三題噺③
カチリ、カチリ。古風な時計が暗闇の中で時を刻む。
机の隣に置かれたラジオは聞き慣れた音楽を流している。毎夜、この時間に決まってこの曲が流れている。
時刻は日付が変わって時計の針が一周した頃。僕はペンを机の上に投げるとぐーっと伸びをする。
──もういい頃合いかな。
椅子から立ち上がり、ドアの方へ。そっとドアを開け耳を澄ます。
耳に届くのは無音。母はもう寝ているようだ。
「よし」
ドアを閉めると、今度はクローゼットの扉を開ける。学生服の隣に掛けられたマウンテンパーカー。それを手に取り、音を立てないように静かに袖を通す。
音楽が止まる。代わりにパーソナリティが落ち着いた声で話し始めた。
カラカラと音を立て、窓が開く。ひゅう、と吹き込んでくる風はやはり少し冷たい。
息を一つ吐いて。ここからはむう慣れたものだ。窓の桟に足をかけると、雨樋を伝いスルスルと二階から一階へと降りる。そしてポイラーの陰に隠しておいた草履を履き、こそこそと庭を抜け、でも堂々と玄関前から通りに出る。そしてやっとの思いで深呼吸。ほんの少ししっとりした空気が喉を通り肺を潤す。とくん、とくんと心臓は高鳴る。
僕の、僕なりの小さな反抗。
今日も、夜の俳個が始まる。
特にこれといった目的もなく、夜の町を歩く。寝静まった家々からは音も光もなく、夜道を照らすのは疎らな街頭と空に瞬く星々だけ。
一歩、一歩と家から離れていくごとに心臓の高鳴りは大きくなる。小さな、だけど僕にとってこの上ない反逆。
自分を表現するとき、どんな言葉が適切か。僕はその答えを知らないが、母は決まって僕のことを「お利口さん」だと言う。自分ではわからないから、きっとそれが正解なのだろう。そう思って僕は「お利口さん」らしく母の希望に応えることに努めてきた。母が言う方向に、母が思う方向に進もうと努力した。
努めて、勉めて。でも僕は「お利口さん」を完全に務める乙とは出来なかった。僕はいつだってほんの少し答えられない。僕は豆腐ハンバーグだ。「今日の夕飯何が良い?」と問われて「ハンバーグ」と答えたら出てくる豆腐ハンパーグ。
自分がその程度の存在だと気づいたとき、再び自分というものがわからなくなった。自分は母の言う「お利口さん」ではない。じゃあ「お馬鹿さん」か。別にそうでもない。中途半端に賢くて、中途半端に無能。母の期待に完全に答えられるわけでもなく、かといって全面的に反抗も出来ない。半端な僕が、唯一できるのがこの深夜俳個だった。
なんてぼんやり考えながら歩いていると、住宅街を抜けて小さな丘のあたりまで来ていた。このあたりは街灯もなくなり、いよいよ月明かりだけが頼りになってくる。
「……ん?」
それでもお構いなしに歩を進めていたところで、耳に届く音。低い音で、でも恐怖感はもたらさない。夜の風に混ざるように、溶けて消える音。
「……歌、声?」
一瞬、風が止んだ。その音が明瞭になった。それは低く綺麗な旋律。ど乙かで耳にした音色。こんな夜にぴったりな、落ち着いた歌声。
完全に足を止めた僕はあたりをキョロキョロと見渡す。乙の歌声はどこからか、誰のものなのか。前、右、左。そして後ろと視線を動かして。
「あ」
視界の端。ひょこひょこと動く影を見つけた。すぐさまそちらに視界と意識とをフォーカスすると、歌声はその方向から聞こえていた。
思わず僕は走り出す。乙んな夜にこんな場所に歌っているその人に、僅かながら親近感を覚えた。どんな人なのか、知りたいと思った。夜の闇に、歌声と地面を踏みしめる足音とが響く。月明かりふんわり照らすその影は少しずつ明確に、シャーブになっていって。そしてもうその背中まで迫った時。
「え……?」
犬が歌っていた。比除表現でもなんでもない。文字通り、犬が歌を奏でていた。
しかも。
「ココ…………?」
その犬は僕の家の飼い犬のココだった。バレンティンが60本のホームランを放った日に我が家にやってきたから、ココ。そんなココが、月明かりを見つめながら歌っている。名前を呼べば、しっぽを振ってじゃれてくる、柴犬のココが。
