とりあえずここまでは頑張った
狼王記 あとがき 真
あーだのこーだの屁理屈をこねくり回してなんとか書かない理由をこじつけていたのですが、度重なる不運と編集部の陰謀により、結局、この「難書」に挑む羽目になりました。
すべては、クロユリのために。
続編を期待されたクロユリシリーズですが、狼王記はクロユリとしてではなく、別の作品ということで、出版会議を通しました。セーフです。狼王記に限っては合法、一次使用権を持っているのは著者です。ある意味、私にしか書けない作品。
そもそもこの狼王記は、2013年にクロユリの習作として書かれ、未完のまま放置されていました。7年。人間でいうなら、生まれた子がランドセルを背負うまでの時間です。
当時、私は入院していた母の手術を待ちながら、病室で狼王記を書いていました。どんなことがあっても原稿だけは書くのがプロだ、と、そう勘違いしていたのです。
本当のプロは、原稿なんぞより大切なものを知っている。仕事とは、そういうものです。
あの頃の私はふてくされていて、愚かでした。家族を失ってまで書くべき物語なんぞありません。世界的ヒットメーカーがいうのですから、間違いないですよ。
本来、この作品はクロユリのために総没となり、消えるさだめにありました。が、デビューから5年、読者から寄せられた塵が積もって山になったような感想に、一括返信するつもりで、再び筆を執りました。
主人公二人については、セナとシズマの子、とは明記していませんし、むしろシズマは子をなさなかった、と明記してあります。ところが、書いているうちにこの二人は、どんどん、セナとシズマに似てきてしまいました。ちっとも違う人物のはずなのに、不思議ですね。
クロユリが終わってしまったことが、セナが死んだことが、今頃悲しい。
読者のために、というよりかは、セナのために。
大本の狼王記は、プロイセン王フリードリヒ2世の逸話をもとにお話しを考えていました。無理に史実に寄せようとして、歴史家からは、あなたが書きたいのは歴史ではなく自分の空想であり、実際、小説家なので空想のほうがおもしろい、と言われてしまいました。
歴小説の大家にはなれそうもないラノベ作家、清水さゆるです。
クロユリではない狼王記は、しかし、クロユリの不始末の反省文でもあります。賛否両論かとは存じますが、作者、担当者ともども、主人公と同じようなクソガキな未熟者でございますゆえ、何卒、長い目でおおらかに見守っていただければと存じます。
このお話は、徹頭徹尾、戦争を話の盛り上げに使わないことにこだわりました。それと、クロユリの固有名詞を一つも使用しない、という自分ルールがあります。読者各位には、予めご了承くださいますよう、こちらに念書をしたためました。(笑)
1章を書いているとき、三晩連続で知恵熱を出すというデッドヒートはラノベならではですね。こういう書き方は寿命を縮めるので、もう二度としません。反省しています。
クロユリとなにが違うのか。時代が違います。クロユリを書いた2015年、日本はちょうど平成の最後で、二次大戦の反省とともに、天皇の生前譲位について活発に議論されていた時期でした。そして2020年、令和。即位式の際に、おそらく日本史上はじめて天皇が自らを「国民の象徴」と表現したのが、とても印象的でした。天気は雨、風が強く、錦の旗の半分が落ち、祝砲が雷鳴のようだったのが思い出されます。あるいは、皇居に向けられた大砲に玉が込められていたかもしれない平成、そして、令和。2020年といえば、コロナで東京五輪が一年延期になったのも忘れ難いですね。
時代のおありというよりも、編集部にどやされて書くことになったのも、忘れ難いですよ?
