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狼王記イースサーガ


 これは、のちに狼王イースと畏れられた、ある少年が、あの王冠を戴くまでの物語である。

 少年の名はセルヴァンテス。酒宴で女を串刺しにして喜んでいたという悪評の残る魔物の王子である。しかし、玉座は彼を王に選んだ。民衆はついに王の帰還を見届けることになるのだが、果たして、いかにして彼は王となりえたのか。

 途絶えかけた王家の末裔に生まれた彼の子供時代は、けして、輝かしくはなかった。

 こんな話が残っている。十二歳のとき、彼は中立国にしてかつて領土支配下にあった湖水地方に留学をしていて、そのとき、逗留していた諸外国の王侯貴族の子息らに寝間着を燃やされる辱めを受けた。

 もちろん王子はそれを恥じて誰にも告げなかったのだか、人の口に戸をたてることはできず、本国に伝わってしまい、なぜ決闘を申し込まなかったのかとひどく詰られた。そして、意地の悪い貴族たちによって、女装した姿を絵に描かれ、病除けのまじないだという名目で国中にさらされるという、なんとも情けない話である。

 臆病という病除けだから王子のためだ、というのが彼らの言い分だった。

「では皆殺しにすればよかったか? ギルフォード以外はみな笑ったぞ」

 のちに彼は、その時、内政の混乱でたまたま遊学していたネフェルオーネ姫と出会い、帰国後も手紙をかわす仲となった。当時王子は十二歳、姫は十七歳で、大人たちは先の大戦の戦勝国の姫君と、敗戦し血統が途絶えた国の唯一生き残った末裔の王子の親交を、肝の冷える思いで見守っていたが、そのようなつもりのない二人を微笑ましくそっと庇護するものも、少なくはなかった。

 ネフェルオーネ姫には、おそらく、本当にそんなつもりはなかったのだろう。あの英雄の血族とは思えぬほど愚鈍で、しかし、純真な娘だった。政治も野心も知らぬ。

「毛布はあなたが持ってきてくれたのだと、ギルフォードから聞いた。わたしの侍従であり、もっとも信頼する親友でもある。ギルフォードの無礼を、どうかゆるしてほしい。すべて、わたしを思うゆえのこと。お詫びと、そして、お礼を」

 社交辞令と、あとは、口止めのつもりだった。どのみち口止めの意味はなかったが、さすがにまずいと思ったのか、それをネフェルオーネ姫が目撃したことは、王宮の家臣たちには伝わっていなかった。

 返事はないものと思っていた。誰かに送った手紙の返事があったことなどなかったから。

 黒い髪を掴まれ、ツバをはきかけられたことがある。かつてこの国と同盟して部下たちを犬死させた異国の軍人だった。なんといったのか、異邦の言葉なので聞き取れなかったが、少なくとも、お前を見ていると胸糞悪くなる、あの狼を思い出す、と、まったく覚えのないことで罵られたことだけは伝わった。

 なぜあの男と緑青の目をしているのか、と、父にうとまれた。

 知るか、父親の目と母親の目の色の間の色だろうが。しかし、なぜか周囲の大人たちは、なにかセルヴァンテスの知らない因縁でもあるのか、いいがかりをつけてくる。

 彼の父親は皇帝なきあと、国政を支える内閣として設立された枢機卿の一人で、実質、この国の最高位の為政者だった。しかし、王族ではなかったため、皇帝の座にはつかず、皇帝の息女の一人と結婚し、その間に男児をひとりもうけた。それがセルヴァンテスである。

 幼いながらに、テスは、自分はどうやらこの国にとって不都合な存在なのだと気づいてしまっていた。ことあるごとに、先の大戦のことを言われる。

 生まれる前に終わった戦争のことなんぞ、知るか。思っても、王子として慰問し、記念碑に敬礼し、勝利と復興を誓わされる。

 テスには大人たちが、ひいては民が、何を求めているのかさっぱりわからなかった。

なぜお前が正統な王位継承者なのか。

 大人たちは自分を見るといつも不機嫌そうだった。こっちが訊きたい。なぜ俺しか王子がいないのか。そんなに憎たらしいなら他に産めよ、と詰ってしまって以来、母とは疎遠になってしまった。

 留学は楽しかった。勉強さえしていればよかったので、彼にとっては都合のいい世界だった。そして、なるほど国外のほうが息ができると、覚えてしまったのだ。

 ちっとも理解しない、理解できない、こんな国にいることはない。

 留学をきっかけに、テスは物騒なことを夢想するようになった。あの平和ボケしたお姫様と結婚して、あの国のものになってしまおうか。

 さんざ、身に覚えのないことで罵られた結果、セルヴァンテスは父の期待を裏切り、国を捨て、この国が心底忌まわしく思う狼の国の子になることが、大人たちへの復讐だと考えるようになっていたのだ。

 セルヴァンテス王子、出奔。あの異端の王子さえそれはしなかった、大事件である。

 分別のない子供のすることだと、大人たちは笑った。

 王子の旅は順調だった。なぜ順調なのかさえ知らない目も耳もあかない子供だった。侍従ひとりを連れて死出の旅に出る愚者を、止めるものはいなかった。むしろ、手引きされたと言えよう。永世中立を誓約する湖水地方と、かつてその地を軍靴で踏みにじり、掠奪した土地のおかげで今や周辺国のどの国よりも富み栄えた侵略者たちの国の、ちょうどその間、冬には凍てつき、行商たちの交易路となっている湖のほとりで、事件は起きた。

 テスは、最初、真っ暗な闇の底のような湖の対岸に見えたたくさんの灯は、フィーネが自分を迎えにきてくれたのだと、都合のよいことを思った。ところが、すぐに背後に馬の嘶きと怒声のような号令が聞こえ、異国の言葉で「敵襲!」と、自国の言葉で「突撃!」と聞こえた。なにがなんだか、わからなかった。めまいを覚えて立ち尽くしていると、ギルフォードが強く手を引き、なかば抱えられるようにしてその場を離れた。

 が、すぐに二人とも銃を持った恐ろしい兵隊に見つかり、どこかの屋敷につれていかれ、とにかくギルフォードが何度も何度も「無礼ものが! このお方は……」と、テスが王子であることを大声で叫び続けたが、閉じ込められたきり、いっさい、無視された。ちゅ

 テスはただおびえて縮こまり、何が起きたのか、自分はこれからどうなるのか、考えようとして、しかし、何も考えらずに、ただただ、こんなことするんじゃなかったと、後悔するばかりだった。

 だが、このときのテスはまだ、本物の「後悔」を知らなかった。ギルフォードが熱心に怒鳴り続けること二刻半。

「無礼はどちらか。人の家でぎゃーぎゃー、ぎゃーぎゃー、どれほど迷惑をかけていると思っていやがる、このクソガキどもが」

 流暢な自国の罵詈雑言の返事があった。

 セルヴァンテスが中立国の王を直接見たのは、それが初めてで、そして、最後だった。

「単刀直入に言おう。殿下。お父上が、亡くなられたぞ」

 自分と同じ瞳の色だった。

 事件のあらましはこうだ。テスは、文通相手の姫君のうちに遊びにいくくらいのたやすさで「亡命」してしまったのだ。それが、かつて敵国だったその国の軍部には「領土侵犯」と伝わっていて、枢機卿たちにはたった一人の聖なる血統の末裔が、憎き東の狗どもの「捕虜」となったと伝わった。中立国の王は、まったく寝耳に水だった。

「蜥が荒野に呼ばれたとうるさいから出してみれば……」

 中立国の王は呻きながら額を抑え、そのかたわらに控える妙齢の麗しい秘書に「門限を過ぎたら城門を出るなと、お若いころから忠言いたしておりました」と言われ、苦々しく、しかし、なつかしそうに「あれは、こいつらくらいの年だったかな」と誰にともなく口にした。

 父が死んだ?

 テスはしばらく、その言葉の意味がわからなかった。シュツゲキ。国の兵隊。兵隊に撃たれて死んだ。テスは王子で、父は軍人だから。意味が、わからない。

 わからないが、テスは武装した父の姿を見るのは初めてで、そして、死体を見たのも、初めてだった。

 うそだ、何かの間違いだ、医者を呼べ、と、ギルフォードがいつになく取り乱してわめいていた。

 また父に怒鳴られて、罰として厳しい訓練に出されてしまう、とテスは思い、しかし、二度ともう怒鳴れることがないとわかって、どうしようもなく、なんとかしてくれと誰かにすがりたくて、しかし、誰にもなんともならないのだと、すでに冷たく体温を失った、なんどもなんどもたたかれたその手を握りしめ、どうかこの愚か者をいつものように叱ってくくださいと、一晩中、祈り続けていた。

夜が明けることには、遺体と、そして王子の身柄をひきとりに、また新たに兵隊たちがやってきた。

「二度と軍靴でこの地を踏むなと言ったはずだ」

 中立国の王はとても憤慨していた。王だけではなく、その場にいた人たちすべて、中立国のすべての人民たちが、とても怒っているのが、テスにはなんとなく、伝わった。

 このままここで暮らしますか?

 事件の責任者としてやってきた枢機卿は、奇妙なことを言った。父とはあまり通じ合わないが、しかし、もっとも力を持った枢機卿だった。

「卿は、ずいぶん背が伸びたな」

 中立国の王とは知り合いなのか、その枢機卿は会釈を返した。

「陛下におかれましては、わが国を見捨てて、ますますご清祥のこととおよろこび申し上げます」

「……そのクソガキを、俺の子だと吹聴して回ったのは貴様か」

「とんでもございません。なんと不謹慎な。わたくしめを嫌っていらっしゃるのは存じておりますが、聖なる血統に、いささか、失礼がすぎますぞ、新王陛下」

「誰もかれも不幸になる血筋なら滅んでしまえ、と呪った血統だ。いやがらせのつもりか」

「いっそ陛下の御子であればよかったのに」

「さすがの俺も、それは言葉がすぎると思うぞ。面倒な仕事を増やしやがって」

 人が死んだのだぞ、父が殺されたのだぞ。テスは、茶菓子のような二人のやりとりに、怒りに青ざめた。なんという人でなしどもか。

「子をなさないと、そんな言いがかりまでつけられるか。まいったな。今から嫁をさがすから、さっさと帰ってくれ」

「おや、生かして返していただけるのですか?」

「暗殺を疑われたくないのでな。戦時中なら『護衛』をつけて送り返してやる。持ち帰る死体が三つにならなくて、よかった」

 三つ目がわたくしなら、誰も持ちかえるものがいませんね。枢機卿は、なんとも朗らかに微笑んでいた。

 帰路、どうして父を助けてくれなかったのか、とテスは若き枢機卿にくってかった。が、彼はテスをまばたきもせず見つめたまま、間髪入れず、隣に控えていたギルフォードの横っ面を杖で殴りつけ、言った。

