狼王記イースサーガ
2
枢機卿のいう田舎の城というのは、言葉ほど優雅なものではなかった。
テスには母方の叔父がいる。生まれてこのかた、会ったことはない。先帝の三人の息子の中で、唯一残った王子だったが、心を病んで王宮から追放され、王位継承権とひきかえに山奥に居城を構えた。構えたというよりかは、枢機卿が作った檻にぶち込まれた。
取り巻きがいないだけ、王宮よりかはマシだと思ったのだ。ところが、実情は毎日毎日、兵隊たちの怒鳴り声のような号令と大砲の練習で、頭痛の絶えぬ日々となった。
嫌味か。テスは王宮から送られてきた国費の内約に眉をひそめていた。
一括、王子の遊行費とは、どういう了見か。もっとも、舟遊びも遊行費だったのだから、それが実弾になっただけの話だった。これで500の兵を運営しろと言うのか。テスは一瞬、頭の中で金額の配分を算出しかけて、しかし、やってられるか、と書類を放り投げた。
知るか。
今まで自分の言葉を聞き入れなかった奴らに出す指示はない。
あんなに実弾ぶっぱなして騒いでいたら、そのうち食費がなくなるぞ。
案の定、テスがやってきてから一週間もしないうちに、兵士たちは飢えはじめた様子だった。しかし、テス自身は三食きちんと食事を出されるので、窓の外で兵隊どもが木の根を掘ってかじっていても、見て見ぬふりをしていた。
テスは兵隊の粗野で横暴なところが嫌いだった。そして、楽隊や劇団の優雅で明朗なところが好きだった。少なくとも、華やかな踊りや明るい音楽に囲まれているうちは、落ち込まずに済んだのだ。
遊行費だろうが。遊びに使ってなにが悪いか。
たしなめるものを失っても、テスは心のどこかで自分に言い訳をしていた。
それでも時々、ふとした拍子に、思い出しては立ち止まる。たとえば、かつてのように楽器の箱に隠れてあのうるさい連中から逃れようと思って「おい、いくぞ」と振り返ってしまい、もうそこに侍従の姿がなく、だれもついてきてはくれないことを思い知り、愕然と一人、途方に暮れることがあった。
ギルフォードが死んだことを、テスは、できるだけ思い出さないようにしていた。
ある日のことだった。兵隊たちが酒とあたたかい食事を囲んで騒いでいたので、テスは給仕の娘を呼び止めて事情を聴いた。王宮の侍女ではなく、もともとこの城にいた者で、テスの身の回りも、彼女たちが世話をしていた。
城主の令室が連れてきた侍女たちである。もとはと言えば隣国の末の王女で、フィーネの母、現宰相閣下の妹君である。終戦と友好の証に送られた「記念品」だ。
城に来た日も、テスに応対しはのは彼女であった。城主は病を理由に面会謝絶で、未だに、テスはその姿を見たことさえなかった。ひょっとしたら死んでいるかもしれない、とさえ疑っていた。城主の令室は美しかったが、やつれて虚ろな様子で、硝子の杯を傾けていた。
その元姫君が、飢えた兵隊たちをあわれんで、嫁入り道具の一部を売って酒と食料に替えたという。故郷の生母の形見の真珠の髪飾りまで手放したのだと、侍女になじられた。
知るか。そんなことより、持続可能かどうかだ。一度高い餌食うと味を覚えてしまい、質が下がったとわめきだす。どうしたものかな、と考えあぐねていると、不意に、冷や水を顔面にぶっかけられた。
「この人でなし! どうせ何も感じないんでしょ!?」
怒鳴られ、テスはゆっくりと目を瞬いた。顔を真っ赤にして怒っていた侍女は、自分がしでかしたことに気付いて、今度は真っ青になってひれ伏し、罪を詫びながら震えていた。
そんなにおびえるならやなきゃいいのに。テスは思ったが、思い返せば、こんなに後悔するくらいならやらなければよかったことのせいで父もギルフォードも失い、フィーネも傷つけてしまった。だいたい、人は予測のできなかったことで失敗するものだ。
たしかに、もうちょっとほっといたら暴動になっていただろうな、とテスは濡れたまま、しばし、ひれ伏す侍女のまとめ髪のリボンの結び目を、ぼーっと見つめていた。
「命拾いしたな」
自分が。テスは言い、近くの井戸までゆくと、桶に水をくみ上げ、そして、侍女にぶちまけた。そして、兵たちの酒宴にも届くよう声をはりあげ「よくもやったな!」と叫び、自らも派手に頭から水を被った。びしょ濡れだ。
何事かと駆け付けた兵隊の一人を振り返り、テスは「水遊びだ。お前らもどうだ」と声をかけたが、あきれたように肩をすくめられてしまった。
城主の奥方は母の形見の宝石を売ってまで兵たちをあわれみ腹いっぱい食わせてくれたが、そのとき王子は奥方の侍女と水遊びをしていた、という悪評は、濡れた服を着替えるよりも早く、全兵に行き渡った。
その夜、テスは御令室に呼ばれた。
詫びと礼を言われたが、ちっとも耳に入ってこなかった。
「この者は、わたくしの花嫁衣裳の着付けをしてくれた者です」
殿下を誤解していたようです、と彼女は言った。さて、なんと言えばよいだろうか。テスは考え、勝手なことをしないでくれというなら自分で兵の世話をしたらどうだ、と自分で自分に返事をしてしまい、押し黙っていた。
「怒っていらっしゃいますか?」
怒り方も忘れてしまった。テスは、なんとなく、この女性が苦手だと感じていた。親戚だからだろうか、フィーネを思い出す。
「ここではおしゃべりしてくれる者が少なくて困りますわ。大事なお茶のみ友達を失うところでした。お前も、軽率なことをしてはいけませんよ」
奥方は侍女に微笑みかけ、杯を傾けたが、すでに干していて、注ぐように件の侍女に合図したが、侍女は水差しから真水を注いだだけだった。
「この無礼者め」
奥方はころころ笑って、真水を美酒のように楽しんでいた。
「殿下は、ここがお嫌い?」
嫌いというよりかは、王宮よりもよっぽど自由だと、テスは答えた。
「兵隊たちに囲まれて城に閉じ込められているのが、自由なのですか?」
兵隊さえいなければもっと自由ですが、あっという間に焼き討ちにあうだろうな、とテスは考え、そういう意味では十分、彼らの砲台演習は役に立っていた。
「わたくしは、自分は素敵な殿方と恋に落ち、そして、幸せな花嫁になるのだと、娘時分には夢をみておりました」
だけど現実は違った、と奥方は言った。
「国境を越え、引き渡しのためのお屋敷で、すべて、下着までこちらの国のものに着替えるよう、兵隊たちに言われた日のことを、今でも覚えています」
へんなものを持ち込まれては困るし、終戦直後は、今よりもっと蔑視がひどかった。隣国の姫は大切な友達だから尊敬して仲良くしてあげなければならない、と教えなければならないほどには、テスの国の国民はばかだった。
「そして、汚物の入ったバケツをぶちまけられ、荷馬車に乗せられ、安酒をいっぱい渡され、そして、城下町の広場の柱に括り付けられ、笑いものにされました。この国では、花嫁が幸せになるためのおまじないだというのですが、本当ですか?」
だとしたら、この地方にのみ伝わる独特のまじないだ、とテスは答えた。
「まぁ、では殿下は、わが夫が嘘つきとおっしゃるのですか?」
良い嘘まで否定することもない。テスは「失礼しました」とだけ言った。
「あの時、私はてっきり夫は私を助けにきてくれたのだと、そう思い、生涯この方を尊敬し、愛そうと、そう誓ったのですが、でもやっぱり、ここにいると少し、さびしいのです」
叔父夫婦に子がいないので、テスは枢機卿の養子に抜擢されてしまったのだ。雌犬の子なんぞ……という声も、聞こえなくもない。かつての敵国の末の王女の子よりも、たしかに、テスのほうが面倒はないのだろう。本来もっとも皇帝を継ぐべきだった王子に、継承権を放棄させたのは、北領、今は中立独立国の元首と枢機卿らだと聞いている。
「この者は、せっかく着飾った花嫁衣裳が汚れてしまったと、私のために泣いてくれた優しい人たちのうちの一人です。もし兵隊たちが怒って殿下をつるし上げようものなら、わたくしどもも、無事では済みますまい」
この城と城下の民は、この奥方でもっている。テスは確信した。
「わたくしにとっては下僕ではなく大切な数少ない友人です。お近づきの証として、どうか、殿下のお傍に。本人の希望でもありますゆえ、何卒」
深くこうべを垂れる奥方と侍女に、テスは困り果てた。なにかの罠だ、と思った。頭痛を覚え、うめいて額を抑えたが、花嫁衣裳を知ってなお断るに足る理由を、テスは考え付くことができなかった。
失敗というのは、いつも思いがけないものだ。テスは早々、奥方から払い下げられた侍女予想以上にうるさくて、まだ大砲のほうがましだと、さらに頭を痛める羽目になった。
あの英雄は。かの英雄は。その英雄は。わかったのは、テスたちにとっては暴虐と冷酷と不条理そのものとして恐れられた魔狼の軍勢も、その国にとっては憧憬であり、名誉であり、伝説だ、ということだった。
今のテスよりもっと若いころ、自ら砦にこもり兵を鍛え、同じ釜の飯を食い、同じ訓練をし、兵たちと同じように雪の中で寝て、射撃の名手で、演説は神のごとく……。
うるせぇ、知るか。テスはたまりかねて、押しかけ侍女が夢見心地で語る英雄が砦時代に兵たちとともに食したという、豆と鶏肉と三等穀の粥を、厨に命じて二週間、女中にも兵隊にも分け隔てなく強制的に食わせた。自分は城主とその奥方と同じく、豪勢な食事を続けた。
「弾を減らすか、このまま戦前の狗どもと同じものを食わされるかどちらか選べ」
しかも一日一食だ。そう脅したら、大砲の演習をやめてくれた。
