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第7話 記憶の扉が開くとき

 メイド達に手伝ってもらい、ベルは美しく着飾っていく。髪を結い、新しく用意してもらった白い昼用のドレスを着て、髪飾りやネックレスを身に着ける。準備を万端整えて、屋敷の入口に向かうとそこにシリルが待っていた。

 彼は仕立ての良い黒いフロックコートを身に纏っている。それが豊かな金髪と青い瞳を際立たせて、とても様になっている。

 ベルは思わず見惚れた。


「ベル?」


 ぼんやりとしているベルにシリルが心配そうに声を掛ける。

「大丈夫か? やはり……」

「い、いえ、何でもありません。大丈夫ですっ」

「そうか? それなら良いが。では、行こうか」


 シリルの後を赤い顔でベルは付いていく。彼の背中を上目使いに見ながら。


 何だかドキドキしてる……子爵がいつも以上に格好良いから? それとも、これから始まることに緊張しているから?


 2人は馬車に乗り込む。向かう先は、公園で行われているサーカスの興行だ。それは奇しくも以前、シリルがベルに話していた外国のサーカスであった。

 馬車に揺られながら、ベルはふと夢で見たことを思い出す。


 確か、サーカスの話をしていたような。一緒に見に行こうって。


「そう言えば、子爵もロスリンさんをサーカスに誘ったりしなかったんですか?」

「っどうしてそれを……!」


 シリルが驚いて隣に座るベルを大きく開いた眼で見つめる。


「えっ……」


 その反応にベルが驚く。まさかね、と思いながら尋ねたが、どうやら誘ったことがあるらしい。夢で見たとは言えず、ベルは適当に誤魔化す。


「えっと、何となく、そうなんじゃないかなって思って……」


 ……あの夢は妄想なんかじゃなかった、てこと? でも、サーカスに行くって何日も前から決まっていたから、それが印象に残っていたのね。だから、きっと夢に出てきたんだわ。


「そうか……」


 気まずい沈黙が続く中、馬車は公園の前に停まった。既に多くの人がサーカスを見に集まって来て、賑やかな様子だ。


「やぁ、お二人さん」


 その中にエルマーがいて、2人の姿を見て駆け寄ってくる。


「エルマー」

「シリル、いよいよだな。それに、見違えたよ、ベル。どこからどう見ても上流階級の淑女だよ」

「ありがとうございます」


 エルマーは大仰に両手を広げてベルを称賛するので、彼女も優雅にお辞儀をして応える。


「うーん、魅力的だ。そう思うだろう、シリル?」


 そう言って友人に意味ありげな視線を寄越す。

 そう、確かにエルマーの言う通り、着飾ったベルは美しい。


 きちんと手入れされた赤毛はまるで夕日のような暖かみがあったし、薔薇色の頬に形の良い唇も愛らしい。輝くエメラルドグリーンの瞳は、彼にどう言われるのかを気にして、期待と困惑が綯い交ぜになってシリルを見つめている。


「そうだな……綺麗だ」


 注意深くいなければ、触れてしまいたくなるほどに。


 そう思って、シリルは視線を逸らす。一方のベルは彼の言葉に安心したように胸を撫で下ろす。

 エルマーは親友の気持ちを読んだように、肘でシリルを小突きながら囁く。


「このまま、君の手元に置いておいたらどうだい?」

「エルマー!」


 一瞬過った考えをエルマーに言い当てられたようで、シリルは思わず咎めるように叫んだ。その声にベルが驚いて、目を大きく開く。


「何でもない。さて、行こうか」


 シリルは首を振り、ベルの腕を取る。並んで歩く2人の後ろをエルマーがにやにやしながらついて行ってサーカスが行われるテントの中に入っていった。

 多くの観客は、猛獣の見せる曲芸や空中ブランコ、巨大な自転車などサーカス団の驚異の演目に夢中だが、目ざといある種の人々にとって注目を集めたのはシリルとその隣に座る赤毛の女性だった。

 シリルはこの4年間、1度たりとも衆目の前に姿を表さなかった。舞踏会は勿論、競馬場やカジノ、社交クラブなど。それが今、この日彼は妻と思われる女性を伴ってサーカスを楽しんでいる。

 サーカスの後も2人は数日の間に人の集まるカフェや公園などを訪れ、人々の耳目を集めた。

 噂好きの貴族達が遠巻きに2人の様子を窺いながら、ここぞとばかりに囁き合う。

 それこそシリルの狙いだった。


 こうなればいずれ自分とベルのことがディクソン警部の耳に入るだろう。






 そしてついにディクソン警部がシリル達の前に現れた。シリルとベルが出掛けた先から戻ってくると、40代半ばのくしゃっとした黒髪に目つきの悪い、黒い制服を着た男が、屋敷の前に立っていた。シリルはその姿を馬車の窓から見つけ呟く。