「侍従のお前がしっかりお守りしなかったからだ。死んでお詫びしろ」

 それを聞いて、テスは慌てた。ギルフォードは悪くない、すべて自分の言いつけに従っただけだと、弁明した。

「本来ならば、殿下を危険な目にあわせ、わが国の重要な柱である優秀な枢機卿を一人失った大罪の責を問うところですが、傷心の殿下には、ギルフォードが必要だ。そうですね、殿下。返事を」

 その時からだ。テスはこの柔軟に微笑む男を、魔物のように怖れるようになった。

 きっといつか、ギルフォードはこの男に殺されてしまうかもしれない。そう思った。そして、父はおそらく……。しかし、それをテスが王宮で口にすることはなかった。

 少しくらいは、期待したのだ。帰ったら、母は、お前だけでも無事でいてくれてよかった、と。物語には、よくそのように書いてあるからだ。しかし、母は父の形見となってしまった煙草入れの小箱でテスを殴りつけ、お前なぞ産まなければよかったと、罵った。

 母上。俺は、生まれてこないほうが、よかったのでしょうか。

 漠然と、いつも誰かに呪われているような気がするのだ。生まれすぐに祝砲の音に驚いてひきつけを起こして亡くなったという、名前も知らない兄か。それとも、まったく覚えのない先の戦争の亡霊たちか。

 殿下のお父上は、殿下を守り、殿下に生きて、よき王になってほしいと、そう願って、勇敢に敵兵と戦って、戦士として亡くなったのです。

 そう言ってくれるのは、ギルフォードだけだった。

 無論、ネフェルオーネ姫との文通も禁止された。事件のあと、後見人となった枢機卿は、傷心のテスを憐み、彼がさびしくないよう毎晩のように舞踏会を開き、王宮はまるで戦前の華やかさを取り戻したかのような、きらびやかな日々が続いた。

 他の枢機卿たちもこぞって王子に貢物をするようになった。金や、兵隊や、女を、次々と与えるようになった。内向的な王子のために観劇や音楽会が催され、王宮には絶えず「よそ者」が出入りするようになっていった。芸術方面に理解のある王子は、画家や作家たちのための小部屋を用意し、そこで熱心に議論を交わし、いつも見目麗しい女を連れ歩き、彼の周りにはたくさんの「友人」が集まり、彼らと王宮のため池に遊覧船を浮かべて、海戦ごっこをするのが王子の近頃のお気に入りの遊びだった。

 もう一つ、お気に入りがあった。いにしえから神々に祈りの歌をささげてきた、聖歌隊の娘の一人に、王子はご執心だった。

「神様はわたしより良い男か? 天高くお前を見下すものより、目の前のわたしのために歌ってくれ」

 などと、娘を口説いて困らせていた。

「お前のために作曲家を呼んで歌を作らせた。いい曲だ。譜は読めるか?」

 ふるふると首を横に振る娘の肩に手を添えて、「では、わたしが歌ってみせよう」とむつまじくする様子に、王宮は、多少は眉をひそめながらも、多少の色香は必要だと、片目をつむっていた。なにより、あの雌狼の末裔との間に子など儲けるくらいなら手当たり次第はけ口にしているほうがマシだ、と、大人たちはそう考えている様子だった。

 そして、いつでも王子の三歩後ろには、侍従ギルフォードの姿があった。

 王子は変わった。あの貧弱で臆病な子供が、社交的で博識で多才な立派な青年になろうとしている。後見人である枢機卿は、とても満足そうに微笑んで、さらに王子に与える小遣いを増やし、贅沢を国内外に見せびらかせた。

 枢機卿は黒い小鳥を飼っている。つがいを探して籠の中よく歌う、と、民に揶揄された。

   *

 事件があってからすぐ、フィーネは父と母に呼ばれ、手紙をすべて、没収されてしまった。

「だけど、間違いだったのでしょう?」

 フィーネはなんとか文通を再開させてもらえるよう頼んだが、聞き入れてもらえなかった。

「隣の国の人と文通をしてはいけないのですか。かつて戦争をしていたからですか」

 フィーネは食い下がったが、しかし、母には「お前は自分の空想に手紙を書いているだけです」と言われてしまい、泣き寝入りするよりしかたなかった。

 だったら、会わせてくれればいいのだ。手紙はすべてフィーネの目の前で燃やされてしまったが、手紙の一言一句、よく覚えていた。背が伸びたと書いてあった。どれも、美しいこの国の言葉でつづられた手紙だった。お礼と、それから、ささやかな意地もあって、フィーネも彼の国の言葉で手紙を書いたが、言葉づかいについて添削されてしまった。

 時間や身分でかわる挨拶よりも、いつでもだれにでも失礼のない「ごきげんよう」という言葉があると教えられ、なんと複雑で繊細な、と、不機嫌になったのも覚えている。

 事件があったからこそ。

 よき友人であるために、フィーネは終戦後、交互に行われてきた記念日の祝典に母とともに列席することになった。式で読み上げる平和のための宣誓文を暗唱するかたわら、テスのことばかり考えていた。付き人たちに「姫殿下は色白で首から肩までが真珠のようになだらかでいらっしゃいますから、こんなドレスを着たら世の殿方は一目で恋に落ちますわ」などとおだてられて、まんざらでもなく頬を染める日々だった。

 彼に会える。どんなふうに成長しただろうか。あれから友達ができただろうか。

 フィーネはただ、楽しみにしていただけだった。幼馴染と再会し、語り合う時を。

 ところが。

 テスは、変わり果てていた。

 庭に舟を浮かべて、衝突させ、沈んだほうを池に突き落として笑う遊びをしていた。一緒に、と誘われたが断った。フィーネには、それはとても暴力的に見えたのだ。

「だって……溺れたり、事故があったら……」

 あたりまけて転覆した方の乗船者たちに「爆弾だぞ!」と果物を投げつけて笑っていた。水面に浮かぶ蓮の葉のようにドレスの裾が広がっているのを、竿でつついて下着を見ようとするのを、女もけらけら笑っていた。

 フィーネは、それは、狂っていると感じた。テスも落ちて、しばらく悪い仲間たちと水を掛け合ったあと、一人、泳いで岸に戻ってきた。

「くさい水だ、姫君には刺激が強すぎたか?」

 そういって、紙についた水草を払った。

 会ったら、なんて声をかけよう。どんな話をしよう。ひさしぶり、元気にしてた? そういう言葉を、期待していた。

 お母さま。たしかに私は、自分の空想と仲が良かっただけでした。

「危険です。一国の王子ともあろうお方が、なんと無思慮な」

 すると、テスはびしょ濡れのまま眉を片方、ピンと跳ね上げた。

「沈んだまま浮かんでこないどんくさい者もいたかな。今度、底をさらってみるか」

 フィーネが絶句していると、冗談だ、とテスは笑った。

「溺れるようなら選ばれしものではない。我々は王族だ。落ちても助かる。自分だけは死ぬことはないのですよ。姫殿下も、溺れてみますか? 恐怖が消えますよ」

 フィーネとは、呼んでくれなかった。

「今日は暑い。水遊びにはうってつけですよ!」

 突然、テスはフィーネの左手をつかむと、力任せに引き寄せた。用意のなかったフィーネは躓きよろけ、テスの胸に飛び込む格好で倒れてしまった。

「会ったら言おうと思ってた」

 耳元、はじめて聞く男の甘いささやきに、どくんとひとつ、大きく胸が脈打った。だけど、それはフィーネが思い描いていたときめきではなく、恐怖の鼓動だった。

「お前の国の兵隊に、俺の父は撃ち殺された」

 よどんだ池の水のにおい。衣服に絡んだ水草のぬめぬめした感触が頬にさわって、それがあまりにも気持ち悪くて、フィーネはテスを突き飛ばしてその場を走り去った。

「おい、王子が振られたぞ! だれか慰めてくれ!」

 逃げるフィーネの背中を打つ爆笑は、雷鳴のようだった。

 たとえ手紙が燃やされても壊れなかった思い出が、ものの見事に砕けて消えた。こうして、角砂糖ひとつほどのフィーネの初恋は毒沼の底にのまれて、失われたのだった。

 あんなに楽しみにしていたのに。会って話すのを心待ちにしていたのに。テスのことが恐ろしくなってしまい、フィーネは体調が優れないと、歓迎のための晩餐会を欠席させてくれるよう、母に頼んだ。しかし、それは国の代表としておとなった者の義務であり、この日のために準備してきたすべての人たちへの裏切りであり、とても失礼なことだと、諫められた。

「たとえばこの花ひとつ」

 母は花瓶に生けられた薄紅の薔薇を一本引き抜き、フィーネに差し出した。

「あなたは自分で育てることができますか? この花をそだて、切り、美しく飾った人たちは、あなたが我が国とこの国が未来永劫、よき友人であるために、二度と戦争をしないために、平和を祈っています。彼らの気持ちに、耳を傾けなさい」

 そして、国から持ってきた髪飾りのかわりに、その花を結い上げたフィーネの髪に指し、そっと優しく落ち着かせるように肩を撫でた。そして、フィーネの右手をとり、淡く口づけをして言った。

「我々の英雄であり、わたくしの妹でもある、この指輪の主は、とても勇敢な人でした。だけど、人の痛みを知る人で、人の恐怖も、知る人でした」

 だから打ち勝つことができたのだ、と母は言った。

 晩餐会はそつなく滞りなく、形式に従って時間通りに予め決められた通りに、何の問題もなく完了したが、フィーネは何を口にしたのが、まったく覚えていなかった。

 母は諸侯たちと大事な話があるから、と、フィーネだけ先に部屋に下がらせてもらい、正装を解いて寝間着に着替え、髪をほどいて、寝台に横たわり、あかりをおとし、侍女たちが退室して、ひとりになり、誰もいなくなった夕闇の底で、やっと、フィーネは枕に顔をうずめてあふれる涙を吸わせていた。

 ひとしきり泣いて、泣いてもしかたないので、もう寝ようと寝返りを打ったときだ。月明りに、かすかにカーテンが揺れていた。窓を閉め忘れたのだろうか。寝台から這い出し、窓辺に立ったときだ。窓の外に、誰かいるのに気付いた。

 ひやっと項の凍る思いだった。驚いて声を上げようとしたが、口をふさがれた。

「静かに。俺だ。テスだ。昼間は悪かった」

 それはたしかに湖水地方で会ったころのテスの表情で、数学の問題が解けずに頭を抱えていたフィーネと、自分の答案をすり替えたときと同じ声音で、ほっとして、さっきとは違う涙が込み上げて、フィーネは再び、泣きべそをかいてしまった。