テスはかわらず、無駄な鉄砲玉を減らしては劇団や楽団に寄付を送り続けた。ちょっとくらいはユーリの手向けのつもりも、あったかもしれない。そしてテスは、以前にも増して頻繁に、役者や楽器になりすまして城下町を出歩くようになっていた。劇団員の衣装に使う反物を卸している商人の家の倉庫や、楽隊の楽器工房の資材置き場の半地下が、テスの主な「商談」の会議室だった。
「埃っぽくてかないませんわ」
銀髪碧眼の少女がわざとらしく咳をして言った。蹄鉄商会という。戦中、あるいは戦後も海路を使って武器を売りつけていたそうだが、テスの国とフィーネの国の講和以降、めっきり商売相手が減ってしまって、今は主に薬を商いにしていると自称しているが……。
「酒は万薬の長といいますから」
と、にっこり琥珀色の液体の入った瓶に頬ずりをしているのは、齢十二かそこらの子供であった。密造酒なんぞ、子供の顔にはおよそ似つかわしくない。テスは弾丸の箱にそれを入れて輸送することを「商品」に、彼らは情報を「商品」に、お互い油断のならない良き商売相手として、うまくやっているつもりだった。
「この前あった奴と声が違うな。お前たちは同じ姿をしているから見分けがつかない」
「女の子なんて、同じ髪型、同じお洋服、同じ化粧をしたら、みな、同じに見えますわ」
化粧っ気のない童顔で微笑むが、しかし、妙な色香もまとう少女だった。誰が手下で、誰が頭か、テスは訊いたことがある。誰でも同じだ、と少女は言っていた。
「わたくしたちは、並列ですから」
テスにはよく意味がわからなかったが、子供の見てくれに油断して金をだまし取られたこともあったので、何人いるのかわからない分、老獪な大臣よりも手ごわい相手だった。
「お金をいっぱいお持ちなのでしょう? 牧場でも買って馬でも愛でればよろしいのに。異邦の王子たちは船を作ったり、名馬を育てたりしていますよ」
「女のような趣味で悪かったな。人をかうのも、同じだぞ」
船も馬も乗る人のよしあしだと言ったら、少女はケタケタ膝を打って笑っていた。
「お客様は、乗るほうですか? 乗せるほうですか?」
ときに、と、少女は空箱の数を数えながら振り返った。
「お客様は、ご自身がちょろまかしたせいで弾丸が余っているのを、ご存知ですか?」
空箱と同じ質量の弾丸が消えている。考えてもみれば、おそろしい話だ。が、テスは、知るか、と言い切った。
「あっちのお城から、こっちのお城へ」
少女は屈託なさそうに唇に人差し指を押し当てる。こんな子供にまで傀儡扱いを受ける自分に、テスはすでに十分、失望していた。
「殿方は戦うものだと思っておりましたが、お客様は、戦争がお嫌い?」
兵隊が嫌いだからいやがらせしているだけだ、とテスは答えた。
「俺は本気で、この世から銃弾が一つもなくなればいいと思っている」
「でしたら、工場を止めるべきです。西にあるものを東に持っていっても、目の前からなくなればなくなったことにはなりませんよ?」
「どこで誰が作っているかもしれないものがどこにあろうと、俺の知ったことか」
気づかれたかな、とテスは少女の様子をうかがった。
「なにをお考えですの?」
「世が世なら、お前なんぞさっさととっつかまえて尋問してやるのだがな。あいにくと、狗も食わない獄中死。拷問が廃止されていて、よかったな」
「わたくしたちの秘密基地にはこないでくださいまし。散らかっているので、とてもじゃないですが、お客様にはお見せできません」
「東にあったものを西に持ってきて、西で分解して東に戻す。分解しないほうがよかったのではないか? 品質が下がっていると後ろ指刺されるぞ」
「まぁまぁ、お客様。お店の恥ずかしい事情をあまり探るものではありませんよ。これを返してあげますから、どうか、こわい兵隊さんたちには内緒にしてくださいまし」
少女は手提げ鞄からハンカチを取り出した。開いて見せると、子供の手には少しおませな真珠の髪飾りが、午後の光にぼんやりと光を放った。
「なぜ俺があのサルどもに奢らねばならんのか」
テスはしぶしぶ、髪飾りを受け取った。受け取ったというよりも、取り返したのだが、おそらく本来の金額の何百倍の金額に相当する金を払わされた。
「骨董の類は一度手放すと通常、もとの持ち主のところには戻らないのですよ。足がつきますから。強運ですこと」
「大した宝石ではなかろう。蹄鉄商会ではもっと高い宝石も扱っているはずだ」
でも、と、少女が小首をかしげて不意に窓をみやった。その日、テスは楽譜屋の二階に陣取っていて、他の場所に比べればうんと居心地のよいほうだった。居心地だけでなく、都合も、よかった。楽譜屋に竪琴のケースがあってもだれも怪しまない。
「そういう宝石の類は、あまり買い戻さないほうがよろしゅうございますよ。手放した人の不運もまた、買い取ることになる」
「……通報したか?」
「覚えがございません」
「奇遇だな。俺も覚えがない」
にわかに階下があわただしくなってきたので、テスは微かに眉間に皺をよせた。
「こういうときのために俺の身分がある。ささ、お気になさらず。おっと、それは返してもらおうかな」
テスは少女から美しい切込み模様の装飾された硝子の瓶をひったくった。
「よいお品ですからてっきりお土産にいただけるのかと」
「俺の私物だ、金とるぞ。無駄口たたいてないでさっさと失せろ」
特別な計らいだ、とテスは片目をつむってみせた。それから、手酌で琥珀色の液体を高坏に注いで、できるだけゆっくり嚥下する。しばらくして、荒々しい靴音と怒号が聞こえ、扉が乱暴に開け放たれる。有無をいわさず楽典や作曲論などの本が納められた貴重な本棚をなぎ倒し、密偵だのなんだの……。テスはもともと一つしかない高坏に注いで、兵隊に飲めと勧めた。そして、猿知恵をバカにして鼻で笑ってやった。
「庶民の好む煎穀と香草の令茶だそうだ。おい、そこのお前、楽譜を踏むなよ」
しきりに竪琴の函を調べる兵隊を指さし、テスは顔をしかめてみせた。いっそインクのにじむほど踏んでくれるとありがたいのだが、と、テスは内心、苦笑していた。
密造酒に「にせもの」と書くバカはいない。横流しの弾丸に「盗品」と書くバカもいない。楽譜屋の店主には悪いことをした、と、テスは小さな窓を見やった。風に微かにカーテンが揺れている。庶民の家の軒先は、手を伸ばせばとどくほど近い。隣家の住人が、ちょうど取り込んだ洗濯籠を抱きかかえているのが見えた。
店の外に出ると、意外な者と出くわした。押しかけ侍女が口を両手で抑え、目を丸くしてこちらを見つめていた。密告……だったら、この場にいないだろう。おそらくテスが抜け出すのを見つけてついてきてしまったのだ。
迷惑なことこの上ないが、考えようによっては都合がよかった。
テスはにっこり微笑みかけ、無遠慮に侍女の手を取り、両手でしっかり髪飾りを握らせる。
「見つからないように抜け出せとあれほど」
え、と侍女が身近く息をのんだので、テスはさらにぐいと手の中のものを押し付けた。
「逢瀬の場所がばれてしまったではないか、この、ぬけさくが」
ええー、と侍女は声にならない絶叫に、口をぱくぱく開閉させていた。
「これをお前にやろうと思っていたのだが、無粋な輩に邪魔をされてしまった。いいかい、身分の高い男から贈り物を受け取ったときには、自分が仕える主人に、まず、見せるのだよ。他の女に嫉妬されては困るから」
すぐ後ろで兵隊が咳払いをしていたが、テスは黙殺した。
どうせわかるまい。女の髪飾り一つ、まして奥方の私物だ。そんな繊細なもの気に留める連中ではない。実際、すぐにテスの目の前で見分されたが、没収を免れたではないか。
どうせわかるまい。楽譜の読める者など、あの城の中ではテスと御令室くらいだろう。
そう、高をくくっていた。
ところが、テスが思っていたよりもはやく事態は急転直下を迎える。その日の夜半、テスは兵隊に呼ばれ、城の中庭へと連れ出された。全員整列しているので、嫌な予感はしていたのだ。不気味なのは、室内楽用の楽器が一台、かがり火の下に設置されていた。
鍵盤を叩く姿に、見覚えはなかった。そもそも、テスはこの城に楽器があるのを知らなかった。唯一、テスが近づかない場所といえば……城主の居室だ。
一音一音、確かめるように鍵盤をなぞる指先に、テスはだんだん、血の気が引いていった。
少し奏でては、譜面台の横の紙に文字を書き記していく。やがて、奏者はそれを兵隊に渡して、おもむろに凍り付くテスを振り返った。
「ずいぶんと、趣向をこらした領収書ですな、殿下」
美しい装飾を施した銀色の仮面が、篝火に妖魔のごとく光る。
声を聴くのも、姿を見るのも、テスは生まれて初めてだった。叔父とはいえど、なんと遠い。異界の魔物のようだと思った。
「言い逃れなさるなら、どうぞ。ただし、ここに居合わせるすべての兵士の納得できる言い訳をご用意なさいませ」
テスは緊張に目元がひきつるのをなんとかこらえようと、唇を引き結んだ。
「横領や賄賂ならともかく、国家反逆罪を疑われておりますぞ」
叔父は譜面をテスに向かって叩きつけた。ばれたとあっては仕方あるまい。地面に散らばった譜面をわざわざひろい、整え、そして、さらに叩き付け返してやった。
「少なくとも、これでどこが弾丸や武器をほしがっているかわかるだろうが!」
一瞬、叔父は仮面の下で息をのんだようだったが、すぐに「それで?」と言われてしまった。横領した弾丸や武器を密輸しているところがどこだかわかって、どうだというのか。
言われて、テスははたと口を噤んでしまった。敵意があるのがどこなのか知って、そして自分はどうするつもりだったのか。火薬庫の場所を知って、そしてどうする? ここにいる兵隊を差し向けて……それは、なんだ?
