第11話 ニック・オブ・タイム
4/1 21:30
リェンは自宅である異世界空港の女性職員用集合住宅へ帰ってくるなり、ベッドに倒れこんだ。
検疫局のトニーと別れ、オフィスに戻った時には流石にイノウエも帰宅しており、フレイヤに時々手伝ってもらいながら、翻訳ソフトで英訳したであろう珍妙な文法をつかう日本のお役所書類を解読、悪戦苦闘してなんとか報告書を作成した。
携帯を開くとメッセージの通知が数十件と溜まっている。全て心配性な母からだった。
メッセージで返信するのも面倒で、電話をかける。
「もしもしお母さん?」
「リェン、大丈夫だったの?心配で心配で」
「仕事中だったから連絡できなかったの。ごめんね」
「そんな携帯も見れない職場なの?」
「初日は覚えることが多くて忙しかったんだって」
優しい母ではあるが、リェンがフランスに留学してからと言うもの、少し過干渉気味だった。
フランス人の民俗学者である父と、ベトナムの旧家の生まれである母は、ベトナムで出会った。民俗学の研究の為フィールドワークしにきた父が、母に一目ぼれし結ばれてリェンが生まれた。しかし研究者として世界中を飛び回る父はベトナムに帰らないようになり、リェンが小学生の時に離婚してしまった。
フランスへの留学は、母からすればベトナムを捨て、父のいるフランスを選んだように映ったかも知れない。
もちろんリェンは母と故郷のことも愛しており捨てる気などなかったが、同時に父のことも愛していた。
母の気持ちと父が研究する民俗学への興味の板挟みになることもしばしばだった。
「大丈夫だから、安心して、ね」
しばらくの間、母の嘆きを聞いたのち、宥めて電話を切ろうとする。
「ちょっとまって、お婆様にも代わりなさい」
電話の向こうで物音がしたかと思うと、優しい声が聞こえた。
「リェン?大丈夫かい?」
「大丈夫だよ。お婆ちゃんは脚の調子どう?」
「良くなってきたわ。近頃は散歩にも出かけてるのよ」
祖母は優しい人だった。数年前に足を悪くしてしまいすっかり老け込んだが、元々は地域の顔役として辺りを取り仕切っていた女傑だったらしい。
「お仕事の方は、どう?」
祖母は声を落とし、続けた。
「悪い人を捕まえたのかい?」
犯罪捜査班に配属となったことは、母には秘密にしていたが祖母に伝えていた。祖母は心配するどころか面白がってくれた。
「うーん、どうかな。あったような、なかったような...。でも書類仕事ばかりだよ」
「そうなのかい?つまらないねぇ。仕事はやっていけそう?」
「それが、やっぱり大変で」
ジェットコースターの様な初日を思い出し、先が思いやられる。厄介な書類仕事もそうだが、なにより午前中のマフィアのアジトに突入した様子が脳裏に焼きついていた。怒号。銃声。割れたガラス。争いごととは無縁で生きてきたリェンにとっては、とてもじゃないが馴染めそうにない。不安に押しつぶされそうになる。
「大変だったんだねぇ」
優しい祖母の声に、涙がこぼれそうになる。
「あなたはとっても賢い子だから、大丈夫。自分の出来ることを精一杯やりなさい。もし仕事が合わないと思ったら、いつでもウチに帰ってくればいいんだから」
「ありがと」
リェンは声に詰まりそうになりながら言う。
「無理だけはしないでね」
「うん、分かった。お婆ちゃんも身体に気を付けてね」
リェンは電話を切ると、シャワーも浴びず、晩御飯も食べず、眠りについた。
4/2 08:30
リェンが出勤するとイノウエとフレイヤが既にデスクに座っていた。
もちろんAJはいない。そしてやはり、昨日の朝が特別だったようで、他の捜査官たちもいなかった。
「まぁ、不規則な仕事だからね。出勤時間にきびしくないんだよ」
と、イノウエ。コーヒーを飲みながら、何やら日本語の書類に目を通していた。
「昨日は帰ってしまってごめんね。書類作成、しんどかったろ」
「そんな!前日夜勤だったのに残っていただいていて、本当にありがとうございました。でも...そうですね。確かに書類作成は大変でした...」