「謝りにきた。ここじゃ大人がうるさいんだよ」

 テスは物音を立てないように、丸めた布を床に置いた。

「覚えているか? 旅をしよう」

 えっ、とフィーネは息をのんだ。

「俺はあきらめていない。手紙に書いた約束を、フィーネは忘れてしまったか?」

 星を見に行こう。山は冷えるから赤い外套を羽織って。

「ちょっと山に登るには遠いけど、地上の星を見に行こう。夜の聖都は美しいぞ」

 やっと、フィーネと呼んでくれた。

「本当にごめん。語り合おう。なんでもいいから。時間の許す限り」

 窮屈な檻を抜け出そう。

 さあ、と、差し伸べられた手を取るか、フィーネは少し迷った。こんなことをしてはいけないのだと頭ではわかっているのだけれど……。

「後で一緒に怒られてくれますか?」

 結局、テスの答案だとばれて、教師に二人とも倍の課題を出されたことを思い出した。

 縄はしごを使って部屋を抜け出し、衛兵の目を盗んで、運搬用の門に停めた辻馬車に乗り込む。こんなにうまくいっていいものか、心配になるほどテスは用意周到だった。

「暇だったから」

 テスは少し得意な様子だった。

「式典の工程表を全部覚えたんだよ。晩餐会が定刻通りに終わってよかった」

 その明晰な頭脳を、少しだけでも国家のためにお役立てください。御者席から声があった。

「ギルフォード、今夜だけは説教はなしにしてくれ。明日にはしこたま怒られるのだから」

 なるほど、彼が無二の親友だとテスが手紙になんども書いたギルフォードか。フィーネは、彼らが自分の空想ではなくちゃんと実在すること、そして、二人の間に、普通の子供と同じ近しい友情を感じて、少し、安心した。

「はじめまして」

 握手をしようとしたら、ぎょっとした様子で目をみはり、それから、指示を仰ぐようにテスを振り返った。

「かまわないだろ? 今夜はただの町娘だ。ちがうか?」

 テスはにやりと笑い、ギルフォードは馬車馬を御したまま、おっかなびっくり片手だけ手袋をとり、フィーネの手に触れたので、フィーネは親しみを込めて、両手でその手をしっかり包むようにして握った。

「私、一度辻馬車に乗ってみたいと思っていたのです」

 いつも馬車に乗るときは四方を壁に囲まれ、窮屈で息苦しかった。庶民の乗る風を纏って颯爽とかけゆく馬車がうらやましかった。

「乗り心地はよくないですが、夜風がとても心地よいですね」

「馬上はもっと爽快だ。乗馬は?」

 いいえ、とフィーネは答えた。もう女が馬に乗らなくてもよい時代だと、将軍に言われたことがある。

 もしよその国に生まれたら、乗馬を覚えたい。だったら俺が教えてあける。

 そんな、他愛ないことをたくさん話した。

 王なんぞ形骸でいい、とテスは言った。

 幾千の瞬く星のようにきらめく街の灯りの中を、小さな馬車はがらごろと進む。

「俺たちは人の望みを叶えてやればいい。そう思っている。だけど、俺は、この国が俺に何を望んでいるのかわからない」

 それはフィーネとて同じだった。

「もうすぐ花火があがる。戦没者の魂を慰め、亡霊とならぬよう、天に導くための習わしだ。花火が終わるころには、ちゃんと戻ろう」

 あなたは、あなたのお父様を射殺した私たちを憎んでいますか。

 フィーネの問に、テスは、憎まなければならないと信じてる輩がいる、と答えた。

「嫌になる。嫌になった。悲しんでいる場合じゃない、奴らを憎めと言われた」

「それは……」

「いや、今のは聞かなかったことに」

 テスはしくじったとばかりに眉根を寄せて口元を拳で隠して流れゆく街の景色に視線を逃がしていた。フィーネには、それが演技なのが本音なのか、区別がつかなかった。だけど、どっちを信じたいかというと、自分の感情の扱いがよくわからない様子の、今のテスのほうを信じたい。というよりも、彼に恨まれたくなかったし、彼を憎みたくなかった。

「この国にいると、自分は生まれてくるべきじゃなかったと、心底そう思うんだ」

「……あなたのために申し上げるのならば、それは、きっと私の国にいらしても、同じです」

 国境侵犯だと、あの日の「事故」を理由に戦争をはじめようとした人達がいる。フィーネは生まれた時から、父に、母に、周囲の大人たちに、戦争だけはだめだと教えられた。悲しいから。辛いから。民が苦しむから。

「私とあなたが、仲良くしているだけではだめなのでしょうか」

 平和の証で嫁ぐのは政略結婚だ、とテスはバカにして笑っただけだった。

「そんなに簡単なら戦争なんぞすることなかったんだ」

「なぜ、平和はそんなに簡単ではないのでしょうか」

 フィーネは、お守りとして将軍から譲り受けた、おそらく、とても自国にとって重要な指輪をじっと見つめた。軍神のごとき指揮で国に勝利をもたらした英雄は、しかし、ゆえに不幸のすべてはお前のせいだと言われて育ったフィーネやテスの弱気を叱るだろうか。だとしたら、せめて、これからどうすればよいのかくらい、教えを残してほしかった。

「平和なんか見えないじゃないか、ばーか」

 ふと、テスが誰にともなくつぶやいたとき、天の口笛のような最初の花火があがった。

 平和でなければなければならない。そのためには戦争してはいけない。

 少なくともフィーネは父母から、将軍から、すべての大人たちからそう教えられた。亡き英雄は語らない。たくさんの伝説と思い出と夢を語るが、しかし、平和が何なのか、誰一人、教えてはくれなかった。

 戦争をしなければ平和がわからない? そんなバカな話があるものか。

 最初の花火は、落雷の音がした。

 不意に辻から人が飛び出してきて、御者がちいさく叫んで鋭く手綱を引いた。馬車は急停車し、何事かと身を乗り出したテスの姿が不意に消えた。それから、目深帽と襟巻で顔を隠した男がぬっとあらわれ、フィーネをかかえて馬車から引きずり下ろすと、路地の暗がりに放り込んだ。ギルフォードが殴り倒され、三人に囲まれて蹴りつけられながら何が叫んだが、二発目の花火の音が近すぎて、かき消されてしまった。

 髪を掴まれ、汚物と泥水の中に突き倒され、フィーネは助けを呼ぼうと声を出そうとしたのだが、しかし、恐怖で喉が引きつれて、ネズミの子ほどの悲鳴も出なかった。

 首に、何か輪をかけられた。藁の輪だ。

「首飾りだ、よく光るぞ」

 隣寸をする音が耳元で聞こえた。顔の真下から、火があがった。

 全身全霊、悲鳴を上げてフィーネはそれを外そうと、火から離れようともがいた。輪はすぐに外れたが、服に火が残った。

 だれかが、おそらくテスが叫んで上着を脱がせて、フィーネは火だるまになる前に救出されたが、しばらく目の前に火が燃えているようで、なんどもなんども顔の前を腕で払った。

 あっという間だったのだ。

 連発する花火の打ち上げる音とはじける音が重なって、人ひとりの生死の瀬戸際の悲鳴なんぞ、誰も聞いていなかった。

 花火の音は、大砲の音と同じだという。

 フィーネは恐怖を恐怖と認識することもできないほど混乱して、金切り声のような鳴き声を上げてその場にうずくまっていることしかできなかった。

 ギルフォードが拳銃を手に下手人を追おうとしたのを、テスが止めた。

「手当が先だ!」

 暴漢たちは、馬車も盗まなかった。

「ごめん! ごめん、こんな……」

 半狂乱になっているフィーネを落ち着かせようと、テスが抱きすくめたのを、フィーネは力の限り突き放した。

「復讐のつもり!?」

 テスは一瞬きょとんと瞬きをして、それから、暗がりでもはっきりそうだとわかるほど、傷ついた顔をしていた。

 金も馬車も取らなかった。テスの国の言葉だった。ただフィーネを焼き殺そうとしたのだ。

「ちがう……」

 今にも泣きそうな顔でテスは言った。声はすでに、泣いていた。

「怖い思いをさせるために、この街の灯を見せたかったわけじゃないんだ……」

 両手で顔を覆い、テスは苦しそうに、本当に苦しそうに呻いた。

「……ちがうのですね?」

 痛かった。とても痛かった。まだ肩のあたりからぼうっと炎が立ち上っているようで、すっかりフィーネはすくみ上ってしまって、自分で立ち上がることもできず、結局、テスに抱き上げられて馬車に戻った。

 ギルフォードがあばらを抑えながら、フィーネのやけどの具合を見てくれた。ギルフォード自身は顔の形が崩れるほど殴られているというのに。

「私は、大丈夫です」

 痛すぎて、怖すぎて、フィーネの頭は逆に、凍えるほど冷たく冴えていた。

「テス。あなたの意思では、ないのですね」

 隣で、びくりとテスが肩を震わせた。

「すまなかった……俺は……」

「ちがうのですね?」

 かたく拳を額に押し当て、テスは、しかし何も言わなかった。

「あなたを信じます」

 応急措置だけど、と、テスは自分の襟布を外してそっとやけどのあとを軽く手で押さえた。その手が、白く凍えて震えていたので、フィーネはさらに、その上に手をあてがう。

 痛い。ちょっと皮膚が焼けただけで、骨までえぐるほどに痛い。

 軍靴だった。暴漢たちの足元しか見えなかったけれど、でも、確かに見た。

 何度も見たことがある。将軍の靴と同じだった。フィーネの国では将軍も兵卒も同じ軍靴を支給している。すぐに新しいものを支給できるよう、同じ型を使っているのだ。それと、足跡で身分がばれないようにするためだ、と、教わった。

 フィーネの国は、平和だから女は馬に乗るなと教え、戦争をしたがる人達がいる国だ。

 フィーネは戦争を知らない。だけど、少なくとも、痛くて恐ろしいから、だから、戦争はいけないのだと、そう思った。

 そんなつもりじゃなかったと、うなだれるテスがかわいそうだ。

 その程度には、フィーネは戦争を知らない子供だった。

 王宮に戻ると、ものの見ごとに、フィーネは母が、テスは枢機卿が、待ち構えていた。

「この、愚か者!」

 フィーネを見るなり母は怒鳴り、しかし、首のまわりのやけどに気付いて一瞬で顔色を蒼白に変えた。

「これは事故です! すべて私が悪いのです!」

 だれに問われるよりもはやく、フィーネは叫んだ。

「一人で花火を見にいったのです。そしたら火の粉が降りかかって、やけどをしてしまいました。たまたまセルヴァンテス様が侍従とともに助けてくださったのです」

 いや我ながらなんと下手な嘘かと思った。だけど、なんとなく、どんな嘘でも、絶対に今この場でだれかのせいにしてはいけないと、それだけを考えていた。だから、大きく、はっきり、声の届くかぎりすべての人に聞かせるつもりで、もう一度「助けてくださったのです」と叫んだ。大人たちが聞き入れないならもう一度、と思って息を吸った時だ。

 母は、何も言わずにフィーネをしっかり抱きしめ、頬に何度も口づけをした。歯を食いしばって嗚咽を我慢する母に、ようやく、フィーネは、自分がもしかしたら、二度と母に会えなかったかもしれなかったことを自覚して、急に、恐ろしくなった。