自分が戦争を始めようとしていたことに気付いて、テスは愕然と己の両手を見つめた。
「また亡命でも企てていらっしゃるのか。今度は擦り付ける侍従もおりませんぞ」
ちがう、とテスは叔父を睨んだが、すでに叔父は腕を振り上げていた。反射的に顔をかばったテスだったが、衝撃は肩に襲い掛かった。骨までたつほどの激痛に、思わず両ひざを折ってしまう。王子たるもの斬りつけられても膝を屈してはならぬといわれたが、実際、テスはもうずいぶん長いこと殴られた記憶がない。父の生前には、それこそ毎日よく吹っ飛ぶほど叩かれた。父の死後は、思えばいつも、枢機卿に殴られていたのはギルフォードだった。
テスは激痛に呻き、立ち上がるどころかその場に蹲ってしまった。激痛を通り越して、重たいとさえ感じる。打たれた肩から脈拍とともに頭に、胸に、足に、重い痛みが広がった。
「王族を裁けるのは、王族だけだ」
叔父が容赦なく再び腕を振り上げ、その手に鞭が握られているのを見て、テスは慌てて「お待ちください!」と声を張り上げた。
「わたしは、何の罪で裁かれるのですか?」
テスは、筋を通したつもりだった。ところが。
「その目が気にくわぬ!」
突然、甲高い声で叔父は叫び、テスの横っ腹を蹴り上げた。
「あの忌々しい……思い出すだけでも虫唾が走る!」
なんのことだ、とテスは止めようと口を開いたが、豹変した叔父は何度も何度もテスを蹴りつけ、さらには頭を土足で踏みつけた。
「なぜ、貴様を見ていると奴を思い出すのか!」
土を食わされ、昏倒しかけたテスを無理やり引き起こすと、叔父は篝火に向かって突き飛ばした。一瞬、燃え盛る炎が眼前をかすったが、運よく松明は直撃を避け、火の粉をまき散らして地面に落下した。間一髪、テスは炎の真上に倒れこまぬよう身をひねってよけたが、少し、首にやけどを負った。
フィーネはもっと痛かっただろうなと、一瞬、あの日が脳裏をよぎった。
「理不尽です!」
はっきり声を張ったつもりだったか、不意にこみ上げた嘔吐感に、情けなく喉が震えた。
「わたしは、軍令違反でかような体罰を受けているのですか!?」
「黙れ!」
こンの癇癪持ちがっ、と、テスは手近にあった松明の燃えかすをつかむと、やたらぎらつく仮面に向けて投げつけた。
「俺が俺の兵隊に命令無視と、そう言われているのか!?」
つい、かっとなって怒鳴ってしまった。が、すぐに叔父から発せられる淀んだ殺気に怯み、テスはぐっと喉をつまらせ、たじろぐ。
「強いていうなら……無断外出だが、枢機卿は、行動制限は……」
500の兵と叔父の殺気を一身に浴びて、テスの声はどんどん小さくなっていった。
「風紀を、乱したことは認める」
言わなくてもいい罪が口をついて出た。
「……軍の予算ではなく、私費扱いだ、会計に不正はないぞ」
あるのは、楽譜に暗号化された蹄鉄商会の領収書だけだ。知ったことか、使わない弾丸や武器がどこに消えたのかなんぞ。わが国の武器の技術力を知ろうと、あるいは模造品を作らせようと、わざわざ新式の設計図をばらまいている隣国の考えなんぞ、知るか。隣の国が、より精度の高い武器の開発をしているかどうかなんぞ、テスの知ったことではないのだ。
知ったことではないのに、いつもテスは責を問われる。
こいつの根性叩きなおしてやれ、と、だれも言わなかったが、たしかに聞こえた。あるいは、失望して額を抑え、無言で首を振るものも視界の端にとらえた。
「軍規によれば」
だれかが言った。
「百叩きが妥当かと」
なんの規則だ俺は知らんぞ、とテスは思ったが、500人に睨まれていると、屁理屈も出なかった。
「抑えろ」
拘束しようと伸びてきた手を払いのける。
「無礼者どもが」
やけをおこしてテスは自ら上着を脱いで放り投げた。
「それが全員納得する言い訳なら、そうすればいいだろうが!」
そういうところが、と、なぜだか叔父は歯ぎしりをして震えるほど強く鞭の柄を握りしめていた。どうせ百回、と、テスはなかば混乱して壁に手をつき、歯を食いしばる。
「力を抜け」
叔父の声が、空を割く音に重なる。
「あとがつらいぞ」
一発目、さっそくテスは後悔していた。それにしても、なぜ露呈したのか。譜面は逆さにしないと暗号は読めなかったはず。考えようとして、しかし、次に打ち据えられたときには、思わず「もうやめてくれ」と叫びそうなった。かろうじて悲鳴を飲み込んだのは、襟元からこぼれた喪飾が、微かに鳴ったからだった。
生きているだけでも十分じゃないか。ギルフォードもユーリも死んでしまった。
自分はまだいい。自分のせいだから。ユーリは……きっと、とても苦しんだだろう。お前なんぞ生まれてこなければよかったのだ。母に言われたことがある。生きていけなくなって、自分が生まれてきたことを後悔しながら死んだユーリがかわいそうだ。
そう思うと、ちっとも耐えられそうだ。
途中何度か気絶しかけて水を浴びせられながらも、数えること99回。最後の気力と体力を振り絞り、テスは向きを変えて、壁にもたれながら止めるよう、掌を突き出した。
「100回……」
テスは、それでも目を開いて相手を見た。
「……1回目は、すでに打った」
よく耐えた、と叔父は言った。少なくとも、人の言葉がわかる程度には意識はあった。
「愚鈍ゆえ」
テスは胸の喪飾を握り、乾いた喉から声を振り絞って答えた。
「人の痛みも己の痛みも、よくわかりません」
そういうところが、一層気に食わぬ。叔父は言い捨て、苦痛が終わったとわかり、テスはその場に倒れこんだ。
手当のために担ぎ込まれたテスの耳元で、ずっと押しかけ侍女が悲鳴のように泣きわめくので、せっかく遠のきかけた意識が舞い戻っては、激痛に呻く羽目となった。お前はお咎めなしか、よかったな、とテスは嫌味を言ってやりたかったが、喉がかすれて声が出なかった。
まったくもって、失敗はいつでも予測できないところから降ってくる。
苦痛というのは不思議なもので、終わったあとになってからテスは激痛に身を捩った。
もんどりうつテスにわざと聞こえるよう、兵士たちは、一国の王子があんな醜態をさらしてよくも生きているものだ、自分だったらとっくに自殺している、と唾棄していった。
戦後、敗北した自国を見るに耐えず、部下を道連れに自決した将校は少なくない。
だとしたら、テスは一つだけ良いことをした。少なくとも、こんな王様じゃ戦争には勝てないと、兵隊たちに見せつけたと、ひそかに自らの勝ちを誇った。
軍靴が遠ざかっていく。静かに、しかし確実に、戦争はテスに失望したようだった。
*
遠ざかるものもあれば、近づくものもある。
銃撃事件の後、フィーネは多忙を極めていた。見舞いの使いや安否の手紙に返事をする日々に追われ、一日中誰彼構わず「おかげさまで元気にしております、ご心配をおかけしてもうしわけございません」と機械仕掛けのように微笑んでお辞儀するうちに、本当に感情のどこかがおかしくなってしまったのか、ギルフォードのことをすっかり忘れていた頃、管弦楽の小さな音楽会で、フィーネはかつて弾薬で一財築いた豪商のご令嬢から、暗殺者はすぐに処刑されたと、こっそり訊かされた。わが国の食料改革に大きく貢献した、芋嬢とあだなされたその女性は、ミモザのような黄色に真っ青なリボンをあしらった、よくいえば奇抜な、わるく言えば悪趣味なドレスの裾をかき寄せて、横笛の穴に唾を吐いていた。
このように、穴には舌の唇を触れさせるだけでよいのですよ、と、フィーネはそっと教えてあげたが、自分はというと、息がつまってしまって、結局その日の管弦楽はお茶会に急遽変更になった。
芋嬢が言うには、王子は事件の引責で失脚し、田舎の砦に飛ばされたと言う。
「ほら、あの、気狂いの」
フィーネにとっては自分が生まれてくる前に国外に嫁いだ先王の娘の一人にすぎないが、冷酷な夫に虐げられ、不幸な日々を送っていると聞かされ、心を痛めていた。
「蹄鉄商会が動いているようですよ。姫様のお気を付けなさいませ。やつらはうちで売らなくなった弾丸を転売している意地汚い連中です」
その弾丸の一つに狙撃されたのかもしれませんよ、と、芋嬢は冗談のように言っていた。
作った銃弾は、敵に打ち込まなければ巡り巡って自分に向けられる。芋嬢は鉄砲のように横笛を荷物持ちのイタチ顔の男に向けて、そう言った。
「子供のころ、わたくしに金勘定を教えてくれた先生が、こんな話を教えてくれました。ある日、嵐で祠が吹っ飛び、そこに隠されていた大きな穴が見つかった。穴はとても深くて、ためしに石を投げみたら、いつまでたっても底に行きつかない。これは都合がいいと、人々はいらないものをそこにどんどん捨てた。ところがある日、天から小さな石が落ちてきた」
芋嬢は、あまり品がいいとは言えない顔に満面の笑みを浮かべた。
「自分たちが掘った礫が弾丸になって自分たちの土地や家族を襲うころには、もう誰も、生き残ってはいませんよ。わたくしどもは、そういう商売でかように王女様に無礼な口をきけるほどの巨財を築きました」
つー、と、フィーネは首筋に嫌な汗をかいていた。
将軍は、フィーネにギルフォードのことを教えてくれなかった。そのことについてフィーネはいささか腹を立てていたのだが、その日を境に、今度こそ本当に、忘れることにした。
そんな自分が、とても卑怯で情けなくて、だけど、どうしたらいいのかわからなかった。
「忘れようと思い込むほど忘れ難いものですよ」
白髪交じりの髪に、鳥の羽飾りがふわふわと、どこからともなく吹き込む風に揺れていた。
そんなある日のことだった。
フィーネは突然、将軍に呼び止められ、着替えるようにと衣装函を渡された。
「宰相閣下の許可はとっています。わが国のゆくすえにかかわるゆえ、どうか」
