狼王記イースサーガ
3
幾星霜。流星よりなお速く、星巡よりなお遅く。単騎、荒野を駆けていく。
よく見る夢がある。
屍山血河の頂に黄金の椅子がある。そこに引き据えられ、座らされ、万雷の拍手と、お前のせいだと喝采を浴びる夢だ。
なぜだ、なにもしていないのに。
なにもしていないからだ!
父には怒鳴られ、母には詰られ、枢機卿には銃口を向けられ、額にヒヤリと感触があって顔を上げると、ついにはギルフォードにまで……。
ユーリ、違うんだ。そういっているのに、何度も何度も、切っ先で喉をつかれる。
そして、最後は結局、テスは自分で自分に拳銃を向ける。
きっと、いつかそういう日がくる。だからテスは、護身用の拳銃も短剣も携帯していない。
戦争しなければ王じゃないのか。恨めしく、テスは己を睨む。
だったら、しんじゃえ。
パチン、と何かがはじける音に、テスははっと目を開けた。いつの間にか、寝てしまっていたようだ。
再び熾火がはじける。
「人殺しのあとは、寝ざめが悪いだろ」
焚火の向こうで、流民の男が意地悪く笑っていた。
「だけど、お前は……お前呼ばわりでいいよな?」
「戻らねば」
テスは枯れた声で言った。
「戻っても地獄さね。俺も、お前も」
「いったい……」
愛してやまない女を寝取られた挙句、門限すぎても遊び歩いていたら家の門扉を閉められた。男は冗談のように言っているが、その人の立場でそれは大事件なのではないか、とテスは思ったが、口にはしなかった。
「なぜだ?」
「営利目的の誘拐だ、気にするな。お前があの場に居残るといろいろとまずい」
男は薪をいじって火のそこに風を入れながら、たしかめるようにテスを見つめて言った。
「なぜだ? お前は、少なくとも自分の兵隊を持っていた」
テスの質問に質問で返し、男は低く唸った。
「敵に攻め入られたという自覚はあるか。反乱分子叩きつぶさなければならない自覚はあるか。自分の国という、自覚はあるか」
問われて、テスは「いいえ」とはっきり答えた。
「お前、自分の兵を乗っ取られ、目の前で反逆されたんだぞ」
「……あなたこそ」
テスは言った。男は驚いたように目を丸くして、それから苦々しく眉間をゆがめた。
「それだけ頭の回転が速いのに、なぜだ?」
「愚鈍ゆえ」
テスは、いつかフィーネと見上げるはずだった星空を仰ぐ。
「兵たちはわたしの言うことはきかないし、私兵500よりも城下の民のほうが数が多いと思ったし、敵国ではないのなら恐れることもないと考えた。わたしは、何かをするべきだったのでしょうか」
男は答えなかった。かわりに、ゆっくりと肯いた。
「あちらさんの言い分は、救出作戦だとさ。お前があそこにいると『人質』になって、お前の保護者は国軍を動かす理由ができる。だから、連れ出した。あと、ガキの頃から世話になっている藪医者が、俺と同じ顔の男をあの城で見たというから見に来た」
「物好きな方だ。わたしは、主治医でもない医者かどうかもわからぬ者に診られたくない」
「戦争の、火種になっている自覚はあるか」
テスは、今度は「はい」と肯いた。
「とろこで、火をたいてよかったのですか?」
テスは星のほかにはあかりのない真っ暗な荒野と呼ばれる不毛の岩石地帯を見渡した。
「てっきり、追われる身かと」
「俺はそうだが、あんたは違う」
テスは少し考えてみたが、脳裏をよぎった考えに「知るか」と不意にばかばかしくなって仰向けに地面に倒れた。
「お前さん……」
男はたき火を回り込んでテスの頭の横にしゃがみ、まじまじ、顔を覗き込む。
「抜群に、戦争音痴だ」
「そりゃあ、あの英雄と肩を並べる天才には、わたしはさぞや愚鈍に見えるでしょう」
営利目的といった、と、テスは額を拳で抑えた。先ほどからひどい頭痛がするのだ。
「あなたの、利とは何だ?」
「本物と証明していただき、俺の土地に駐留するあなたの国の兵隊をどかしてほしい」
「わたしが皇帝の座に就けば簡単だな」
「簡単なはずだった。悪い噂は雷鳴より早いぞ。罪のない女を殺して逃げなければな」
「わたしを殺しに来たのだと思った」
「……なぜ?」
「あなたは武芸にも秀でると聞く。勇敢な、多くのすぐれた軍人を見てきたあなたの目には、どのように見えたのか」
「嫌味なガキだな」
「……しかたなかった」
「あんなもん、その辺の衛兵にまかせればよい。この、へなちょこが」
「しかたなかった」
「自分が死ぬのが? しかたなかった、と俺が言ってやったほうがよいか?」
「助命いただき、感謝する」
「生意気な。まだ助かってないぞ。どっちみち皇帝にならなければ死ぬ身だ。経験者の言うことは、聞いておいたほうがいいと思うがなぁ」
「どうすればよいか」
「……かからんな」
男は不意に立ち上がってあたりを見渡した。
「お前さんの言う通りさね。追われる身の上だ。お前さんはともかく、俺はみつかったら殺されるし、まあ、俺の『生き写し』には、俺が生きていると不都合だろうさ。こっちが疲弊するのを待っているな。昔から、いやらしい連中さね」
「あなたは、わたしを助け出さないほうが、都合がよかったはず」
お、と男は片方の眉を跳ね上げた。
「助け出す? ほほう……誘拐犯だぞ、今の俺は。助けてほしかったのか?」
テスは口を引き結び、答えなかった。
「いい星空だ」
「あなたと同じ星を見ることがあるとは、考えもしなかった」
「……仮に、今夜あの星が全部落ちてきて、世界が滅ぶとする。そしたら、お前さん、今から何をする?」
フィーネに会いたい。テスは一瞬口を開きかけて、慌てて言葉をのんだ。
「寝ます。鍛えていないので、あれしきのことで全身、悲鳴を上げている」
必死は誰にとっても全身全霊だ、と彼は言った。
「東に行ってみるか?」
え、とテスは拳をどかして男の顔を見上げた。
「日の出を拝みに行くだけさね。そんな不安そうな顔しなさんな」
なぁ、と、男は大トカゲを振り返り、嘴をかくように撫でていた。
「しょげているかと」
男はテスを振り向き、そっとほほ笑む。それはテスの半生で初めてみる人間の表情だった。
「気丈な。俺がクソガキだったころは、もっと泣き虫だった」
怖くないか、と男は訊ねた。
「恐ろしくて歯の根の合わないほど震えているなら、教えてやろうと思ったが、恐れがないなら知らなくていい」
「教えてくれ。知らなくていいことなんてない」
どんな耳に痛いことを言われるか。テスは、多少なりとも覚悟をした。が、しかし。
「お前さんを助けるって言ったら、劇団や楽団がわらわら集まってきた。お前さんの名前で集めたから、お代はそっち持ちでいいな?」
それを聞いて、テスは慌てて顔の向きを変えた。
思えば、泣き方さえ忘れていた。
ギルフォードは、ユーリは自害したと言っていた。あれは、あきらめさせるための優しい嘘だったのか、それとも枢機卿があえて禍根として残した罠だったのか。あるいは、蹄鉄商会がじわじわと盛り続けた精神的毒薬だったか。
なぁ、ユーリ。ユールヒェン。それでもギルフォードはお前を殺しそびれたぞ。
なぜだかわかるか?