「なんと……愚かな……」

 母の手に、声に、震える体に、今まで張りつめていた緊張が砕けて、とたん、フィーネはわぁ、と声を上げて小さな子供のように泣きじゃくった。

「ごめんなさいっ……ごめんなさい!」

 明日の式典どうしようかな、と考えていた。明日のことを考えることができることが、なんと幸運で幸せなことだろうかと、そう考えていた。

 医者に手当してもらっているときが一番痛くて、フィーネは何度もひーひー泣きべそをかいて、ついに涙が枯れ果てるころ、泣き疲れて少しだけ、うんと小さいころのように母の膝に額を押し付けて少しだけ眠った。

 結局、フィーネは予定どおり、肩口の大きくあいたドレスで式典のための宣誓文を、原稿のとおり読み上げた。首回りのやけどのあとに、みな、ぎょっとした様子だったか、何事もなかったかのようにフィーネはあらかじめ決められた通り、式典をやりすごした。

 それが、フィーネなりの暴力への復讐だった。だって、事故だから。犯人がだれか言い当てるのが、恐ろしかった。言いたくはなかったのだ、自分の国の民が、よその国で自分を焼き殺そうとしたなどと。

 彼らの目的が再び戦争をさせることならば、なおさら、フィーネは平和のための言葉を読み上げなければならないと、そう考えたのだ。

 母も何も言わなかった。何事かと駆け付けた家臣たちはフィーネのやけどのあとみるなり、天井を突き破らんばかりの怒髪天で母に詰め寄ったが、事故の一言で貫き通した。フィーネが悪いなんてことはない、と、なんとか聞き出そうとすり寄る大人たちもいたが、すべて、無視した。あまりにもしつこい大人には「国が今日のために用意してくださった首飾りがつけられなくて残念でしたわ」と、言い返してやった。

 痛かった。とても、怖かった。花火と首飾りが、嫌いになりそうだ。

 何事もなかった、と、大人たちの質問攻めをかわし続けているのはセルヴァンテス王子も同じ様子だった。彼のほうが、身のかわしが手練れた様子で、老獪そうな臣下たちに囲まれても、のらりくらりと、鷹揚そうに見えた。

 ギルフォードの姿が見えないが、どうしただろうか。彼のほうが怪我の程度がひどかった。

 だけど、もう、きっと二度と、二人に気安く「元気にしてた?」と声をかけることはできないだろうな、と、そう思うと、とても寂しくて悲しかった。

 式典を無事に終え、怪我の手当をしてもらっているときだった。ふと、鏡に映る自分の姿に気づいた。

 このやけどのあとは一生消えない。そう思うと、やっぱり涙があふれてくるのだった。

 だれかにこれほど恨まれている。フィーネが初めて知る恐怖だった。

   *

 事件を起こして恥ずかしながら戻ってきたテスを、枢機卿はいつもとかわらぬ笑顔で待っていてくれたが、しかし、フィーネのように抱きしめることもなければ、テスも泣きじゃくることもなかった。

 そういえばあの晩もこの男は、お茶会のような笑顔だったことを思い出し、そして、ギルフォードが殺されてしまうかもしれない、と、ようやく気が付いたのだった。

 なんで俺じゃないんだよ。

 その瞬間、テスは地面に押し付けられて泥水に視界を奪われ、見ていなかった。服が濡れていたのと、外套が厚手だったおかげで、フィーネは顔から上が丸こげにならなかったが、もし油だった助からなかっただろうな、と、現実逃避気味に考えていた。

 油だったら俺も焼け死んでいたな。そんなことを、考えていた。

「聞こえていますか、殿下」

 枢機卿の声に、はっと、テスは顔を上げた。目を合わせないよううつむいていた顔を覗き込まれ、なんの感情も読み取れない冷酷な目から逃れようと、さらに顔を背けた。

 枢機卿の自室に呼ばれるときは、たいてい、いつもこうだった。

「ネフェルオーネ姫殿下は、とても聡明で勇敢な女性です。とっさに殿下と、そして、ギルフォードをかばい、ともすれば国際問題に発展する難問を瞬時に解決なさいました。戦争の火種を握りつぶした手腕には、幼いながらも感服いたしましたよ」

 それにくらべて、と、卿は向かい合って座るテスをさらに視線で追い詰めた。

「わたくしなんぞ、下手人を逮捕して処刑することを考えてしまいました。それどころか、なぜ殿下と姫殿下をお止めせず、万一にもあってはならない『事故』にあい、姫殿下の身を危険にさらし、心にも御身にも、生涯消えることのない傷をおわせた重罪人であるギルフォードを殴りそうになりましたよ」

 テスはゆっくりと視線を上げて、目の前の魔物をにらみつけた。

「また、お前の仕業か?」

「殿下はよほど、自分の失敗をわたくしども国家のしもべになすりつけたいご様子」

 テスは思わずつかみかかろうとして、ぐっと己の拳をおさえた。

「……俺が無傷で、満足か」

「御身は皇帝になられる聖なる存在。狗の国の姫君がいかに醜いやけどをおっても、陛下は涼やかであらせられるべきです」

「言葉に気を付けろ。まだ、陛下じゃない」

「一日でもはやく、陛下とおよびしたいと願っていますよ」

 何を言っても無駄だ、と、テスはあきらめていた。この魔物は人の悲憤を理解するどころか、食い物にしている。怒ったり、悲しんだりするだけ、みじめな思いをすることになる。

 テスは、どっと息を吐きだした。もとはといえば己の浅はかが原因だった。

「俺が皇帝の座に就いたら、まっさきに貴様を更迭してやる」

「更迭とはお優しい。すぐに返り咲きますよ」

 ふと、枢機卿は上着を脱ぎだしたので、テスは驚いて顔を上げた。

「ご覧に入れるのは初めてでしたね」

 目に飛び込んだ無数の醜い傷跡に、テスはしばし、言葉を失った。軍人たちの古傷とは異なる、執拗な傷がいくつも彼の身に刻まれていた。

「わたくしは、己の実の父を殺して今の地位を得ました」

 あ、と小さくテスは息をのんだ。何の傷だか、わかってしまった。

「たやすく奪えるとお思いか?」

「だけど、俺はお前が大嫌いだ」

 さようでございますか、と、卿は衣服をただすと、そっと立ち上がり、何かを持ってきてテスの目と鼻の先に突き付けた。

 刃物ようだと感じたそれは、父の形見の煙草入れの小箱だった。母が持っていたはずだが、なぜ、それが今。よりにもよってこの男の手あるのか、わからなかった。

「殿下がわたくしめを疎んじても、蛇蝎のごとく嫌っても、わたくしは、どこまでも、殿下の身を重んじ、お守りいたします」

 やおら卿はひざまずくと、うやうやしく煙草入れを掲げ持ち、言った。

「殿下の母君から借りてまいりました。これに殿下の心臓を入れるためだとお伝えしたら、こころよく、譲渡していただけましたよ。親権とともに」

 テスは、自分でも顔から血の気が引いていったのがわかるほど戦いて、一瞬、すでに心臓を抜かれたかと疑るほどには、息の根のとまる思いだった。

「後見人の立場から、正式に養子縁組していただきました。どうぞ、父としてお慕いください。いとしい、おろかな、わたしの傀儡よ」

 たまりかねて、テスはその場を逃げ出した。不意に吐き気を催し、少し、戻した。

 どこへゆけばいいかわからないつま先は、自然と、ギルフォードの方へと向いていた。テスは自分にあてがわれた王子のための部屋よりも、ギルフォードのいる侍従部屋にいることのほうが多かった。

 戸をたたくと、いよいよ青紫色にはれあがって目も鼻もないぼこぼこの顔が出迎えた。医者の手当もないまま、自分で治療していたらしい。

「みせてみろ」

 テスは医者のまねごとをして、ギルフォードの包帯を巻きなおしてやった。

「お前の主治医になるために、俺は医学書を読んだわけじゃないぞ」

 では、なんのためか。なんのために、怪我の治療のしかたなんぞ知っているのか。

「知識と金は、いくらあっても不要になることはないな」

「殿下……」

「言い訳を聞きに来たわけじゃないぞ」

「申し訳ございません」

「すまなかった」

 テスは、ともすると、フィーネもギルフォードも、同時に失っていたことに気付いて、包帯を巻く手を止めた。

「すまなかった。俺は、ただ、フィーネと二人で話をしたかっただけだった」

 そして、遠くにいかずともこの国は美しいと、自分を納得させたかった。いや、そんなことどうでもいいのだ。ただ、会って、話をしたかった。また声が聴きたいだけだった。だけど、それはギルフォードの体をこんなにボロボロにして、フィーネの心と体に消えぬ傷を残してまで、するべきだっただろうか。

「会わなければよかった」

 気持ちを知られぬよう下手な芝居までうって。いや、でももしかしたら自分は彼女の真綿のようなやわらかいところを、傷つけたかったのかもしれない。

 巻きかけの包帯を結んでやる。

「もう会わない。二度と」

 それが賢明というものだ。しかし、テスはあの男のいう通り、おろかだった。

 会わないと、あらためて口にしたとたん、包帯の上に二雫ほど、零れ落ちた。

「殿下」

 ふと、ギルフォードが片膝をついた。傷がいたむのか、とてもぎこちない恭順の証だ。

「殿下は、わたしにとって、かけがえのない、大切な君主です。この命をささげて、お仕えしたい、そういう方です。それでは、いけませんか?」

 だけど死んでくれるな。金も知識もなんでも使うから、お前の命だけは使いたくないんだ。

 言葉にするかわりに、テスはズタボロのギルフォードの肩に両手をあてて、深くうなだれるように額を額に押し付けた。

 フィーネとその母のように、しっかり抱擁することができない自分が、情けなかった。

 事件は、結局、事故として黙殺された。ネフェルオーネ姫のやけどのあとは、花火の首飾りと揶揄され、どちらの国の民からも後ろ指をさされ、嘲笑されていたが、人のうわさもなんとやら、三月たつころには、彼女の苦痛なんぞすっかり忘れられ、人々はむしろますます派手になっていく王子の浪費と、お気に入りの歌姫について知りたがっている様子だった。

