クロユリが終わっちゃって一番かなしかったのは清水さゆるだぞ
だからなろうは病むって言ってんだよ…(=゜ω゜)ノ
狼王記 2020
清水 さゆる
序
雨上がり。若葉にやどる水滴が、太陽の光にきらきらと輝いていて、ただそれが美しかったから、フィーネは手をのべた。だけど、触れたとたんに光ははじけ、消えてしまった。
雨の多いこの季節、晴れた日に結ばれる花嫁は幸せになれるという。
自然の光の戯れの中に、ひとつ、異なる光を見つけた。
それは……それだけは、フィーネが触れても、消えることがなく、たしかにこの手につかむことができた。誰のものか、指輪だった。
「いかがなさいましたか」
声をかけられ、フィーネはとっさに指輪を握りこんでドレスのひだの中に隠した。
顔に恐ろしい傷のあるその男が、フィーネは苦手だった。
なんでもありません、と、隠そうとして、ふと、それは自分のものではないことを思い出した。盗みをはたらくつもりはなかった。なので、フィーネは握りこんだ指をほどき、いつも血と暴力の気配をまとわせるその男に、せっかく見つけたものを差し出したのだった。
その男は「ショウグン」と呼ばれ、みなに恐れられていた。だけど、誰もがその男を見るとおののき、ちぢみあがり、そして、たしかに尊敬していた。
立派な軍人で、この国を命がけで守った偉大な方だ、と、父はいう。私たち家族をいろいろな悪いおそろしいものから守ってくれているのだと、母はいう。
だけど、みなはそうは思わないらしい。
自らの欲のためにかつての友たちを処刑した、残酷な男だと。そのとき、呪われたあかしがその傷だと。
墓石のような眼をした男だと。
しかし、その日、ショウグンはフィーネが今まで見たことのない、おそらく、誰も見たことのないほど、子どものように目を丸くして、おもむろにひざまずき、そして、じっと指輪に見入っていたが、やがて、そっと「なくしたかと……」と、小さくつぶやいた。
なので、フィーネはこの指輪は、この男のものなのだな、と思った。ところが。
「俺なんぞより似合う人がいるということですか、准将」
悔しいのだろうか、と、フィーネはその言葉を聞いたときにはそう思った。だけど、彼はとてもうれしそうに……そう、フィーネにもそれがうれしいときの顔だとわかるほどには、たしかに微笑んでいた。
「いえ、あのときにはたしか、元帥閣下でしたね」
そしてショウグはそっと首を横に振り、なぜかフィーネに再び指輪を握りこませた。
あなたのものですか、とフィーネは尋ねた。
「とある、大切な方から賜ったものです。ですが……ご覧のとおり、わたくしめの手には、似つかわしくない」
男の指にはたしかに入らない、小さな指輪だった。ショウグンが、わざとその指輪に自の手が触れないようにしてることに、気づいてしまった。
「これは、この傷を受けたときになくしてしまったのですが、こんなところにありましたか」
ショウグンはかつて、昔の友人たちと喧嘩をしてしまい、だけどそれは仕方なかったのだけれども、友人たちはとても怒って許してくれず、ショウグンのことを殺そうとしたのだそうだ。
「わたくしは、その時殺されているはずだったのですよ」
そして、ちょうど真上にあたる窓を指さし、切りつけられてあそこから突き落とされそうになった、と、さもそれが当たり前のように言った。
「指輪が指にはいらなかったので、鎖をつけて首にかけていたのです。おもえば、あのころのわたくしは、そういう思い出というべきか、お守りにすがりたかったのでしょう」
切っ先がカーテンの留め具にひっかかり、転落を免れたのだという。
「かわりに、鎖が切れて、大切な指輪を落としてしまいました。それからはもう、忙しくて……そうですか。こんなところに、ずっとあったのですか」
だとしたら、あなたにとって大切な指輪のはずだ、とフィーネはショウグンに返そうとしたのだが、ショウグンは受け取ってくれなかった。
「お守りというのは、身から離れるときに、その役目を終えるものです。わたくしから離れ、そして、あなた様の手に渡ったというのなら、きっと……」
ショウグンはそこで言葉をとぎらせると、かすかに声を震わせ、晴天を仰いだ。
「どうせ守るなら美しいものを。そう、あこがれたものです」
その時、フィーネはいつも恐れていたこの傷の男にも、過去があり、思いがあり、そして、人間らしい悲しみがあるのだと知った。
「これからは、正しいものを守れと……そういう意味でしょうか。俺は間違っていると、そういう意味でしょうか」
ショウグンの言葉の意味は、おさないフィーネにはわからなかった。
あれから12年。今でも、フィーネにはわからない。しかし、その将軍がいまだ就く者のいない空の玉座を守り続けた番人であったことを知ったのだった。
そして今。番人はいない。病だと人はいう。しかし、父は、宰相として、王家の末裔であるネフェルオーネには、真実を告げていた。
暗殺だった。
かつて反逆罪で処刑したかつての盟たちの、その息子の手にかかったという。
