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2021年 大学祭企画

三題噺③

作者: 神嵜景

 カチリ、カチリ。古風な時計が暗闇の中で時を刻む。

 机の隣に置かれたラジオは聞き慣れた音楽を流している。毎夜、この時間に決まってこの曲が流れている。

 時刻は日付が変わって時計の針が一周した頃。僕はペンを机の上に投げるとぐーっと伸びをする。

──もういい頃合いかな。

 椅子から立ち上がり、ドアの方へ。そっとドアを開け耳を澄ます。

 耳に届くのは無音。母はもう寝ているようだ。

「よし」

 ドアを閉めると、今度はクローゼットの扉を開ける。学生服の隣に掛けられたマウンテンパーカー。それを手に取り、音を立てないように静かに袖を通す。

 音楽が止まる。代わりにパーソナリティが落ち着いた声で話し始めた。

 カラカラと音を立て、窓が開く。ひゅう、と吹き込んでくる風はやはり少し冷たい。

 息を一つ吐いて。ここからはむう慣れたものだ。窓の桟に足をかけると、雨樋を伝いスルスルと二階から一階へと降りる。そしてポイラーの陰に隠しておいた草履を履き、こそこそと庭を抜け、でも堂々と玄関前から通りに出る。そしてやっとの思いで深呼吸。ほんの少ししっとりした空気が喉を通り肺を潤す。とくん、とくんと心臓は高鳴る。

 僕の、僕なりの小さな反抗。

 今日も、夜の俳個が始まる。

 特にこれといった目的もなく、夜の町を歩く。寝静まった家々からは音も光もなく、夜道を照らすのは疎らな街頭と空に瞬く星々だけ。

 一歩、一歩と家から離れていくごとに心臓の高鳴りは大きくなる。小さな、だけど僕にとってこの上ない反逆。

 自分を表現するとき、どんな言葉が適切か。僕はその答えを知らないが、母は決まって僕のことを「お利口さん」だと言う。自分ではわからないから、きっとそれが正解なのだろう。そう思って僕は「お利口さん」らしく母の希望に応えることに努めてきた。母が言う方向に、母が思う方向に進もうと努力した。

 努めて、勉めて。でも僕は「お利口さん」を完全に務める乙とは出来なかった。僕はいつだってほんの少し答えられない。僕は豆腐ハンバーグだ。「今日の夕飯何が良い?」と問われて「ハンバーグ」と答えたら出てくる豆腐ハンパーグ。

 自分がその程度の存在だと気づいたとき、再び自分というものがわからなくなった。自分は母の言う「お利口さん」ではない。じゃあ「お馬鹿さん」か。別にそうでもない。中途半端に賢くて、中途半端に無能。母の期待に完全に答えられるわけでもなく、かといって全面的に反抗も出来ない。半端な僕が、唯一できるのがこの深夜俳個だった。

 なんてぼんやり考えながら歩いていると、住宅街を抜けて小さな丘のあたりまで来ていた。このあたりは街灯もなくなり、いよいよ月明かりだけが頼りになってくる。

「……ん?」

 それでもお構いなしに歩を進めていたところで、耳に届く音。低い音で、でも恐怖感はもたらさない。夜の風に混ざるように、溶けて消える音。

「……歌、声?」

 一瞬、風が止んだ。その音が明瞭になった。それは低く綺麗な旋律。ど乙かで耳にした音色。こんな夜にぴったりな、落ち着いた歌声。

 完全に足を止めた僕はあたりをキョロキョロと見渡す。乙の歌声はどこからか、誰のものなのか。前、右、左。そして後ろと視線を動かして。

「あ」

 視界の端。ひょこひょこと動く影を見つけた。すぐさまそちらに視界と意識とをフォーカスすると、歌声はその方向から聞こえていた。

 思わず僕は走り出す。乙んな夜にこんな場所に歌っているその人に、僅かながら親近感を覚えた。どんな人なのか、知りたいと思った。夜の闇に、歌声と地面を踏みしめる足音とが響く。月明かりふんわり照らすその影は少しずつ明確に、シャーブになっていって。そしてもうその背中まで迫った時。

「え……?」

 犬が歌っていた。比除表現でもなんでもない。文字通り、犬が歌を奏でていた(・・・・・・・・・)

 しかも。

「ココ…………?」

 その犬は僕の家の飼い犬のココだった。バレンティンが60本のホームランを放った日に我が家にやってきたから、ココ。そんなココが、月明かりを見つめながら歌っている。名前を呼べば、しっぽを振ってじゃれてくる、柴犬のココが。