将軍は軍人らしい無感情な様子で深くこうべを垂れていた。
函の中身を確認し、フィーネは侍女とともに卒倒しそうになった。それはあの英雄の遺品として軍部が神のように崇めて保存してきた元帥章の軍服一式だった。
何を考えているのか、とフィーネは憤慨したが、将軍はかたくなに沈黙を返すだけだった。
仕方がないので、フィーネは侍女に手伝ってもらって軍服を着せてもらう。肩にずしりと重みがかかり、腰帯とは異なる異様な体を締め付ける感覚に、フィーネはほとほと困り果ててうつむいたが、将軍は「ちょうど同じくらいの大きさでよかった」と、深く肯いていた。
どうして? とフィーネは無言で抗議したが、将軍はなぜだか敬礼を返した。
「それに身を包んでいるからには、殿下は軍人であらせられます。よろしいか?」
だめに決まっている。が、フィーネが真っ青になって首を横に振るより早く、将軍はいきなりフィーネの二の腕をつかみ、引きずるように闊歩し始めた。
「いたいっ……おやめください! 何をなさるのですか!」
フィーネは悲鳴を上げて振りほどこうとしたが、ちっとも無力だった。軍靴は重く、足を前に出すのさえ、フィーネには難しくて、ついに半分抱きかかえられるようにして、ぽい、と、扉を開け放たれたままの玉座の間に放り込まれた。
「諸侯! お望み通り元帥閣下をお連れしたぞ!」
将軍が耳のすぐ真後ろでかみなりのように怒鳴ったので、フィーネは驚いて耳を両手で抑え、きゅっと目をつぶって身を縮こまらせた。轟音に、鼓膜がキーンと震えた。
「殿下、どうか我々を勝利にお導きください!」
わけもわからず怒鳴られ、フィーネは泣き出しそうになりながら将軍を見上げ、それから、周りを見渡した。
恐ろしい顔で軍人たちに睨まれ、フィーネは将軍の後ろに隠れようとしたが、ちょうど、扉を締め切られてしまった。なかば強引にフィーネの両肩を突き飛ばすに押して、将軍は、フィーネではなく軍人たちに向かって言った。
「あのころのように? 笑わせてくれる。ほらみろ、元帥閣下がお戻りになったぞ」
将軍は薄く笑っていた。きっと、本当に怒っているのだろう。その場に漂う紛糾の気配に、フィーネは固唾をのみ、そして、ありったけの勇気を振り絞って一歩前に出た。
「な、なにごと、ですか」
声は、がたがたに震えてしまった。
「わが国の誇りでもあるネフェルオーネ殿下が鹿のごとく撃ち殺されそうになり、国家に忠義厚い者たちが、なんとしてもかの国に制裁の銃弾を驟雨のごとく浴びせ、愚かな王子を処刑しなければならないと、声高に叫んでおります。殿下の御意思はいかに」
そんなこと言われてもこまる、とフィーネはたじろいだが、しかし懸命に踏みとどまり、軍人たちを見渡した。
「皆様は、戦争をするべきだ、と、そうおっしゃっているのですか?」
軍人たちの返事はなかった。
「なりません」
「なぜですか?」
フィーネは将軍を振り返ったが、かわらぬ冷笑を浮かべるだけだった。
「ここに集まったものたちは、殿下が勇ましく宣戦布告し、軍旗を掲げ、わが国のゆるぎない勝利へと導いてくれると信じています。あの戦争で……」
と、将軍は空の玉座の上に掲げられた英雄の肖像を指した。
「たしかに我々は戦って勝ったのに、未だ、卑劣と国際にののしられる。領有について、かつての領主であり、現は枢機卿となれた伯爵風情が、生意気にも本来の相続権について因縁をつけてきたのです。我々は圧勝し、我らの領土について、たしかに我々の国土と示さなければなりません」
開戦を。
フィーネは顔から血の気が失せていくのが自分でもはっきりわかった。
戦争を。
軍人たちは将軍の演説に万雷の拍手を送り、フィーネのために道を開けた。
「殿下。どうぞ、栄光の道をお進みください。我らに、勝利を!」
将軍まで、喝采でフィーネを推す始末。フィーネは父と母の姿を探したが、ここには怒り心頭、唸る狼たちしかいなかった。
なんとかしなければ。なんとか……。
混乱しながらも、フィーネは自分が王位継承者であることを思い出し、それを支えに、一歩、そしてまた一歩、玉座に歩み寄る。
「わたくしは……」
ここに戦争開始を布告する? ばかな。フィーネは口を閉ざして軍人たちを見下ろした。
拍手に囲まれ、フィーネはだんだんわけがわからなくなって、頭の芯がぼうっと熱くなって、自分が考えているのか、考えていないのか、それさえわからなくなってしまった。
不意に、将軍が他の軍人を押しのけ、フィーネの足元にひざまずいた。
「殿下。もし宣戦布告なさるのならば、まず、ここに集めたもののうち、どこからどこまで死ぬのかお示しください」
え、とフィーネは将軍を凝視した。傷のある頬をゆがめ、将軍は声を低めてつづけた。
「開戦とは、そういうことです。殿下は、我々がどのように死ぬのか、何人死ぬのか、どれくらい殺せば勝てるのか、見抜いておられる。どうぞ、布告を。覚悟のある勇敢なものたちばかりでございます。先の大戦の勇猛そのままに、あの日見た栄光を忘れられずにいます。さあ、殿下。殿下にも、あの輝きが見えておいででしょう? さぁ!」
フィーネは、瞬きもせず将軍と、将軍にならって次々にひざまずく軍人たちを見つめていた。何かの間違いだ。悪い夢でも見ているのだ。そう思った。ここにいるのは自分自身ではなく、将軍たちが思い込みで作った夢幻だ。そう思い込もうとした。
「爆死、焼死、銃殺、刺殺、なんでも。誰がどの命令でどう死ぬか、今、ご判断ください。なんなりと。我らは死をも恐れぬ魔狼の軍勢でございます」
しかし、と、不意に将軍は顔を上げた。
「殿下の目に、耳に入れておきたいことが」
将軍は緩慢に立ち上がると、部下に合図し、一抱えほどの木の箱をフィーネの前に持ってこさせた。
「賢人の首は未来を占うという」
箱の中から瓶を取り出し、掲げ見せる。
「こちらは、とある数学者の頭の『なか』でございます。とても優秀だったので、暗号を作らせていました。かつてわたくしめは、似つかわしくもない参謀の役目を、元帥閣下から賜りました。殿下。たしか、父君であらせられる宰相閣下は、数学がお好きでしたね」
ふ、とフィーネは意識が遠のき、足元がふらついたのをなんとか自力で踏ん張る。
「このものでなければ、宰相閣下……あのころは砲撃隊の隊長にすぎない一兵卒を、と、名が挙がったことがありました。今思うと、我々はとても無礼でした」
将軍は喉で笑って、それを箱に戻させた。
「誰がどう死ぬか、今決めてください。殿下の父君は、たまたま、高貴なる王女殿下との婚約が決まっていたので、賢い頭を暗号技術に使うことなく、今でも楽しく数学の問題を解くのに使っていらっしゃる。きっと今ごろ、子供用の数字の教材を、学者たちといそいそ作っておられることでしょう」
「わたくしは……」
フィーネはあふれる涙をそのままに、本当に、精一杯、あらんかぎりの勇気を振り絞って、力の限り、声を出した。
「戦争は、しません」
小さな声は、しかし、軍人たちの失望のため息よちもさらに小さかった。
「諸侯。お望み通り、ネフェルオーネ姫殿下に元帥章を与えましたぞ」
将軍は肩をすくめて、苦笑交じりに背後を振り返って言った。
「これが、英雄の再来です。ご納得いただけましたか?」
途端。ふざけるな、つまみだせ! と怒号が飛び交い、将軍も獣のように笑って「このわからんちんが!」とつかみかかったので、フィーネはすっかり取り残されて、軍人たちの吠え合いを呆然と見ているしかなかった。いや、目を開けたまま、気絶していた。すっかり腰が抜け、その場に崩れ落ちる。へたれこんで逃げることもできなくなってしまい、警備のために配置されていた兵士に抱きかかえられ、フィーネは玉座から引きずり降ろされた。
涙でにじむ英雄の肖像を、恨めしく見上げる。
英雄よ、あなたなら、答えることができたのか。
これが平和か、バカものどもが。誰の影響か、フィーネは少し、口汚くなっていた。
あなたならそう言ったのだろうか。
みな、こんなとき、扉を開け放ち、あの輝きがまっすぐに戻ってくることを期待していたのだ、と、あとで将軍が言い訳をしていた。
「謝りませんぞ。姫殿下。王位継承者とは、開戦を判断するお立場です」
しかし、将軍は新しくできた仰あざもそのままに、元帥章の箱の返却を求めながら笑う。
「正直、宣戦布告するかもしれないと、気をもんでいたのですよ」
結果としてよかった、と将軍はもう一度、深く肯いた。
「姫殿下には申し訳ないですが、あまりにも違うので、みな諦めることができた」
それは少なくとも、今日明日戦死者を出さずに済んだ、という良い結果だったと、将軍は言った。
「そういう時代だと、みなが納得してくれればよいのですが。ま、ここから先は我々生き残りにお任せください。姫殿下は今日、お父上のお仕事を手伝い、わずかの間ですが、宰相閣下が好きな数学に心を遊ばせる時間を作った」
立派なおつとめでした、と将軍は慰めてくれたが、フィーネはただぼろぼろ涙をこぼすだけだった。
「姫殿下がもうちょっと短気で鉄火だったらと思うと、ぞっとしますよ」
「わたくしは……」
喉がひきつって言葉が出ないフィーネの意をくんだか、将軍は箱を横に置き、ゆっくりとひざまずいて、あわない指輪のはまるフィーネの手をとり、甲に浅く口づけをした。
「戦争をしない。そうおっしゃっていただけただけでも、私の仕事が一つ、減りました」
わかってくれる者もいる。わかってくれない者も、いないわけではない。将軍は、フィーネが戦争をしないとはっきり言ったことで、戦争をしたい人たちは「反乱」に分類された、と言っていた。敵になってしまったのは、フィーネにもわかるのだ。