「馴れたら同じことの繰り返しですし、すぐ出来るようになりますよ」
フレイヤが慰めてくれる。彼女も最初は同じように苦戦したのだろうか。いや、言葉どころか文化や物理法則すらも異なる世界からやってきたのだから、もっと苦労していたとしても不思議ではない。
「不備って程のことではないんだけど、ここ、トニーから印鑑もらわなきゃ、だね」
昨日の書類に付箋が付いている。どうやらイノウエはリェンが出勤するより前に書類に目を通してくれていたようだ。
「インカン?ってスタンプのことでしたっけ」
日本の印鑑文化に馴染みがないリェンには気付かない不備だった。
「あー、まぁ謎だよなぁ。サインみたいなもんだよ。一応、日本の形式に則っているだけだから。すぐ済むし、今から一緒に貰いに行こうか」
「いいんですか?ありがとうございます」
リェンの捜査官生活2日目は穏やかにスタートした。
4/2 09:00
捜査班の面々とは違い、検疫局の面々は朝から出勤していた。皆、忙しく仕事をしている。生物担当のオフィスへ入るなりイノウエが言った。
「おはよう、ヤニス!トニーいる?」
気軽な感じを見るに、この部署とはもうすっかり顔馴染みなのだろう。
「今日はまだ見てないなぁ。遅刻するタイプでもないし、駐機場のドラゴンに餌でもやってるんじゃないかなぁ」
ヤニスと呼ばれた背の高いアフリカ系の眼鏡の男性が答えた。
「オーケー、駐機場に行ってみるよ」
「ドラゴンが来ることはよくあることなんですか?」
駐機場に向かいながらリェンはイノウエに尋ねた。放任主義のAJとは違いイノウエと話すと勉強になる。
「最近はめっきり少なくなったけど、昔は多かったらしいよ。ここって上空にワームホールがあるけど、異世界にも同じように浮いて存在してるらしくて、前は飛行機じゃなくてドラゴンやらロック鳥やらに乗ってくる異世界人も少なくなかったからね」
「そうなんですね!」
大きな鳥やドラゴンなんかが飛び交う世界を想像して胸がときめく。
「トニーもそのころからの職員だからドラゴンの餌やりなんて朝飯前だろうね。えーっと、確かこの辺だったよね」
リェンとイノウエは駐機場の一角に到着したが、やはりトニーの姿はなかった。
「はい、昨日は確かにこのあたりに鎖で繋がれて...」
そういって指さした辺りには太い鎖が引きちぎられて転がっている。
イノウエはしゃがんでその鎖を手に取った。成人男性の腕程の太さがある鎖だ。
「これはちょっと、おだやかじゃないな。トニー!トニー!」
大声でベテラン生物担当の名前を叫ぶ。飛び立つ飛行機の轟音で叫び声もかき消されてしまう。
付近の滑走路や駐機場の屋内には数人の作業員がいるものの、多忙な朝の作業で誰一人とこちらに気づく者はいなかった。
「ドラゴンが逃げたのかもしれない。周囲を探してみよう。」
イノウエとリェンはとりあえず二人で手分けして辺りを見て回ることにした。
何か胸騒ぎがする。リェンは念のために空を見るが、どんよりと厚い雲に覆われた天と発着する飛行機が見えるばかりで、ドラゴンの姿はない。
イノウエは通信端末でもう一度トニーの所在を確認しつつ、応援を要請していた。
駐機場に置いてあるコンテナの裏に差し掛かった時、何か後頭部がゾワゾワと冷たくなるような感覚。異様な匂い。リェンは恐る恐る裏側に回り込んでみる。
「いやぁぁぁぁ!」
叫び声。イノウエが振りむくとコンテナの裏を指さして、リェンが座り込んでいる。
駆けつけるイノウエ。
「マジかよ...」
そこにトニーは居た。変わり果てた姿で。
血の気を失った顔。腕は明後日の方向に曲がっている。そして何より、胸から下は何かに食いちぎられ、腹部から脚に至るまであるべきものが無かった。血だまりの中、トニーの上半身だけがそこにあった。
イノウエは通信端末を取り出す。
「状況オレンジ。有翼害獣が逃亡した恐れあり。被害者1名。死亡を確認。至急、駐機場に応援求む」