重かった。絶命し、体を支える力を失い、肩にのしかかる死体は、とても重かった。
ただ抱きしめたかっただけだった。殺し合いではなく、愛し合いたかった。
「わが身をなげうってでも生きてほしい人に身を投げうたれるのは、つらいもンさ」
男は人の心を知っているかのように言う。だけど。
「死なれるのが当たり前。それが、戦争なのか?」
振り絞った声は、悲しみよりもくやしさに震えてしまった。
統帥星章にもっともふさわしいと、今なお崇められるあなたでさえもやむを得なかった、戦争犠牲。でも、それは意地悪になってしまうので、テスは言わなかった。
帰らずの玉座が二つある。
一つは主を今なお待ち続け、一つは主たるものに見捨てられた。
「あなたは、どうして我が国を見捨てたのですか」
反省してるよ、と、男は小さく、少し寂しそうに返事をしていた。
*
なんてことをしてくれたのか。
救出したはずの親戚に詰られ、フィーネは目を見開いて閉口した。
あなたは私たちが大切に、大切に、壊さないように守ってきたものを一夜で壊した。
差別や、ともすると暴動の犠牲者になりかねない戦後の国際結婚で、夫を支え、二国の架け橋となり、人と人との軋轢を補修し、破れた信用を繕い、壊れたものをなおしながらも、私たちはたしかに愛し合っていたはず。
予想だにしない言葉に、フィーネは完全に思考停止してしまった。
だってみんなあなたのことかわいそうだって言ったから。
母にとっては妹にあたるその女性を抱きしめる母の姿に、フィーネは、自分には兄弟姉妹がいないことをあらためて悔やんだ。
「わたくしは、間違ったことをしたのでしょうか?」
瞬きもせず、急遽帰国した父と将軍を見つめる。間違ってない、絶対正しい。だってこの人いじめられていたのでしょう? 不幸だったのでしょう?
それとも、幸せだったのですか?
「すぐに退去命令を。国軍として駐留させてはならない」
父はいい、将軍は命令書をフィーネの前に広げ、署名するよう無理やり筆記具を持たせる。
「将軍も、他の軍人たちと、同じなんですね」
フィーネは呆れてにっこり、微笑んだ。はっと、父がフィーネを振り返った。
「わかりました。わたくしの、責任です」
フィーネは、署名はしたが、しかし印は捺さずに将軍に取り上げられるより先に自分で丸めてしっかり握りしめる。
「フィーネ、それを将軍に渡しなさい」
「なぜですか? だってわたくしの『命令』でしょう?」
「フィーネ! わからないのか、これは国の大事な――」
「わかっていないのは、どっちですか!」
フィーネはたまりかねて命令書を机に叩きつけた。
「わたくしの命令です! 間違っていたとしても! それともわたくしは軍部の傀儡ですか? 命令させられたのか、命令したのか! わたくしの意思でなければなりません!」
そう。でなければ、これは軍部の反乱になりかねないから。
「将軍。たってのお願いです。あの元帥章、もう一度だけ貸してください」
フィーネは必死だったが、将軍は「ほほう」と顎を撫でていじわるな笑みを浮かべていた。
「姫殿下は、ご自身の責ゆえ、みずから陣頭指揮を執る、と」
「そうです」
母が血相変えて身を乗り出したが、将軍は「軍事ですぞ」と、母を制した。
「宰相閣下。どう思われますかな?」
父はうめいて額を抑えると「いっそわたしが行くべきだ」と言った。
「似ていますなぁ」
将軍はへらへら笑っている。
「形から入る、とも言いますぞ、宰相閣下」
「ならぬ」
「閣下は反対されていますが、姫殿下はどのようにお考えか」
視界の端で、母が無言で、しかし確実に首を横に振っているのが見えた。フィーネは精一杯の勇気と誠意をもって、「かならず!」と将軍をまっすぐ見上げた。
「かならず、わたくしが鎮圧いたします! わたくしの命令です!」
「もし会敵したら?」
「戦います!」
「……情報が正しければ、戦闘は勃発していません」
「我が国の兵士を引き上げてまいります。指揮官として!」
「姫殿下は……」
将軍は呆れたような、憐れむような、そんな顔をしていた。
「生粋の戦略音痴でいらっしゃる」
父は将軍の言葉に、はっきり、肯いた。
「戦闘が勃発していないこと自体が奇妙です。おそらく、好戦派にとって不測の事故があったのでしょう。それを知るためにも、わたしは現地に向かおうと考えています」
お守りついでに、と、将軍は余計なことを言った。
「やつらがきちんと、姫殿下の『命令』に従ったのなら、たしかに『救出』と認める、と、伝達してください。宰相閣下、申し訳ないですが、いまいちど、最愛の娘をお借りいたしますぞ。よろしいか?」
馬の練習をしておいてよかったですな、と将軍は片目を瞑った。
「うまくいけば、姫殿下を好戦派の抑えに……おっと、失礼。好戦派の将軍たちに、ネフェルオーネ姫に対する忠誠と恭順を誓わせることができます」
「うまくいかなかったら?」
将軍は肩をすくめただけだった。
「フィーネ」
父は、フィーネの肩に両手を置いて、しっかり、見つめる。この国を背負うものの重さを、フィーネもたしかに感じていた。
「しっかりやるのだよ。フィーネならできる。……フィーネにしか、できない」
フィーネは、「はい!」とはっきり覚悟のほどを示した。
