第3話 企む2人
そして数日後、新聞に”ディクソン警部、劣悪な環境で働かされていた女性達を救う大手柄!”と大々的に記事が載った。しかし、シリル達が関わっていたことについては一行も書かれていない。
「あーあ、僕も結構頑張ったんだけどなぁ」
エルマーがブライトン邸で新聞を読みながら、天を仰ぐ。
「すまん。私の名が出ると、また色々と面倒なことになると困るからな」
シリルは友人の様子に苦笑いした。
シリルとエルマーは、縫製工場に留め置かれていた女性達を保護するべく動いていた。シリルの慈善活動の一つに生活に苦しむ女性達への支援がある。シリルはその事業の責任者ミセス・モートンと共に、ディクソン警部を始めとする警官隊が工場で見つけた女性達を引き取ったのだった。
「ま、これであの男も刑務所行き。自分が女性達にしてきたことを今度は自分が身を以て体験するわけだ。怪我した甲斐があったじゃないか、シリル」
「そうだな」
保護された女性達は、ミセス・モートンが運営する保護施設に今は居る。この後、ある者は故郷へ帰り、ある者は施設で一時的に過ごした後、新しいもっとずっと環境の良い職場でまた働き始めるだろう。
「それで、君はどうする、ベル? 家族の許へ帰るのかい?」
シリル達が屋敷に連れてきた赤毛の若い女性はベル・フラーと名乗った。もう一人のもっと若い方はララと言う。2人はここ数日で見違えるように健康的になった。2人の境遇にいたく同情したメイド達があれこれと世話を焼いてくれ、新しい服を用意し、髪を切り揃え、食べきれないくらいの食事を用意してくれた。そのお陰か出会ったときより、幾分肌艶や血色が良くなっている。
ララの方は、家族が迎えに来て涙ながらに故郷へ帰っていった。良い働き口があると紹介されて送り出した娘が、酷い扱いを受けていたことに両親は大変ショックを受けていた。
「いえ、私は……」
ベルは睫毛を伏せた。
「家族の許には帰れないのか?」
働かされていた女性達の中には、家族の借金を返す為に売られたも同然の娘、家族と折り合いが悪く家から追い出されたような娘もおり、そういう者達はミセス・モートンが新しい就職先を斡旋することにしている。
「そうじゃないんです。私、家族が居なくて……というか、居るかどうかも分からないと言いますか……」
随分曖昧な言い方だ。シリルとエルマーが首を傾げる。
「どういうこと? 居るかどうかも分からないって」
「私、記憶喪失、だそうです」
「記憶喪失?」
2人は目を瞬かせる。
「はい。ベル・フラーって名前も本当に私の名前なのかどうか……」
「自分の名前も分からないのか?」
「はい。唯一覚えていたのが、ベル・フラーって言葉だけで。これが私の名前なのか、別の誰かの名前なのか、そもそも人の名前なのかどうかも、まったく分からないんです。だけど、名前が無いのは不便ですから、そう呼ばれているだけで」
「それは大変だね。でも、どうしてあんなところで働いていたんだい?」
「4年程前に、雨の降る森の中で倒れていたところを木こりの老夫婦に助けてもらったんです」
「4年前……」
ロスリンが居なくなったのも4年前だ。シリルは一瞬、まさかと思ったがすぐに考え直した。
ロスリンなら金は持っている。ここから逃げるにしても住まいくらいは用意しているはず。森の中で行き倒れる理由がない。……そう、これは奇妙な偶然だ。
「凄い熱があって、何日かずっと寝ていたそうで……そこで何度もベル・フラーとうわ言のように呻いていたって」
「それで意識が戻ったら何も思い出せなくなっていた、ということか」
シリルの言葉にベルは頷いた。
「はい。目が覚めた後も夫婦は親切にも記憶が戻るまで居ても良いとおっしゃってくれて。それで家事や菜園のお手伝いをしながら生活してたんですけど、旦那さんが亡くなり、奥さんは息子夫婦と街で暮らすことになって。私は他人ですから、お邪魔するわけにもいかないし、老夫婦が暮らした家は売りに出すことに決まって、出ていくことになったんです。それで行く場所が無かったところに、住み込みで働けるところがあるって聞いて……」
「それであそこへ、ね」
エルマーはそう言いながら、ベルをよくよく眺める。何となく、友人の消えた妻に似ているような気がしたからだ。長い赤毛にエメラルドグリーンの瞳。
といっても、実際に会ったのは結婚式のときぐらいだけど。
そこでエルマーははっと、あることを思いついた。シリルに小声で話し掛ける。
「これはもしかしたらチャンスかもしれないぞ」
「何がだ?」
「ベルにロスリンの振りをしてもらうんだよ」
「はぁ?」
シリルは友人の突拍子もない提案に思わず声を上げる。
「考えてもみろよ。このままずっとロスリンが見つからなきゃ君は一生監視されるんだぞ。しかも、離婚も出来ないし。失踪宣告なんてしようものなら、それ見たことかやっぱり財産目当てだった、と方々から非難されるのは目に見えてる。それじゃ新しい恋人も作れない。跡継ぎが居なきゃ子爵家も困るだろ。今のままじゃ、にっちもさっちも手詰まりだ」
「しかし……」
「少なくとも、警察から掛けられている疑惑を晴らす必要はあるんじゃないか」
「……」
「それとも、ディクソン警部が引退するまで待つつもりかい? あと20年は居るだろうね」
「それは、そうだが……」
シリルはちらりとベルの方を見る。彼女はこちらを不思議そうな目で見ている。
確かに年恰好は妻に近い、のかもしれない。ぱっと見たらロスリンに見える可能性はある。