たまたま通りかかった者がたすけ、一命をとりとめたというが、いまだ死の淵にあるという。今まで自分たち家族を支えていた大きな柱を失い、天が割れて落ちてきたようだった。
この国を守らなければならない。
体温を失い、白くこごえた将軍の手を握る父の手は、それよりさらに緊張で血の気を失い、かすかにふるえていた。
どうして将軍が恨まれ、刺されたのか、フィーネはよくわかる。だけど、それを許してはいけないと、なぜかそう思ったのだ。復讐は、かなしい、と。父も母も、おそらく同じことを考えたのだろう。だから、病と、人には告げた。
今、将軍が守り続けた空の玉座を前に、フィーネは確信した。
ここに就くのは、自分ではない。少なくとも、ここを守り続けた番人が認めるものでなければならない。
ひやりと、歴史の風がつめたくうなじをなでていった。
この国には今、王がいない。そして、戦争をしなければならないと思っている人が、少なからずいる。
私が男に生まれていたら。
幼いころ、フィーネは母にうっかり、そんなことを言ってしまった。母は少しだけ目をみはり、しかし、不意に何かを思い出したように笑い出した。
わたしがあなたくらいの時に、妹がよくそんなことを言って、大人たちを困らせたわ。
フィーネにとってその人は、自分が生まれてくるうんと前に亡くなった英雄だった。だけど、母にとっては今でも妹なのだろう。
父と将軍は、その人とともに戦争に出かけ、立派に戦い、この国を守ったのだそうだ。女のフィーネには、ともに戦ったと、誇らしげに少年のように語るときの父と将軍の、家族でさえ入れない得も言われぬ強い絆が、少し、羨ましかった。
指輪の話をしたとき、父は「将軍がそういうのなら、フィーネが持つべきだ」としか言わなかった。本来、この指輪が誰のために作られ、誰がいつ身に着けていたかを知ったフィーネは、では将軍はその方のことが好きだったのですね、と訊いてしまい、たいそう父を困らせてしまった。
人々は、英雄だと言う。フィーネは、その人のせいで将軍は顔に消えぬ傷を負ったと思ったのだが、それだけは、絶対に言ってはいけないとも思った。
姫様は戦場を知らない、と言われた。見せたい景色ではない、と父は言い返した。以来、その人と父はとても仲が悪い。
あの戦争で亡くなったのなら、その方も戦没者だ。慰霊祭の時だったか、フィーネはうっかり、そんなことを言ってしまった。
いつも、うっかり、言ってしまう。口をついて出た言葉はなかったことにはできなくて、そのあとフィーネは父にも母にもこっぴどく叱られ、反省文を書かせられた。その提出先が将軍だったものだから、もう本当に、口は災いの門とはこのことだと、己の軽率を呪ったものだ。将軍はフィーネの反省文を読んで、薄く笑って言った。
「ちっとも違うので、安心しました」
その言葉は、フィーネの中にいつの間にか芽生えていた、よき王にならなければならない、あの方のように英雄でなければならないと、かたくなになっていた王族の矜持を再起不能なほどに粉砕してしまった。
王にはなれない。しかし、王を選ばなればならない。この玉座が待っているのは自分ではないけれど、ここに座るはずだった人が目指した世の中に導くことのできる、まことの王を、選ばなければならない。
しばらく国外で勉学に励みなさい、と父は言った。王城にいては危険だから、と。
そして初夏。フィーネは隣接する、古くは湖水地方と呼ばれたもっとも親密な「外国」へ、留学することになったのだった。
美しい国だよ、と、父は言った。山も泉も、青く澄んだ、優しい国だと。そして、幾度となく戦禍に見舞われ、なんども軍靴に踏みにじられて、そしてやっと、平和に豊かになろうとしている国だと。
不思議と懐かしい、ふるさとのような土地だ、と。
「だけどそこの王様は少し変わっていてね」
父は、くすりと笑って言った。
「あの国には玉座がない。どうせじっと座っていないのだからと、王自らが撤廃してしまったのだよ」
あの国のそこだけは気にいらない、と、将軍は顔をしかめていた。フィーネは冗談だと思った。ところが、謁見の間には王の椅子も姿もなくて、到着早々、目をしろくろさせることとなった。
仰天したのはフィーネだけではない。同じく留学してきた他の国の王侯貴族の子息たちも、ぎょっとした様子だった。姫はフィーネだけだった。
その時がはじめてだった。彼と出会ったのは。
最初に会ったはずの謁見の時のことなんぞ覚えていない。謁見するはずの王がいないことの衝撃で、すっかり他のことを思い出せない。が、その衝撃を上回る衝撃的事件が発生したので、フィーネにとってその男の子は、生涯忘れえない男性となったのだ。
寝間着を燃やされたのだ。王子のくせに。