 民衆はバカだ、とテスははなじろんだ。

「数字が読めれば、こんなバカげた金額が俺一人の浪費であるはずもないとわかるのにな」

 先の皇帝の時代の戦費と敗戦の賠償金を「浪費」と言われて信じるのか、この国の民は。

「新聞に赤字の数字を載せてやればいい。それでもわからんのなら数字を教えればいいんだ。なぁ、ユールヒェン」

 テスは背後にひかえるギルフォードではなく、傍らの少女に語り掛けた。

「でも、殿下、私は学がないので数字が苦手なんです」

 予算は数学ではないぞ、と、微笑みかける。

「ユーリ。麗しの音楽の天使よ。算数が苦手なら俺が教えてやろうか。1から、すべて」

 殿下、と、娘は微笑みながらもしかしたしかに拒絶する。

「0が最初ですわ。そのくらいわかります」

「そうか。0がわかるか。では、0という意味の歌を歌ってみろ。歌は好きだろう?」

「では、愛の歌を。愛は果ても底もありませんわ」

 上出来、とテスは彼女の頬に薄く口づけを贈った。

 贈ったのは、口づけだけではない。花も、宝石も、ドレスも。専用の舞台も歌劇も。かつてこの国では当たり前だった華やぎを、これでもかとばかりにつぎ込んだ。

 愛をうたう高音に、かすかに自分の声を重ね、まるで鼓動のあわさるように二つの音が調和するのが、テスのささやかな癒しだった。ところが。

 不意に、王子のお気に入りの歌姫は、歌うのをやめてしまった。

「殿下。巷では、その日の食べ物にも困っています。食事がないなら菓子を食えと、言ったそうですね」

「それは誤解だ。製菓用、加工用の二等穀を主食用に卸せと言ったが、民に伝わるときには菓子という言葉に置き換えられていた。バカ記者どもめ。耳が悪いのか」

「私には、政治の話はわからないです。だけど、国民は少し傷つき、殿下に失望しています」

「少しでも傷ついたら失望するのか。我が国の民は、ずいぶん繊細だな」

「殿下」

「お前が、俺が贈ったつまらないものを、食料と交換して分配しているのは知っている」

 少女ははっと青ざめ、それを見たテスはにやりと口角をつり上げた。

「いくつかの法律に抵触するが……そうだな、ユーリの口利きで楽団に入れてくれるなら、通報はするまいよ」

 テスは近頃、招き入れた劇団や楽隊に交じって、しょっちゅう市井に無断外出していた。とくに音楽隊の楽器ケースや劇団の大道具は、身を隠すのにちょうどよく、役者たちのおかげが、テスは以前にくらべて嘘を顔に浮かべるのがうまくなっていた。

「あの絵を見てみろ」

 テスは立派な黄金の甲冑に身を包む自画像を指さした。

「派手なもんだろう。あの甲冑はとっくに、先の大戦で換金してしまって、ここにはもうないのだよ」

「殿下、それは……」

 さすがにギルフォードが諫めたが、うるさいハエを追い払うようにテスは忠言を無視した。

「そのうち、そのへんの花瓶や金箔の装飾もひっぺがして売るだろうよ」

「殿下!」

「うるさいぞ、ギルフォード。俺は今、ユーリを話をしているのだ」

 一瞥くれてやると、ギルフォードは渋々、黙礼を返して口をつぐんだ。それを確かめてから、テスはやおら少女の肩を抱きすくめると、ギルフォードにさえ聞こえないほど小さく、彼女の耳朶に触れるほど近く、ささやいた。

「ユールヒェン。俺はな、売っぱらおうと考えている」

 金に困っているはずもない王子が、金に困っている。少女はしきりに、首を傾げていた。

「ユーリなら、バカ記者と違って、俺の言葉を仲間に伝えることができるだろう? 安い穀類は不味いが飢えるよりかはよっぽど良いはずだ。ただし、見つかるなよ。穀類法というのがあってだな、昔、穀の等級を偽って人々をだました奴が、鳥かごに押し込められて井戸に沈められる私刑にあった事件がある」

 テスはぞっとした様子の少女の肩を軽くたたき、励ましてやった。

「二等穀がどれほど不味いか、俺が試食してやる。どんな粗食も、ユーリとともに囲む食卓なら、きっと美味しいはずだ」

 テスにとって、王宮とはまさに鳥かごだった。先立つものがなければ、足がなければ何もできない。はやくここから出なければ。焦りはテスを大胆にさせた。少なくとも、恋人の贈り物を選ぶとき、流行とともに入ってくる情報がある。それは、少なくとも、枢機卿を経由していない情報だった。たとえば、中立地帯を通ってくる冬の行商たちが、国境封鎖で湖水地方を回ってこれず、毛織物の品薄が見込まれるから去年の売れ残りを買い占めるなら今のうちだ、とか。故に運河の交易路を掌握する蹄鉄商会が価格をつり上げている、とか。

「冬にそなえて羊毛を贈っておくよ。ユーリは、編み物は得意か? だったら俺に襟巻でも編んでくれ。存外、王宮の冬の夜は冷え込むのだよ」

 ギルフォード、と、テスは見向きもせずいるのが当たり前の侍従を呼んだ。いつものように「かしこまりました」と返事があり、テスはそれを、疑ったことは一度もなかった。

しかし、テスの目論見は思わぬ形で破綻した。

 テスの浅知恵のせいかはわからぬが、薬を水で薄めたバカが、逮捕されたのだ。その出所が、ユールヒェンの父親の実家の薬局で、テスの秘密の「交易路」がばれてしまった。

「薬は効果のある濃度が決まっているから希釈するなと、教えなかった俺のせいか?」

 テスは額を抑えて呻いた。

「浅知恵なんぞ授けるんじゃなかった。ギルフォード、行くぞ」

 どちらに? と、とぼけた態度の侍従に、テスは思わず襟首をつかみ上げて怒鳴った。

「決まっているだろう、ユーリを釈放する!」

「殿下、どうか、落ち着いてください」

 苛立ち、テスは爪を噛んだ。

「なぜだ? 今までばれなかったのに」

「ばれなかったことが、幸運だったのです。幸い、あの娘は贈り物のからくりには気付いていませんでした。食料と交換させたのは自分です」

 そのほうが足がつきませんので、と、ギルフォードは安穏と茶の支度をし始めたので、テスは、いったいこいつは何を考えているのか、と、物心ついたときから寝食ともにしてきた侍従を、まじまじ、凝視していた。

「過ぎた贈り物でした」

「……ギルフォード、何が言いたいのだ?」

「殿下はあの娘を妃にでもするおつもりでしたか?」

「そうだと言ったら?」

「……わかりました。善処いたします。いつもより、少し濃いめに淹れさせていただきました。殿下は近頃、あまりよく眠れていないご様子」

 茶など飲んでいる場合か、と、テスは当然のように茶器を受け取り、一口含んだ。たしかに、いつもよりえぐみが強く、舌にずしりとのしかかるような、妙な味がした。

「偽薬のせいで、人がたくさん死にました。食べ物にかえるための宝石を与えて、毒を飲ませて、人民を救済したつもりですか?」

「それは……」

「よいですか、殿下。あの娘は、殿下をそそのかした売女で、人々に毒を飲ませ、この国を混乱に貶めた、敵国の密偵です」

 お前は何を言っているのか。そう言おうとしたときだ。ふっ、と頭の芯が揺れた。

 それからどうしたのか、まったく記憶がない。気付いたら、テスは自室の寝台に寝ていて、夕暮れの光と影の間、ギルフォードが椅子に腰かけ、じっと、祈るような、あるいは狙うかのような、深刻な目でこちらを瞬きもせず見つめていた。

 その目がなにやら常軌を逸していて、彼をよくテスでさえ、少し怖いと思った。

「よくお休みになられましたか?」

「ギルフォード……俺は、いったい……」

「多少の誹りは、辛抱なさってください。ひとつだけ、善いことをしました。少なくとも、枢機卿が押し付ける莫大な金の流れを、止めることができました。このまま何もしなければ、殿下は金の底なし沼にはまり、先の戦争の借金の始末を、押し付けられるところでした」

「ギルフォード、お前……何をした?」

「善いことは、それだけです。刑は滞りなく執行されました」

「刑?」

「鞭打ち刑に処しました。妙な噂を立てられては困りますので、医師の立ち合いのもと、処女であることを民にも確認させました」

 いまだかつてないほど事務的な様子で、ギルフォードはとんでもないことを言った。

「娘は自らの罪の重さと恥辱に耐え切れず、執行後、自害したそうです」

 こちらに、と、ギルフォードは祈るように握りしめていた拳を解いた。

「証拠の品を」

 それは、墓にも入れぬ者のための習わしとして、遺髪を台座にあしらい、水晶で覆った、喪飾と呼ばれる骨壺のかわりの工芸品だった。

「死んだ? ユーリが?」

 何かの間違いだと、テスは口元を覆った。

「死ぬのは勝手ですが、見せしめは必要です」

「お前の、指示なのか?」

「殿下は騙された。被害者です。よろしいですね? これがもっとも――」

 気付いたときには、テスはギルフォードを殴り倒していた。起き上がろうとしたギルフォードをさらにもう一度殴り、馬乗りになってその胸倉を掴みあげ、怒りに任せて声を荒げた。

「お前、なんてことを!」

 なんの罪もないユーリを、と言いかけ、しかし、さらに鋭く「殿下のためです!」と叫ぶギルフォードの悲痛なまでの怒鳴り声にかき消されてしまった。

 はっと、テスはギルフォードが初めて見る歪んだ笑みを浮かべていることに気付いた。

「あの女の悲鳴、殿下も聞くべきでした」

 かわいそうに、と、とても嬉しそうに語るギルフォードに、テスは枢機卿のあの冷酷な眼差しを重ねてしまった。

「王子からの『贈り物』を受け取った罪です」

 胸倉を掴む手を、逆に、掴まれる。不思議と、ギルフォードは熱心な目をしていた。

「やるだけやって、しかしやっていないと、二度と女として再起できない方法で打ちのめされる女の悲鳴を、お聞かせするべきでしたか?」

 善いことをした、と、ギルフォードは本当に、そう信じているのだろう。はじめて自分の理解できないことを言い、自分の言葉を理解しようとしないギルフォードの「自我」に遭遇し、テスは、大いに戸惑っていた。

「お前……まさか、一服盛ったのか……」

「すべて殿下のためです。殿下は、ちっとも自分の保身を考えない! なぜですか!」

 勢いあまって、というよりかは、思いあまった様子で、そのときのギルフォードはかつて一度も見せたことのない生々しい感情をあらわに、筋のきしむほど強く胸倉を掴んだままのテスの左手首を、握りしめていた。

「ともすれば、刑場にいたのはあなただったかもしれない!」 

 それを聞いて、テスはゆっくりと、ギルフォードから離れた。

「聡明なあなた様なら、金の罠に、女の罠に、気付かなかったはずがない!」

「……手を付けたからか?」

 ギルフォードは答えなかった。答えなかったが、ギルフォードが見ていたことは、テスも知っていたのだ。

「ユーリと契ったことが、お前をそんな凶行に走らせたのか?」

「そんなつもりは……」

「気付かなかったほうがよかったのだろうな。他にも、俺は、知っているのだよ。お前が、枢機卿の手のものもだということも」

 はっと、影の中でギルフォードが息をのんだ気配がしたが、表情までは見えなかった。

「父が『戦死』したあの日、なぜこうも都合よく、都合の悪い場所で鉢合わせたものか、考えてみたのだよ。枢機卿はお前を杖で打ち据えたが、しかし、殺しはしなかった」

 なすりつけたか、と、テスは床に落ちた遺髪の首飾りをひろい、夕暮れの光に翳した。

「フィーネが暴漢に襲われて火傷を負った日、たしか馬車はお前が用意したな」

 都合のいい花火だった。花火の打ち上げが始まる時刻まではテスも掌握していたが、どんな花火が何発あがるのか、内容までは知らなかったのだ。王宮は息苦しいが安全だ。今思うと、なぜたやすく抜け出せたのか。手引きがあたったからだ。

