰も居なかった。
だが、実の処シャノンとて、そうそう詳しいわけでもない。
母が生きていた頃に心構えは聞かされたが、実家において権限は継母が握りしめて離さなかったからである。
ただ、裏方から人の流れ、予算の流れを見る事があったから、それを参考にした。
その際、多分に継母を反面教師にした感はある。
継母ジョアンナは、気紛れで自分本位にあらゆる物を采配した。それに使用人達は振り回され、ほとほと疲れ果てていた。
でたらめな継母の采配に散々振り回された身としては、皆に迷惑をかけることだけは避けたい。
そう思ってシャノンは「迷惑だと思っていた点」を注意して采配したのである。
結果としては多くが恙無く回り、何がどう役に立つかわからない、とシャノンはしみじみとしてしまった。
更にシャノンは一人で権限を握り、とりまとめようとは思わなかった。
慣れない事を一人で抱え込んで無理にしようとすれば、自分だけではなく周囲にまで被害が及んでしまう。
自分が出来ないのであれば、人に助けを求めることとて必要である。
シャノンは、有能だが、それ故に継母に諫言して解雇された使用人頭に連絡を付けて蒼玉宮へと招いたのだ。
老齢の男性はシャノンがカードヴェイル邸を出る事が出来て、エセルバートの妃となったことを喜んでくれた。
有能でありながら驕ったところがない使用人頭は、蒼玉宮の人々ともすぐに打ち解け、馴染んでいった。
彼と、エセルバートが選んでくれた蒼玉宮の古参の中で信頼できると思った人間の助けを借りて、シャノンは少しずつ蒼玉宮の采配を恙無く行えるようになっていく。
忙しいものの何とか任された仕事を切り盛り出来るようになっていく日々に、シャノンは疲れこそするが、充実したものを感じていた。
すっかり新しい体制となった蒼玉宮の人々は、日増しに活気づいていく。
大きな混乱を招く事なく新しい体制に、更には待遇まで改善してくれたシャノンに対して使用人達の称賛は止まない。
身の回りの侍女たちを始め、使用人達はすっかりお前の味方だな、とエセルバートが笑うのを見て思わず小さくなってしまう。
意見が受け入れられ聞き入れられ。手放しに向けられる褒め言葉に、心酔したような眼差し。
シャノンは最初こそただ戸惑うばかりだった。
全ては、自分が使われる側だったから気付いてしまい、他人事とは思えなかったからした事だった。
それなのに、皆は采配ばかりではなく、シャノンの為す事一つ一つを褒めてくれるのだ。
自分には何もないのに賛辞など身に余る、過ぎたものだと反応に困ったこともある。
エセルの威光……シャノンが仮初とはいえ王子の妃ゆえのことかとも思った。
それでも有難うございますという心からの感謝を向けられるうちに、気付いた事がある。
素晴らしいという褒め言葉も、本当に自分がした事や成し遂げた成果に向けられているのだと。
亡き母に教えられたものを、妹の為に使わされていて結果として磨かれた教養。
人の為にしてきた事であっても無駄にはなっていなかった。今までしてきたことは、全て今日の自分に繋がっている。
今ここにあるのは、紛れもなく自分が為してきた努力の結果なのだ。
キャロラインの為にした努力が今、遮られることなく自分に返ってきている。
今でも自分は、華やかな表舞台で目立つのは得意ではない。それは母が亡くなる前からの、元々の性分だ。
けれども、自分はもう表舞台に立つ事は出来ないのだからという諦めが何時しか自分を支配していた。
父親を人質にとられた状態で逆らえば自分も危ないことがわかっていた為反抗する事ができなかった。
いつの間にか日々の衣食住が確保できればよいと諦めるのに慣れすぎてしまったから、称賛も功績も自分のものなのにと思う事すら忘れてしまっていた。
シャノンは、素直に嬉しいと思った。褒めてもらえること、感謝されること、そして受け入れられることが。
向けられる言葉をお世辞だと疑うだけでいたくない、と思ったのだ。
そんなシャノンを見て、エセルバートは何故か心の底から嬉しそうな顔を見せる。
それを見てシャノン心に呟いた。エセルバートのそんな笑顔をみることが嬉しくて仕方ない、と思うと……。
優しい甘さに慣れてしまいそうになる自分が怖い。
温かい抱擁を嬉しいと思ってしまう自分に、必死に仮初のものと言い聞かせる頻度が増えているのが、怖い。
そう思ってしまっている理由に、気付きかけている事が、怖い……。
「シャノン」
「……エセル様……」
不意にシャノンの耳に名を呼ぶ低い声が飛び込んでくる。