道中、フィーネは馬車を使った。まだそんなに長く馬には乗れない。ここぞというときでいい、と将軍は言った。そのかわり、その時だけは馬上にあり、居丈高でなければならない。
城門に入り、自軍の兵を撤退させる、そのときだけは、指揮官でなければならない。
「殿下は、ただ一言、全軍撤収とおっしゃっていただければよい。あとは、わたしが」
ところが、いざそのときになってみると、将軍ははたと口を閉ざし、打ち合わせの通りにはいかなかった。
中立国の元首が、出迎えたからだ。
元首はさも自分の軍隊、自分の城のように、甲冑に身を包み、その後ろに機械のように統率された兵隊を従えているように、フィーネには見えた。
敬礼、と、元首の号令で兵たちが一斉に手をあげたので、フィーネは馬上でたじろぎそうになる。が、馬上なので身動きが取れない。馬が敏感にフィーネの怯懦に反応して逃げ出そうとしたのを、手綱を御す将軍が左手だけでいなして収めた。
「なにゆえ、元首閣下がかようなところに?」
将軍は怪訝そうに眉をひそめて言った。元首は、わずかに小首を傾げ、鷹揚とほほ笑む。
「こちらのセリフです。ネフェルオーネ姫殿下、なにゆえそのような……なんといいましょうか、兵たちは、英雄の再来かと期待してしまうではありませんか」
「城主様はどちらに?」
挑発には乗らず、将軍は訊ねたが、元首は首を横に振った。
「無礼にもほどがありますよ。言いがかりにも大概になさいませ」
「なに、醜く横暴な狂人からわが国大切な姫君をお救い申し上げただけですよ」
「奥様がそのように思われているとは」
「この国の民には、たいそう虐げられたご様子。姫殿下は、親戚の不幸に大変心を痛め、自ら派兵を判断されました」
「お優しい方でいらっしゃる。が、いささか独断がすぎはしませんか? ああ、そういうところも、かの英雄に似ていらっしゃる。そちらのご衣裳は殿下のために仕立てのですか?」
「大変失礼ながら、元首様は、どのような権限があって我々の軍行に干渉なさるのか」
「とんでもない。たまたま旧交をあたために慰問していたところに、こんな無粋な輩に邪魔をされただけですよ」
「話になりませんな。城主様はいずこにおいでか」
「病状がよくありまえん。今は自室でお休みになられています」
「……セルヴァンテス殿下がご滞在のはず」
思いがけない名に、フィーネの胸の奥で心臓がびくりと跳ねた。
テスがここにいる。それだけで心臓が早鐘のように脈打つのを、フィーネはつとめて気にしないよう、無表情を保った。
「……後嗣殿下も、お加減がすぐれません」
フィーネでも嘘とわかる言い訳に、なぜか将軍は何も言わなかった。しばしの沈黙の後。
「……さようでございますか。では、わが軍は、お二方のお体にこれ以上障らぬよう、今すぐ撤収いたします。お騒がせして申し訳ございません、とお伝えください」
かしこまりました、と元首は静かに一礼を返す。
「奥方様におかれましては、ふるさとでご静養いただきますよう、城主様からお言伝をいただいております」
元首は振り返り、兵士の一人に目配せし、書簡を持ってこさせた。それを将軍ではなく、馬上のフィーネに差し出す。
「こちらを。城主様から奥方様へ、離縁状でございます姫殿下のご采配と伺っております」
毒沼の瞳に見据えられ、逆に、フィーネの思考はしんと冴えわたった。
「采配ではなく、命令です。将軍。かわりに受け取ってください」
目もくれず、フィーネは命じた。なぜなら、フィーネはまだ馬上でかがむこともできない。
まっすぐ、かたくなに軍隊を見渡す。
かつての趨勢は、今はもうない。が、その漆黒に世界が震撼したという威容は健在だった。ふ、と頭の芯の熱くなるような、不思議な高揚さえ覚える。なんと美しい隊列。一つの大きなすばらしい完成された巨大な生き物のようだった。
「わが軍に告ぐ!」
自分でも、信じられないほど大きな声が出た。
「目的は達成された! 全軍、撤収!」
その瞬間。何か、見えない糸のような何かが、ピン、と張ったような気がした。兵士ひとりひとりの心が、顔が、わかるような、そんな錯覚。そして、いつもはちっとも目もくれない恐ろしい兵隊たちが、なぜかそのときだけは、フィーネの言葉を聞き入れ、受け入れ、そして、全身全霊、フィーネに応えるだろうと、そんな自信が溢れてきた。
「撤収!」
フィーネの号令を、将軍が復唱したので、兵隊たちがどちらの声にこたえたのかはわからない。が、了解を意味する敬礼が一斉に返ってきて、フィーネはそれを全身で受け止めた。
馬を反転させるとき、将軍は低い声で言った。
「少し、焦りましたぞ」
なぜ、とフィーネは視線で問うた。前を見ているのがやっとで、睥睨するような形になってしまった。将軍はそれを見上げ、狼のように口角を引き上げてほほ笑んだ。
「兵たちの顔つきが変わった。人は見たいものを見る」
好戦派にとって、英雄の再来は待ち望んだ景色だった、と将軍は言った。
「号令が『突撃』ではなくて、情けないことにわたしは安堵しております」
フィーネは将軍の額にうっすら汗の玉が浮いているのを見つけてしまった。
「英雄の亡霊を着こなすとしたら、おそらく……」
しかし、将軍ははたと口を噤んで、ゆっくり確かに首を横に振った。
「どうか、聞かなかったことに」
それきり、将軍は黙ってしまった。覇気だの、王気だの。知るか、と内心フィーネは唾棄していた。服装一つでそんなに誤魔化せるものなら、今までのすべてはなんだったのか。