「かまわんよ。俺はそれでも、今でも、お前にすべて任せている。だけど、ひとつだけ答えてくれ。フィーネを、殺すつもりだったのか?」

「そうだと申し上げれば、解雇していただけますか?」

「だとしたら、俺の目の前ではやるまいよ。現に……ほら」

 テスは小さな首飾りの一部になってしまったユーリを、ぷらぷらとギルフォードの目と鼻の先にぶらさげた。自分もどうやら、あの忌まわしい男に似てきたらしい。

「暇乞いにしては、ひどすぎやしないか?」

 せめてともに。テスは首飾りをつけようとしたが、金具がうまくはまらない。

「ギルフォード」

 テスは無防備に背中を向け、親愛なる侍従をいつものように呼び寄せた。そして、いつものように「かしこまりました」と、返事があり、ほっと胸をなでおろす。

「わたしは、殿下の鎖になっている。どうか……」

 引きちぎろうと思えば切れる鎖の金具を止めるギルフォードの手が、声が、微かに震えていた。テスは、ギルフォードがどこからきたのか、実は知らない。知ろうとしなかったのだから、自分も同罪であるべきだ。

「どうしたらいいのかわからないのは、お互いさまだな」

 ちょうど項、まったく死角にあり、たとえばそこをカミソリで切り付けただけで、人間は死んでしまう。そこに触れているギルフォードの手に、テスは自分の手を重ねた。

「殴ったことは謝らないぞ。俺は正しくて、お前が間違っている。そうだな?」

「はい、たしかに」

 よし、と、テスは短く息を吐いた。

「またこれからも俺に仕えてくれるか」

「わたしのような者を傍に置くと、また一服盛られてしまいますよ」

 それはかなわんな、と、テスは無理やり笑った。こうして顔で嘘をつくことにすっかり慣れてしまった。おそらく、あの男も、こうしてだんだん、自分の心を失っていったのかもしれない。そんなことを思った。

「これは、枢機卿の指示か?」

 テスは喪飾を軽く指でつまんで、ギルフォードを振り返った。ギルフォードは、たしかに、首を横に振った。

「では、内緒にしておいてくれ」

「たしかに、承りました」

 生きているならやれることはある。だけど、死んでしまったのなら、どうしようもないではないか。父を失って以来、枢機卿の傀儡として生きてきたテスは、どこかで人の死を「駒」のように思っていた。そんなものだ、王族なんてのは。

 この貴荷おくべし。とても古い言葉だ。テスのことを人だと思っているのはギルフォードだけになってしまった。そんなものだ、国民なんてのは。

 王とは形骸だ。テスが改めてその言葉を胸に刻んだ事件でもあった。

   *

 初夏は行事が多くて忙しい。終戦記念日に続いて、フィーネの生誕祭もある。

「とくに、今年は二十歳の誕生日だ。国法によって、フィーネは今日から成人として、王位継承権を得ることになる」

 しっかり公務をつとめあげるように、と父からは、いつもと同じ誕生日を祝う言葉と口づけを、朝一番に贈られた。毎年、王位継承者として、という言葉がついてきたが、今年は、王位継承権、という具体的な言葉を、父は使った。

父が、生誕祭や王族のつとめに、フィーネとともに出席したことはない。母は王族の一の姫君であったが、父は一兵卒から先の戦争で軍功を重ね成り上がった、市井の出だったため、王族として列席したことはない。

 どうしてお父様は、王様にならないのですか。

 幼いころ、フィーネは父に訊ねたことがある。父は、フィーネを王冠の安置されたままの玉座の間に連れていき、答えた。

「わたしはこの国のために戦ったけれど、この王冠が待っているのはわたしではないのだよ」

 その頃のフィーネは父の言葉の意味がわからず、母にも同じことを聞いたが、まるで口裏を合わせたかのように同じ答えだった。将軍までもが、同じを言っていた。

この王冠は、王がいつか帰還すると信じて、それまで何人たりとも受け入れはしない。

 その言葉は、つまり、フィーネにはふさわしくない、という意味だった。

 この国は王がいない。王たるものが帰らなかったからだ。大空位時代と呼ばれていた。

「大丈夫。きっと、英霊たちがあなたを見守ってくれます。英雄とともにあらんことを」

 母は祈り、そして、フィーネにあの指輪をそっとはめた。

 女の指輪だと、将軍は言っていたけれど、それでもフィーネにはゆるかった。フィーネの手は、この指輪の持ち主よりもずっと細くて小さいと、言われているような気がした。

 だから、選ばなければならない。この国を本当の平和と豊かさに導く真の王を。

 ちょっとくらいは期待して、フィーネは各国から届いたお祝いの手紙をあさったが、かの国からは枢機卿の名前で、形式的な祝いの言葉がつづってあるだけだった。

 だけど自分は、彼の誕生日には自分の字できちんとお祝いの言葉を書こうと思った。そして、フィーネが成人して王位継承権を得るように、彼も、そう遠くない将来、皇帝と呼ばれる、かつてこの国の敵だった地位に就くことになるのだろう。

 次に会うことがあれば……いや、その頃には、ご尊顔に拝する立場のフィーネは、テスが戴冠する光景を思い浮かべながら、指輪のはまった手で消えぬやけどのあとにそっと触れた。

 忘れえぬのは、淡い恋だけではない。

 古来、戦に男たちが出払ったあと家を守るのは、この国の女たちの義務である。

 誕生祭には七色のリボンと花かごが街をかざり、先の国王が王女たちのために作った、花をかたどった砂糖菓子を配る習慣が、フィーネの代にも続いていた。

 フィーネの花はヒナギクだった。母の意匠の白薔薇とおそろいの白い花を、母と一緒に選んだ。この国の野辺に庭先に、どこにでもある民にとって身近な花だ。

「それでは、いってまいります」

 フィーネは呼吸を整え、王族の名誉と民の期待のために、晴れやかな笑顔を作った。この形のまま、約半日、ずっと微笑んでいなければならない。

 祝賀行進なんていうものは、民にとってはおめでたいだろうが、フィーネにとっては苦行に他ならなかった。笑顔の行事は、終わったあと、一晩中顔が凝り固まって頬が痙攣し、眠れなくなるのだ。それでも、美しい衣装と晴れやかな微笑みが、この国には必要だった。

 その日は少し曇っていた。強すぎる初夏の日差しはやけどに触れるとまだちりちりと痛むので、フィーネにとってはそのほうがありがたかった。

 おいたわしい、と、心配してくれる人もいれば、なげかわしいと、責める人もいる。

 正装なのでしかたないが、やはり気に病む者も多いので、上着を羽織ることにした。昼の行進は国民のためのものだから、すこしくだけたほうがよい、と母と相談し、晩餐会はともかく、昼間の行進では手袋は着用せず、民と同じように素手を見せることにした。それを野暮だの礼儀知らずだの、気にする大人が煩わしかった。

 フィーネを慕って、多くの家の軒先にはヒナギクが飾られていたけれど、やはりどうしたって、貧相で見栄えがしなかった。

 だけど、ヒナギクにもいいところはあるわ、とフィーネは自分で自分を励ます。この国の大地に根をはり、誰もが知っている花だ。でも、祝賀行進のときには鉢植えを窓辺に飾ることは禁止されていた。万一にでも、落下しては一大事だから。

 警備は万端であるはずだった。直近、玉体にやけどを負ったネフェルオーネ姫が何者かに傷つけられぬよう、とくに、二階から眺めおろすことを、警邏の兵が厳しく禁じて民を監視していた。ひとつは無礼であるから。もう一つは、狙撃されぬように。

 少し、集中が途切れた。フィーネはどうしても指にあわず、くるくる浮いてまわる指輪に気を取られて、そっと隠れて薬指から中指に移そうと取り外し、うっかり、ドレスの裾の間に落としてしまった。公式行事の最中だ、あとでにしなさい、と、いつもなら母に叱られるのだが、なぜかその時、フィーネはどうしてもその指輪をなくしてはならないと、すぐに拾わなければならないと、とても焦って、考えなしに慌ててかがんで手を伸ばした。

 まさに、その瞬間。

 たん、と馬車の後ろのほうで妙な音がして、馬車が急停車した。

「伏せて!」

 誰かが、叫んだ。この国の言葉ではなかった。にわかに殺気立ち、警備の衛兵が筒を構え、漆黒の壁を作る。それからすぐに、歓声に交じって、すぐにまた二回、馬車の座席の背もたれ側から同じ音が聞こえた。お祝いのための歓声は、すぐに阿鼻叫喚へと塗り替えられた。

刹那のことだったし、フィーネも、咄嗟のことで、ほとんど無意識だった。

「だめ!」

 フィーネは、およそ戦場を知らない。銃声を知らない。悲鳴を知らない。

「撃たないで! 撃つな!!」

 だけど、一斉射撃の命令も、そして停止の命令も、いつだって王族が下すものだと知っている。「撃たないで」はお願いだけど、「撃つな」は命令。それが軍隊というものだと、将軍から教わったことがある。そして、その違いがわからないから、フィーネでは、だめなのだ。

 それは、天の導きか、あるいはただの勘違いか。

 なぜその時、その名を叫んだのか、フィーネはわからなかった。

「ギルフォード!」

 わからないから、だめなのだ。わからないから、軍靴に踏まれてなお、ヒナギクは毎年、野辺に軒先に花をつける。つまらないから、刈り取られることもなく。

 結局、指輪はその時の混乱で失われてしまった。

 結局、暗殺者はその場で観衆に紛れて警護していた王城の兵士によって捕らえられた。

 結局……それがギルフォードだったのか、フィーネは知ることはなかった。

 フィーネの国の司法が彼を裁判にかけるよりも早く、テスの国の警察が汚職事件として逮捕状を出していたからだ。横領と着服が露呈して王子の名で指名手配されていると言われては、フィーネたちには反論の余地もなかった。

「あなたの言う侍従の青年ではないかもしれないでしょう?」

 名前が違うから、と母は泣きじゃくるフィーネに、なんとか溜飲を下せという。

「顔をはっきりみたわけじゃないのでしょう?」

 会えばわかる、会わせてくれと、フィーネは懇願したが、かなわなかった。

「お願いです! どうか! どうかその者を殺さないで!」

 しかし、王命でもなければ軍令でもないフィーネの言葉に、軍人たちは耳を貸さなかった。それどころか、もしそれが王子の侍従ならば宣戦布告だ、と脅された。

「脅しならともかく」

 父は、かつて見たこともないほど冷徹な目をしてフィーネを自室に呼んだ。

「大事な話だ、フィーネ。正直に答えなければならない。私とフィーネ、二人きりだ。安心していい。だから、嘘をつかずに、正確に、答えるのだよ。確かなのかい?」

 わからない、とフィーネはしゃくりあげながら首を振った。なんでその名を叫んだのか。もし違う人だったら……いや、いっそ違う人であってくれと、そんなひどいことを思った。