「ディクソン警部」

「あの人が……」

 ベルが緊張した面持ちで警部を見つめる。


 いよいよ、だな。


 シリルは馬車を降り、ゆっくりと警部に近づく。


「おや、警部。お久しぶりです。どうしました?」

「見え透いた冗談は止めましょうや、子爵。お連れの女性について伺わせてもらいましょうか」

「……良いでしょう」


 シリルが馬車の方へ視線を送ると、ベルは車内で小さく頷き外へ出てきた。その姿を見て、ディクソン警部の黒い目が大きく開かれる。ベルは傍目に見てもロスリンによく似ていたからだ。


「まさか……」


 この4年間警察が幾ら探しても消息について何の手掛かりも得られなかった。だからこそ、警部はシリルが殺したのだと疑っていたというのに。そのロスリンがここにいる。警部は驚愕を覚えた。

 呆然と呟いたが、はっとして表情を再び引き締める。


 子爵の計略に嵌まってはいけない。部下の報告から、ブライトン家の屋敷に誰か居るとは知っていたが、ロスリン嬢の代わりを仕込んでいたとは、ね。


「そちらはどなたですかな、子爵?」

「警部が思っている通りの人ですよ」


 シリルとディクソン警部が静かに睨み合う。


「ほう……では、そちらのお嬢さんに幾つか質問しても良いですかね?」

「えぇ、構いませんよ。屋敷の前で話すのも何ですから庭へどうぞ」


 シリルは警部を庭に案内した。竜胆の蕾がちらほら色付き始めている。もうすぐ咲き始めるだろう。


「おっと、子爵は離れていて下さいよ。口を挟まれては困りますからね」


 ディクソン警部はそう言って、シリルを牽制した。ここで嫌がれば、警部に不審を抱かれるだろう。


「……分かりました」


 シリルは不安げに眉間に皺を寄せベルを一瞥し、2人から離れて様子を見守る。

 ディクソン警部はシリルを見送った後ベルへと向き直り、エメラルドグリーンの瞳をまっすぐ見つめる。まるで瞳の奥の何かを探るように。


「お久しぶりです、ディクソン警部」


 緊張してベルがやや固いお辞儀をする。


「……単刀直入にお伺いします。貴女はロスリン・カーライル、いえ、レディ・ロスリン・ブライトンですか?」

「はい」

「それを確かめさせてもらっても良いですね?」

「構いません」


 ベルは真っ直ぐ警部に向き合う。そこでベルは警部に妙な懐かしさを覚えた。


 私、警部にどこかで会ったことがある……?


「ご両親の名前は?」


 ディクソン警部はベルの気持ちには気付かず、質問を繰り出した。


「ウィリアムとライザ」

「夏はいつもどこでバカンスを?」

「海辺のベルフェア。カーライル家の別荘がありますので」


 こうして次々と警部が出す質問にベルは淀みなく答えていく。

 ベルと警部の様子を内心緊張しながら見ていたシリルは、ほっと安堵のため息をつく。話している内容は分からないが、2人の表情を察するにベルは上手くやってくれているようだ。


 これなら、ディクソン警部を納得させられるかもしれない。


「では最後に一つだけ。貴女は私に手紙で子爵と出会ったときの事を書いてくれましたね」

「えっ……えぇ」


 警部の言葉に、ベルがぎこちなく頷く。手紙をやり取りしていたことは教えてもらっていたが、内容までは分からない。

 ベルの背中に冷や汗が流れる。


「その際彼が携えてきた花はなんです?」

「花……」


 教えてもらった事柄の中から必死で、出会ったときのことを思い出そうとした。そして、夢で見たあの光景が脳裏に甦ってくる。喪服を着た赤毛の少女とその彼女の前に立つ金髪碧眼の青年。

 シリルの姿に焦点を当てるように近づいていく。いつしか少女の姿にベルが重なっていた。目の前に彼の抱えた花束が見える。


 俯く私に、あの人は微笑みながら青い花の花束を持っていた。そう、あの花は……。


「竜胆……そう、あれは竜胆でした」


 どうして、あの青い花が竜胆なんて……いいえ、私、覚えてる!