王とは形骸であるべきだ。ふと、テスの言葉を思い出した。
王とは理想であるべきだ、とフィーネは思う。英雄であることを望まれるなら、そうあるべきなのだ。器じゃないと、将軍は言う。器にあわせるべきだ、と、フィーネは考えていた。
英雄よ。あなたはどうだったのか。
満天の星を見上げる。その一つ一つが、誰かが夢見た栄光だ。
狼王再来。万民の望む姿であれ。英雄を、時代は再び求めている。
「殿下はご存じだろうか」
将軍はたっぷり一呼吸おいて肩越しに振り返った。
「このあたりは、かつて決戦があった場所です。わが国は勝利しましたが、正直、辛勝でした。おっと、この話はあまり後ろの連中には聞かれないほうがよろしいですな」
戦士した英雄の、まさに死地だ。将軍はそう言っているのだ。
「そのときの戦闘で指令とともに賜った指輪が、今、殿下の指にある。……あの時は、形見になるとは、思わなかったのです」
英雄の面影をフィーネに探すとき、将軍は他の軍人たちと違って、寂しそうだった。
「日没を過ぎました。夜間の行軍は危険です。殿下は、野営は初めてですか?」
こんなに近くに寝泊まりして大丈夫なのだろうか、とフィーネは思ったが、百戦錬磨の将軍がいうのだから、それがよいのだろう。
フィーネのために天蓋が用意されたが、急ごしらえの薪の寝台は寝苦しく、結局、一睡もできなかった。
翌早朝、出立の準備であわただしい兵隊たちの間を縫うように、将軍が馬を連れてやってきた。蹄の大きな軍馬ではなく、伝令用の早馬に使う小さな安い馬だ。
「殿下、乗馬の練習をしましょう」
寝不足でむくんだ顔を冷水で洗っていたフィーネは、きょとんと将軍を振り返った。顔を拭く間もあらばこそ。将軍はぐいとフィーネを抱き上げて鞍に乗せた。
「殿下、片鞍ではだめですよ。あと、少し前に詰めていただけますか?」
いうや、将軍はひらりとフィーネの後ろに飛び乗った。途端。将軍は前触れなく馬に鞭を入れ、驚いた馬は落雷のごとく走り始めた。
ひゃ、とフィーネは小さく悲鳴を上げて、初めて体感する馬の全速力に目を回し、鞍に必死にしがみついて身を伏せていた。
「お見事です!」
将軍は呵々と笑っている。
「戦場を駆けるときには狙い撃ちや流れ弾を避けて、そのように身をかがめるのですよ! 教えずともできる殿下は、さすが先王の孫、戦士の血族だ!」
夜明けはまだか。フィーネは祈る気持ちで少し光の見え始めた東の地平を見やった。
失敗は唐突に。そして、再会もまた、唐突に。
*
東に向かうといっても、どの街道も警邏が配備されている、とテスは言った。自称、流民風情は、だから荒野にいる、と言っていた。
それから、なにを考えているのか乗っていた大トカゲの装備を解くと、それらを焚火にくべてしまった。彼はトカゲの額に自分の額を押し当て、しばらく祈るように目を閉ざしていたが、やがてそっと離れた。トカゲは長い尾をしならせ鼻先を変えると、そのまま夜明けの大地へとかけ去っていった。
「よいのか?」
足を失い、荒野にぽつねんと取り残される。男は「古い習わしさね」と、名残惜しそうにトカゲの背中を見送っていた。
「あいつらはある日突然やってきて、主が死ぬと荒野に帰る。帰らじの旅のときには自分から放す。戻ってきた時にはあっちからやってくる。そういう生き物だよ」
馬にかわる騎獣を手放す理由が、テスにはわからなかった。
「少し歩くが、歩けるか?」
男はテスの足元を見て言った。しゃれた靴なので足に合わないのだが、歩く以外に方法がないのなら仕方ない。テスは男のいう「少し」を信じてうなずいた。
ほどなく、舗装のない荒野の「少し」が山道と同じだと気づいて、テスは恨めしく野の獣のように岩間をたやすく渡り歩く親子ほども年上の男をにらんでいた。
やっと小さな集落が見えたころには、足は血豆でボロボロになっていた。ほうほうのていどころか、朦朧とする意識でなかば倒れこむように、一軒の古い酒場にいざなわれる。軒先に石のカエルの置物があって、甕には水をたたえていた。羽振りがよいらしい。劇団員たちに紛れて市井を散策していたときに教えてもらった。
桶にいっぱい水をもらい、足の手当てをしている時だった。突然馬で乗り付け、乱暴に戸を蹴り破る勢いで「今日は貸し切りだ!」と叫ぶものがあった。
軍服だったので、テスはてっきり自分を捕まえにきたのだと、しばし息を止めた。
が、稔る穂波のような黄金の髪に、はっと目を奪われる。フィーネだった。テスはとても驚いたが、テスよりも、流民の男のほうが、衝撃が大きかったようだ。
さっと青ざめ、顔を強張らせていたが、フィーネと目があうと、なにやらほっとしたように肩の力を抜き、悪い夢からさめたように目頭をこすっていた。
テスは、ゆっくりと瞬きを一つ。
中立国の元首と、隣国の大将軍がいる。フィーネがいる理由はわからなかった。
もう一つ、瞬きをする。
世が世なら、ここにいる全員が敵の内通者で密告者で、密偵だ。しかも三重の。
どっと、詰めていた息を吐きだす。てっきり銃殺刑になるものかと。と、テスが冗談を言ったら、どちらの大人たちもぎょっと目をむいていた。
「ひさしぶりです。まさかこんなところでお会いするとは」