「ココ!?」
もう一度、名前を呼んだ。さっきは呟くように、今は叫ぶように。
ピタリ、と歌声が止むとその影が振り向 いた。
「あ、どうも。優さん」
低く、重厚感のある声でココは挨拶をしてお辞儀した。しっほをふるとか、ワンと鳴くとか、僕の知ってるココとは違って。
「ココなんたよね?」
「ええ、そうです。貴方の飼い犬のココですよ」
でも、ココは自分がココであることを認めた。呆気にとられる僕を尻目に、ココはまた歌い始めた。
脳が混乱している。これは夢たろうか。思わず頬をつねってみる。痛い。夢じゃないようだ。でも犬が歌っているなんて夢じゃないと説明がつかない。なのに今目の前でココは歌っている。
「なんで、ココが歌ってるのさ」
誰に問うでもなく、そんな言葉が口をつく。
「別に犬が歌っちゃあいけないなんてことはないでしょう」
ココはまた歌を止めて答えた。そしてココのしっぽがべたん、べたんと地面を叩く。
「隣、どうぞ」
「……ああ、ありがとう」
あまりに非現実的すぎて、自然に応じてしまう。僕がココの隣に座ると、ココは再び歌う素振りを見せながら、でもさっきまでの歌声は聞こえてこなかった。
「時には誰かの期待を裏切りたいときもありますよね」
深い、優しい声が聞こえてくる。
「期待に応えることは素晴らしいと思います。でもそれが自分なりの期待じゃないなら、裏切ってみるのも良いと思いますよ」
「ココ……?」
僕はココの横顔を見る。やっばりその顔は犬なのに、どこか人間味がある瞳で遠くを見つめている。
「私にかけられている期待は番犬。でも私の希望は歌うこと。たからこうやって時々裏切って、こんなところで歌ってるんです」
夜中に家を守らず泥棒に入られたら番犬失格ですからね、とココは笑う。ヘッへ、と息をしながら笑う様は当たり前だけど犬そのもの。
それだけを伝えると、ココは再び歌い出した。今度は人の声じゃなく、犬の声で。
「ココ?」
問いかけても、もうココは答えない。僕に目もくれず、一頻り月に向かって鳴いて。
──お先に失礼しますね。
そう伝えるかのようにワン、と鳴いてどこかへ歩いてった。
「…………」
深呼吸をしてみる。さっきより空気は乾いているらしい。脳の中は酸素で満たされる。
「やっぱり夢、か?」
でもやっぱり夢と現実との区別はつかず、そのままフラフラと家に戻った。
──優ちゃん、起きなさい! いつまで寝てるの!
階下から声が聞こえる。どうやら朝を迎えたらしい。開いたままの窓から吹き込む風は優しく、暖か い。
「優ちゃん! 今日は朝から塾で自習をするんでしょう!」
声がドアの外まで近づく。休日だと言うのに、母は元気だ。
「こら、優ちゃん!」
バン、とドアが開け放たれる。同時に風の流れが生まれて部屋の中の空気を一新する。外からはワンワン、とココの鳴き声も聞乙える。
──ココの鳴き声、か。
夢か、真か。今でもココの言葉ははっきりと残っている。
「どうしたの、優ちゃん!」
母が僕の布団を引き剥がしにかかる。いつもなら、流石にこのあたりで布団からでて嫌々ながら朝食を取りに行く。今日もそうしようか、と手の力を緩めたとき。
──裏切ってみるのも良いと思いますよ。
再び、ココの声が脳内に木霊する。騒がしい母の声を上書きするように、低く甘い声が僕を包む。
昨日見たココは、とても楽しそうな顔をしていた。僕の知っているココとは少し違った、大人の男性のような顔。あれが、ココ。その生き様はどこかかっこよくて。
──僕もココみたいに裏切ってみるか。
僕は緩めかけた手に再び力を込める。
「ワン!」
と鳴いて頭から布団を被る。
「ちょ、ちょっと優ちゃん?」
今日一日ぐらい完全に裏切ったとてバチは当たるまい。とりあえず、ココのように二度寝から始めよう。
母の声は相変わらずうるさく、でも窓の外からもうココの声は聞こえない。僕とココは、再び眠りについた。