「ココ!?」

 もう一度、名前を呼んだ。さっきは呟くように、今は叫ぶように。

 ピタリ、と歌声が止むとその影が振り向 いた。

「あ、どうも。優さん」

 低く、重厚感のある声でココは挨拶をしてお辞儀した。しっほをふるとか、ワンと鳴くとか、僕の知ってるココとは違って。

「ココなんたよね?」

「ええ、そうです。貴方の飼い犬のココですよ」

 でも、ココは自分がココであることを認めた。呆気にとられる僕を尻目に、ココはまた歌い始めた。

 脳が混乱している。これは夢たろうか。思わず頬をつねってみる。痛い。夢じゃないようだ。でも犬が歌っているなんて夢じゃないと説明がつかない。なのに今目の前でココは歌っている。

「なんで、ココが歌ってるのさ」

 誰に問うでもなく、そんな言葉が口をつく。

「別に犬が歌っちゃあいけないなんてことはないでしょう」

 ココはまた歌を止めて答えた。そしてココのしっぽがべたん、べたんと地面を叩く。

「隣、どうぞ」

「……ああ、ありがとう」

 あまりに非現実的すぎて、自然に応じてしまう。僕がココの隣に座ると、ココは再び歌う素振りを見せながら、でもさっきまでの歌声は聞こえてこなかった。

「時には誰かの期待を裏切りたいときもありますよね」

 深い、優しい声が聞こえてくる。

「期待に応えることは素晴らしいと思います。でもそれが自分なりの期待じゃないなら、裏切ってみるのも良いと思いますよ」

「ココ……?」

 僕はココの横顔を見る。やっばりその顔は犬なのに、どこか人間味がある瞳で遠くを見つめている。

「私にかけられている期待は番犬。でも私の希望は歌うこと。たからこうやって時々裏切って、こんなところで歌ってるんです」

 夜中に家を守らず泥棒に入られたら番犬失格ですからね、とココは笑う。ヘッへ、と息をしながら笑う様は当たり前だけど犬そのもの。

 それだけを伝えると、ココは再び歌い出した。今度は人の声じゃなく、犬の声で。

「ココ?」

 問いかけても、もうココは答えない。僕に目もくれず、一頻り月に向かって鳴いて。

──お先に失礼しますね。

 そう伝えるかのようにワン、と鳴いてどこかへ歩いてった。

「…………」

 深呼吸をしてみる。さっきより空気は乾いているらしい。脳の中は酸素で満たされる。

「やっぱり夢、か?」

 でもやっぱり夢と現実との区別はつかず、そのままフラフラと家に戻った。


──優ちゃん、起きなさい! いつまで寝てるの!


 階下から声が聞こえる。どうやら朝を迎えたらしい。開いたままの窓から吹き込む風は優しく、暖か い。

「優ちゃん! 今日は朝から塾で自習をするんでしょう!」

 声がドアの外まで近づく。休日だと言うのに、母は元気だ。

「こら、優ちゃん!」

 バン、とドアが開け放たれる。同時に風の流れが生まれて部屋の中の空気を一新する。外からはワンワン、とココの鳴き声も聞乙える。

──ココの鳴き声、か。

 夢か、真か。今でもココの言葉ははっきりと残っている。

「どうしたの、優ちゃん!」

 母が僕の布団を引き剥がしにかかる。いつもなら、流石にこのあたりで布団からでて嫌々ながら朝食を取りに行く。今日もそうしようか、と手の力を緩めたとき。

──裏切ってみるのも良いと思いますよ。

 再び、ココの声が脳内に木霊する。騒がしい母の声を上書きするように、低く甘い声が僕を包む。

 昨日見たココは、とても楽しそうな顔をしていた。僕の知っているココとは少し違った、大人の男性のような顔。あれが、ココ。その生き様はどこかかっこよくて。

──僕もココみたいに裏切ってみるか。

 僕は緩めかけた手に再び力を込める。

「ワン!」

 と鳴いて頭から布団を被る。

「ちょ、ちょっと優ちゃん?」

 今日一日ぐらい完全に裏切ったとてバチは当たるまい。とりあえず、ココのように二度寝から始めよう。

 母の声は相変わらずうるさく、でも窓の外からもうココの声は聞こえない。僕とココは、再び眠りについた。

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