テスが苦笑すると、フィーネはしきりに瞬きを繰り返し、見間違いや幻ではないことを確かめるようにゆっくりかたずをのむと「ごきげんよう」と小さく膝を折った。
「ご紹介します、殿下。こちらが血統書付きのぼんくらにございます。殿下、こちらは由緒正しき駄犬にございます」
将軍に「殿下」と呼ばれ、テスもフィーネも、お互い顔を見合わせた。
再会を祝う間もなく、将軍は無遠慮にテスの向かいの椅子を引いてどっかり腰を下ろして、横柄に腕を組んで睥睨する。
「お手並み拝見といこうじゃないか。えぇ?」
将軍は流民の男がテスを気遣って持ってきた一杯の水をひったくって、自分で飲んでしまった。尋問だとしたら、ずいぶんと簡単で効果的なことだ。
「……無礼な」
テスは将軍ではなくフィーネを見て言ったのだが、フィーネは慌てて首を横に振った。
「わたくしも……こんな将軍は初めて見ます……」
俺はよく知ってるけどな、と流民訛が背後から聞こえた。
「ここは俺の店だ。珍客に水の一杯くらいおごってやらんでもないが、お前がそれにふさわしいかどうか」
テスはいよいよ渇きと疲労でかすむ視界で、まじまじ、目の前の軍人を見上げる。
「なに、ただの知恵比べさね」
にやにやしながら元中立国家元首は青い瞳を細めてテスの座る椅子の背に両手を置いた。
「まったく、なんてもん持ち出すンだ。俺ぁ、幽霊かと」
「幽霊でも出てきてほしい事態になったものでな。許せ」
それは俺のものじゃないよ、と男は鼻で笑っていた。
「どう思う?」
「知らンがな。よそんちの都合さね。俺は自分の仕事で手一杯だ」
「誘拐が仕事か?」
「そっちは子守が仕事だろうが」
「……袖振り合うも他生の縁と言うだろう?」
「これが、多少とな」
男は、盥に足を突っ込んだままのテスと、どこにいればいいのかわからない様子のフィーネを交互に見比べる。
「なんなら二人ともうちにくるか?」
中立国の元首としてなら、おそらく正しいのだろう。が、テスは小さくため息をつき、この場でもっとも公用と思しきフィーネの国の言葉で言い返した。
「お気持ちだけ受け取っておきますよ。締め出されたくせに」
お、と、将軍が身を乗り出した。
「うまいもんだな」
血豆の手当てと、それから今後悪化しないように保護もかねて自分で包帯を巻いているテスの顔を覗き込み、将軍は言った。
「……ありがとうございます。あなたが一晩軍を城の目の前に停めたから、我々は夜襲を免れた。わたしが城主なら一兵も出せない」
それから、テスはフィーネを見やり、そっと言った。
「撤収命令が早かったから、王宮は我々を見逃した」
ふいに、将軍が唸った。値踏みするような目つきには慣れているつもりだったが、その時のテスは、非常に……そう、ずいぶんと珍しく、不機嫌だった。
「水を一杯いただけないか。干からびて死にそうだ」
将軍は意地悪く口元を緩めて「お代は?」と、まめだらけのテスの足元を見つめた。
「おう、俺が払うンで、金貸してくれ」
流民の男は容赦なく手のひらを差し出して請求していた。
「身なりがよすぎるンだよ、お二人とも。とくに、お嬢さん。あんたのそれはダメだ」
男の口ぶりが、少しだけ冷ややかになった。
水路がある、と将軍は言った。
「陸路は全滅だ。とくに中立国が封鎖されてしまっては抜け道もない」
だったら水路もダメだろう、とテスは思った。が、フィーネはそうは思わなかったらしい。
「将軍、あの船乗りはいかがお過ごしでしょうか」
ご明察、と将軍はうなずいた。
「船籍不明でも拿捕されない船をご存知か。幽霊船は捕まらない」
将軍の命の恩人なのですよ、とフィーネは言った。海向こうの王家の勲章と、蹄鉄商会の会員証と、将軍の名前の特別通行許可を持っているという。
「それに、不思議なことに、その船は船長がたった一人で操船しているらしいのです」
声を弾ませるフィーネに、テスは首を傾げ、そして、気づいた。
「あの……おそらく、俺の予感では……きっと、あなたも『亡命』することになる」
え、とフィーネは笑顔のまま表情を凍らせていた。やはり彼女は、テスを逃がすために協力している立場だと認識していたらしい。
「これ以上、好戦派に夢見がちなことを言わせるべきではない」
将軍はふいに軍人の顔に戻って言った。
「お二人の殿下には、不可侵について今一度、国家に確認していただきたい」
「難しい話はいいんじゃないか?」
へらりと流民に落ちぶれた男は言った。落ちぶれたわりには、彼が一番楽しそうだった。
「突然沸いて出てきた休暇さね。俺ぁ、そう思っている」
お前らはどう思う? と、王族に対して気安い元王様はテスとフィーネ、それぞれの方に左右の手を置く。テスは軽くその手を払いのけて盛大に眉をしかめた。
「わたしはオッサンほど能天気にはなれぬ」
「オッサン!?」
「仮に広間にて大声で御名を呼んでも差し支えないか?」
このクソガキ、と、大人げない様子なので、やっぱりこいつはオッサンでいい、とテスは遠慮を全部捨てた。こうなってしまってはいたしかたないという諦念を通り越し、テスは、少しだけ高揚を覚えていた。
フィーネがこんなに近くにいる。それだけで、血塗られた肩の重さが少し軽くなった。
「危なかったんだぞ」
ぼんくらと駄犬のせいで、戦争勃発するかと思った。将軍はそう言った。
「そうなってしまったら、わたくしはあなたの敵ですね」