「宰相閣下は、数学以外に頭を使いたくない、とおっしゃったので、姫殿下にお願いすることになったのですよ」
共犯です、と将軍は片目を瞑ってみせた。
それからしばらく、フィーネは軍人たちに取り囲まれて頭をかちわられる悪夢に苛まされ、睡眠不足に陥り、少しでお軍服が見えようものなら、さっと物陰に隠れるようになってしまった。あんなに楽しみにしていた馬の練習も、やめてしまった。
テスに会いたい。
ある日、唐突にそう思った。
彼なら、もしかしたら答えを持っているかもしれない。
英雄だったら……。英雄だったら悩まなかったのだろうか。英雄だったら恐れなかったのだろうか。英雄だったら……。
孤独に苦しまなかったのだろうか。
肖像画は答えない。ただ、フィーネの知らない輝きを指して果敢に軍旗を振るい掲げ、微笑みかけるだけだった。
いっそあなたが帰ってきてくれればいいのに。少しばかりフィーネは英霊を恨みながら、指輪にそっと口づけをして祈った。
どうか。どうか、将軍を連れて行かないで。この国には自分はいらないけれど、あの人はどうしたって、必要だ。
*
体罰のあと、テスは原因不明の高熱を出してしばらく生死の淵をさまよった。
激痛に眠ることもできず、疲弊し、テスはどんどん衰弱していった。
高熱に浮かされ、テスは何度かギルフォードに、薬を薄めるなとユーリに伝えるよう指示をした。そのときの自分はしっかり自分の義務を果たし、よく指導していると、そう思えたのに、記憶の混濁が澄んでくると、逆に自分のふがいなさを呪っていた。
激痛と苦痛から逃れようと身を捩り唸りながら、病で苦しんで死んでいった人たちは、もっと苦しかったのだろうかと考えていた。
はやり病は王子の不徳のせいだ、と言われた。医学書でも読んでろ、とテスは思ったが、有効な薬を安く開発できないのなら、知識をひけらかすだけ無駄だとも思っていた。
病なんぞ定期的にはやる、とテスは思っていたのだが、一週間過ぎて一度快方に向かった後に再び不調をきたすと、やはり何か呪われているのではないかと、疑った。
この苦痛から解放されるならなんでもいい、と思い、なんとかしようと薄めた薬を与えた薬局のことを思った。
医者がいうには、病か何なのかわからないのだそうだ。傷が腐って熱が出ているのか、それとも病気なのか。原因はわからないが体中炎症を起こしているから熱が出るのだそうだ。
藪医者め、とテスは内心悪態をついた。名医だと、城主の奥方がわざわざ中立国から呼んだ医者だという。片眼鏡のカミソリのような目をした初老の痩身の男だった。
医者がいうには、栄養状態がよくなかったら憔悴で死んでいたらしい。なにせ、喉まで腫れて、水も嚥下できない。
苦しいか、と医者に訊かれた。流暢なテスの国の言葉だった。無視していると、今度は別の国の言葉で同じことを口にした。意味がわからず、テスは視線で医者に問うた。すると、意識がはっきりしているなら問題ない、と言われてしまった。
「病名がないと病ではないのです」
医者はそう言った。
「怪我であることは間違いないが、病にかかっていないとも言い切れない」
そんな屁理屈どうでもいいからなんとかしろ、とテスは思ったが、水銀計を軽く噛んでいるのが精いっぱいだった。が、医者に舌の下に入れなおされる。
「時々、これを噛んで服毒自殺しようとする者がいます」
せっかく助けても自殺する誇り高い患者が、まれによくいる。医者はそう言った。
「生きるつもりがないのなら、痛め止めは処方しません。が、安静に体を休めることが一番の特効薬です。ゆっくり眠りたいなら、多少苦いですが飲んでください」
紙片を三角に折った薬袋を渡された。
「これを夜寝る前に。それと、喉の腫れが引くまでは流動食を。嘔吐しないならきちんと食べさせること。大丈夫、瀕死ではありません」
淡々と侍女を振り返り説明するところを見るに、彼も、その押しかけに水をひっかけられたのかもしれない。
「人の痛みをわからぬ冷血漢だと罵られました。彼女は無礼者です」
医者は冗談まで真顔で言う。テスはしかり、と水銀計を落とさないように肯いた。
ひどい目にあったと思っている。ひどい目に合わせたと思っているのなら誤解だ、と、献身的に看護する侍女に言いたいのだが、喉が腫れふさがって声が出ないのをいいことに、テスは黙ってされるがまま、包帯を変えさせた。
食べ物の味がよくわからないのは、怪我と熱のせいだけではない。もともとそうだった。
ギルフォードが死んで以降、テスはなんだかいろいろ、よくわからなくなっていた。
七日すぎても、テスは起き上がれなかった。
しかし、さらに七日すぎると、杖をつきながらも歩けるようになり、食事も喉を通るようになった。薬を出し渋る藪医者のせいでテスはずいぶん苦しんだが、少なくとも、気絶するほど苦い粉薬よりも、よく冷えた炒穀茶のほうが喉の腫れにはよく効いた。
本当に、ひどい目にあったと思う。思うが、しかし、一つだけ良い効果もあった。悲鳴も上げず括目したまま耐えたテスに、少なくとも、兵士たちのあたりがやわらかくなった。
テスは、ここぞとばかりにかくしておいた酒樽を兵隊たちにふるまった。密輸の経路は暴かれ、隠してあった密造酒はすべて摘発されたが、しかし、灯台下暗し、厨の貯蔵庫は調べなかったらしい。持っていても火種のもとなので、さっさと処分することにしたのだ。
やつらの貧乏舌では、密造かどうかなんぞわかるわけがなかったし、実際、空き樽に「名産」と書いてあったので、ありがたがっていた。
こんなもんだ、人間なんぞ。
杖にすがってやっと立っているテスに、兵士のひとりが「よろしいのですか?」と問うた。そういうお前らこそ見て見ぬふりだろうが、とテスは鼻白み、お前らは庭の草木の水やりに使った雨水を数えているのか、と言ってやった。首を傾げられた。帳簿をごまかしているのも財布を握っているのもお前らじゃなくてこの俺だ、とテスは言いたかったのだが、サルの耳には難しいらしい。小便にして出しちまえば水も酒もわからんだろうが、と言い直したら、目を丸くしていた。
杖をつき、よちよち庭先を歩きまわる。
かの英雄にもこんな無様はあったのだろうか。ふと、テスはそんなことを思った。
気がかりなのは、密売人を通してでも自国の武器を買い戻す隣国の思惑だ。雑魚ほどよく泳ぐ、と叔父には嫌味を言われたが、だったらもうちょっと泳がしてほしかった。おかげで、枢機卿から謹慎命令が出てしまい、楽団の出入りも一切禁止、楽譜が秘密文書になっていたせいで、場内での音楽もすべて、取り上げられてしまった。
貴様のせいでまたつまらなくなった。
叔父は仮面の下で明らかに舌うちしていた。楽器があったことといい、譜面の謎を見抜いたことといい、音楽好きなのかもしれないと思ったが、恐ろしくてテスは訊く勇気がなかった。ただ、ある時、ふと、こんなことを言っていた。城に幽閉されるまで、悲鳴と音楽の区別もつかぬ音痴だった、と。
戦時とは、そういうものなのだろうか。テスにはわからなかったが、叔父に音楽を教えたのは、野蛮で野暮だと見下されてきた狗の国の出の御令室だという。
この国の音楽は、他の国からもよく褒められる。王宮のもっとも洗練された音楽に囲まれながらそれ気が付かなかったのなら、それは、よほどの激務か本物の音痴なのだ。
杖がとれて、なんとか普通に歩けるようになったころ、テスは、おざなりに放置された楽器を見つけた。全部没収されたと思っていたが、お目こぼしがあったらしい。
テスは吸い寄せられるように歩み寄り、楽器の蓋を開けた。わが国の有名な歴史ある工房の刻印は、それが王侯貴族にふさわしい最高級の逸品であることを誇っていた。
叔父の私物だったかな、と、テスは鍵盤を軽く叩いた。外に持ち出したせいか、少し湿気た音がしたが、調弦はされている。辺りをよく見渡したが、人の気配はなかった。
楽譜は軍部に没収されたが、暗譜している曲までは没収できまい。テスは椅子を引き、楽器の前に座った。テスが覚えているのは、小さな練習曲と、伴奏用の音階だけだった。
作曲家たちは逮捕されてしまっただろうか。この曲を作った者は、もしかしたら殺されてしまったか、運が良ければ国外に逃亡しているだろう。そんなことを思った。
練習曲。逆さに譜を読むと、諜報員。密偵に密偵と名札をつけるバカはいない。たいていの場合、本人でさえ、自分がそうだったとは知らないものだ。
ユーリは、己が何故王子の目にとまり、王宮の奥まで手引きされたか知っていたのだろうか。テスは、それでもユーリの歌う主旋律に合わせる伴奏を練習していたのだ。
だから、暗譜している。
どうすればよかったのだろうか。今でも、考えている。楽譜がただ音楽のためにあり、音楽がただ音を楽しむ人間の遊びであるには、どうすればよかったのか。
ふと、視線を感じて顔を上げる。柱のかげに、白い蝶のようにお仕着せのリボンが一瞬だけ見えて、廊下を駆け去る音が音階に重なった。
いつからか、押しかけ侍女が視界にいるのが当たり前になっていた。
兵隊に見つかると、女々しいと怒られるから、この辺にしておこう。テスは楽器の蓋を閉じ、物音を立てないよう、そっとその場を離れたのだった。
それでもテスは人目を盗んでは演奏をしに訪れた。もちろん、音がなっているのだから誰も気づかないなんてことはないのだろうけれど、誰も、気づかない素振りだった。だけど、テスは押しかけ侍女がいつも柱の陰にいるのを知っていたし、小さな練習曲と伴奏しか知らないけれど、彼女のために奏でるのはまんざら悪い気はしなかった。
だけどお前は知らんだろうなぁ、とテスはかすかに苦笑する。逆読みの意味は、王を滅ぼすもの。古来、それは酒と賭博と女という。全部避けたはずなのに、身を滅ぼすすべてに取り囲まれている。