「竜胆は父と母にとって思い出の花。だから、私も好きだったんです」

「えぇ。手紙にもそう書いてありました。だから、子爵から頂いたときにとても嬉しかった、と」


 なるほど、よく仕込んでいる、とディクソン警部は内心舌を巻いた。

 一方、ベルは自分が子爵に教えられていない事を答えたことに驚き戸惑い、そして苦しそうに頭を押さえ、その場に蹲った。


「どうしました、お嬢さん?」


 警部が気遣うように身を屈めて、彼女の肩に手を置く。


「いえ、何でもありません……」


 そう言いながらも、ベルは苦しそうだった。


「……お嬢さん、もう一つだけ。貴女が何を目的にブライトン子爵に協力しているかは知らないが、こんな真似はもうお止めなさい」


 警部の諭す言葉に、ベルは顔を上げて彼を見る。


「えぇ……えぇ、そうですね。もう、終わりにしなければ。ディクソン警部」

「レディ・ロス……」


 苦悶の色が浮かぶベルの瞳の中に、自分に対する親愛の情のようなものを感じ取って、ディクソン警部は思わず、ロスリンと声を掛けそうになった。


「もう良いでしょう!」


 ベルの様子を見て慌ててシリルが割って入って来る。


「大丈夫か? 警部に何かされたのか?」


 奪うようにディクソン警部の手を払いのけ、シリルはベルの肩を抱く。


「いいえ。ただ立ち眩みしただけですから、大丈夫です。警部は関係ありません」


 ベルはそう言うと、シリルの手から逃れ立ち上がる。その瞳にはありありとシリルに対する拒絶が見て取れた。


「どうした……?」

「すみません。少し気分が優れないので、部屋で休ませてもらってもよろしいですか?」


 ベルはシリルではなく、ディクソン警部へ視線を寄越した。彼はそれを受けて頷いた。


「えぇ、どうぞ」

「失礼します。警部」

 ベルはそう言って身を翻し足早に庭を後にし、屋敷へと入って行った。


「一体彼女に何を言ってんです? 警部」


 シリルが眉間に皺を寄せ憤りを見せる。


「彼女が本当にロスリン嬢かどうか確かめさせてもらっただけですけどね。実に見事ですよ、子爵。私がロスリン嬢からもらった手紙の内容まで教えてらっしゃるとは、ね」

「え……」


 シリルが目を見開く。


「では、今日のところはこれで失礼しますよ。近いうちに、また」


 呆然とするシリルの様子をちらりと見て、警部はブライトン邸を後にした。


「手紙の内容……?」


 それは教えていない。


 そもそも、シリルがロスリンと警部が手紙のやり取りをしていると知ったのは、警部に尋問されたときだった。内容など、知りようがない。


「それを答えた……ベルが……」


 それはどういうことだ?





 頭の中に、思い出が洪水のように溢れてくる。


 部屋に戻ったベルは壁にもたれ掛かるとずるずるとそのまま座り込んだ。


 私は……私がっ……。

 どうして思い出してしまったの? 思い出さなければ紳士的な彼を慕うベルでいられたのに!

 駄目よ。もう、ここには居られないわ。

 彼がロスリンを騙した事実。愛されない悲しみ。


 それらが彼女の胸に苦々しく甦って来るのと同時に、ベルとして過ごした楽しい日々の、愛しい気持ちが交錯する。

 彼は変わった。けれど、ロスリンである部分がそれを信じられないと叫んでいた。


 ベルがロスリンと分かったらあの人は私を愛してくれない。


 ”彼はいつでも離婚出来るように書類を書斎に置いているのさ”


 かつて彼の親友が言っていた言葉を思い出す。


 ……そうね、あの人をもう充分苦しんだわ。解放してあげないと。





「あの、旦那様、ベルさんが部屋にいらっしゃらないようなんですが……」


 朝食を取っていたシリルの前に、メイドが困った顔で話し掛けてきた。


「いない?」

「はい。起きてこられないので、様子を見に行ったんですが、姿が無くて……」


 嫌な予感がする。


 昨日、ベルは結局体調が悪いからと、部屋から一度も出てこなかったし、シリルも部屋の前まで行きながら、その扉を叩くことが出来なかった。

 確かめるのが怖かったからだ。

 ディクソン警部が話していたこと。ベルの拒むような態度。


 やはり彼女は……。


 シリルは無言で立ち上がり、食堂を出る。急いでベルの部屋に向かいドアを開けるが、メイドの言う通り誰も居ない。他の部屋も次々見て回るが、彼女は何処にも見当たらない。

 しかし、書斎に入ったとき、机の上に書類が置いてあるのを、シリルは見つけた。


「これは……」


 その書類は彼が引き出しに仕舞っていたはずの、離婚に関する書類だった。書類を持ち上げ中身を見て彼は絶句した。そこには彼の署名だけしか書いてなかったが。


「ロスリン……!」


 彼女の署名が書き加えられていた。シリルは放心したように立ち尽くし、力の抜けた手から書類が一枚また一枚と床へ散らばっていく。


 彼女は再びシリルの許を去ったのだ。





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