「決まりだな」
エルマーはシリルの肩を叩いた後、ベル向けてにっこりと笑った。
「ベル、もし君に行くところが無いなら、僕達に一つ協力してもらえないかな?」
「協力、ですか?」
「あぁ。今このシリルには困り事があってね。もし君が協力してくれたなら、解決出来るかもしれないんだ」
助けて頂いたのだもの、協力出来ることがあるなら、勿論力になりたいけれど……一体私にどんなことが出来るというの? 何せ記憶もないし、お金だって持っていないのに。
「子爵様の助けになれるようなものは何もありませんけど……」
不安げにベルはシリルを見る。だが、彼は気まずそうに横を向いていた。
「大丈夫。その見た目があれば」
「えっ?」
不審そうな目のベルにエルマーは否定するように焦って手を振る。
「あぁ、変な意味じゃないよっ。実はシリルの奥さんは今現在行方不明なんだ」
「行方、不明……」
「そうなんだ。ある日突然屋敷から姿を消してしまってね」
「それで、私に探すのを手伝って欲しい、ということでしょうか? それなら喜んで力になります」
「いやいや。君にはシリルの奥さんの代わりになって欲しいんだ」
「奥さんの代わり? それはどういう……」
困惑した様子で、ベルはシリルとエルマーを交互に見た。シリルは小さくため息を吐いて説明する。
「警察は私が、妻を殺してどこかに埋めたと考えている」
「えぇっ!?」
衝撃的な言葉にベルは思わず叫んだ。
「勿論、私は断じてそんなことはしていない」
「でも、警察は彼を疑って、ずっと監視しているんだよ」
「そんな……」
「警察は今にもシリルを逮捕して牢獄に入れたがっているんだ。だから、その疑いを晴らす為に、君の彼女の振りをしてもらいたいんだよ」
唐突な提案にベルは当惑し、思わず両手を胸の前で組む。
「お役に立てるものなら立ちたいですけど……自分が誰かも分からないのに、他の人の振りなんて出来ると思えません」
「大丈夫。必要なことはシリルが全部教えてくれるから」
「でも、私が成りすましているのを知って、奥様が戻ってきたらどうするんですか?」
そうしたら世間的にはブライトン子爵の奥様が2人というおかしな状況になってしまうのではないか、とベルは心配になった。
「それならそれで良いんだよ。彼女が怒って出てきてくれるならそれで」
「どういうことですか?」
ベルの怪訝な顔にエルマーが苦笑する。
「彼女が生きていると分かれば、少なくともシリルの殺人の疑いは晴れる。君が奥方の振りをしたのも、本人をおびき出す為だったと言えば、まぁ言い訳は立つと思う、たぶん。そして、シリルは彼女と離婚出来る」
「離婚、ですか……」
「あぁ。それで彼はいつでも離婚出来るように書類を書斎に置いているのさ」
奥様を探してらっしゃるのに離婚したいとはどういうことかしら?
ベルは不思議に思い、シリルを見る。彼は苦痛を感じているように目を瞑っていた。
「妻は、ロスリンは私と結婚している間、少しも幸せではなかった」
「え……」
「私達は不仲、とでも言うか……まぁ、上手くはいっていなかった」
それで黙って奥様は居なくなってしまわれたの?
でも、ブライトン子爵は私達を親身になって助けてくれた立派な方よ。例え愛のない結婚だったとしても、黙って居なくなるほど、嫌われるような方ではないと思うけれど……。
「勿論タダでとは協力して、とは言わないよ。君の家族を探すために探偵を雇う費用や記憶を取り戻す為の治療費、当然ながら生活する場所や費用も払ってあげるよ、なぁ?」
エルマーが横目にシリルを見ると彼は黙って頷いた。彼にしてみればそのくらいの費用は大した出費では無かった。
そんなにしてもらって、逆に悪い気がするわ。今だって助けてもらっているのに。
ベルは悩む。
警察を騙すなど、そんな大それたことやって大丈夫なのか、という不安と、世話になったシリル達に協力したいという思い、それに自分が誰なのか取り戻せるかも、という希望。
私は……。
「頼むよ」
黙っているベルにエルマーが両手で拝む。
「エルマー、無理を言ってはいけない。ベル、今のことは忘れてくれ」
「いえ、私やってみます」
「ベル……」
シリルが驚いた顔になる。
「お二人は私の助けてくれた恩人です。私なんかで奥方の振りが務まるかは分かりませんけど……」
「ありがとう、ベル! 良かったなぁ、シリル」
ベルの返答を聞いてエルマーが喜色を浮かべる。
「あぁ、そうだな……」
果たして本当にそうだろうか。シリルには一抹の不安が湧いていた。
あのディクソン警部を納得させるのは相当難しいぞ。失敗したら、一層疑惑を深める結果になるのでは?
だが、エルマーの言うことは正しい。確かにこのままでは身動きが取れない。別に昔のような生活をしたいとは全く思わないが、跡取りがいないのは困る。
しかし、誰が殺人容疑で捕まるかもしれない者と付き合いたいと思うだろうか。正式に離婚出来ないにしても、警察には退場してもらわねばならない。
それにもし、自分の偽物が居ると知ったら、彼女が居ても立ってもいられずに出てくるかもしれない。
「今はそれに賭けるしかないか……」
「よーし、こうなったら早速始めないと」
エルマーが満足そうに頷く。
「まずは、ロスリンに関する情報を覚えて貰わないと」
「それに礼儀作法もな」
ロスリンは貴族でこそなかったが、裕福な女性として上流階級の人々が受ける教育を彼女も叩きこまれていた。
私に覚えられるかしら……。
ベルは一抹の不安を覚えた。