小さな木の机を挟んで対面に座るフィーネに言われて、テスは、少しだけ胸に鋭い痛みを覚えた。
きっといつかそういう日が来る。死体を積み上げ玉座につく。それが皇帝だとしたら、きっと、あの夢はいつか正夢になる。その時フィーネを敵と指さすことになる。
でも今はそうならない。そうならなかった。今は、フィーネは軍服ではなく平民の旅装に身を包んでいる。自分もそうだ。テスは旅用の丈夫な靴の紐を締めながら、もしこれが軍靴だったらまめが痛くて履けないと言おうと思いついた。
「ふむ。これなら……」
これなら、ちっとも。
テスは靴の中で足の指が動くのを確かめる。
「これなら歩けそうだ」
もうちょい丈夫になろうな、と、どちらの大人にも言われてしまった。
「俺はお尋ね者だけど」
オッサンは見向きもせずに言った。
「あなたは、お尋ねる側だ。周囲になんと言い訳するつもりだ?」
将軍は上着の内側から煙草を取り出して、勝手に店の煙草入の箱から失敬しながら「仮病も伝家の宝刀だ」と答えていた。そういえば、父の形見の煙草入れを城に置いてきてしまったな、と、テスはぼんやり思い出した。
「それに……」
ほの暗い天井に向けて煙を吐くさまは、洞窟にうずくまる竜のようだった。
「この辺では司令官がよく消える。亡霊にさらわれたとでも言えば納得するか?」
銀髪の前髪の影で、オッサンはわずかに眉を寄せていた。
「王女を乗せた馬車が途中で消えた。なに、よくある話だ」
よくあるどころか、身に覚えがあるよ。オッサンは肩をすくめただけだった。
*
中立国側の交易路が封鎖されたせいで、東の街道は商人たちの行列で混んでいる、とオッサンが言っていた。さらに、行方不明の王女を探して検問しているせいで、すっかり渋滞していた。見つかってしまう、とフィーネは心配したが「一部の荷馬車を除くすべてを調べればいい」とテスは言っていた。
たしかに、検問するのが将軍なら、それが一番通過しやすい。
「このまままっすぐ南下すると港です。ご武運を」
荷物を調べるふりをして幌を覗き込んだ将軍が、小声でフィーネたちの無事を祈ってくれた。湖水地方の独立と、丘陵地の領有の再確認。簡単に言えば、あなたの国の兵隊をどかしてください、と言いに行くのが、フィーネの役目だった。
「撤退していなければ、お前たちこそって言われてたな」
オッサンはこともなげに御者席で日よけ布を巻きなおしながら言っていた。
荷台に揺られること半日。轍の凹凸にいちいち上下左右にぽんぽん跳ねながら、フィーネは酔って何度かもどしてしまったが、テスは気にならないのか、あるいはよっぽど疲れていたのか、ずっと昏睡していた。
「お嬢もそこのぼんくら見習って寝てればいいのに」
オッサンの言うとおりだった。港につくころには、フィーネはすっかり疲労困憊し、ぐったりと縁石に腰かけてテスに背中をさすってもらっていた。
川面に夕日が反射して、たくさんの灯のように輝いていた。そのきらきらさんざめく光を目で追い、ふと、対岸を覆う葦が揺れているのに気づく。じっと見つめていると、大きな黒い犬が、ぬっと葦の根元から顔を出して、水を飲み始めた。
いや、あれは、狼か?
こんな町中に、と、フィーネがよく見ようと身を乗り出したときだった。川面を滑るようにやってくる帆船が一隻。器用に風を読んで河を遡上してくる。
一瞬だった。フィーネが再び葦原に目を向けると、そこには狼の姿はなく、黒い翅に青緑の糸のように細いからだの羽虫が水面を跳ねていた。
「あれ? あのチンピラじゃねぇのか?」
ふと、頭上から声が降ってきた。見上げると、船の舳から男が一人、こちらを見下ろして手を振っていた。が、ふと自らの口をふさぐと、そそくさと甲板に降りて舫を投げて寄越した。オッサンはそれを慣れた様子で係留し、船上の人物に「よぉ」と手を振り返していた。
「うるさいなぁ、ちょっと黙っててよ」
男は誰もいない背後を振り返って、忌々しそうに顔をしかめている。
「相方も元気そうで何より」
オッサンは、ちょっと様子のおかしい隻眼の男に笑いかけ、握手していた。
「貨物船、連絡船、なにもなければ幽霊船。遊覧船ははじめてだ!」
隻眼の男は揚々と両手でオッサンの手を握りしめていたが、ふと、手を放すと、慌てた様子で「失礼しました」と頭を下げていた。
「流民風情に敬礼してくれるな、もと歩兵よ」
「……今日は、いつもより不安定でして……」
ふと、オッサンがこちらを振り返った。
「こちらが、船長。船長しかいない。ちょっと変なのは持病のせいな。いい人だよ」
フィーネは隻眼の男の腰に括りつけられた瓶の中の魚と、男の眼帯を、まじまじ凝視して、かろうじて、礼儀を思い出して軽く膝を折り、服の裾をつまんで一礼を返した。
瓶の中で魚がくるりと宙返りを打つ。
「げっ。お姫様だ。本物のお姫様だ!」
隻眼の男はのけぞり、それから何かを振り払うように頭をぶんぶん横に振った。
「いい加減にしてれ! ……すみません、今日は本当に、調子が悪い」
むしろ絶好調、と同じ口で違うことを叫ぶ男は、フィーネの目には、狂人の類に思えた。
「ねぇさんは?」
「遡上する途中で捕まりまして」
「それはよかった。俺はあのオバサンが昔から苦手なんだよ。西が鷹を呼び戻したらしい。丘では戦争でも始まるのかと噂してるよ。海はどうだ?」
「天気晴朗なれど波高しってところですね。砲弾の打ち合いなら乗船お断りですよ」