「自分の言っていることが、わかるかい、フィーネ。それは……もし本当だとしたら、その者は隣国からの暗殺者というだけでは、済まないのだよ」

 済まない、とはどういう意味だろうか。わからない。わかりたくない。

「彼がこの国に入り込んでフィーネの命を狙ったのだとしたら、認めたくはないが、狙わせたものが少なからず、この国にいるということだ。わかるかい?」

 どんなに厳重な警備も、警備をする者に敵意があればまったくもって、意味がなかった。

「フィーネ。わたしは、父としてではなく、この国に仕えるものとして、今から少し、怖いことを言う。だけど、心を落ち着けて、しっかりと聞くのだよ」

 聞きたくもない。聞き入れられるものか。

「この国には、戦争をしたい人たちがいる。その人たちにとって、フィーネが撃たれて死ぬことは、死なずとも、国民みんなの前で撃たれるということは、戦争開始の合図なのだよ」

「わかりません!」

「フィーネが言ってることは、セルヴァンテス王子がフィーネを射殺して、その報復に我が国の兵が国境を越えてもいいと、そういう意味になってしまう。本当に、王子の侍従で間違いないのかい?」

「わかりません、そんなこと言われても、私にはわかりません!」 

「……入っていいぞ、将軍」

 ふと、父はフィーネの知らない無感情な声で、扉を振り返った。失礼します、と、低い声で一礼する姿に、フィーネは思わず駆け寄った。

「将軍、どうか! ギルフォードかどうかだけでも!」

 しかし、将軍は微かに顔の古傷を震わせただけで、静かに首を振った。かつて凶刃に倒れていらい、一線を退いて久しいその男が、よりにもよって反戦派であったために、この国は何度も出兵をあきらめ、あるいは徴兵をまぬがれてきた。

「将軍はどう思われるか」

 父はフィーネが初めて見る仕事のときの顔で、フィーネを間に挟んだまま将軍に話しかけた。将軍は、意図をたしかめるようにフィーネとフィーネの父を見比べて、微かにため息をついた。

「姫様も王位継承権があるからには、国政にかかわるべき、と? 最初のおつかいにしては、いささか大きすぎる」

「好戦派の諜報員なら、国に返すべきではない」

「手遅れです。あまりにも鮮やかで速やかですから、おそらく『回収』まですでに手が回っていたのでしょう。あの場で射殺されるべきだった」

 なんてことを、と、フィーネは青ざめた。将軍はともかく、父までそんな人の命を盤上遊戯の駒のように言うなんて、考えてもみなかったのだ。

「フィーネ。大義名分の前に、一人の兵隊の命なんぞ弾丸よりも軽いのだよ」

 それが戦争だ、と父は言った。

「せめて尋問させてくれれば情報くらい落としただろうに」

「王子の名義だ。それをさせないための保証書としての逮捕状だろう」

 フィーネは淡々と語り合う、自分の父親と、よく知る将軍の会話が、自分の国の言葉なのにまったく聞き取れなかった。それなのに、テスの国の言葉で「伏せて!」と、その言葉は、はっきりと聞き取れたのだ。

 他の観衆に流れ弾が当たらないように? あるいは邪魔だから視界を確保するため?

 その一言さえなければ、あるいは……。

「だめ……お願いです、どうか……どうか、殺さないで」

 テスからギルフォードを……たった一人の親友を奪わないで。

 フィーネは軍人たちがいまだ畏怖する将軍に、最後の希望を託して縋った。

将軍は、しばしフィーネをじっと見つめ、それからフィーネの父を振り向き、やがて、大きなため息を一つ。

「ネフェルオーネ姫殿下。わたくしが御身のお守りとして、渋々、泣く泣く、懊悩の果てに、父君に脅され追い詰められ、やっとの思いで手放した指輪は、どうされましたか?」

「指輪どころではありません!」

「フィーネ!」

 父に鋭く叱責され、フィーネははたと口をつぐんだ。

「あの指輪は将軍にとって――」

「閣下」

 フィーネは己の浅慮を恥じて顔を真っ赤にしてうつむいてしまったが、将軍は、不思議と穏やかな声音だった。

「しばし、姫殿下をお借りしても?」

「かまわぬ。が、そなたがいてくれないと。わたしが喧嘩には弱いのは砦時代から知っているだろう? 好戦派に取り囲まれて怒鳴られたら、おそろしくて、うっかり開戦許可を出してしまうかもしれないぞ」

「親の情としてはそれが普通でございますよ。すぐに戻ります」

 ごゆっくり、と、父は、やはりフィーネがこれまで見たことのない、悪戯好きの男の子のような顔でうなずいていた。

「老兵は死なずして、とは聞いたことがあるが、年食ってから仕事させられるとは聞いていないぞ。しかもまたガキのお守りかよ」

 将軍が時々、市井の言葉でひとりごちるのは、いつものことだった。

 将軍はフィーネを連れて、王城の議場に向かった。重々しい長机と、ひと際大きい王の席があり、そこは、時々母が国家代表として、就いているのを見たことがあった。

「姫殿下。お父上の御髪は、今はすっかりしろちゃけていますが、お若いころは見事な金髪で、若い娘によくもてたのですよ」

 こんなところでそんな話を聞いている場合ではないのに。フィーネは思ったが、黙っていた。黙ってしまうくせに、よけいなことだけは口にしてしまう、と、いつも後悔していた。

 今日だってそうだ。なぜ、ギルフォードだと思ったのか。なぜ名を呼んでしまったのか。

「大昔、なさけないことに、ここで自分が仕える君主に、命乞いされたことがありましてな」

 将軍は、座席のひとつをそっと引いて、そこに腰を下ろした。

「なんでも、自分でなんとかしようとする方でした」

 はっと、フィーネは息を飲んだ。なんとかしてくれと周囲の大人たちを振り回して困らせることしかできない自分が、あまりにも卑小に思えた。

「我々も、あの背中についていけば、なんとかなると、いつか栄光の日々にたどり着くと、夢を見ていたのです。実際、ご自身だけで、なんとかなさいました。わたくしは、それを、今でも悔やんでいます」

「将軍……わたくしは、なんとお詫び申し上げればよいのか……」

「指輪のことですか? でしたら、すでに姫殿下の手に渡ったものです。その手を離れたのならば、姫殿下にはもう、必要ないものなのでしょう。たかが指輪です。なにより、その指輪にもし本当に、英霊の意思が宿っていたのならば、少なくとも凶弾から姫殿下を守った」

 ちがう、あれはギルフォードが……。ギルフォードがフィーネを殺そうとして、そして、殺すまいと発した警告だと、どうやって証明する? 

「やはり、姫殿下はわたくしがお慕いした方とは大違いだ」

 にかっと、将軍は歯を見せて笑った。

「ちっとも違うのに、なんとも似たようなころを繰り返すものだと感心していますよ。あのころはまだ准将でしたか。こンの生意気な、と何度思ったことか。准将も、こちらにおわします姫殿下のように、なんとかしてくれと素直に泣き付けばよかったのです。それができない鼻っ柱の強い小娘だったことを、今、思い出しましたよ」

 そして、将軍は上着の内側に手を入れ、拳を差し出した。

「全然、違う。だから、安心しました。同じ道を、姫殿下はきっと歩まないでしょう。しかし、なぜだか思い出すのです。あのじゃじゃ馬もきっと、同じだったのだ、と」

 そっと開いた拳の中には、あの指輪が。

「手を尽くしてみましょう。わたくしは今、珍しく、人助けをしたい気分になっている」

 投げられた賽を中空で捕まえるのは難しい。ましてや、思い通りの目を出すなど。

 運が良ければ、と将軍は言った。フィーネには、自分に運気があるとは、思えなかった。もし天運があるのなら、きっと天はフィーネにあの英雄と同じ軍才を与えただろうから。

「ひと段落したら、馬に乗ってみますか?」

 不意に、将軍は今まで絶対にダメだと言っていた乗馬について、寛容を示した。フィーネにはそれは何となく、将軍なりの詫びのような気がして、嬉しくはなかった。

 どうか。

 どうかテスから親友を奪わないで。

 フィーネは祈りながら、音沙汰を待つしかなかった。国境とは、そういうものだ。

   *

「話が違う!」

 テスは半ば絶叫し、口角泡飛ばして枢機卿に詰め寄った。

 ギルフォードにも父母がいる、一度故郷にさがらせたほうがよい、と枢機卿は言ったのだ。ところが、帰国の理由は強制送還。指名手配犯の逮捕だというから、テスは最初、なにかの間違いだと笑い飛ばしたほどだ。

「ギルフォードという名はありきたりですから」

 と、枢機卿は冗談だか本音だかわからないことを言っていた。

「そもそも、殿下の命令なのですよ」

 眼前に突き付けられた羊皮紙には、たしかにテスの署名と押印があった。

「横領? 国家反逆罪? 暗殺未遂? 冗談じゃない!」

 テスは我をわすれて枢機卿につかみかかったが、すぐに衛兵に取り押さえられてしまった。

「俺はそんな署名をした覚えはっ……」

 ない、と言いかけ、テスはほんのわずかではあるが、記憶のない時間があることを思い出した。たしかに目覚めたとき、ギルフォードはテスの部屋に……王子の身分を証明する実印のある場所にいた。

 偽造? 何のために?

「これを使わないほうが望ましかったのですけれどもね」

 枢機卿は少しだけ、苦々しく笑みを浮かべた。

「五体満足、わが国の法で人として裁かれるだけ、マシでしょう」

 それとも豚の餌として死体をばらまいてほしかったか、と枢機卿は冷ややかに笑っていた。

 ギルフォードに下った判決は、銃殺刑。せめて王族に仕えた人間として、というのが、枢機卿がいうには、情けだという。

「そして、その豚のカツレツを夕餉の皿に出してさしあげましょうか?」

「このっ……!」

 テスは衛兵を振りほどこうと暴れたが、しかし、貧弱な腕力では到底かなわず、よけいに強く押さえつけられてしまった。

「ギルフォード、頼む! 弁明してくれ! 頼むから間違いだと言ってくれ! 冤罪だと!」

 テスは格子の向こう、拘束されうなだれるギルフォードに向かって叫んだ。

「すべて枢機卿がお前に罪をなすりつけようとっ……!」

 言いかけ、テスははたと口を噤んだ。そうだとしたら、テスの名義だ。

「殿下、いい加減になさいませ。王女暗殺未遂と国家横領罪では、罪が異なります。これが、殿下に尽くしたギルフォードへの、わが国の最善の決定です」

「うるさい、黙れ!!」

 テスは半狂乱になってあらんかぎり叫んだ。

「戦争、戦争、戦争! 俺が宣戦布告すればギルフォードは助かるのか!?」

「殿下。おやめください」

 諫めたのは、獄中のギルフォードだった。

「少なくとも、わたしは、あの場で射殺されるべきでした」

 計画書のように、ギルフォードは事務的な声で言った。

「すべて、特別な計らいで、奇跡的に殿下と再び、こうして見えることがかないました」

「嘘だ……こんなことがあってなるものか……」

 ギルフォードが枢機卿を見上げ、卿は微かにうなずくと、人払いを命じた。そして、テスと、格子の中のギルフォードと、卿の三人だけになったのを確かめ、テスに拳銃を一丁、押し付けるように手渡した。

「執行を半刻遅らせます。時間がたつほど、他国の干渉を受ける案件です。ギルフォードの最後の仕事は、できるだけ速やかに、わが国の判断で処刑されることです」

 そうだろうとも、とテスは思った。そもそもギルフォードが生きてここにいることだけでも、何かの間違いだ。仮に逆の立場だったら、少なからずテスはその場で射殺を命じていただろうし、間違っても、生きて国に返すなんてことはしなかっただろう。

 何かの間違いだ。いったい、いつ何を間違えた?