ある日のこと、語学の授業の終わりに、貴族の少年の一人が小さな紙を渡してきた。そこには時間と場所が書いてあって、夜、面白いものを見せてあげる、とだけあった。フィーネは、淡い恋愛物語ばかり好きで読んできたので、てっきり、それはステキな恋のはじまりだと思っていた。だからわざと式典用の一番よい衣装にあたためたミルクをこぼして、明日の晩餐会に間に合わないと怒鳴り散らして連れてきた侍女たち総出で洗濯させて、そんな工夫までこらして、うかうかと出かけていったのだ。
ところが。
フィーネは、男子という生き物が、生来暴力的で、支配的であることをまったく知らなかったのだ。だから、男の子たちがたくさん集まっている個室に、女の子が一人で入ることがどれだけ危険かなんぞ考えもしなかったし、ましてや、他国の立派な家柄の少年たちが、一人の少年を、それも隣国の王子を、よってたかって脱がせて、それを笑って辱めるなんて、想像もしていなかったのだ。
敗戦国だからだ。だれかがそう言った。
それが、彼らなりの「国際」で、フィーネに媚びているのだとわかったのは、ずいぶん後になって、そういう景色を何度も目にするようになってからだった。
やめなさい、と、言えなかった。
やがてあわれな少年は他の少年たちの侮辱をふりきり、扉の前で立ち尽くしていたフィーネを突き飛ばして逃げ出した。そのあとを、他国の言葉でなにか叫んで、同じ年頃の少年が追いかけて、そして、やっと、フィーネは怒りで顔を真っ赤にして、かわいそうな少年のために毛布をひったくって、彼らが走り去ったほうへ、自分も駆け出した。
見つけるのは、そう難しくなかった。暗がりの奥から、むせびなく声が聞こえてきた。
気配に気づいたのか、服を着ているほうの少年が剣呑な目をして振り返った。フィーネはなんと声をかけたらよいのかわからず、おずおずと毛布を差し出したが、ひどく冷淡にひったくられて、なおさらなんと言葉をかけたらいいのか、困り果ててしまった。
へりくだった態度と、心配そうな声音から、きっと彼は暗がりで震えている少年の侍従なのだろう。誰だ、と、異国の言葉で泣いている少年が訊いたのがわかった。
侍従の少年は、給仕の娘です、と答えていた。
うそだ、と少年はうめきながらさらに身を縮めていた。
笑いにきたのではない、とフィーネは言いたかったけれど、言葉がでなかった。
あんたの侍女に見られなかっただけましだな、と、彼は物陰にうずくまったまま、自分の侍従から毛布を受け取っていた。
思えば、そういう男だった。子供のときからそうだった。
結局彼は、そんな事件があったあとも平然とひと夏を暮らし、他の誰よりも優秀な成績をとって、誰にも何も告げずに国に帰っていった。
セルヴァンテス。先の大戦で王位継承者のすべてを失った隣国の、唯一、正統な血を引く王子である。
この貧相な……女のフィーネが見てもなお貧弱な王子には、国家の威信と期待がこれでもかとばかりにつぎ込まれていた。敗戦したかの国の怒り、恨みはすさまじく、なんとしても領土奪還と再興のため富国強兵を……という矢先の、あまりにも幼く小さな事件だった。
フィーネは戦争が終わってから生まれた、幸運な子供だ。だから、王城の軍人たちに戦場を知らないといわれると、ほとほと困ってしまう。が、その事件はひとつ、フィーネの心に教訓を残した。戦争に負けたら、名誉は踏みにじられ、理不尽な目にあう。
もし、自分が敗戦国の姫だったら。それに気づいて、フィーネはあとから震えあがった。そして、その無礼と暴力は、自分にも向けられていて、その時には混乱で何も考えられなかったけれども、ずいぶんと失礼で陰険なやつらだと、ひとり、憤慨したのだった。
その事件のせいで、フィーネにとってはあまり楽しい留学ではなかったが、ひとつ、楽しみができた。テスと文通が始まったのだ。
あの時礼をいうのを忘れた、お互いの名誉のために秘密にしてくれ、と。
テスの手紙は、面白かった。おもいのほか、筆まめな人だった。
侍従の名前はギルフォードといい、お互い、体と声と態度の大きな軍人が苦手であること、王室のしきたりや礼儀作法が窮屈なこと、一人っ子なこと。いろいろ、自分たちはよく似ていると、フィーネは彼からの手紙を読むのが、待ち遠しかった。
あるとき、ぱたりと手紙が来なくなったことがある。三月待ったが、返事がこなくて、彼のために新調した薄青に金箔の模様のついた便箋を、やきもきしながらめくっては何も書かずにまた踏み箱にしまう日々が続いていた。
少し背が伸びたと書かれた手紙から、半年が過ぎたころだった。
不意に、おしのびで旅行をしようと、唐突なことが書いてあった。あまりにも唐突だったものだからフィーネは冗談だと思ったのだ。ふたりっきりで湖水地方に旅をしよう、と。
できるわけがないから、フィーネは夢を書いた。どんな旅行がいいか、どこに行きたいか、どの帽子がいいか、山は寒いか、ドレスは何色がいいか、などなど。
できるわけがない。だって実現したら、それは、亡命だから。
そして、亡命する者が亡命するとは、たしかに、白状はしないだろうから。
あの美しい青い国の泉のそこに、古い、古い、この国へとつながる道があることを、その時のフィーネは、まだ知らなかったのだ。