ユールヒェンは諜報員だから気を付けろ。練習曲の譜面を書いた作曲家からの告げ口だ。
お前は、俺がお前を敵に通じるものと疑ったことを、知らないだろうな。
包帯を代えるとき、喪飾について、お守りかと訊かれたことがあった。どっちかというと戒めだが、面倒なのでテスは、呪いだ、と答えた。呪いをはじき返してくれると言ったら、信じた。だから、テスもその侍女を信じることにしたのだ。
ある日、テスがいつものように楽器を触っていると、背後に人の気配を感じた。珍しく今日は柱の陰から出てきたらしい。てっきり、いつものように押しかけ侍女だと思ったのだ。
ところが。
いつものように何の気もなしに、主旋律を失った歌曲の伴奏を弾いたときだ。その日、なくしたはずの歌が聞こえた。
たしかに、聞こえた。
そこに、臓腑があることを思い出すほどの重く鋭い胸の痛みに、テスの指はとまりかけたが、なんとなく、今運指を止めるともう二度と、この歌を聴く日はないように思えて、テスは振り向くことなく曲を弾き続けた。
昼間に亡霊が出てたまるか。だけど。
幽霊でもいい、お前のためにどれほど練習したと思っているのか。
ギルフォードは彼女を殺さなかったのだな、とテスは少しだけ、ほっとした。だけど、今日彼女を生かして帰すなら、きっと自分は二度とこの曲を弾くことはないだろう。
最期ならば、ちゃんと一曲弾通したい。テスが願ったのは、それだけだった。
いい時間を過ごしたと思う。二人っきりで、彼女の歌のために伴奏するだけの時間をずっとずっと、夢見ていたのだ。
曲が終わって振り向くと、そこには誰の姿もなかった。
亡霊ならまた出てくるかもしれない、と、テスは虚空を見つめる。テスはユーリの実家の薬局に蹄鉄の文様があることを知っていたし、ギルフォードにもさんざん、あの女はだめだと忠告されたのを今頃思い出す。食い物にされている、と。
いやがらせにしては上出来だ、とテスは楽器の蓋を閉めた。塒をあばかれた蹄鉄商会の、これが報復か。だとしたら、テスはその一撃だけは避けられない。
ユーリの亡霊が生きてこの城を出るならば、テスは彼女に殺される。そして、テスはおろかにも、ユーリが自分以外の誰かと結ばれて幸せに平穏に暮らしてほしいと、願っている。
だから、避けられないだろう。
「セルヴァンテス後嗣殿下」
考え事をしながら廊下を歩いていると、城主に呼び止められた。おそらく、テスははじめてちゃんとその男に名を呼ばれた。
城主の「特別」なはからいで遊行団を城に招いたという。
「なんでも、剣舞の達人がいるとか。殿下は、珍しいものは好まぬか?」
予告があるだけマシだとテスは思った。そして、なぜ先に自分がその手を使わなかったのか振り返ってみる。500の兵を味方につけて、禍根となっている元帝位継承権第一位のこの男を悪人に仕立て上げ、成敗しなかったのか。面倒だからだ。そんなことしたら、絶対にテスが皇帝にならなければならなくなってしまう。
……なぜ、皇帝になってはいけないのか。テスはふと思考を止めた。
今なら間に合うかな、と野蛮な考えを起こしたが、七面倒なのでやめることにした。少なくともこんなところで犬死したら枢機卿は悔しがるだろう。それとも、すでに見限られたか。
逃げるなよ、と城主は仮面の下、蛇のように目を細めたので、テスは「お招きとあらば」とだけ答えた。
ついでにギルフォードの亡霊も出てこないものかと期待したのだけれど、すねているのか出てきてはくれなかった。そういう冗談を言う相手を失ったという現実が、とにかく重くて、すごく重くて、テスは耐えかねたのだ。
あんなちんけな真珠の髪飾りに、こだわらなければよかった。泣きつきたいが、ギルフォードはもういない。どうすればよかったのか。そう考えるとき、つい、何もしなければよかったと後悔してしまう。
王なんぞ形骸でいい。なすすべもないほうがよっぽどマシだ。
押しかけ侍女に最後の傷の手当をさせながら、テスはそれでも、どうしたらいいのか考え、要するに自分は何も考えていないに等しいことに我ながら呆れていた。
「殿下は旅芸人の一座は初めてですか?」
すっかりはしゃいで侍女は声を弾ませていた。
「私は奥様にお仕えする以前、子どものころに父母に連れられて見たことがあります。色鮮やかな天蓋や珍しい獣の檻があって、ちょっと恐ろしいのだけれど、なんだか浮かれた気持ちになったのを思い出しました。ああいうのは、奇妙だから面白いのですよ」
自分はああいう下品なのは好まない、とテスは顔をしかめてみせた。
「でしたら、ご観覧なさらずとも結構です!」
いつになく、侍女はとげとげしい態度で不意に立ち上がって用意した着替えを片付け始めた。ついでに、手当のために外した喪飾もしっかり握りしめて退出しようとしたので、テスは「おい」と低い声で呼び止めた。
「それは返せ」
「なんだ、殿下も楽しみにしていらっしゃるんですね!」
急転、侍女は満面の笑顔でさらに着替えを背中に隠す。
「せっかくですからもっとお洒落な衣装をご用意しましょうか? こんな地味な宝飾はよくないです。ええ、よくないですとも!」
テスは苦笑し、再度、「返せ」と掌を差し出した。
「王子を半裸で放置しようとは、不届きな。不敬罪だぞ」
「不敬罪といえば」
侍女はそれでもじりじりさがり、テスと目を合わせないようにしていた。
「私、殿下に水をかけてしまったことをお詫び申し上げます」
いつの話だ、とテスは笑った。
「でもそのあと何倍も水をかけられました。着るものがなくてあの時は本当に困りましたよ。私どもは殿下ほどかえの服をたくさん持っていません」
「それは……下々の着るものの心配をせず、申し訳なかったな。城下ではやりのドレスでも買ってやろうか」
「……不敬罪に問われたら、私は鞭で打たれたのでしょうか」
「ひと昔前なら首を刎ねていたぞ」
「手当する側で、よかったです! 私だったら、死んでいたかもしれない」
なにを言い出すのか。テスはまじまじ、侍女を凝視していた。
「……ギルフォードというのは……」
テスは今一度、ゆっくり笑みを深くして、なにも言わずに侍女が握りしめて離さない喪飾を指さした。理由はわからないが、気づかれたらしい。
「風邪をひかすつもりか。さっさとよこせ」
「今お風邪を召されたら、寝込まなければなりませんね!」
「そんなに寝かしつけたいなら、一服盛るか?」
え、と侍女は息をのんで目を瞬いたので、テスは「冗談だ」とため息をついた。
「いじわるをするな。子供のころ寝間着を燃やされたのを思い出したではないか」
えぇ、と侍女はさらに目を丸くしていた。
「ふがいない王子で、悪かったな」
どうせ、彼女も無能だの情けないだのろくでなしだの、こんなのが王子だなんて情けないと、そう思っていたに違いない。テスはニヤリと笑ってみせた。
「さあ、それを返せ。世話をする者にいじわるをされると、もっと惨めな気持ちになる」
とうとう観念したか、侍女は喪飾を返してくれた。自分で金具を留めてテスはそれきり、口を閉ざした。着付けをしながら侍女は言う。実はこっそり演奏を立ち聞きしていた、と。
そんなことはとっくに知っている。
「私だけじゃないですよ。みんなこっそり聴いていたんです」
それも知っている。
「あれは、奥様が故郷から取り寄せたものなんです。ご存知でしたか?」
それは、知らなかった。
「こちらの国で作られた楽器が、あちらの国に贈られて、またこちらに来る。奥様は、とても我慢強くて謙虚な方です。民にあんなひどいことされて、夫に冷遇されて、怖い兵隊に取り囲まれて、なんども故郷に帰りたいと泣いて……毎晩、毎日。夫婦って、なんなんでしょうか。私は長年お仕えして、本当に、ええ、もう本当に、どちらの国にも腹を立てました。だけど奥様は、城主様を愛しているとおっしゃる」
そうか、ご令室の私物だったので没収を免れたか、とテスは精神的騒音に耳をふさいだ。
「奥様が国に対して唯一わがままだったのは、あの楽器一台だけです」
二十年。テスが生まれて今日にいたるまでと同じ歳月だ。この侍女も、あるいはその歳月、子をなし、誰かの妻だったかもしれない。
「城主様にあの楽器を教えたのは、奥様でした。殿下は、奥様ほど演奏がうまくありません」
だろうな、とテスは騒音に天井を仰いで閉口していた。
「私は、奥様と城主様が、あの楽器を一緒に奏でている時間が、本当に大好きでした。だから、兵隊たちがあれを外に持ち出すとき、とっても嫌な気持ちになりました」
俺のせいかよ、とテスは無言で反省する。
「雨ざらしにするな、と怒ったのは私です。一応、屋内に入れてくれたのですが、元の位置に戻さないので、なんて無礼な連中だと憤慨していたのですが……」
ふと、櫛を通す侍女の手が止まった。
「おかげで、殿下と巡り合いました」
髪に触れる手が、少し震えていた。
「歌が、あったのですね」
テスは、答えなかった。
「すばらしい演奏でした。私は……おそれおおくも、私は、殿下は私のために弾いてくださっているのではないかと、そんな夢想をしておりました」
「無礼者」
テスは、一言だけ告げた。
「今日、あの素晴らしい歌声を聴いて、私のためではなかったと、思い知りました」
そうだよユーリのための曲だよ、とは、テスは告げなかった。
「……どうしても、行ってしまわれるのですか?」
「これも仕事だと、思っている」
「だめ。どうか……」
「お前はわたしに命令するのか。最初から最後まで、なんと無礼な」
「最後だなんてっ!」
テスはさっさと席を立つ。支度が済んだなら行かなければならない。もうとっくに遅刻している。誰のせいだと思っているのか。