「もっとも流れ弾があたらない幸運な船と聞いた。丘より安全さね」
「交渉成立。どうぞ乗ってください」
隻眼の男は、オッサンから袋ごと小銭を受け取っていた。
「ちょっと買い出しに行ってきますから、乗って中で待っててください」
隻眼の男の言葉に、テスが怪訝そうに眉を寄せた。
「よいのか。我々が船を盗むかもしれないぞ」
「ご自由に」
船長は、余裕しゃくしゃく両手を大きく広げた。途端。帆がわっと翼のように広がる。船にはひとっこ一人いないというのに。
「操船技術に自信がおありなら、川底との距離も水流に逆らう風も、読めるはずですよ」
どっちみち三人じゃ船は動かせない、とフィーネは思った。いや、だったら一人だったらもっと船は動かせない。やっと気づいて、フィーネは顔から血の気が引いていった。
「いっそお客さんが見張っていてください。お腹すいてます? なにかおいしいもの買ってきますよ。お尋ねものには弁当の買い出しもできないでしょうから」
隻眼の男の背中を十分見送ってから、オッサンは小声で「変な人だろ?」と言った。テスははっきりうなずき、フィーネはあいまいに首をかしげるにとどめた。
「生来、つかいっぱしりが身に染みついているらしい」
ふと、水音がしたので水面をみやる。真っ白い大きな魚の背びれが一瞬だけ見えて、再び水底に隠れた。人魚かもしれない。ふと、そんなことを思った。
テスはしきりに船員がいないことを気にしていたけれど、フィーネは、そういうこともあるわね、と、初めて乗る帆船をあちこち見て回った。海兵は不衛生で船はカビくさいと話には聞いていたけれど、清潔で明るい印象の、美しい帆船だった。
日没、空が紫紺に落ち着き、人家に明かりがつきはじめた頃、なんの前触れもなく唐突に主帆が立ち上がった。フィーネはぎょっとそれを見上げ、一方、オッサンがやおら立ち上がると、桟橋に飛び移り舫を解き始めた。船底からはなにやら地響きのような音が……。
「出航だ」
テスが舳から身を乗り出した。オッサンはそつなく飛び乗ったが、船長がまだ戻ってきていない。と、思った矢先、角を曲がって荷物を抱え、猛然と駆けつける隻眼の男の姿が。そのあとをフィーネの国の兵隊が追いかけてくる。オッサンが「いっ」と小さくうめいて顔を強張らせていた。「伏せて!」テスに言われ、フィーネは慌てて頭を抱えてしゃがんだ。
ふと、ギルフォードのことを思い出した。
隻眼の男は荷物を投げ入れ、自分も間一髪、舳にしがみつく。船は静かに水流にのって速力を得、駆け始めていた。
「なにしでかした?」
「いえ、許可証と間違えて異国の星章を出してしまいまして、船籍がないのがばれてしまって密航を疑われたんです。三つも持っていると紛らわしくて!」
そうだとしたらフィーネの国の衛兵は優秀だ。実際、全員、密航者だ。
「通報されたら寄る辺がないぞ」
「その時には蹄鉄商会の工廠に停泊しますよ」
こざかしいな、とオッサンは苦笑していた。
「河は水が重くてぬめぬめしてて気持ち悪いから嫌だったけど……」
隻眼の男はテスとフィーネを手招きして呼び寄せ、抱きしめていた紙包を開いて見せた。
「丘にはこれがある。とくに焼きたては海にはない御馳走だ!」
少し変形してはいるが、湯気のたつ焼包にフィーネはぱっと顔を輝かせた。
「甘いのもあるよ。糖蜜で煮た林檎の入っているやつ」
船長権限だ、と、隻眼の男はフィーネに手渡してくれた。「感謝します」とフィーネがお礼を言うと、男は片方しかない目でまじまじ、フィーネを見つめていた。
疲れた体には、糖蜜の甘さと温かな食感がよく染みわたる。夢中でほおばり、フィーネは自分が空腹だったことを思い出した。お腹にものを入れたからか、どっと疲れが押し寄せて、フィーネは船の上で舟をこぎ始めた。
「使っていない寝台があるから、よかったらどうぞ」
テスは「結構」とはっきり断っていたが、フィーネはお言葉にあまえて、少し休ませてもらうことにした。なんと無防備な、と自分でもそう思ったが、不思議と怖いと思わなかった。船のおおらかな揺れに身を任せ、フィーネは、とても久しぶりに安眠することができた。
この船は優しい気配がする。寝入りばな、フィーネはふと、そんなことを思った。
夜半、フィーネはふと目を覚まして船室を出てみて、驚いた。
天にも眼下にも、一面の星月夜。
わぁ、と感嘆し、舳に駆け寄る。海に出たよ、と声が聞こえた。振り向くと、テスが甲板に大の字に寝転がっていた。
「一国の王子がなんと行儀悪い」
フィーネの思っていることを、テスは口にして自嘲気味に笑っていた。
「今は、誰でもないし、何者でもないよ。国土もなければ民もない。ただの……そうだな、だたの俺だよ。フィーネと呼んでも?」
ええ、とフィーネは肯き、テスの傍らにそっと座った。
「なんで俺たち、一緒に星を眺めているのだろうな」
逃げたからだわ、とフィーネは思ったが、言わなかった。
「……どうして軍を動かしたのか、訊いても?」
「親戚として手を打たねばならないと思いました」
「たとえばそれがきっかけで、戦争になっても?」
「そうなったら、わたくしとあなたは、敵ですね」
「敵にならない方法を考えていたのだ。俺は……いや、こんな話やめよう」
テスは寝返りを打った。ぐっと顔が近くなり、慌ててフィーネは顔を背けた。どうしよう。なにを話したらいいのか、どこを見たらいいのか、わからない。