しまった、とシャノンは思わず小さく呻いた。
手にしていた本を慌てて閉じて立ち上がろうとするのを手で制され、ばつの悪い表情を浮かべてしまう。
読書をしながら思索に耽っていて、ついうとうとと眠りかけていたところをエセルに見つかってしまったのだ。
「シャノンは本当に本の虫だな。本に夢中になると時間を忘れるし。何かあっても気付かなくなる」
「申し訳ありません……」
以前、完成した図書室に感激し夜を徹して本を読みふけった挙句、倒れるように眠りこけているのを侍女達に見つけられ、よもやと大騒ぎになった。
図書室を作ったのは確かに自分だが、根を詰めさせるために作ったわけではない。
騒動が落ち着いた後、エセルバートが腕組みしながら言った言葉である。
それ以来、一日に読んでいい冊数と時間を決めているものの、ついつい夢中になってしまうことがしばしなのだ。
エセルバートが渋い顔になるのも当然である。シャノンはひたすら恐縮するしかない。
これで気分を害したエセルバートに図書室の立ち入り禁止、または図書室の撤去を言い出されたらどうしようと項垂れてしまう。
そんなシャノンを見て、エセルバートはひとつ大きく息を吐いた。
「大書院の老司書は随分褒めていたな。あれ程読書を楽しんでくれる令嬢はそういないと」
肩を竦めながら、何かを懐かしむような不思議な優しさを帯びた苦笑いを浮かべながら王子は続ける。
シャノンは身を縮めて聞いていたが、ふと目を瞬いた。
確かに大書院の司書の長である老人には、そのように言われて目を細めてもらっていた。
シャノンの裡に浮かびあがった問いには気付かぬ様子で、エセルバートは嘆息し呟く。
「……好きな物に夢中な様子は見ていて楽しいが。随分、寂しかった」
そういえば、とシャノンは心の中で呟いた。
エセル様は、どうして私が本を好むことをご存じだったのだろう、と。
女性が読書をすることは、実のところあまり男性には好まれない。だからシャノンも、蒼玉宮に迎えられてから書物に対する興味を表に出さぬようにしていた。
だが、エセルバートはシャノンが本を好むこと知って、図書室まで設けてくれた。
しかも、まるで大書院でのシャノンを知っているように話すのは何故だろう。
首を傾げかけて、ふと気付いた。
先程、大書院の司書の名を出していた。
彼と話す事があった際にでも聞いたのかもしれない。書庫の古株なら、本の虫だった伯爵令嬢について知らない人はいないだろう。
シャノンとしては、色々な意味で身の置き場がない心地だ。
仮にも夫である人がそこにいることに気付かず没頭した上に、過去の逸話まで知られてしまっているとあっては。
ばつ悪そうなシャノンを見て、エセルバートは「程々にしろ」と残すと従者と共にその場をあとにした。
残されたシャノンは、暫しぽつんと佇んでいたが溜息をつきながらシャノンは手にしていた本を閉じて棚にしまった。
シャノンの日々は、以前に比べて随分と忙しくなっていた。
だが毎日少しの時間であっても、シャノンは完成した図書室で時間を過ごしている。
せっかく本が読めるようになったのだから、と時折寝る時間すら惜しんでしまい先程のようにエセルバートに怒られる事があるけれど。
怒られる、というよりは拗ねられるといった感じが正しいが……。
それでも、集められた様々本についつい目を輝かせるのは止められない。棚に整然と並ぶ本を見て、心躍らせずにはいられない・
図書室で過ごしていると、大書院に通った頃を思い出す。
かつて、王妃様を取り巻く派閥と、側妃様を取り巻く派閥との間の戦いが熾烈だった時がある。
本人たちが争っていたというより、取り巻きが勝手に暴走していたらしいとは後に知った話だ。
母も友人であった王妃様の心痛を慮り、相談相手として城に上がることが増えていた。
城の中に満ちる穏やかならぬ空気に怯えながらも、シャノンは大書院に通い続け、友である姉弟達と過ごしていた。
絵画から抜け出してきたような美しい姉弟は、とても気さくで親しみやすかった。
姉のほうは少しすると読みたい本があるからと去ってしまったが。弟のほうは時間の許す限りシャノンと居て、熱心に本の話を聞きたがった。
隣に並んで、語られる内容のひとつひとつに大きな反応を返してくれて。
シャノンが本を読んで聞かせると、輝くような笑顔を見せて喜んでくれていた。
今頃彼はどこにいるのだろう。何処の誰かも分からないまま別れてしまったけれど。
どうか彼が今幸せでありますように。心に小さく願い、シャノンは図書室を後にした。