「殿下!」
「うるさい。もう下がってよいぞ。……見るに堪えないなら、付き添う必要はない」
「今、言わなければ、きっと後悔するから……」
侍女は不意にテスの裾を引っ張った。
「ずっと、好きでした」
大馬鹿ものが。テスは侍女の手を振り払って一人、闊歩する。あの女は、無礼だ。そして、ふと足を止める。死人に口なしだ、ちゃんと振ってくればよかった。
お前は生きて、このあときっとさらに大変な苦労をかけることになる奥方をお守りし、よく仕えるべきだ。そう、言い残せばよかった。
せめて公衆の面前ではっきり確実に、立派に死ぬ。それくらいしかテスの仕事はないのだ。
*
その日、フィーネは父の部屋に呼ばれた。あわただしく旅支度をしながら父は、しばらく王城を開けるが、母とよく協力し、なんでもすぐ母に相談するように、と言った。
「今さら領有権を主張するとは。通るとでも思っているのだろうか」
父はフィーネではなく、将軍を振り返った。
「我々にとっては、決戦の地ですからなぁ」
将軍はへらへら笑っていたが、父は、とても険しい顔をしていた。
「お前を連れていくべきか、いまだに決心がつかない」
将軍が言うには、ここぞという時があるとしたら今だそうだ。戦って勝ち得た正当な領土だ。そして、戦ったのは、フィーネの父と将軍と、そして、フィーネの知らないたくさんの兵士たちだ。
率いたのは、言うまでもない。その一戦で英雄は、英雄になったのだ。
歴史的にも経済的にも精神的にも、その地は我が国にとって重要極まりない、とても「思い入れ」のある土地だと、フィーネは教わっていた。そして、元領主の子息が今の枢機卿の地位にあるという、とても複雑な事情のある土地だった。
「二十年経って今さら何を言い出すのか。ゆさぶりだろうか」
そしてまんまと我が国は揺さぶられた、と将軍は言った。中央の命令を待たずに武装蜂起されたらたまったものじゃない。城内には不穏な言葉もささやかれている。
反乱。フィーネと父母が、生まれてこのかたもっとも恐れているものだ。
「さて、どっちのほうが当たりかな」
将軍は冗談のように左右の掌を見比べて、皮肉げに笑みを浮かべていた。
「どちらも外れであることを祈ってくれ」
父と将軍は、あわただしく出かけていった。二人を見送り、それからしばらくは、フィーネの身の回りはとても静かだった。静かすぎるくらいだった。
事件は、突然だった。夕食の時間、突然兵隊たちがやってきて、母とフィーネに「救出作戦」とやらをがなりたてたのだ。フィーネはあまりに唐突で、まばたきもせずすっかり萎縮して兵隊たちを見渡していたが、不意に、ばん、とテーブルをたたく大きな音に、全身びっくりして飛び上がってしまった。
兵隊たちの言い分は、隣国に嫁いだ先王の末の姫、フィーネにとっては叔母、母にとっては実の妹にあたる姫君が、夫に虐げられているという。
たしかに、そういう話はフィーネも母や身の回りの人たちから聞かされていた。そのたびに、異邦に嫁ぐというのはとても不幸で、そんな結婚は嫌だ、と思っていた。
おそろしい魔物にさらわれた姫君を助けなければならない。兵隊たちの口ぶりはたしかに、そのように聞こえた。
なりません、と母は一蹴したが、兵たちは、なおさら見捨てるわけにはいかない、わが国にとっては失ってはならない人だ、と食い下がった。
「処刑される」
ある兵士は言っていた。放埓王子の負債を庇って王宮の不興を買い、国家反逆罪で広間につるされ火刑にされる。そう言っていた。
「あの忌まわしい結婚行進をお忘れか!」
かの地にとっては侵略者の姉妹の一人だ、と兵隊たちは口々に恐ろしい噂を大声で怒鳴り散らした。フィーネはすっかり震えあがって、部屋の隅まですごすご下がってしまったが、母は鷹揚と「ただの噂でしょう」と兵隊たちをいなして追い返してくれたので、その時は、フィーネはそれほど恐ろしい思いをしなくて済んだ。
ところが、その晩、ふと目を覚ますとフィーネは真っ暗な小さな石の部屋に閉じ込められていた。何事か、と外の様子を窺ったり、人を呼んだが、なんの反応もなく、フィーネは次第に冷静さを失って、半狂乱になって助けを求めた。しかし、どんなに泣いても叫んでも出してもらえず、膝を抱えておびえるうちに、なかば気絶するように寝てしまった。
それからのほうが、辛かった。昏睡したせいで、さっぱり、時間がわからない。真っ暗な中、フィーネはさめざめ、手足をかがめて泣いているしかなかった。ふと、暗闇の一か所が四角く開いて、光とともに食事の皿とあたたかい飲み物が挿し込まれた。歯の根が震えて噛む力も食欲もなくて、だけど少し喉が渇いていたので、飲み物だけを口にして、どうにかまた一か所だけでも光がささないか待ち続けた。やがて、様子をうかがうように、コンコン、と壁をたたく音がしたので、フィーネはすがる思いで壁をたたき返した。声も出なかった。
壁が割れ、強烈な光が目に突き刺さった。
乱暴に腕をつかまれ、小さな木の椅子に座らせられる。闇も辛いが、光も痛かった。
強烈な光の中、痛くて目が開けられずに顔を覆っていたら、手をつかまれて無理やり筆記具を持たされる。やっとうっすらと見える視界に、ぼんやりと紙が見えた。なにが書いてあるのか、目が慣れなくて字が読めない。
読めない書類に署名をするな、と父母にいつも厳しく言われていた。お断りします、と、フィーネは断固拒否するつもりだったが、実際には小さな子供のように泣きじゃくりならが首を横に振るしかできなかった。
すると、椅子ごと向きを変えられ、鉄の扉を指さされた。あそこに入れられていたのだとわかると、逆に、恐怖が込み上げてきた。さらに激しく首を振って、フィーネはたやすく、その書類に自分の名を書き入れてしまった。
「ご心配なく」
誰かが言った。
「これは救出作戦であり、侵攻ではありません」
つい、フィーネは肯いてしまった。その責任に、暴力に、耐えかねたのだ。何度も何度も、肯いた。そうよね、これは人助けよ。私は悪くないわ。身内を助けるのよ。私は正しい。
フィーネは、普段暮らしている王城の地下にこんな場所があることも、そもそも地下があることも、知らなかった。いや、そういう場所があって、悪いことをしたらそこに閉じ込められるのだ、と教わったことはある。が、悪いことをしていないのに閉じ込められるだなんて、誰も教えてくれなかった。
そういう「事故」もあるのだよ、とどうして教えてくれなかったのか。母とやっと再会したフィーネは、わけもわからず喚き散らしたが、母も別室に軟禁されていたと知って、途方に暮れてしまった。
もちろん、母もフィーネもすぐに父に兵隊たちの横暴を手紙にしたため、言いつけた。
とても小さな事件だったが、その知らせが領土問題で遠出している宰相のもとに届いたのは、事件から三日も経ってからだった。
*
王とは形骸であるべきだ。テスがそう思うようになった最初のきっかけは、父の死だった。だが、少なからず、ユーリもまた、テスに影響を与えていた。
自分は人形だ、と言わんばかりの娘だった。均整のとれた長くしなやかな手足に、絵画のように理想的な顔かたち。その空虚に、テスは自分を重ねていた。たとえば洞穴の奥に宝物があるように、彼女の奥深くにまで踏み込めば失った自分を取り戻せるのかと、一縷の望みにすがって、あるいは好奇心で、肌を重ねたのだが、余計に底のないうつろさに身動きとれなくなって、そのまま溺れた。
本当にユーリなのか確かめなければならない。テスは、軽業師たちや踊り子たちの愉快な出し物を、上機嫌な顔で見守っていた。テスを真ん中に、左に城主、右に奥方の席があり、侍女は奥方の付き人として参列していた。
見なきゃいいのに。テスは、浮足経って挙動不審にあたりを見渡す侍女を視界の端にとらえつつ、遠目には酒と見分けのつかない琥珀色の炒穀茶を少し口に含んだ。
どうせばれやしない。テスは自分の死後に思いを馳せる。それこそ自害したと言えばいい。心中でもいい。城主に身内殺しの嫌疑がかからなければいい。それなのに、ここに奥方を呼ぶ理由が、テスにはわからなかった。
もっとも、見られたくはないだろうに。
ユーリが暗殺……これだけ衆目あっては暗殺ではなく処刑だが、目的達成できなかったとしても、どっちみち500の兵隊に囲まれていてはいつなんどき射殺されても不思議ない。
奥方も殺すつもりだろうか、とテスはこっそり隣をみやったが、仮面の下の表情はまったく読めず、きっと相手も同じように思っているのだろう、目が合ってしまった。
何もしないのが一番よい、とテスは考えていたが、では、一番よいと思われる手段が通用しないときは、どうしたらいいものか。
古来、王を滅ぼすのは酒と女と、賭け事という。そして、テスはめっぽう賭けに弱い。
賭けだな、とテスは高坏を干した。
体の傷はまだ癒えていない。もともと武芸は大の苦手だ。もつかどうか……。
すでに剣舞の主役はテスを指さす形で構えている。顔の下半分を面布が覆っていた。
確かめなければならない。ユーリかどうか。そして、城主の目的を。
みすみす殺されてやるわけにはいかない。この命はギルフォードを殺して永らえた。
呼吸を整え、よし、とテスは立ち上がった。
「どうなさいました、殿下」
すでに剣舞は始まっていた。何事もなければゆっくり鑑賞したかった、と、テスは独特の大地を踏みぬくような舞踊と異邦の旋律を名残惜しく見やる。
「ええ、剣舞が珍しいもので。おい、そこの衛兵」
テスはにっこり笑って近くの兵隊を呼び寄せた。
「剣を貸せ。気に入った。どれ、わたしにもできるかな」
ぎょっと、その場にいた誰もがテスを振り返った。テスは刀剣の重心を見極めると、しっかりと利き手で柄を握りしめる。