フィーネは直前に大規模なウェブ作品の著作権違反事故に巻き込まれて集英社がやむなく没を決定したコバルト文庫ロマン大賞受賞作『死霊伯爵の華麗なる策謀』のヒロインから、セルヴァンテスはクロユリ7巻の補色として一冊書いて全部没にした幻の8巻から、それぞれ名前を引用しています。
令和らしい、忘れ難い主人公たちです。どちらも、この世に主人公として物語が生まれる前に消えるはずだった名前です。
クロユリは、どんなに読者が望んでも「国民的作品」には、できませんでした。
というか、作者の思い入れなんてのは、読んでみないとわからないものですよ。ちっとは読者は私の愚痴ではなく私の小説作品を読んでくれw そんなに作者が気になるかw
きっとこの作品は作者が7年かけてクロユリを使ってでも書かなければならない作品だったのだ。そう言ってくれる読者がいて、実に、小説家としては満足ですよ。
ちなみにお値段400字10万円印税30%。小説家清水さゆるの原稿は固定料金です。こちとら「生業」ですので、あしからず。生活ありますんでw 払うのは版元です。
狼王記は二次使用契約しますよ。読者は知らなくていい小説家の台所事情。武士ではないので、飯も食うし、楊枝は安いのを使ってます。ちなみに私は柔毛派です。
たくさん死んだから人の命は大切だ、という意見があります。違うと思います。
セナがどうしたって生き返えらないまま狼王記がスタートする。それが、人の命だと思います。あえて、そこは救わないことにしています。
なんでもできるファンタジーだからこそ、死んだキャラはそのままです。
テスとフィーネは、結ばれて幸せになることができなかったセナとシズマの負債を継続しています。お姫様と王子様が恋をして結ばれる物語。たったそれだけのお話しです。
クロユリには多くの反省がありました。セナの老いさらばえて負けていくところも書くべきだ、という意見については、シズマやジエンについても同じことが言えます。老化と変遷と過去の清算に男女差はありません。
フィーネは自分、という読者が多いですね。作者としてはフィーネこそセナです。あの時マナが現れなければセナはフィーネだった。
フィーネは遠因、テスは原因。どちらもセナとシズマの「人間」にすぎない脆弱さが表に出ています。セナとシズマの本音だったのだと、わかっていただければ大成功です。
ゆえに、あの指輪は「お守り」であり、同時に「呪い」でもある。
あの時ホントはどう思っていたの? 本当のセナはどんな少女だったの? という「やり直し」を書くつもりで筆を執りました。ただし、セナではない。狼王記は英雄も神の采配もない、個人の物語です。
クロユリの主人公に比べると、テスもフィーネもくそがきで甘ったれでろくでなしで、愚図で愚鈍で、脆弱で、うだうだ悩んでばかりです。好くなくとも、二人には悩む時間がある。
やっと人間。
セナはわからないけどフィーネならわかる、というのならば、おそらくセナが読者にずっと訴えかけてきた彼女の本音だからだと思います。しかし、フィーネにも英雄の片鱗があります。自分はフィーネだと思う読者たちへ。再びセナを召喚しようと願う読者の熱狂が生んだ亡霊を着こなせるのは、おそらくフィーネです。
嫌ですか、セナになるのは。セナもきっと、英雄になんかなりたくなかったのだと、気づいてくれたら7巻もやっと報われます。
セナとシズマではハッピーエンドにはできなかった。なぜなら戦時だったから。
クロユリにはできなかったのはなぜか。それを知るために狼王記を書こうと思い立ったわけです。前半250枚は著者が考えました。テスもフィーネもいまだ読者の知りえぬ主人公だったから。
何をどう書くか。何の物語か。それは著者人格権です。ここで終わらせることも可能だったのですが、後半は、読者と作ります。クロユリを読んだ読者が何を考え、どんな感想を抱いたのか。それは世に出してみないとわからない。
デビュー作が失敗したことが……7巻が失敗したことが、そんなに不満ですか?
作者の間違えは絶対に正さなければならないですか。そうですか。テスとフィーネではダメですか。そうですか。戦後生まれの平和ボケした主人公には、亡きセナと老いさらばえて孤独なシズマに寄り添えませんか。そうですか。
セナの死がわかりませんでしたか。そうですか。英雄なき世界で戦争に傾くのをなんとか耐えて工夫して平和な世界に生きようとする主人公では、不満でしたか。そうですか。
セナとシズマでなければクロユリではない。そうですか。よくわかっていらっしゃる。
上限は500枚。250枚までは私が答えました。2015年以来、発売までの5年分の読者の感想に一括返信。クロユリ発売後の後半を、作者も読者もまだ知りません。後半は、読者のいる世界。前半は読者のいない、担当者と作者だけの世界。まだ見ぬ世界ですよ。