「フィーネはどうしてここに?」
「わたくしは、派兵してしまった兵隊を撤収し、戻る途中で将軍に……思い出してみると、わたくし、誘拐されているのでしょうか」
「派兵してしまった?」
テスは、フィーネの失敗に気づいたらしい。フィーネは口をつぐんだ。
「……俺は……俺も、誘拐だな。身代金はオッサンの助命嘆願らしい」
「よく抜け出せましたね」
「運がよかった。城下に旅芸人の団体がなぜか一気に押し寄せて、混乱に乗じて紛れ込んだ。そちらの軍隊があともうちょっと早く到着していたら、関門を封鎖されていたな」
そんな偶然が、重なるものだろうか。フィーネは訝しく思ったが、なにを疑えばいいのか、よくわらなかった。
いつだって、偶然と必然は半々だ。
ふと、会話が途絶えた。たっぷり一呼吸おいた後。
「俺は、フィーネに謝らなければならないと思っていた」
テスは唐突に口走った。
首のやけどのことだろうか。それとも……。
「わたくしの国の兵隊があなたの実父を射殺したことについては、こちらにも非があります」
テスはかすかに身じろいだ。その拍子に、襟元から首飾りが零れ落ちた。
「フィーネは、俺と違ってしっかりしている」
「ギルフォードのことは……残念でした」
「ギルフォードだけじゃなかった」
「なにがあったか、伺っても?」
「首のやけど」
はっと、フィーネの胸に鋭い痛みが走った。
「残ってしまったな」
「わたくしの不徳ゆえ、あなたのせいではないわ」
「俺は今でも考えている。ずっと。やるべきじゃなかったと、後悔することばかりだ。でも、だからと言って何もしなければよかったのかというと、それでも俺は、失いたくない人を失い続けている。ではどうすればよかったのか。ずっと考えている」
フィーネは不吉な骨壺の柄の装飾品を見つめた。
「それは……」
「これはお墓だよ。墓にも入れなかった、俺のせいで死んだ人たちの墓」
一つはきっと、ギルフォードのものだろう。なんとなく、もう一つについて、フィーネは聞かないほうがよいと思った。どちらかというと、聞きたくない。
「俺はずっとずっと、考えている。父も、この二人も、死ぬことなかった」
「大切な人の死の痛みは、生きていく人を支えると、聞いたことがあります」
「だったら、生きて支えてほしかった!」
急にテスが声を荒げたので、フィーネは驚いた。
「……すまぬ、大きな声を出すつもりは、なかった」
いいえ、とフィーネは胸をなでおろし、それから、テスと背中合わせになるように自分も思い切って甲板に寝転んでみた。瞬く星々は語らない。
「死ぬ必要は、なかった」
テスは、かすかに震えていた。ひとりぼっちなのだな、とフィーネは思った。そして、もしたとえばフィーネがあのとき「突撃」と命令していたら、将軍を失っていたかもしれないと気づいて、自分も震えが止まらなくなった。
「死ぬことなかったのにっ……!」
「……わたくしたちにできることは、大切な人が死なない方法を考えることです」
あるいは父だった。あの時の将軍の言葉は、あとから楔のようにフィーネの良心に重く鋭く、突き刺さっていた。
横向きからあおむけに、体をひねったときだ。たまたま、テスの手に、フィーネの手が重なった。テスが問うように、かすかに小指を絡めたので、フィーネは、肯くかわりに彼の指の間に、そっと自分の指を添わせた。
「王とは形骸だ」
テスはいつものように言った。
「だけど、わたくしたちはどうしようもなく人間よ」
それをたしかめるように、テスはフィーネの手を強く、痛いほど強く握った。
「フィーネが死んじゃったら、嫌だ」
幼い子供のように、テスは淡く息を吐いた。
「あなたが……テスが、敵になったら、嫌よ」
結ぶ。幾千と月と星が見守ってきた、人と人。結ばれなかったものもいる。添い遂げる幸せを空想する。誰かにとってはたやすく、誰かにとっては永久にかなわない。
本当の気持ちを言える、ただそれだけの時間だった。船が岸につくころには、また虚飾と欺瞞で武装しなければならなくなる。
あと少しだけ。
星は遠く、人はこれほどにも近い。
「俺は、いつからか……ギルフォードを亡くしてからはなおさら、自分は空虚であるべきだと、そう思うようになっていたよ」
「わたくしは、どんどん自分に別の人の人生が……あの英雄の影が入り込んでくるように感じて、いっそそうあるべきなのか迷っています」
だけど、こんなにも人間だ。形骸でもなければ英雄でもない。ただの人だ。
些細な事に恐れおののき、些末なことに喜び、怒り、傷つき、励まされる。
「どうあるべきだろうか」
「わかりません。わかりませんが……わたくしは、もう少しだけ、テスと一緒にこの星空を見ていたいと願っています」
「ごもっともだ。万民の幸福や世界平和なんぞよりも……」
ふと、テスは握った手を持ち上げ、自らの胸に押し当てた。
「フィーネと一緒に暮らす方法を考えたい」
やっと笑った、とフィーネは思った。子供のころから、フィーネはテスの笑顔をほとんど見たことがなかった。
やっと人間だ。
フィーネもつられてほほ笑み、テスの肩に自分の額を押し当てた。
天満の星のその間隙。かなわなかった夢と、かなえたい夢の、ど真ん中。運命なんかに比べれば、彼らはとても小さくて脆弱だった。
つづく