「酔ってらっしゃいますかな」
「さて、自分ではわからぬ」
「持ちなれないものを持つと怪我をなさいますぞ」
「こう見えても、達人ではないが覚えはあるのですよ、叔父貴」
なぬ、と仮面の下で城主が閉口するのを横目に、テスはひょいと観覧席の柵を乗り越えて舞台に入り込んだ。止めようとした衛兵を手で制し、強引に剣舞に割って入る。ざわめきの中の中、城主の声が聞こえた。
「殿下のご乱心はいつものことだ。まだまだ遊びたい盛りなのでしょう」
わずかに喉で笑いながら、城主は周囲に手を出さぬようわざわざ命じていた。
一撃。落ちた花が水に流れるような、しなやかな殺意だった。受けとめきれずに切っ先を横にそらして、テスは思い切って肩を間合いに押し込んだ。手を伸ばし、面布を引きはがそうとしたが、かわされてしまった。
間合いを引き離される。一回斬り結んだだけで全身、汗が噴き出した。
どうか。テスは祈った。ちっとも覚えの悪いうえに向上心も体力も根性もなくて、嫌がって逃げ回るテスを叩いて剣技を教え込んだ、亡き父に祈った。
どうかこの殺戮人形を止められるだけの力を。ユーリはテスを殺すまできっと止まらない。
再び白刃がまぐわう。
「ユールヒェン、お前なのか?」
テスは他に聞こえないように低い声で問うた。
お久しゅうございます、と、曲の調べとともに、喉元まで切っ先が迫り、慌てて刀身ではじく。衝撃を舞の回転で相殺し、不意に、彼女は止まった。そして、涼やかに、まるで殺意なんぞありません、と言いたげに麗しく微笑み、楽曲にあわせて型を披露して見せた。
テスは「こりゃかなわん」と、括目したまま汗だくで微笑んだ。テスなんぞ到底及ばぬ別次元の手練れだった。
彼女は自ら面布をとり、再度、改めてテスに切っ先を向ける。テスは、やっぱり出てくるんじゃなかったと後悔しながら、一挙手一投足、いつくるかわからない死の一撃に備えて、両手で柄を持ち直した。
なぁ、ユーリ。それでも俺は……。
振りかぶる。上からたたきつける刃と、下から心臓めがけて突き上げる刃、どちらが速いだろうか。きっと、ユーリのほうが速い。ユーリのほうが、ずっとずっと、苦しんだ。
ところが、ユーリはテスの予測しなかった動きをした、おそらくユーリも予測しなかったのだろう。ぴたりと間合いの寸前で静止したのだ。
まとめ髪に、白い蝶のようなリボン。
テスは、彼女の名前さえ知らなかった。
ユーリは眉一つ動かさず、テスを見据えたまま切っ先の向きを変えた。必死の形相で、全身全霊、ユーリの腰にしがみついて離れようとしない侍女の、脳天に向けて。
なにができただろうか。一瞬、どこまで時間を戻そうかテスは思いを巡らせた。
時間だけは不可逆だ。テスは剣を返し、ためらわずユーリのうなじから胸にかけて、切っ先を押し込んだ。
男に生まれたなら剣を持て、と亡き父はよくテスを叱った。
なんのためですか、とテスは問うた。
敵を倒すためだ、と父は答えた。人を殺すだめだ、とテスは言い返した。
ならば一撃で確実に殺さねばならない、そのためには腕力が必要だ、と父は言っていた。
骨を断たずとも、首を飛ばす剛腕がなくとも、人間の体には急所がある。
即死だったか、ユーリは死してなお、無感情にテスをにらんでいた。
死んだことにまだ気づかないのか、それともしがみついたまま気絶しているのか、押しかけ侍女は固く目を閉ざしたまま微動だにしない。
「終わったぞ」
テスは小さな声で合図し、彼女を死体から引っぺがそうとしたが、剣を伝い落ちた血が型まで滴っていて、この手で彼女に触れることは憚れたので、何もせず、じっと見守っていた。が、やがてわなわなと痙攣して絶命した死体に気づいたのか、鋭く短く悲鳴を上げて飛びずさったのを見て、テスは、少しだけ安堵した。
不意に、手を叩く音がしてテスはびくりと肩が跳ねた。振り返ると、叔父がおもむろに立ち上がり、そして、拍手していた。
「殿下! 我らが正統なる後嗣殿下! 殿下は見事に義父である枢機卿に似ましたな!」
罪のない踊り子をむやみやたらに串刺しにして面白がっていらっしゃる。
叔父はたしかに、そういった。隣で奥方が蒼白になって両手で口を押えて、首を横に振っていた。止めようと裾に伸ばした奥方の手を蹴り、城主は突然、仮面をかなぐり捨てた。
壊れる。あるいは、破れる。仮面が石の床にぶつかるのと、どちらが先だったか。
「突入!」
一瞬にして喧噪にのまれる。テスは汚れていないほうの手で奥方の侍女の首根っこをつかんで引き起こし、なかば放り投げるようにして奥方のいるほうに彼女を突き飛ばした。
そこが一番安全だ、と判断したのは、突然沸いて出てきた兵隊たちが、奥方の故郷の国章をつけていたからだ。
テスはさっさと侵入者の手に捕らえられ、壁際まで引きずられる。抵抗を試みたが、逆に腕を後ろに捻りあげられ、痛い思いをする羽目になった。
あっという間に兵隊たちが集結し、整列する。私兵500までもがその列に加わっていた。みな、テスではなく城主に正面を向けていた。
ふと、人垣が割れた。旧式の全身甲冑に鉄仮面の戦士が真ん中を貫くようにやってくる。そして、城主と奥方の前に跪き、深くこうべを垂れ、恭順を示した。
それを合図に、一斉に城主に向かって跪く。
「制圧しました」
よろしい、と城主は肯いていた。
「その面二度と見たくないと疎んじていたが、心変わりは人の世の常という。ご尊顔に拝し恐悦至極、と言うべきかな、元北領元首閣下」
身分と態度があべこべなことを城主は言った。鉄仮面をとったその顔に、テスははっと息をのんだ。銀髪青眼、中立国の元首、その人だった。
「これはいったい、どういうことですか!?」
悲鳴のような奥方の問に、城主は一瞥暮れただけだった。
「我々は、あなたを『救出』しにきました」
うっすらと微笑み、手を差し伸べる。
「なぜですか!?」
奥方は涙を浮かべながら夫である城主に詰め寄ったが、しかし、乱暴に突き倒されただけだった。震えながら見上げる奥方を睥睨し、城主は言った。
「貴様とは金輪際、夫でも妻でもない。離縁だ」
かしこまりました、と答えたのは鉄面皮を小脇に抱えた中立国元首だった。
「王城にお連れしろ」
「いやっ、待ってお願い! あなた!」
しかし、悲痛な叫びは無視され、隣国の兵士にさらわれるようにして、奥方は連れていかれてしまい、侍女も兵隊に抱えられるようにして連れていかれた。
「これよりわが国は古き盟約を復活させ、北領体制に戻る。領民に伝えよ」
なにを、言っているのか。テスは目を丸くして、言葉を失い、ただ眼前の光景を凝視するよりほかになった。
「おそれながら……ええっと、なんとお呼びすればよろしいですか?」
ふと、テスを捕まえている兵士が声を上げた。が、場の空気にそぐわない少し間の抜けた声だった。
「なんだ?」
「ええっと、閣下。いや、殿下? そのぉ……こいつどうしますか?」
「無礼者めが。まだ、後嗣殿下だ。お疲れのご様子ゆえ、ご退席願おう」
は、と兵士は敬礼してテスを引っ張ったが、テスは、俺の部屋はそっちじゃないぞ、と思った。思ったが、黙っていた。なぜなら、兵士は他のものにばれぬようテスにそっちを見るよう指さしていたからだ。その先には、テスの馴染みの劇団員たちが、軽業師に紛れて衣装の裾の下、小さく手を振っていた。
兵士はさっさと荷物をまとめて出立しようとしている遊行団の中にテスを放り投げ、あたりを見渡して言った。
「ご所望の品のお届けでさぁ」
流民訛の言葉だった。
「はいよ、たしかに」
声がしたほうをテスは振り返り、ぎょっと目を見張る。大きなトカゲが、ぬっと首を突き出してテスを見下ろしていた。
「いつも悪いな。持つべきはただ働きしてくれる親友さね」
トカゲは言った。
「俺もお前ももうやんちゃするような歳じゃねぇんだぞ。かみさんに怒られるわ」
「お前んとこの鳥鍋の味がかわらんうちは、大丈夫だろう」
テスはなにがなんだか、トカゲと兵士を交互に見比べ、すっかり押し黙る。兵士はそそくさと装備をとくと、今度は軽業師の恰好をして遊行団の中に紛れ込んだ。
「それでは閣下もしくは殿下、ご武運を」
ここで閣下はよせ、と、トカゲは言った。厳密には、トカゲの真下にしゃがんでいた、流民の男がそう言った。
「あなたは……」
テスは、今しがた見たばかりの銀髪青眼に、目をしろくろさせるばかりだった。流民の男は頭にかぶっていた布を半分ずらして顔を見せると、ニッと歯を見せて笑った。
「営利目的の誘拐だ、匿名で頼みますよ、後嗣殿下」
中立国元首が二人いる。
流民の男はテスの首に腕を回して引き倒して、風よけの羽織を上からかぶせた。
「お前がまいた種だ」
男は言った。テスは、てっきり説教されると思ったのだが、男は想定外のことを口にした。
「よかったな。今日は運よく、城下にも劇団と楽団と、あとなんだ? なんかいろいろ来ている。お祭りってのは、不思議と重なるものさね」
そして男はテスを抱きかかえるようにして小声で言った。
「あとで請求書送っときますね、セルヴァンテス殿下」
訛のない流暢なテスの国言葉だった。男の手は大きく、そして、温かくて、血塗られたテスの肩にちっとも気にせず励ますようにさすった。
「このまま城下で別の一団に便乗します。憧れの旅行の相手がこんなオッサンで申し訳ございませんね、この出奔クソガキが。俺でもこんな傍迷惑しでかさなかった」
きゅる、と大トカゲが肯くように鳴いていた。
彼に言われて、テスは、そういえばフィーネと星を見ようと、手紙で約束したことを思い出した。
いったい、いくつの夜を超えてきただろうか。
生まれゆく。この世界は再び、人の手と手で、動き出そうとしていた。