 格子にしがみつき、テスは耐えきれずにその場に蹲る。よっぽど、テスのほうが囚人のような有様であった。

「頼む……なんとか、どうか、ギルフォードを殺さないでくれ。卿の傀儡でもなんでもいい、戦争がしたいならしてやる、だからどうか……」

 本当にカツレツにしそうな男は、しかし、そのときばかりはテスの無様を笑わなかった。

「もし本当にギルフォードのことを思うなら、その拳銃で、ご自身で始末なさいませ」

「いやだ!」

「あるいは、ご自身で、ご自身を始末なさいませ」

 一瞬、そうしてしまおうかと、テスは拳銃を握りしめた。が、「なりません」と、ギルフォードに止められてしまい、ついに、指一つ、自分の意志では動かせないほど途方に暮れる。

「なんで……」

 お前が死ななければならないのか。今こそ王権を振りかざすべきなのに、テスの喉はふさがり、言葉が出なくなってしまった。

「殿下。わたしは、ネフェルオーネ姫を殺そうとしたのですよ」

 ギルフォードの言葉に、ぎくりと、テスは肩を震わせた。

「今度ばかりは必ず殺そうと。それが私の使命でした」

 そうだとしたら、お前にそんな命令をした枢機卿が悪いのだ。

 テスは視線で追いすがったが、ギルフォードは微かに首を横に振った。

「それは、私の意志でもあります。私の家族は、あの侵略の日、わが国の敗戦を決定づけたあの日、わけもわからず村にやってきて占拠した敵国の兵隊に、皆殺しにされました。幼い私は、寝台の下に隠れて、敵の目から逃れました。今でも、寝台を伝い落ちる両親の血を、忘れられずにいます。戦災孤児になった私を引き取り、満足に食事を与え、学問を学ばせ、殿下の侍従として宮仕えするに至ったのは、すべて、枢機卿のおかげなのです」

「うそだ」

「嘘ではありません。事実です」

「フィーネを殺害しようとしていたなんて、嘘だ」

「どうしても、憎しみが消えないのです。あの雌狼の末裔を射殺し、かの国を軍靴と弾丸で蹂躙できないのが、心残りです」

「うそだ」

「本音です。許しがたいのです。しかし、殿下」

「やめてくれ、ギルフォード! 俺はお前を死なせるために耐えてきたわけではないぞ!」

「ならばなんのために!」

 不意に怒鳴られ、テスは怯懦し、口を噤んだ。

「殿下はなんのために、あらせられるのですか!」

 なんのために。考えたこともなかった。

「どうか……よき王に、慕われ望まれる王に、おなりください」

「いやだ、ギルフォード……」

「わたしは、殿下の手にかかるなら本望です」

「いやだ、できない……俺には、できない」

 ギルフォードはそっと微笑み、深く肯いた。

「たかが一発の弾丸さえ拒む。殿下は、お優しい方です。そして、臆病です」

「……わかっているなら、なぜ、俺を一人にするのだ、ギルフォード」

「お許しください」

「なぁ、ギルフォード。これが戦争か?」

「私には、国家の大意ははかりかねますが、私のような薄汚い売国奴のために泣いて命乞いしてくださるのなら、この世に生まれて生きたかいもあるというものです」

「ギルフォード、だめだ……死ぬな。俺はお前のいない世界をどう生きていけばいいのか、わからない」

「セルヴァンテス様のお心に」

 ふと、ギルフォードが微笑んだ。

「お心にあるすべて壊れて、わたしだけ残ればいいと、そう願ったこともあります。しかし、それでも、殿下はフィーネ様を思っていらっしゃる」

「やめてくれ、ギルフォード」

「殿下のためなら、喜んで死にます」

 時間です、と枢機卿が割って入った。

「いやだ! だめだ、頼む! やめてくれ! ギルフォードを殺さないでくれ!!」

 テスは、おそらく今まで生きてきたなかで一番よく頭を働かせて、不運な侍従が死なない方法を考えていた。

 皇帝の座についたら、枢機卿を罷免するより先に、ギルフォードの死刑執行を取り消さなければならない。

 そこまで考えたときだった。前髪をつかまれ顔をあげさせられ、なかば自分が気絶しかけていたことを知った。

 目に飛び込んだのは、目隠しをされ、後ろ手に拘束され、おとなしく両ひざをつくギルフォードのあわれな姿だった。

「せめて、その目で最期をみとどけるべきです」

 枢機卿の声は、それでも冷徹そのものだった。

 自分が撃たなかったから、見知らぬ兵隊が彼を撃った。

 なぁ、ギルフォード。これが、戦争か? これが良き王か?

 立派な最期だったと、枢機卿は言った。そして後日、テスはまたしても卿の紙質に呼び出され、没収されたままだった父の形見の煙草入れの小箱を差し出された。

「ご自身で、開ける勇気はありますか?」

 卿に言われ、テスは力なく首を横に振った。

「死してなお、殿下のお傍に仕えたい。ギルフォードの最期の願いです。受け取りなさい」

 かつて、お前の心臓を抉って入れてやろうかと脅された小箱には、喪飾が二つ、入っていた。一つは、ユールヒェンのもの。そして、もう一つは……。

「枢機卿には教えるなといったのにな」

 箱の中に語りかけても、もはや返事はなかった。かならず皇帝の座についてこの冷血漢を投獄してやる。そのためには全面戦争も辞さない。わかったかギルフォード。

 しかし、ついに「かしこまりました」と、答えてくれる者を失ってしまった。

 テスは恭しく煙草入れを掲げ受け、黙って深く、頭を下げた。

「殿下。わたしには、親子の情が、わかりませぬ」

 枢機卿は無感情な目でテスを見つめていた。

「しかし、ギルフォードについては、誤算でした。お詫び申し上げます」

「気にするな」 

 テスは箱の蓋を閉じると、胸に書き抱き、精一杯、無感情のふりをした。

「お前に……お前なんぞに、人のっ……気持ちが! わかってたまるか!」

 たしかに、と枢機卿は肯いた。

「それがわからなかったゆえに、殿下を、かように苦しませました。いったいいつからだったのか……。それに気づけなかったのは、おそらくわたしの生涯の唯一の失策です」

 気づかなったことを責めるなら、テスも同罪だった。どうしても離れがたかった。

「なんでっ……俺の周りはいつもこうなんだ!? お前のせいか!?」

「すべて、わたくしの陰謀でございます」

「なんで俺じゃないんだよ!!」

「先の皇帝の唯一の正統な血統だからでしょうか。選ばれしものとは、孤独なものです」

「ならば卿も、選ばれているのだろうな!」

 ふいに、枢機卿が珍しく驚いたように目を丸く見開いた。

「誰もかれも不幸になる血統なら滅んでしまえばいい!」

「殿下は……」

 不意に、もっとも恐れる男に泣きじゃくる顔をまじまじのぞかれ、テスは慌てて顔を背けて視線を逃れた。

「殿下の瞳は、それでも新緑と青空の色をしていらっしゃる」

 なんと未熟で青く幼いのか、と言われたのだろう。

「要件はこれだけか!? ならばしばらく一人にしてくれ!! 勢いあまって舌をかみ切りそうだ!」

 脅しにもなりませんが、と、枢機卿は薄く笑った。

「殿下にとっては重要ではないかもしれませんが、お伝えするべきかと。少なくとも、ギルフォードの死は、他国の内政干渉を食い止めました。かの国は、姫殿下自ら聴取するから身柄を引きわたせと要求してきましたが、刑の執行後だったので、お断りとお詫び申し上げてきたところです。おそらく、この件をきっかけに皇帝の継承について口出しするつもりでしょう。先の戦争も、ことの発端は継承問題でした。あの国は二代にわたって男子が生まれなかった。無論、諸外国どの国の為政者も、殿下の継承にケチをつけたがっている」

 もっとも、その取り乱しようではケチもつくというものです、と、枢機卿はさらにテスの傷口に塩を塗り込んでくれた。

「殿下はわたしのせいだとおっしゃるが、では、どうすればよかったのがご教唆ください」

「知るかっ!」

 どうすればよかったのかわからないのは、枢機卿とて、同じだったのだろう。

 そう。きっと、同じなのだろう。心を寄せるほど、壊れて失われる。

「傷心の殿下のために、慰問として私兵500を付与します。兵を連れて、しばし、田舎でごゆるりとなさいませ」

「幽閉して兵に見張らせると、はっきりそう言え。そのほうが気が休まる」

「王子殿下を追いやったとあってはわたくしも立場を危うくしますので」

「承諾しかねる」

 嗚咽を我慢しすぎて、むしろ嗄れた声になってしまった。

「ご要望があればなんなりと」

「慰めてくれるつもりがあるなら、楽隊と劇団もつけろ。俺は兵隊が大嫌いだ」

「美女たちと籠の鳥がお好みか。懲りない方ですね」

「なんなら学者と作家も招くが、よいか」

「遊んで暮らすと」

「なんだ、それが望みじゃないのか?」

 テスはやけくそを装ったが、おそらく枢機卿には、見抜かれていたかもしれない。テスがユーリとともに招いた「部外者」たちの中には、ちゃんと事故であったことを理解してくれる者もあったのだ。何より、彼らはテスの目と耳だった。

「……飼いならせますかな?」

「卿はどうなのだ? 聖なる血統の俺を手玉にとれているか?」

「御す鎖をなくしてしまい、いささか自信喪失しているところです。いずれ皇帝になられる御方の義父というのは、実に小気味よいですよ」

「季節の変わり目だ、卿も体を壊さぬよう」

 そう。季節は、移ろいゆく。この世界は絶え間なく、常に動いていくのだ。

 変遷。時代は今、動き出そうとしていた。


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